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われわれは、憲法25条の精神にたちかえる必要がある

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昨夜来、関東地方には台風並みに発達した低気圧が北上してきており、激しい雨と風が吹き荒れている。
こんな朝は、私も犬たちも雨合羽を身につけて歩くのだが、あまりに風が強いために犬たちの合羽は目繰り上がりあまり雨よけの役に立っていない。私の眼鏡にも容赦なく雨が打ち付けて、前がよく見えない。
こんな日に、狂犬病予防接種があるのだが、どうなるのだろう。

さて、今の日本が、格差社会という名の戦場と化しており、われわれの上には好むと好まざるとに関わらず、新自由主義の砲弾が降り注ぐ中で暮らしている。
この言葉に、私はいまだにこだわり続けている。

この問題の大きさ、根深さに比べれば、日銀総裁の人事などは些末なことだし、衆参のねじれ国会により国政が滞っていることも枝葉のことのように思えてくる。
われわれは、昭和16年から20年にかけて続いた、アメリカ連合軍との激しい闘いをしたとき以来の厳しい状況に置かれているのではないか。

昨日の朝日新聞朝刊の社説では、「憲法25条を」再定義しようという一文が載っていた。
「高度経済成長期を経て、日本人の暮らしは物質面では飛躍的に豊かになった。しかし、表面的な反映とは裏腹に、人々は弱々しく孤独になった。頼りにしてきた会社も終身雇用してくれるか怪しい。家族のきずなはもろくなった。そして何よりも、希望が見えなくなった。目の前に立ちはだかる政府の膨大な借金と、急速な少子高齢化。忍び寄る経済力の衰え……。」

そこで朝日は、もういちど日本国憲法に定められた第25条を想起する。
憲法第25条とは、人間が人間らしく定められた権利を持つとした条文である。
1.すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2.国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障および公衆衛生の向上および増進に努めなければならない。

朝日の社説では、岸信介内閣のときに最低賃金法、国民皆保険を目指す国民健康保険法改正、自営業者らを対象に加えた国民年金法が日の目を見たとし、その後の池田勇人内閣による所得倍増計画によって日本経済は成長路線を走ることになり、国民の生活水準が向上するに従って福祉水準も自然に後を追って上昇したとしている。

しかし低成長と財政難に悩む今、福祉も公共投資も借金ではまかなえなくなってきた。希望が霞む今、憲法25条が掲げる「健康で文化的な最低限度の生活」とは何か、今の尺度で問い直し、すべての国民がその恩恵にあずかれるよう、制度を作り直す必要があるとしている。
愛美さん
この社説が掲載された同じ日、NHKではNHKスペシャル「愛美さんが教室に戻れる日」という番組を放送していた。ここでは教室で男子生徒から殴られたことがきっかけで中学に行けなくなった愛美さんという少女と、部活でのトラブルが原因で家にこもるようになった3年生の真義君を中心に不登校の問題を取り上げていた。
今、日本全国では12万7000人もの不登校児童がいるといわれる。大阪では小中学校に「不登校対応専任教師」を配置し、ひとりひとりの家庭の中にまで入り込むケアをしている。そのなかで浮かび上がってくるのは、まさに新自由主義の戦争に傷つき、破壊されてしまった家庭の中で必死にうごめく人々の姿だった。

愛美さんは母親と2人暮らしで、母親がパートに出て生計を立てている。その母親が腰を痛めて仕事に出られなくなって、愛美さんの態度にも微妙な影響が現れてくる。真義君は弟と母親との3人暮らしをしているが、母親は子どもたちが幼い頃に離婚し、一人で養ってきた。しかし体をこわして現在は生活保護で暮らしている。家庭内の仕事は長男の真義君が引き受けている。真義君は3年生で受験を控えているが、不登校による学力の遅れ、将来に対する不安で体調を崩しがちだ。
真義君
それでも彼はいう。
「高校へ行きたい。高校に行かなかったら、僕の人生はおしまいになる」
彼は一人で役場を訪ね、高校入学に必要な奨学金の申請をする。彼に対して何もしてやれない母親は、心配のあまり失踪して精神安定剤を大量服用し、倒れて病院に運び込まれる。
命は取り留めるが、真義君には心配で眠れない日が続く。
「まったくアホやね。アホとしかいえん」
淡々と語る真義君だが、彼はきっと不安におびえふがいない母親に怒り、心の中では大声を上げて泣き叫んでいたことだろう。

ふたつの家庭に共通しているのは、離婚により機能を失ってしまった家族と、そこに容赦なく襲いかかる貧困の問題だ。真義君の母親は訴える。
「どんなに頑張っても、生活がなりたたないんです。働こうにも職がない。一度体をこわすと、新しい仕事はみつからない」
それは今の社会保障の網の目からこぼれ落ちた人々を代表する声でもある。

新自由主義の爆弾は、弱い者から狙い撃ちにしていくのだ。彼らのケースは、その典型といえるだろう。父親がおらず、母親も体をこわして働けない。生活の負担は子どもにのしかかる。子どもは自分の将来に不安を抱え、心身ともに疲れ果ててしまう。
不登校児童の問題には、貧困の他にも虐待などさまざまな事情がふくまれている。
不登校専任担当教員たちは、100回、200回と家庭に足を運んで子どもたちが学校に出てこられるように働きかける。その結果、学校に戻って卒業式を終えることができる子どももいるが、とうとう卒業式にも出席しない子どももいる。
卒業
大阪府がとっている「不登校専任担当教員」制度は、注目に値するといえよう。
私の娘も、ある事情から中学時代に学校に行けなくなってしまった。しかし娘の学校には「不登校専任担当教員」などはおらず、各学級に数人ずつも不登校生徒がいたにもかかわらず、すべてが担任に任されていた。そして担任によっては不登校生徒まで目を届かせることができず、半ば放置されたままにされていた。学校側はそのことを「決して生徒さんには無理をさせない」ためだと言っていたが、不登校になった娘には、学校で行われる行事の連絡も一切なく、生徒に配る書類があっても机の中に入れられたままで、娘がたまに学校に行くと、それらをまとめて抱えて持ち帰るのだった。
私は、学校が娘のような不登校生徒を放棄しているように感じた。
結局、娘は、卒業式にさえ呼ばれなかった。親の私たちが問い合わせて、連絡するのを担任が忘れていたことがわかり、改めて卒業式に出てくれと言われたが、娘はそれを拒否した。皆でおこなう卒業制作も、連絡が来ず、娘は参加しなかった。担任が連絡を忘れていたためである。
その後、私は学校側に抗議したが、ほとんどとりつく島がない状態だった。自分たちは誠意を尽くしてきた。それが通じなかったのは残念だというのである。
私は担任も、校長も、許せないと思っている。

それにくらべれば、大阪府の取り組みはうらやましいほどだ。
しかし、問題の原点にあるのは、今の日本社会が抱えている問題、つまりは格差社会がもたらしている弊害とそのしわ寄せが弱者に集中していることであり、この問題を解決することなしには不登校の問題も改善することは難しいだろう。

そこで、もういちど思い出さなければならないのは憲法第25条だ。
「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」。そして「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障および公衆衛生の向上および増進に努めなければならない」。
単に生活保護の基準をゆるめるといった対策が必要というのではない。国民には、みな人間らしく生きるための権利があり、国はそれを保証する義務がある。そのことをもっと真剣に考えていく必要があるのだ。そのためにはっきり掲げなければならないのは、新自由主義を粉砕することであり、国民が主体であることを確認した上での社会民主主義を実現させることだ。

弱者へのしわ寄せがこれ以上続いていくと、日本は本当に根底から瓦解していくのではないか。私は、そのことを危惧せずにいられない。いまほど、「まともな政治」が求められている時代はないのではないか。


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コメント
この記事へのコメント
はじめまして!


通りすがりにブログ拝見させて頂き、目に止まりましたので、コメントさせて頂きます^^

音楽好きの私です♪

それでは失礼しますm(_ _)m



2008/04/09(水) 14:16 | URL | 音の満喫生活★音三昧 #-[ 編集]
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