上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。

家族に刃を向ける気持ちとは

ここでは、「家族に刃を向ける気持ちとは」 に関する記事を紹介しています。
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
昨日のエントリに対して、七鉄斎さんから「これから無理心中しようというとき、家族に対して抱くのは殺意ではなく、遺される家族への憐憫に近いものなのではないか」という指摘をいただいた。

これに対して、私も少々思うところがあるので書き留めておこうと思う。

たしかに、長年連れ添ってきた家族を手にかけようというとき、心にあるのは憎しみではないだろう。憎しみを持つとすれば、そのような事態にまで追い込まれてしまった自分に対してであろうし、絶望の淵から突き落とし、自分を見捨てた社会に対してであろう。

ただし、いかなる事情があるにせよ、これから人の命を奪おうと決意した者の心を占めるのは、純然たる殺意だと、私は思う。
まず第一に、人の命を奪おうというときに憐憫などがあっては刃先が鈍るだけだからだ。
もう生きてはいけない。この者たちの命を奪って自分ものう(と思ったかどうかはこの事件ではわからないが)、そういう決意をするには引き返すことができないある一点を超えなければならない。そして、その一点を超えてしまえば、いかにして確実に殺せるかのみが問題になる。
1月には、幼い子供ふたりをマンションの11階から投げ落とし、自分も身を投げてんだ母親がいた。我が子への憐憫が断ち切れずにいながら、母親は子供を投げ落とすことができただろうか。彼女は絶望の中で逃げ場を失い、圧倒的な孤独に押しつぶされそうになってぬことしか考えることができなくなった。生きて苦しい思いをするよりは、んで何も感じなくなる方がいいと思ったに違いない。ならば、確実に命を奪うしかないではないか。
2月に起きた足立区の事件では、父親が息子の両手を切断しているが、それはなぜなのか。
私は、抵抗されればいちばん困るのが息子であり、家族を確実に殺すためにはまずその手を封じておく必要があったからではないかと思う。

子供を道連れにする心中は酷いものだが、子を道連れにするのを非難するのはその人に余裕があるからで、に追いつめられた者にとっては一緒にぬことが最後に残された唯一の選択肢なのだと思うと、軽々に非難する気にはなれない。

第二に、家族のあり方が、少し前までと現在とではまったく異なっていること。以前は茶の間のテレビが象徴していたように、家族がそれを囲んで過ごす時間があった。たとえテレビに夢中になっていても、二言三言の会話が生まれる余地はあっただろうし、一緒に時間を過ごすことだけで共同体としての意識が持てた。
しかし今は違う。テレビは個々人の部屋で見るか、あるいはテレビなど見ずにパソコンに向かうようになってきている。食事さえ、今では子供がひとりで食べるのが珍しくなくなっている。家庭とは、もはや単なる人間の入れ物であり、その構成要素である個人の間には繋がりが希薄である。親子であっても憐憫の情は生まれにくくなっている。

第三に、たとえ憐憫の情を抱く家族であっても、死を決意するほどまで追いつめられてしまえば、それはかえって憎しみの対象にもなりうるという点。愛情と憎しみとは背中合わせのものであり、愛するが故に家族や恋人に対して憎しみがわくということはよくあることだ。人間の心理というものはアンビバレントであり、愛するが故に相手を守ってやれなくなったときには、それが憎しみに形を変えて発露する。今回の事件では、家族や親のために自分を犠牲にしてきた父親が、もはや家庭を維持することができなくなった。家族を守ってやれなくなった。そう観念したときに、「こいつらさえいなければ、俺の人生は違っていたかもしれないのに」と思った可能性は少なくない。
家族とは、同じ屋根の下に暮らしていても、いや、同じ屋根の下に暮らしているからこそ、ときには些細なことで殺意を持つことがあるものである。私自身を顧みても、カミサンから無神経な言葉を投げつけられると、殺意に似た感情を持つことがある。それでも私が家族を殺さずにすんでいるのは、今のところはまだギリギリまで追いつめられていないからで、状況が変われば私だって家族を道連れにするかもしれない。家族とは、それほど危うい関係でもあると思うのだ。

窮鼠猫を噛むというけれど、ネズミも追いつめられなければ歯を剥き出すことはないのだ。
それでも一度、歯を剥き出してしまえば必死で相手にかぶりついていくしかない。
悲しいことに、事件を起こした人々はみな、かぶりつくべき相手が正体のない格差社会であり、世の中に広がっている拝金主義だった。それゆえに仕方なく、血のつながった肉親に刃を向けたということではないだろうか。

人をいたわり、慈しむ心なら、普通の人間ならば誰もが持っているはずだ。
しかし、今の社会はそうしたほんらいの人間らしい心を持つことを許さない。そういう心を持つことは損であり、格好わるいことだと皆が薄々感じながら生きている。正論をいう人間は煙たがられ、金よりも義を重んじるといえばうさん臭く思われる。今どき「義」を重んじるなど、政治家の口から出るでまかせと相場が決まっている。しかし色眼鏡を外してみれば、「義」とは人間にとってもっとも大切な価値観なのではないか。

私は、今の世の中がここまで生きづらく、居心地の悪い空気が満ちていることに絶望的な気持ちを持っている。絶望してはいけないのだと思いながら、卑しい人間があまりに多いことに憤りを忘れて半ば自棄的になっている。こう書けばお前はそれほど高潔な人間かと問われるかもしれないが、もちろん私は高潔でもなんでもない。しかし高潔でない、ごくつまらない男をしてここまで絶望させる社会は、やはりどこかが間違っているのである。何かが病んでいるのである。
そして自棄的になっている私だって、この先、追いつめられさえすればやはり、家族に向かって刃を向けることがないとはいえない。
そのとき、確実に死を与えることができるのか。私にはまだ、その覚悟がないだけだ。


ブログランキングに参加しています。
↓よろしければクリックみっつ↓
人気ブログランキング


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
スポンサーサイト

関連タグ : 家族, 憐憫, ,

コメント
この記事へのコメント
こんばんは。七鉄斎です。

小生のコメントに御反論頂頂いた事、
ちょっと嬉しく感じました。

ただ、政治的話題は貴殿に敵いませんが、
個人の生き様・在り様については、小生も
一家言ありますので、重ねてコメントを
させて頂きます。

小生の言いたかったのは、一言で言えば、
「情」です。

家族の命を奪わねばならぬまでに追い詰められ
事に及んだ者に対して、「殺意」の語は
表現者としてあまりに殺伐としていませんか?
という事です。

貴殿は「刃先が鈍る」と仰っていますが、
「躊躇」や「憐憫の情」を綯交ぜにしつつ、
家族を死に至らしめる事は充分に有り得る
と思いますし、普通の人間はそういう葛藤を
持つ生き物であると考えます。

最後の瞬間まで悩み、葛藤し、そして
気が付いたら最後の一線を越えていた、
というのが、普通の人間の心のありようだし、
逆にそうであってほしいと思うのです。

普通の人間が持つべき葛藤が微塵も
感じられないからこそ、先日の
茨城や岡山の事件が、衝撃を持って
受け止められているのではないのでしょうか?

貴殿の反論の前半部分(第三に、の所まで)
は、理論的には正しいかもしれませんが、
小生にはどうもしっくりこないのです。

事に至るまでの「葛藤」を考慮しないと、
一家心中事件も通り魔殺人も根本は一緒、
という事になってしまいませんか?

後半部分(窮鼠猫を噛む~)は小生も大賛成
なんですが…。
2008/03/31(月) 01:46 | URL | 錨七鉄斎 #m399y5vg[ 編集]
家族を殺す気持ちをよく分析してくださいました。追記になってしまいましたが、こちらの記事を文中で紹介させていただきました。
2008/03/31(月) 03:45 | URL | 美爾依 #HfMzn2gY[ 編集]
七鉄斎さん、こんにちは。コメントいただき、ありがとうございます。反論いただけるのもうれしいことです。
さて、貴方がおっしゃる「情」についてですが、もちろん「情」はあると思います。だから、今回の事件でも全員を殺すことはできなかった。けれども、今の情のあり方は、私にはどうも昔のそれとは明らかに質が違ってきているように思えてなりません。家族に対する憐憫も葛藤も覚えながら、殺人に至るまでの時間があまりに短い。なにか爆発してしまって、そのまま次々と殺していってしまったような気がします。葛藤から結論、そして行動へのプロセスが非常に、短絡的だと思うのです。人間としての情はある。けれども、それは非常にもろく崩れやすい。そして崩れはじめると抑制なく行動に結びついてしまうのではないでしょうか。近頃話題になる「キレやすい中高年」の出現にも、その一端が現れているような気がします。いずれにしても、新自由主義に毒された社会の中では、底辺の人間は命の価値まで下がってしまっているということではないでしょうか。たしかに「殺意」という言葉は殺伐としています。しかし、殺伐とした空気が蔓延しているのが、今の風景そのものだと、私は考えます。
2008/03/31(月) 07:35 | URL | ooaminosora #-[ 編集]
多分、日本では父親が家族の長という責任を一人で背負っているため、自分が死んだら、他の家族は生きる道がないと考えてしまうのでしょう。もっと家族の一人一人を尊重して、自分がいなくても生きていけるんだと考えることが必要だと思います。

昔だったら、悩みなどがあったら、なんでも家族で話し合って、解決できたような気がしますが、いまでは、家族同士のコミュニケーションもほとんどない家庭が多いですから、そういった点で、かなり問題だと思います。
2008/04/02(水) 08:47 | URL | 美爾依 #HfMzn2gY[ 編集]
こんばんは。

折角小生のコメントに御返事を頂いたのに、2日も放置してしまい、
申し訳ありませんでした。
(年度末のドタバタ劇に巻き込まれてしまいまして…)
御二方のコメントを拝読し、ようやく納得しつつあります。

小生には、日本は「大人が大人でいられない国」になってしまった
様に思えます。拝金主義が蔓延し、自分の生き様に誠実である事
よりも要領良く立ち回る事が評価される世の中になっています。
要領良く立ち回れない者は自信も尊厳も奪われ、絶望へと堕ちて
行く。そんな社会になりつつある様に思います。(=格差社会?)

小生がブログを立ち上げようと思い立ったのは、そんな世の中
だからこそ我々中年世代(=オヤジ世代)が自信や尊厳を取り戻し、
心身ともに健康であり続ける為にはどうすれば良いか?を
問いかけたかったからです。

貴殿の様に政治や社会に言及出来るほどの知識・知見は無いので、
「個人としてのあり方」を探ってみようとしています。

小生にとって貴殿のブログは、発想のヒントをくれる、あるいは、
今まで知らなかった事に目を向けさせてくれる、教科書・参考書の
様な感じです。
これからも、拝読させて頂きますので、宜しく御願い致します。
2008/04/02(水) 20:24 | URL | 錨七鉄斎 #m399y5vg[ 編集]
七鉄斎さま
教科書・参考書だなんて、とんでもないですよ。私だって政治のことを専門に勉強してきたわけではないのですから。どうぞ、お手柔らかにおつきあいください。
2008/04/03(木) 06:46 | URL | ooaminosora #-[ 編集]
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://funnyarome.blog82.fc2.com/tb.php/88-5bd28a81
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック
春だと言うのに、このところ、日本では暗いニュースが目立つ。 自民党政権が国民を不幸にしているせいか。 一番ショックだったのが、バ...
2008/03/31(月) | カナダde日本語
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。