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相反する「ミーイズム」に折り合いを付ける難しさ

ここでは、「相反する「ミーイズム」に折り合いを付ける難しさ」 に関する記事を紹介しています。
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昨日18日、衆院本会議で臓器移植法改正4案のうち、脳死を人の死と認め、15歳未満の子どもからの臓器提供を可能にする案が可決された。これは他の3案に比べ、もっとも人の死を認定するハードルが低い案であることが論議を呼んでいる。

もちろん、人の死を安易に決めてはならないことは当然であり、「死」の判定には慎重の上にも慎重が要求されることは言うまでもない。

けれども、私としては基本的に、昨日の衆院での採決の結果は妥当だったのではないかと思っている。
これまで、臓器移植をすれば命が助かる可能性があるのに、未成年であるが故に日本で手術を受けられず、莫大な金を払ってアメリカなど海外で移植手術を受けねばならないという、我が国の医療事情には問題があると思っていた。
手術を受け付ける国にも移植を必要とする幼い患者がいるのであり、彼等にしてみれば他国の患者よりもまずは自分を、自分の子どもを助けてやってほしいと考えるのはもっともなことだ。
さらにはそうした事情から順番待ちを強いられ、ようやく移植手術が受けられると海を渡っていったものの、手後れになって助からなかったという事例がこれまでどれだけあったかと思えば、今後は日本国内でも子どものドナーから臓器の提供を受け、国内で手術できるようになることは、患者達にとって大きな希望を与えるものになったと思う。

だが、テレビの報道を見ていると、臓器移植を待つ幼い患者がいる一方で、生まれつき障害を持ち、「限りなく脳死に近い状態」で何年も生き続けている子どももいることを知った。生まれてから一度も目を開いたことはないけれど、人工呼吸器を付けて息をしているけれど、赤ん坊から小児へと体は成長し、髪の毛は伸び、爪も伸びている。医師からいくら「脳死に近い」と言われ、「場合によっては治療を中止するかもしれない」と言われたとしても、親にしてみれば眠ったままのわが子はまさに生きているのであり、目を開けないし言葉も話さないけれど、成長を続けているのである。
こうした子どもを持つ親にしてみれば、脳死を人の死と認め、子どもにも臓器移植の道を開いた今回の結果は、法律によってわが子が「生きていない」と決めつけられる恐れがあると心配をもたらすものだったに違いない。

子どもの脳死判定には医学的にも難しい問題があり、さらに医療事情がガタガタに崩壊しつつあり医師不足、病因不足が深刻になっている日本では、はたして満足な脳死判定とその後の臓器移植手術が行えるのかという心配もある。

臓器移植でしか助からない命と、脳死に近いと言われながら生きている命。それらの間で対応を迫られる医療。いくら国会で法案が可決されても、問題は大きく根深いものがある。

また、日本人の間では脳死よりも心臓死を「死」と考える精神風土があることも、臓器移植問題にとって大きな壁となっている。

私は日本人の精神風土については、これから積極的に変えていく必要があると思うし、そうしなければ助かる命がいつまでたっても助けられないことになってしまうと思っている。
だから、その考えを延長したところにある今回の法案可決には私も賛成としておきたい。

けれども、いざ脳死と判定された子どもが出ました、あなたのお子さんの臓器を他の子どもを助けるために提供してくださいとなったとき、果たして心を悩まさずに承諾できる親がいるだろうかと考えると、なんとも悩ましくなってしまう。
「だって、まだ心臓が動いてるのに」
「体だって温かい」
「息を吹き返すかもしれないじゃないか」
親だったら誰だってそう思うだろう。

しかし、私はあえてそれを患者のミーイズムと呼びたいと思う。

誰だって助かりたいし、わが子を死なせたくはないのだ。

移植手術を待ち続けている子どもやその親もそう思っているし、「限りなく脳死に近い」と言われている子どもの親も思っている。
ミーイズムは「私だけは」と我を張ることで、決していい意味では使われない言葉だが、立場を正反対にした患者とその親は、究極のミーイズムを発揮しなければ命を助けることができないのだ。だからこの場合のミーイズムを責めることは、誰にもできない。

それでも。

私はできるだけ、助けるのはより健康に人生を送る可能性が高い患者の方にするべきではないかと思うし、患者本人が生きる喜びを教授できる結果をもたらす選択がなされるべきだと考える。
毎日新聞には人口100万人あたりの年間心臓提供者数のグラフが出ているが、1位のスペインが12.5人であるのに対して、日本はわずかに0.05人と極端に少ない。この状態はなんとしても改善していく必要があるのではないか。

毎日は社説でも臓器移植法に関してはまだまだ議論がし尽くされていないと、慎重な姿勢を見せている。
それはその通りだ。
もっともっと話し合っていくべきだ。そうすることで日本人の「死」に対する考え方も変えていく必要があるだろう。
そしてもっとも重要なのは、究極のミーイズムに折り合いを付けることで、そのために話し合う時間を惜しむことがあってはならないと思うのである。

たとえば親から虐待を受けて脳死になった子どもから臓器を移植できるのかという倫理的な問題もある。

強烈なミーイズムと目を背けたくなるような問題に曝されながら、それでもわれわれはこの問題に真剣に取り組むしかない。皆で知恵を出し合い、考え続けていくしかないと思うのである。

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関連タグ : 臓器移植法, 脳死,

コメント
この記事へのコメント
臓器移植という問題を考えるとき、私にはいつもひとつの疑問があります。
臓器移植によって命を助けることは、自然淘汰という摂理を力ずくで押し曲げてでも貫徹しなければならないほどに、抗う余地のない「正しいこと」なのだろうか?
という疑問です。
もちろん、私の耳には「あなたの子供が心臓移植を受けなければ一年もたない状況だとしても、そんな疑問を口にできるのですか?」という反論も聞こえています。

本来ならば自然の摂理に従って淘汰され生きながらえることのなかった命が、「科学・医学の発展」によって生きながらえることが可能になった、ということは、おそらく一般論としてその良し悪しを論じることは難しいでしょう。 ある人は、昔なら味わうことができなかったであろう命の喜びを(臓器移植を受けることで)あじわうことができるかもしれないし、またある人は「生きながらえることを拒否する自由」すら発信できずに生きながらえさせられ続けているかもしれない。

おそらくこうした議論を実りあるものにするには、私たち日本人は「生と死への哲学的なインフラ」が未熟なのかもしれません。 「究極のミーイズムに折り合いを付けること」もそうしたインフラあってこその知恵でありうるでしょう。

完璧にドライな割り切り方をするならば、「臓器移植は臓器をめぐる、需要と供給、そしてそれらのマッチングシステムの合理性に関わる問題である」として、単純に「制度設計の問題」に閉じ込めてしまうことも可能であり、今回の移植法案の4案についてマスメディアが「議員個人の死生観が問われている」と書き綴ったことも実は上述のリアリズム(の冷たさ)をうまくコーティングする言葉使いにすぎないと思われます。

難しい問題ですね、おそらくこれから遺伝子レベルの医療とかクローンとか、科学と倫理の相克をめぐる問題に次々直面することでしょう。 昔のように「自然の摂理によって、神に召された」と納得できるのがほんとは良かったりして・・・
2009/06/27(土) 21:13 | URL | 団塊のおっさん #NppzAOd6[ 編集]
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