●人は、自分が見たいと思うものしか見ようとしない――ユリウス・カエサル
●為政者たるものは憎まれることはあっても、軽蔑されることだけはあってはならない。(塩野七生)
●自分に当てはめられない基準を他人に当てはめるべきではない
――ノーム・チョムスキー
●さまざまな知識人、文化人、政党やメディアは一般の人々よりも右よりな立場を取る――ノーム・チョムスキー
●考えろ、考えろ、考えろ!――ジョン・マクレーン
私も取材して原稿を書くのを仕事にしている人間の一人である。
昨日、奈良地裁で判決が出た医師による調書漏洩事件で、刑法の秘密漏示罪に問われた精神科医が有罪となり、医師が取材に協力して調書を提供したのは「プライバシーに対する配慮を欠いた軽率な行為」とされたのである。
もの書き業は、これからやりづらくなるなと思わないわけにはいかなかった。
この事件では、草薙厚子というライターが奈良で起きた母子3人放火殺人事件を取り上げ、ノンフィクション『僕はパパを殺すことに決めた』(講談社)を書くために、事件を起こした少年の精神鑑定をした医師に取材し、その過程で資料として供述調書や鑑定書を閲覧した。
問題は、この草薙というライターが、非公開であるはずのこれらの貴重な資料をそのまま原稿に引用し、本にしてしまったことに起因する。
起訴された医師がこれらの重要書類を見せたことの裏には、少なくともライターとの間に信頼関係が成り立っていたはずである。つまり、本来は一般に公開され得ない文書を見せるからには、それを使って原稿を書く場合、出典を隠し、文章を変えて書くのがライターとして信頼に応える唯一といっても言い方法なのだ。
しかし草薙厚子は調書をそのまま文中に引用して原稿を完成させ、本にしてしまった。
本来ならば、原稿を書いた事典で取材者協力者にも読んでもらい、OKが出た事典ではじめて出版するというのが道理である。
たしかに、いくら信頼関係があったからといって、マスコミ関係者に精神鑑定書や供述調書を見せていいものか、訴えられた医師の行動には疑問が残る。
しかし私には、いちばん責められるべきは取材協力者に対して誠意のない仕事をしてしまったライターの草薙厚子にあるように思えてならない。そしてさらにいえば、内容チェックをしたはずの編集者と売らんかなの魂胆丸出しのタイトルをつけて本を出した講談社にも問題があったと思う。
ノンフィクションというのは取材が命である。
取材のなかには人には語りたくないことを語ってもらわなければならない場合もある。そういう相手に対して、取材者は誠意を尽くして説得し、なんとか貴重な証言を手に入れる。そこにあるのは最後には全責任を自分が取るという取材者側の覚悟と誠意でなければならない。
それがなければ、だれが他人に話などしてやるものか。
『僕はパパを殺すことに決めた』を書いた草薙厚子に、その誠意と覚悟はあったか。
講談社にはそれがあったのか。
今回出た判決に対し、講談社側は控訴したようだが、彼らが行った行為はジャーナリズムに関わる人々すべての首を絞める結果をもたらしたと言えるだろう。
昨日はもうひとつ、大きな報道があった。
朝日新聞阪神支局襲撃事件など、一連の朝日新聞社を狙った「赤報隊」の犯行をめぐり、実行犯を名乗る男の手記を4回に渡って掲載した『週刊新潮』(新潮社)が、誤報を認めて謝罪したのである。この記事については掲載当初からウソであるという声が上がっていたが、新潮社は掲載を続けた。しかしここにきて、当の手記を書いた男性がウソを認め、新潮社側もこれを認めないわけにはいかなくなった形だ。
世間を震撼させた事件の犯人による手記という特ダネで、『週刊新潮』の売り上げがどれだけ伸びたかは知らない。
しかし、その特ダネ記事を作る上でもっとも重視されなければならないはずの事実確認(裏を取る、と言われる)が、信じられないことに行われていなかった。『週刊新潮』の早川清編集長は、産経新聞のインタビューに答えて「真実であると証明できないが、否定もできなかったから手記を掲載した」と述べている。
ここでもまた取材記事の命と言ってもいい事実の信憑性の確認が疎かにされ、販売優先で本が作られてしまった。
この件でテレビの取材を受けた佐野眞一は「裏を取らないとは信じられない。これはジャーナリズムの自殺行為だ」と断じた。
講談社、新潮社という日本を代表する大出版社が相次いで起こした今回の出来事は、日本のマスコミ、ジャーナリズムが確実に劣化していることを示しているように思う。
つい最近では日本テレビの「真相報道バンキシャ!」がでっちあげの証言を採用して岐阜県の裏金問題を報じて問題になった。ここでも、取材対象者の確認と事実関係の裏づけが抜け落ち、視聴率優先で放送してしまったことが批判されている。
テレビの場合はこの手の安易な番組作りがたびたび問題になっているが、いっこうになくならないのはなぜなのか。
こうした慎重さと誠意を欠く仕事を続けていく限り、日本のマスコミ、ジャーナリズムはどんどん自分で自分の首を絞めていくことになる。
そしてそのしわ寄せが、末端で仕事をしている私のようなしがないもの書きにも押し寄せ、ジワジワと首を締め付け、生活の糧を奪っていくのである。
いまや劣化が著しいとしかいいようがない日本のマスコミだが、私はそれでもかろうじて自ら属する世界を「マスゴミ」などと汚らしい言葉では呼ばないようにしている。
しかし、このような問題が今後も重なっていくならば、私のささやかな自負心も持ちこたえようがなくなってしまうと言わざるを得ない。