●人は、自分が見たいと思うものしか見ようとしない――ユリウス・カエサル
●為政者たるものは憎まれることはあっても、軽蔑されることだけはあってはならない。(塩野七生)
●自分に当てはめられない基準を他人に当てはめるべきではない
――ノーム・チョムスキー
●さまざまな知識人、文化人、政党やメディアは一般の人々よりも右よりな立場を取る――ノーム・チョムスキー
●考えろ、考えろ、考えろ!――ジョン・マクレーン
スクリーンを見ながら、そんなことを考えた。
今日は、「クローバーフィールド/HAKAISHA」を観てきた。
映画はタイトルもなく、唐突に始まる。
最初にビデオのテストパターンが出て、そこに字幕が現れ、この画面はセントラルパークだったところから回収されてきたものだと説明される。
セントラルパークだったところ……
ということは、すでにニューヨークマンハッタンの、あの公園は此の世から姿を消しているということか。
しかしまた、なぜ?
考える間もなく、画面はごく普通のホームビデオの映像になる。
そこに登場する二人の男女。
一夜をともにした翌朝らしく、男の子が持つカメラが窓の外の眺めから家の中、そしてまだベッドの中にいる彼女と映していく。
歩きながら撮影するとこうなります、というように画面はブレブレで見にくいったらありゃしない。でも、これが作者の狙いなのだ。ビデオマニアが恐ろしい事件に遭遇したら、どんな映像を撮るか。これが、良くも悪くも「クローバーフィールド」の核となるアイデアだからだ。
同じような試みで作られた映画に「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」があったけれど、こちらは映画クルーがたまたま怪奇現象に遭遇してしまったという設定だった。
なんだ、同じじゃん。
でも、こっち(「クローバーフィールド」)の方がスケールがでかいよ。スケールがでかいから、生に近い臨場感が伝わってくる。だから思わず、私は9.11を連想してしまったのだ。
9.11では、見えないテロリストが人々を恐怖のどん底に突き落としたのだが、この映画でもそこいら辺がうまく考えられている。
突然ニューヨークの街が破壊され、人々がパニックを起こす場面が描かれていくのだが、一体何事が起こったのか、なかなかわからせてくれない。どうやら巨大な生物が暴れているらしいのだが、その正体がわからない。
どんな姿をした生物なのか、それはどこからやってきたのか、なぜ街を破壊し、人々を殺戮していくのか。
映画はこれらのことについて、ほとんど語ろうとしない。だから、映画を観ているわれわれも、登場人物と一緒になって混乱しながらストーリーを追うしかないのだ。
あの日、自分たちのオフィスがあるビルに飛行機が衝突するなど、だれも想像できなかった。しかし、悪夢のようなことが実際に起こったとき、人はどんな行動を取るのか。映画を作る勘所はここにあるだろう。
この映画が成功作になり得なかったのは、最初の思いつきは面白かったものの、結局は極限状態に追い詰められた人間というものを突き詰めて描けなかったところに原因がある。得体の知れないものに襲われ、暗闇募る夜の街を逃げまどう登場人物たちのセリフやリアクションが、いかにも嘘くさいのである。アイデアは面白いが、才能ある脚本家と監督だったら、もっと違う味つけをしていたに違いない。HAKAISHAの造形も、それがなぜ破壊に至るようになったのかをきっちり描くだろう。9.11の恐ろしさが、アルカイダというテロ組織によって起こされた無差別殺人だったとわかるにつれ、エスカレートしていったように。
しかし、だからといってこの映画がまったくつまらなかったわけではない。
訳もわからず、まったく理不尽に命を狙われることになる主人公たちの恐怖感は十分伝わってくるし、アメリカお得意の軍隊出動が、少しも頼りにならないところなどは皮肉に笑える。
結局、アメリカ政府はニューヨークを自らの手で消滅させてしまったのだが、果たして凶暴な威力をふるった敵を倒すことはできたのか。
そこは観客の想像にまかせる、というところがまた、なんともニクイね。
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