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酒好き、映画好き、本好き、落語好き、バイク好き、そして鬱。 ちょっとばかり辛い日もあるけれど、フンニャロメ~と生きてます。
◎心にとめおく言葉
●人は、自分が見たいと思うものしか見ようとしない――ユリウス・カエサル
●為政者たるものは憎まれることはあっても、軽蔑されることだけはあってはならない。(塩野七生)
●自分に当てはめられない基準を他人に当てはめるべきではない
――ノーム・チョムスキー
●さまざまな知識人、文化人、政党やメディアは一般の人々よりも右よりな立場を取る――ノーム・チョムスキー
●考えろ、考えろ、考えろ!――ジョン・マクレーン

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最近、自分の人生は間違っていたのじゃないのか、と考えることがある。

他人の人生と比較してみてもつまらないが、少なくとも非正規雇用の最右翼に位置するフリーランスの一人として新自由主義の荒波に洗われつつ、社会には何のセーフティネットもなく、むしろ妙な偏見さえあるという現実の中で生きてくると、否応なく「ほんとうはもっとましな生き方を選ぶ余地があったのではないか」と思うことになる。
ことに自分の子どもがこれから世の中に出ようとする時に、「悪いことは言わないからフリーランスにだけはなるな」と忠告せざるを得ないときの苦い気持ちは、誰になんと訴えたらいいものかと思うほどに辛い。

しかし、もしもう一度人生をやり直せるとして、どこまで遡り、どう修正を加えれば、間違えずにすんだのかというと、分からなくなってしまう。
結局、どこをどうやり直してみても、私は今の私にしかなりようがなかったのではないか。

私は、運命論など信じないし、神の存在もドーキンスのいう「妄想」に近いものだと思っている。
それでも人間には抗いようのない「必然の力」が働いているとしか思えない。

この世に神は存在しないが、宇宙を創った見えざる力は働いている。
それを神と呼ぶのならば神はあると言おう。
ただし、その神は意志などもたない物質あるいは現象なのだから、人の祈りは通じない。祈りもまた妄想の類である。
神はただそこにあり、宇宙を運行させている。
地上にあるわれわれ人間は、たまさか起きる偶然を神の意志として捉えたがるが、所詮は確率論の問題でしかない。グスタフ・ユングのいう「共時性」も、私にはただの偶然の一致か、ある出来事に起因する化学反応的な連鎖の結果としか思えない。
夢に見たコガネムシの話をしているまさにその時に、部屋の中にコガネムシが飛び込んできたとして、それになんの意味があるというのだ? それよりは貧困がテロを生む温床になっているという連鎖現象の方が何倍も大きな問題だし、雇用創設をして職を失った人々への対策を講じなければ日本社会が荒廃していくことを心配する方がずっと意味があると思う。

それでも、人が生きる道には何かの必然が働いているように思えてならない。
私に限っていえば、薄給のくせに毎日飲んだくれて帰ってくる父親と、外国航路の船長をしていた父親の家庭に育ち、それゆえに一種の奉公人に等しいサラリーマンを軽蔑している母親が何の奇跡か一緒になった結果、この世に生まれてきた。いくら母親が世の中を知らなかったからとはいっても、飲んだくれの安月給取りの男との結婚生活がうまくいくはずもなく、私はごくごく幼い頃から日常的に絶えることのない夫婦喧嘩と母親から吹き込まれる「サラリーマンほど下らないものはない。男なら腕一本で世界に出て活躍するようでなければならない」という教えのなかで育てられてきた。

もうこれだけで、私の人生は決まったようなものである。
私は、高校・大学の頃から就職をしてサラリーマンになることに興味を持たなかったし、酔いつぶれてふらふらになっている父親、人の生き方についてなどまともに考えることもなく会社に通っている父親を見て軽蔑の念を強めるばかりだった。

母親は、今思えば典型的なファザー・コンプレックスで私を自分の父親のようにさせたい一心だった。その思いは狂信的であり、息子が何に向いているのか適正を見極めようとするよりは自分の理想とする医者か弁護士という陳腐な枠組みに当てはめようとするばかりだった。
当然のことながら、私は父親を軽蔑する一方で、母親にも猛烈に反発した。しかし母親による洗脳は強烈で、父親のようにはなってはならない、大人になったら自分の才能と腕一本で世の中を乗り切っていける人間にならねばならないと自然に思い込むようになっていた。

「そうよ、やろうと思えばなんだってできるんだから。下らないサラリーマンなんかになっちゃ駄目よ」

母親は、毎日満員電車に揺られてカイシャに通うサラリーマン生活を、いくら働いても決まった額の(母親からすれば不当に安い)給料しかもらえず一生をカイシャのために捧げなければならないサラリーマン人生を、惨めでつまらないものだとして蔑んだ。私は父親を反面教師にしながら、母親の言葉を刷り込まれていった。

幸か不幸か、いや不幸なことに、私は小学生の頃から国語が得意で、中学・高校の頃には小説や映画に興味を持つようになっていた。大きな賞を取ることはなかったが、作文が何かのコンクールで佳作に選ばれたり、図工で描いた絵が県内の銅賞だか銀賞をとったことがあった。すると母親は言った。
「あんたは芸術家に向いてる。だからそっちの方で頑張りなさい」
単なる親ばかである。
しかし母親は本気で、とは言ってもそのために息子を特別な学校に入れたり家庭教師をつけたりするという方法は取らず、自分がいいと思う映画を見せたり音楽を聴かせたりすることで感受性を育てようとしたようだ。父親は相変わらず仕事が終わっても酒を飲んでくるのでいつも帰りが遅い。母親と一人息子である私は、食事が終わると決まってレコードをかけ、音楽鑑賞をするのが日課のようになっていた。

今、母親のことを思うと、芸術方面に刺激を与えてくれたことを感謝はするが、彼女は明らかに私を自分の思うがままにコントロールしようとしていたのであり、新自由主義的な考え方を吹き込んで息子を世の中の勝ち組にしようとしていたのだと思う。
教育熱心な母親、とくに駄目な亭主を持つ一人息子の母親はみな新自由主義者で、人に使われるよりは使う立場になれ、貧乏は悪いことで金持ちになることが幸せになるには欠かせないという価値観を子どもに植えつける。

残念ながら、私は母親が期待するほどの才能を持ち合わせておらず、成長するにしたがって母親の価値観に疑問と反発を感じるようになっていった。
その結果、今の私がある。

フリーランスが辛いといったってね」
今、知り合いの編集者は私の愚痴を聞くとこういう。
「自分で考えてみてくださいよ。会社勤めが務まったと思います? 思わないでしょう」
私はうなずかざるを得ない。
「ね。務まらないんですよ。だからフリーランスになった。いいじゃないですか、それで。仕方ないですよ」

たしかに、私はどう考えてみてもサラリーマンはできなかったと思う。集団で作業をするのが苦手だし、組織に管理されることに我慢がならない。さらには組織というものを信用していない。

私は、若者には無限の可能性があるという言い方には反対である。それは私の母親が「やろうと思えばなんでもできる」と言っていたのと同じで、裏を返せばその考え方は限りなく自己責任論に近づいていくからだ。
人間には大きな可能性が秘められている。けれども、人にはおのずと限定された生き方しかできないと思っておいた方がいい。もちろん、多くの中には天才的なひらめきを発揮して成功する人もいるし、信じられないほどの幸運に恵まれて幸せをつかむ人もいる。
でも、それはあくまでマイノリティであり、宝くじを買う人は多いのにあたる人はごくごく限られているのと同じである。

さて、こうして考えてみると、自分の人生は間違っていたのではないかと思うことがある私は、仮にタイムマシンがあって人生を遡ることができたとして満足できる方向に軌道修正できるのかという最初の問題にも答えが出てきそうだ。
つまり、人の一生はたとえやり直しが利くとして、それほど劇的に変えることはできないのではないか、というのが今のところ私の答えだ。もし変えるのならば、まず親を選び直すことから始めなければむずかしいだろう。
たしかに、転機はいくつかあった。
しかし組織で生きることを嫌い、他人と共同歩調を取ることができないのが私の基本である以上、それを裏切らずに選び取ってきた選択の結果が「今」なのだ。

フリーランスとして厳しい人生を選んでしまった私には、後戻りすることは難しい。
ならば、これから少しでもよりよく、自分で納得できる幸せをつかむためにはどうしたらいいのか。

そのためにはフリーランスに対して常に厳しい条件を突きつける社会を変えていくしかないのではないか。フリーランスライターというと(得体の知れない仕事をしている怪しい人間)という偏見をなくしていくことしかないのではないか。
その上で収入が増えれば言うことなしだが、カネのことは言うまい。
カネの話はもっとも苦手だし、第一、金儲けすることが人生の幸せとはかぎらないことを証明するために、私はこの仕事を選んだといえるのだから。

■追記
今、安月給で毎日飲んだくれていた父親は、結局定年と同時にアルコールのために脳に機能障害を得て施設に入って余生を送っている。私のことは分かるけれど、せっかく会いに行っても、ものの1時間もしないうちに私と会ったことを忘れてしまう。
そんな父親でも、会社に勤め続けたおかげで企業年金と厚生年金でかなりまとまった額の年金が入ってくる。フリーランスの私などよりもずっと安定した収入を得て、心配のない暮らしを送っているのである。
そんな現実を見るにつけ、人生はやっぱり金を稼げる者、つまりは会社という組織に所属してカイシャ人間として人生を全うできる人間が、とりあえずは最低限の幸福を得られるのかもしれない、などと思ったりもする。不本意ではあるけれど。


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麻生太郎の知能の低さ、その発言の空虚さについては、もう語るのが馬鹿馬鹿しいほどで、いちいちブログに取り上げる気にもなれない。

しかし、11月20日に開かれた経済財政諮問会議での麻生の発言は、まったく許し難いというか、もう呆れてものが言えなくなるほどひどいものだった。これについては「きまぐれな日々」をはじめとする多くのブログでも取り上げているが、私も遅ればせながら取り上げて、あらためて麻生の低脳ぶりを批判しておきたい。

そもそも麻生が総裁選の時から言い出した「日本に必要な社会保障は『中福祉・中負担』である」という言葉からして欺瞞に満ちている。「中福祉・中負担」とはスウェーデンなど北欧諸国に代表される「高福祉・高負担」型社会保障とアメリカに代表される「低福祉・低負担」の間を取ったもので、言葉だけを見ればアメリカのような国民の税負担は軽いけれども貧乏人がひとたび病気になれば満足な医療も受けられない、あるいは十分な医療を受けると財産を失うこともありうるという状態にはしないというもの。かといって、北欧のように高税率をかけて「揺りかごから墓場まで」面倒を見ようというほど腹をくくったこともできない。いわば日本お得意の中庸路線の考え方だ。

しかし、今の日本の現実を見れば「中福祉・中負担」にはほど遠く、医療崩壊が進むなかで保険料の増額や後期高齢者医療制度など、国民の負担ばかりが増している「低福祉・高負担」の様相に限りなく近づいている。
麻生太郎を議長として開かれた経済財政諮問会議は、こうした状況を改めて麻生の言う「中福祉・中負担」に原状を回復させようという意図があるかに見える。
だが、実際に諮問会議の議事録を読むと、ここで議論されているのは高齢化が進む社会で社会保障関連の支出が増大していることを問題とし、これを補うためには一にも二にも消費税増税が必要だと考えていることが分かる。

消費税増税については何度も述べているように、今の日本でこれを行えば景気はさらに後退し、格差が拡大・固定化していくことにつながるので反対である。
麻生が言う「中福祉・中負担」は消費税増税を根底に考えられていることから問題外であり、そもそも日本が目指すべきなのは中途半端な「中福祉・中負担」などではなく、思い切った税制改革つまりは所得税の累進課税化と固定資産税強化を行ったうえで北欧型の「高福祉・高負担」を実現させることである。これにより大資本や富裕層から厚く徴税し、貧困者からも応分の負担させることで社会保障の原資とする。あくまでも消費税のような一律なやり方で問題を解決しようという考え方には反対である。

さて、消費税増税を根底にして進めていった20日の経済財政諮問会議だ。議事録によれば「安心対策」「生活対策」について語られていくが、肝心の「中福祉」の具体的な中身については出席した議員はもとより、議長の麻生太郎自身がまともなイメージを持っていないことが明らかになっていて唖然とさせられる。
さらに、唖然とさせられるのは、「中負担」実現のための財政再建、無駄の削減や効率化について話し合われているときに突然、麻生太郎が口を挟む。
それが今回問題になったセリフだ。
以下、議事録から。

(麻生議長) 67 歳、68 歳になって同窓会に行くと、よぼよぼしている、医者にやたらにかかっている者がいる。彼らは、学生時代はとても元気だったが、今になるとこちらの方がはるかに医療費がかかってない。それは毎朝歩いたり何かしているからである。私の方が税金は払っている。たらたら飲んで、食べて、何もしない人の分の金を何で私が払うんだ。だから、努力して健康を保った人には何かしてくれるとか、そういうインセンティブがないといけない。予防するとごそっと減る。
病院をやっているから言うわけではないが、よく院長が言うのは、 「今日ここに来ている患者は 600 人ぐらい座っていると思うが、この人たちはここに来るのにタクシーで来ている。あの人はどこどこに住んでいる」と。みんな知っているわけである。あの人は、ここまで歩いて来られるはずである。歩いてくれたら、2週間したら病院に来る必要はないというわけである。その話は、最初に医療に関して不思議に思ったことであった。
それからかれこれ 30 年ぐらい経つが、同じ疑問が残ったままなので、何かまじめにやっている者は、その分だけ医療費が少なくて済んでいることは確かだが、何かやる気にさせる方法がないだろうかと思う。


これにはさすがに他の議員たちも言葉を失ったらしく、与謝野馨はほとんど麻生の言葉を無視する形で議論のまとめに入っている。

乳母日傘で育った今年68歳の麻生太郎は、生活の厳しさに直面しながら生きてきた人々を理解していない。それどころか、社会保障は国民相互の助け合いが基本理念であるという基本中の基本も分かっていない。「たらたら飲んで、食べて、何もしない人の分の金を何で私が払うんだ」というセリフには、そうした麻生の思い上がりと無知さ加減が顕著に現れている。
広島瀬戸内新聞ニュース」のさとうしゅういちさんは、「病気ってそれだけで苦しいんですよ」と麻生をたしなめているがその通りで、病気の苦しさは病気になった者にしか分からないとはいうものの、麻生の無理解ぶりには開いた口がふさがらない。格差と貧困が広がった今の社会には、保険料を支払うことができずに保険証を取り上げられ、実質的に医療から見放されている人々が、子供をふくめてどれだけいるか、麻生は分かっていないだろう。
社会保障とは、誰もが負担をする義務がある代わりに、誰一人漏れることなくサービスを受けられるものでなければならない。しかし、どれほど金持ちか知らないが、まるで社会保障費は麻生財閥が支払ってやっていると言わんばかりの麻生太郎は、「たらたら飲んで、食べて、何もしない人」は保障など受ける資格はないと言っているに等しい。つまるところ、麻生は病気になるのは自己責任とでも言いたいのだろう。

こんな男が議長になって社会保障について会議を持ったとしても、永遠に日本の国民が救われることはない。
まったく、麻生のようなバカ男のことは、こうして書いているだけでも嫌になってくる。

本当に、一日も早く麻生太郎には総理の座を降りてもらいたいものだ。そしてこんな男しか担ぎ出せなかった自民党政権にも終わりを告げてもらいたいものだと切に願う次第である。

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小泉毅
なんとも悩ましい結末を迎えたものである。
いや、これがほんとうの結末なのか、ほんとうのところはまだ断定できないのだが。
元厚生事務次官宅連続襲撃事件で逮捕された小泉毅については、背後関係など今後も捜査されていくだろう。私は当初、コイズミは政府官僚組織に圧力をかける意図を持った右翼団体が使った鉄砲玉なのではないかと思っていた。
ところが、今のところではあるが、明らかになったのはコイズミが34年前に飼っていたの「チロ」が保健所に渡され、殺処分されてしまったことに対する恨みが動機だったという脱力ものの結末である。

それにしても34年間もを殺された恨みを忘れず、大学まで行きながら「政治家が悪いと思っていたら、大学に行ってから高級官僚が悪だと分かった」と言うコイズミは、はたして大学で何を学んでいたのだろう。
たしかに殺処分されてしまったは可哀相だが、その仇討ちの相手が政治家ではなく官僚だと方向転換させてしまった教育とはいったいどんなものだったのだろう。もしコイズミが大学に行かなければ、彼は政治家が悪いと思い続け、チロの死から34年たった今年、晴れてどこぞの政治家を血祭りに上げたのだろうか。
現実になかったことを想像しても意味はないのだが、それでも想像をたくましくすれば、厚生官僚を襲ったコイズミのことだから、厚労省の政治家、舛添要一あたりが狙われたのだろうかと思ってしまう。考えようによっては舛添をはじめとする自民党の政治家たちは毎年2200億もの社会保障費を削り、後期高齢者医療制度などの悪政を行って日本の老人たちを、それこそ保健所に入れられた不要なのように扱っているのだから、コイズミの狙いは正しかったと言われたかもしれない。

しかし現実には、の殺処分には何の関係もない人々が被害に遭ったわけで、コイズミの頭のネジはどこかで締め間違えてしまったとしか思えない。

現実に目を戻してコイズミが取った行動を見てみるならば、彼はのチロの仇を討つのなら、元厚生次官を襲ったことが間違いだっただけでなく、保健所に恨みを持ったこと自体誤りだったことを思い知るべきである。
なぜなら、保健所は意味もなく犬を捕らえて殺しているわけではなく、むしろ無責任な飼い主が飼育を放棄してしまった犬を一時的に預かり、引き取り手が現れるのを待ち、それでも引き取られない場合にやむを得ず哀れな犬たちをガス室に送るのである。この一連の流れで誰を責めるべきかと言えば、一番手は何と言っても無責任な飼い主だろう。

私はコイズミの家庭がどんなもので、その父親がどんな人格だったかを知るものではないが、もし34年前にコイズミの父親が犬を保健所に“棄てる”のを思いとどまり、なんとか飼い続ける努力をしていたならば、今回の事件は起きなかったのかもしれない。
そう思うと非常に残念である。

同時に、あらためて思うのは、犬猫を合わせて年間50万匹もの数が、大半は人間の自分勝手な理由のために命を失っている現実があるということだ。
先日も東京・八王子で十数頭のチワワが棄てられているのが発見、保護された事件があった。ひところ流行ったチワワ・ブームに乗って繁殖させた無責任なブリーダーが、ブームが去ったか犬たちの繁殖能力が落ちたか、いずれにしても身勝手な理由で飼育を放棄し、犬を置き去りにしたのである。
チワワだけではない、漫画がもとでハスキー犬が流行ればハスキー犬が大量に取引され、ゴールデンリトリーバーがいいとなるとどこのペットショップにもゴールデンの子犬たちが店頭に並ぶ。そうして人間の手で無理矢理繁殖させられた子犬が金で取引され、行き着いた家庭で可愛がられて一生を送れるならばまだ文句はない。
しかし現実には、散歩するのが面倒だから、無駄吠えが多い、子供に噛みついた、年を取って面倒が見られないといった理由で簡単に犬を棄てる人間が後を絶たない。要らなくなった犬は、子犬ならば段ボール箱にでも入れて空き地にでも放置するが、大きくなった犬は家に帰ってこられないように動物管理事務所などの施設に棄てに行く。
現在は管理事務所も簡単には連れ込まれる動物を受け入れないようにしているのだが、それでも現実には数多くの犬や猫たちが犠牲になっていく。

コイズミは、ほんとうに愛犬の仇を討ちたいと思ったならば、まずは愛犬を保健所に渡した無慈悲な父親と、それから無責任な飼い主を片っ端から捜し出し、それらを血祭りに上げるべきだった。こんなことを書くのは人道に反することだが、コイズミはすでに人の道を外れたことをしてしまったのだ。どうせ外すならば、正しく道を外すべきだったのではないか。

罪もない人を殺したり傷つけたりすることは悪いことである。
それと同様に、動物を虐待したり棄てたりすることも悪いことである。

今度の事件が政治的背景とは無縁なものであるのならば、それで事件は一件落着とするべきではない。
次は日本の動物愛護の在り方が問われるべきだろう。

コイズミの犯した犯罪は政治テロではなく、原因がチロであったとしても、問題の深さには変わりがないのである。

関連タグ : テロ, , 仇討ち, 動物愛護,

世界的な金融危機、円高が始まっていらい、国内の雇用状況が悪化している。
とくに輸出で大きく稼いできた自動車産業は景気の悪化の影響をもろに受ける形となっており、トヨタが来年3月までに国内工場の期間従業員を3000人程度に半減するとしている。トヨタは今年3月末までは約8800人の期間従業員を雇用しているので、1年で雇用人員を3分の1に減らすことになる。

さらに日産も、九州工場で4万台の減産を決めており、生産体制の縮小は必然的に雇用調整に向かう。
マツダは国内2工場で働く派遣社員約1800人のうち7割強にあたる約1300人を年末までに削減することを明らかにした。
日産ディーゼルもまた、年末までに派遣社員約1100人のうち約200人を削減する予定だ。
日野自動車も、約2200人いる期間従業員について、今度の販売動向を見て調整することを検討するとしている。
三菱自動車も、国内工場の期間従業員と派遣社員約3500人のうち約1000人を削減する方針を固めた。同社では年明け以降の人員削減も検討しており、来年3月末までの人員削減は計2000人規模に達する見通しだという。

この年の瀬も押し迫ってきた時期に、不況だからといって、会社の儲けが減ったからといって、いったい何人の労働者が職を失うのだろう。
世間では不況といいながらもこれからクリスマス、年末そして正月と一大商機を迎える。
しかし、そんな賑やかさを味わうこともできずに不安な日々を迎えなければならない人がいる。自動車工場で働いている非正規雇用者だけではない。関連会社で働く人々もまた同じように首を切られていくのは必然なのだから、その数は数千ではなく1万人単位になるのではないか。

クルマという商品が売れないのだから、企業としてはなんとかコストを切り詰めなければならない。それは道理だ。
しかし、その道理が人の暮らしを奪う方向に向かっていいものだろうか。
トヨタに限っていえば、今年前半までは2兆円もの売り上げを記録し、その規模は空前といわれた。
それだけ儲かっていながら、トヨタという企業は非正規雇用者に対して最低限の賃金しか支払わず、そしてひとたび社会が不況に突入したとなると当たり前のように非正規雇用の契約を打ち切り雇い止めにする。

今、社会は環境に配慮することが当然とされ、環境に負荷を与えない商品を創り出すことが企業の将来を握っているといっていい。自動車産業もその点には熱心なこと周知の通りで、各社とも電気自動車や燃料電池式の自動車開発に余念がない。そして、その研究に熱心であればあるほど「我が社は社会に貢献しています」と広告を打つ。

しかし、労働の世界から見れば、トヨタをはじめどの企業も社会に貢献などしていないのだ。
むしろ労働者の首を切り、生活に不安を与えることで社会そのものを暗く不安に満ちたものにしている。
たしかに時代は「エコ」に向かっているかもしれない。

だが、その前に企業は人を大切にしろと言いたい。
エコ」よりも「ヒト」が第一である。
二酸化炭素の排出を半減し、3分の1にする技術力があるのならば、雇用を倍にせよとは言わないまでもせめて現状を守る経営力を見せてみろ。それでこそ社会に貢献する企業と言えるのではないか。
社員を不安に陥れることなく年の瀬を迎えさせられる企業こそが、優良企業として讃えられるべきではないのか。

経営者と一部のエリート社員だけが安泰にしていられる企業など、三流以下という考え方で見てはどうだ。
世の中の見方を改める必要がある。
人員削減を抑えるために、その企業が何をしているか。
テレビコマーシャルで空疎なイメージを与え続けている企業の本心を見抜いてやる必要がある。

なに「エコ」だって?
それでオタク、何人の首を切ったのさ。

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駅近くにあるそのネット・漫画カフェは、雑居ビルの5階にあった。
細い階段の入り口には「3時間900円、6時間1600円、ナイトパック1400円」という看板が立っており、その横には液晶テレビの画面があって、若い女性の声が明るく呼び込んでいた。
「清潔な店内、シャワールームつき。もちろんソフトドリンクは飲み放題!」

このところ、私の心には以前、私のエントリに対してもらったコメントにあった言葉がずっとひっかかっていた。
そのコメントは、まずネットカフェが若者を中心とする貧困者たちのシェルターのような存在になっており、そこで生活するようになると抜け出すのは難しい(もちろん、ネットカフェに泊まる金もなくなれば、あとは野宿をするしかなく、そう言う意味でネットカフェ生活を抜け出すのはいとも簡単である)という趣旨の私の記述に対して、ClossOver氏から「ネットカフェ貧困者があふれているという情景がどこにでもあるというものではなく、あるとすればそうしたネットカフェこそが『異端』なのだ。実際の姿を見ずに語るのでなく、自分の目で確かめてみるべきだ」という指摘をいただいたのだ。

指摘されたこと、とくに実際を見ることなく印象だけで語るべきではないという言葉は耳にいたかったし、現代の貧困を語るうえでネットカフェの存在を抜きにはできないとしたら、やはり私は自分の目でネットカフェなるものを見ておくべきだと思った。

ネットカフェにも松・竹・梅のランクがあるだろうし、私がたまたま訪れたそのネットカフェはどれにあたるものだったのかはよく分からない。しかしネットで料金表を調べてみると100円か200円の違いはあるものの、同じような料金設定のところが多いようなので、だいたい平均的な竹レベルのカフェではなかったかと思われる。

そして中に入ってみると、そこは照明を落としているものの不潔な感じはなく、フロアを細分している壁にドアが整然と並んでいた。
見る限りではここにどれだけネットカフェ難民がいるのかを把握するのは難しい。昼間の時間帯ということもあり、客の出入りはほとんどなかったが、この時間に個室に入っているとすれば、あるいはそれが今日の仕事にあぶれたネットカフェ難民といえるのかもしれない。店の話では、たしかに常連は何人かいるとのことだったが、ここを定宿にしている人がどれくらいいるのかについては曖昧な返事しか得られなかった。「ネットカフェ難民」という言葉は業界にとっては有り難くない言葉に違いなく、誰もが普通にコーヒーでも飲みながら漫画を読んだりネットを楽しんだりする施設であることを強調したいのは当然だ。

たしかに、外回りの仕事中に空き時間ができた営業マンが体を休めがてらネットで仕事をするには都合がいい施設だ。あるいは終電を逃してしまい、やむを得ずどこかに泊まらなければならなくなったとき、シャワー施設も完備したこの施設に入れば、リクライニングシートではあるけれど、一泊4000円はかかるカプセルホテルよりも安くあげることができる。
ネットカフェは、なかなか重宝な施設に違いない。

だからここで私は訂正しておこうと思う。
ネットカフェが難民であふれているという、いかにもマスコミが好みそうな大仰な状況はかならずしも見られないと。
しかし、いくつも並ぶドアの向こうに明日の生活がどうなるかも覚束ない人間がうずくまっている可能性があることもまた事実だ。

湯浅誠の『反貧困』(岩波新書)にはネットカフェ難民から「もやい」に寄せられた相談例が綴られている。それによると、相談してきた男性は38歳で、時給700円の派遣労働をしていた。この賃金では最低賃金ぎりぎりだが、残業時間が長いために生活保護基準は少し上回る収入を得ていた。おかげで1泊1500円程度のネットカフェに泊まる費用は捻出できたが、アパートに入居するための諸費用を貯めることはどうしてもできない。そしてネットカフェを泊まり歩く生活は精神的・肉体的に限界に来ていたという。
湯浅は、「ネットカフェでの暮らしは、低収入であると同時に、高支出である」と書いている。

「毎晩1000円~1500円の宿泊費、三食の食事代はもちろん、風呂代、荷物を預けるためのコインロッカー代、仕事上の身なりを保つためのコインランドリー代、その他もろもろの経費がかかる。いわば、常時旅行しているような状態だ」
そして、ぎりぎりに食事を切り詰めるなどして金を貯めても、「なんとか5万~10万貯められたと思ったころに、無理がたたって体を壊してしまう」のだという。風邪を引けば仕事を休まざるを得ず、住所不安定では健康保険にも入っていないので病院にかかることもできない。せっかく貯めた金も一気になくなってしまう。

さらに、現代の貧困層を「ネットカフェ難民」として一括りにするのにも無理があると湯浅は書いている。ネットカフェ難民はネットカフェだけでなく路上や会社寮、サウナなどを転々としている人々であり、野宿者ではないかもしれないが、居所と住民票所在地が乖離している住所不安定状態という広義のホームレス状態にある。そしてこうした人々は膨大な数に上っているというのだ。ネットカフェを利用しているのは、そのうちのごく一部に過ぎないというわけだ。

こうした観点から見れば、たしかにネットカフェが困窮者であふれている状態というのはレアケースかもしれないが、カプセルホテルに、個室ビデオ店に、サウナに、派遣会社が用意する寮に、簡易宿泊所に、ドヤ街に、われわれが普段何気なく歩いている街のあちこちに、生活に行き詰まった人々が満遍なく分布しているといえるだろう。
ネットカフェが困窮者たちのシェルター的存在になっているという言い方に抵抗を覚えるClossOver氏も、貧困が街を広く薄く覆っており、その様相は次第に濃く厚くなりつつあるという見方に同意してくれるのではないだろうか。

2007年8月、厚労省は「住宅喪失不安定就労者の実態に関する調査」を発表している。それによると、ネットカフェの常連となっている宿泊者は全国に5400人いると推計。東京で300人、大阪で62人に行われた聞き取り調査では、平均月収10万7000円、4人に3人が職に就いているが、そのうち60%は日雇いであるという実態が明らかになっている。
しかし現実には「難民」の数はもっともっと多いことは明らかであり、政府はさらに精度のある調査を行い、この社会を覆っている貧困に対する施策を講じなければならない。

今、テレビなどが報じる「社会」では一人あたり1万2000円といわれる定額給付金についての議論が盛んだが、この金に経済効果があるか、5000万円の所得がある者に支給する必要があるのかという議論は、貧困問題を前にするといかにも不毛である。
2兆円の金を使うのならば、せめて貧困問題を少しでも解決するために使う方法はないものだろうか。
私はそう思わずにいられない。


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昨日、埼玉と東京都内で連続して起きた元厚生次官らの殺傷事件は、その手口が似通っていることから同一人物による犯行の可能性が出ている。また、被害者とその家族が旧厚生省で年金行政に関わっていたことから「年金テロ」ではないかとも言われている。

捜査に進展が見られない現時点で、軽々に憶測するのは控えたい。しかし、もしこの事件が厚労省および社保庁による一連の不祥事や怠慢に原因があって起きたものであるならば、嫌でも6月に起きた秋葉原での無差別殺傷事件を思い起こさずにいられない。
年金記録の紛失や改竄など、数え上げたらきりがないほどの不始末を厚労省と社保庁の役人たちはやってきた。その結果、受け取るべき年金を受け取れなかったり、金額を不当に低くされてしまったりして不利益を被った人はどれほどの数になるのか想像もつかない。なかには年金を払っていたにもかかわらず記録を紛失されて無年金とされ、厚労省による確認はできたものの、金が支払われる前に亡くなってしまった老人もいるという。
厚労省と社保庁に対する恨みを持つ人間は、日本中にいるだろう。
年を取って仕事が出来なくなり、収入の道が途絶えたとき、頼りになるのは年金だけという人が、役人の不手際のために金を受け取れなかったなら、あるいは支払った額に対してわずかな金額しか受給されなかったなら、はたしてどんな思いを抱くだろうか。自分の生活を台無しにし、幸福や希望を奪ったに等しい役人たちに対して恨みを持つのは当然というべきだろう。

秋葉原事件の加藤智大は、派遣労働という不安定で差別を受けやすい、労働者として最下層に位置する自分に絶望し、希望を求めようにも求めようがない社会の冷たさに憤怒して凶行に走った。

もし、今回の事件も年金に関わる恨みが元にあるのであれば、それは年老いた加藤智大のような人物が罪を犯したのかもしれない。
どんな理由があるにせよ、人を殺傷するという行為が正当化されることは絶対にない。
しかし、そうした行為に人を向かわせる可能性をこの社会が持っているのもまた事実であり、今の社会をよりよく変えていかなければ今後もおぞましい犯罪が起きることは十分にあり得ると考えた方がいいだろう。

社会をよりよくするには何をすればいいのか。
それはまず第一に貧困の問題を解決することではないだろうか。
今日の毎日新聞の社説には、「高齢者の犯罪 刑務所が老人施設でよいか」という訴えが載せられている。これによると、昨年中の交通関係をのぞく一般刑法犯の検挙者は約36万6000人で、3年連続で減少した。しかしそのうちの約13%にあたる4万9000人ほどを65歳以上の高齢者がが占めた。この数は10年前の3.8倍で、20年前の約5倍にあたり、過去最多となっている。さらに刑務所に収容された高齢者も20年前の約6倍の1884人で最多記録を更新したという。

社説では、「高齢者人口もこの20年で倍増したが、高齢の検挙者や新規受刑者の増加率は人口増を大きくしのぐ。年代別に人口あたりの犯罪率をみると、各年代が前年を下回っているのに、70歳以上だけが上昇する特異な現象となっている。高齢者は分別があって体力が衰えるので犯罪率は低い、という従来の常識は覆された形だ」と続けている。

なぜ、このような現象が起きているかといえば、そこには「貧困」がある。高齢者の検挙容疑の多くは窃盗など比較的軽い犯罪で、その理由も生活に困窮したり空腹に耐えかねてといったものが多い。法務省が出した『犯罪白書』では、こうした事実を踏まえたうえで「高齢者の生活の安定を図り、孤立させないよう福祉を拡充し、地域と連携して社会全体で対策を講じる必要がある」と提言している。

年間2200億円もの社会保障費を削り続けている一方で、よくもまあこんなことが言えたものだと皮肉のひとつも言いたくなるが、法務省の提言はまったくの正論である。
今のままでは社会保障の網から漏れた高齢者たちが、必要な福祉を受ける代わりに刑務所に入って命をつなぐという悲惨な状況がどんどん広がっていく恐れがある。
格差と貧困が広がり、自分の力ではどう頑張っても這い上がることができない今の社会は湯浅誠が言う通り、まさに「すべり台社会」で、貧困の泥沼にはまったが最後、ネットカフェ難民になるか野宿者になるか、最後には自殺をするか犯罪を犯すしか選択肢がなくなってしまう。

海の向こうからは今も頻繁に自爆テロ事件が伝えられるが、自爆するテロリストの多くは貧困者だということが分かっている。家族を救うためにいくばくかの金をもらって自爆をするか、あるいは自爆することで来世での幸福を得ようとするか。いずれにしても貧困さえなければ悲惨な事件は起きずにすみ、犠牲者が生まれることもないのだ。
日本でも貧困が広く根深いものになっていくにつれ、人々は幸福感を忘れ、希望を失い、社会を不穏なものにしていくだろう。イラクで、アフガンで今日起きていることは明日の日本で起きていることかもしれない。

そうならないためには、貧困問題に真摯に取り組み、これを解決していく他ない。

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日米欧に中国、ブラジルなどの新興国を加えた主要20カ国・地域(
G20)による金融サミットが日本時間の16日朝閉幕した。
首脳宣言では、金融危機に歯止めをかけるため金融監督に関する国際的な連携を強化するするとともに、内需刺激のため財政出動で各国が協調する方針を明記。金融政策もふくめた政策総動員体制で危機克服に臨む姿勢を協調した。――毎日新聞より。

これに対して投資家やエコノミストの間では、各国の協調体制が示されたと一定の評価をしながらも、首脳宣言には具体性を欠き、実体経済にすぐ効果をあげるのは難しいという冷ややかな反応が見られた。
たしかに、金融サミットが終わっても株価が大幅に上がることはなかった。その意味ではこれまで行われてきたサミットと同じく、実効性に乏しい会合だったのかもしれない。

しかし、私は経済問題に明るいわけではないが、この首脳会議には麻生太郎やサルコジが胸を張って答えたような「歴史的意味」があったと思う。
それは先進国と新興国の首脳が一堂に会した席で、今回の世界的な金融危機をもたらす原因ともなったアメリカの市場原理主義、すなわち新自由主義が明確に否定されたからだ。
今回の会議は、米国発の金融危機にどう対処するかが最大のテーマだったが、論議を主導したのはアメリカではなくヨーロッパと新興国で、サミット開始前からヘッジファンドや格付け会社への監視・規制強化拡大をアメリカに対して要求した。
これに対してブッシュは、サミット直前まで「自由な市場は経済繁栄のエンジンだ」と抵抗していたが、アメリカに対する批判の前に妥協せざるを得なかった。

その結果として、首脳宣言には広範な規制強化が盛り込まれ、かくしてアメリカ流の新自由主義は修正せざるを得ない形になった。つまり、経済を市場の自由に任せていたのではブレーキが利かなくなって世界経済が立ちゆかなくなることが共通認識として確認されたのだ。
麻生太郎やサルコジの肩を持つ気は毛頭ないが、2008年11月16日は歴史に残る日になったのではないかと、私は思っている。

もっとも、新自由主義が否定されたからといって、ここまで危機に瀕した経済が立ち直る方法が見つかったわけではない。その点を専門家たちは冷ややかな言葉で表現しているわけだが、真価が問われるのはこれからであることは言うまでもない。
ことに日本の場合は、これまでアメリカに追従する形で経済政策をとってきたおかげで金融・財政政策はガタガタになっているといってもいいのではないか。これをどうやって立て直すのか。関門は非常に高く、麻生太郎では歯が立たないことは明白だ。そしてもちろん、利権談合集団と化している自民党にも解決能力はないだろう。

わが国の経済を立て直すには、まず税制を見直して社会保障を再構築し、貧困・格差の問題をなくすことから取り組まなければならない。これらの問題を抱えている限り、どんなに政府が財政出動しようとも、内需拡大を叫ぼうとも、効果を上げることは難しい。
政府は法人税を下げて消費税を上げるべきだとほざいている財界の亡者どもを一喝し、まずは雇用拡大、適正な賃金、労働者を守る保障制度を立て直していくことが急務だ。

そのためにも政権交代が一日も早く行われることが必要なのだが、麻生太郎はいまだに煮え切らない態度を取っている。
それに対する民主党も、昨日は突如党首会談を申し込んでみたりしたが、わずか30分ほどの話し合いで何の結論が得られたというのか。「100年に1度の危機が降りかかろうとしている」という認識を持つのであれば、民主党もテロ特措法案などを政争の具に使わずに、国会で自民党の経済政策ではこの危機を乗り切ることは不可能であることを具体的に示して麻生太郎を追い詰めてやるべきだ。

世界は新自由主義を否定したというのに、この国ではいまだにそれを理解せず、改革という名の社会の破壊が行われている。
日本でも市場原理主義は通用しないのだということを共通認識とし、なんとしても今行われている愚行に歯止めをかける必要がある。

日本にも政権のチェンジを。
新自由主義をはっきりと否定し、社会民主主義の世の中が一刻も早く訪れることを祈りたい。

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実のところ、ここ数日ブログを更新しなかったのは、なんだか脱力してしまってどうにも書く気になれずにいたからだ。

それというのも、麻生太郎があまりに馬鹿で、漢字もまともに読めないとか、政局よりも政策優先だといいながら結局は選挙に勝てるかどうかの政局しか頭にないために解散総選挙を先送りにしていることがあまりに露骨で嫌になってきたとか、あるいは定額給付金の無駄加減が日毎に明らかになってくるのに自公政権はいまだに白々しく経済効果があると言っているのにウンザリしてしまったりといったことが重なっているためである。

ほんとにどうにかならんものかね、この政治の閉塞した状況を打開するには。

しかしその一方で、政局に目が行きがちな私の関心をぐいっと引っ張るような出来事があったのも事実で、これについてはもっと早くに書いておきたかった。
それは何かと言えば、元経団連の会長でトヨタ自動車相談役の奥田碩が12日、首相官邸で行われた「厚生労働行政の在り方に関する懇談会」の席上、テレビの年金報道などについて「厚労省たたきは異常な話。マスコミに報復してやろうか(と思う)。スポンサーを降りるとか」などと発言した一件である。
奥田碩

日本の財界トップといえば経団連会長の御手洗富士夫と今はなっているけれど、トヨタの会長職にある奥田はいまだに隠然たる力を持っており、その発言は政界だけでなくマスコミにも影響力があることは周知の通りだ。
さすがにこの日の「スポンサーを降りる」という発言には同席した委員から「言い過ぎだ」と言われたようだが、奥田は冗談でその場を盛り上げようと言ったわけではなく本気でそう考えている。
実際、この報道があった後、テレビ局などには政府批判や年金問題追及の報道を自粛しようという動きが出てきているという。
テレビ局にとってトヨタは最大のお得意様だから、そのトップが脅しをかけてくれば抵抗できるはずもない。今や日本の報道に気骨を求めるのは虚しいばかりとなっており、スポンサーとは無縁のはずのNHKでさえもが自民党総裁選のときには自ら「自民党のコマーシャル」として7時のニュースを提供している。
そして自民党のスポンサーといえば経団連なのだから、奥田発言は日本の政府・マスコミに大きな影響を与えたと言っていいだろう。

奥田碩が苛ついているのは、むろんアメリカ発の金融危機と急激な円高のためにトヨタの営業利益が70%以上も下方修正しなければならなくなったという経済的事情が働いているのだろう。
たしかに1兆6000億円もあった利益が6000億円まで減ったのだから、これまで儲かって仕方がなかった経営者としては面白いはずがない。

かねがねトヨタのクルマなど買わない、キヤノンのカメラも買わないと決めている私から見れば、たまに痛い目を見るのはいい気味だという気分がある。

けれども、1兆6000億の利益が6000億に目減りしようとも、奥田の懐などは決して痛まないようにできているのが今の社会だ。
大企業の利益が減って、いちばん痛い目に合うのはやはり労働者であり、そのなかでも下請け業者や不安定な立場に立つ非正規雇用者なのだと思うと、一度は盛り上がった私の気分も一気に萎んでしまう。すでにトヨタは、今回の金融危機を受けて期間雇用者の半数をカットすることに決めている。ということは派遣社員などはもっと大規模な首切りをするに違いない。
下請けに出す注文を絞り、値段を叩き、首を切りやすい労働者を切り捨てることで目減りした1兆円の穴埋めをしようとしている。

今日の朝日新聞には「下請けいじめ」倍増「切られては困る……抗議できず」という記事が出ている。記事のタイトルだけ見れば、中身は読まなくても分かるような内容で、企業のトップに立つトヨタが非道なことをして自社の利益を守ろうとしているのだから、後に続く日本の企業はこぞってその真似をするのは当然と言えば当然である。

記事では
「生産業者の下請けとして生コンを運ぶ日雇い運転手の賃金は1日1万円。これでは家庭は営めない。切られては困るから抗議もできず、絶望が広がっている」
という話や、
近畿のミキサー車運転手ら約1700人が参加する労働組合「連帯ユニオン関西地区生コン支部」の幹部は話す。建設業の不振で「ゼネコンから注文を受ける生産業者も1立方メートルあたり1300円はあったマージンを100円に削られた例もある。暴動が起きかねない状況だ」。
という話が紹介されているが、まったくこのままでは暴動が起きてもおかしくはない。
企業からすれば倒産するわけにはいかないのだから仕方がない処置なのだという理屈なのだろうが、こうした下請けなど弱い立場に立つ者をいじめる体質があるかぎり日本で希望を持って生きることは難しい。

自民党と公明党は国民一人あたり1万2000円から2万円も配れば幸福になれると思い込んでいるようだが、とんでもない話で、今の日本では本気になって貧困をなくすための政治的取り組みなしには絶望が広がるばかりだ。
はした金をばらまいて一時凌ぎと選挙戦略に役立てようとする政府と、弱い立場に立つ労働者を徹底的にいじめ抜き、必要とあればマスコミに脅しをかけて自己の利益を守ろうとする企業にこの国は牛耳られている。
麻生太郎はリーダーシップなど期待できないアホのボンボンだが、こんな男を責め立てるよりも、われわれにもっと必要とされるのは奥田碩をはじめとする財界を責めることなのではないか。

考えてみれば95年に当時の日経連が「新時代の日本的経営」を発表し、雇用を一握りのエリートと専門職、そしていつでもクビを切ることができるその他大勢の3種に分けたことが13年後の今になって国民を大きく苦しめる元凶となっている。大資本にとってはこれほど都合のいい機能を持った提言はなかっただろうが、財界のこの発想こそは日本人を地獄に突き落とすものだった。

政治を監視し、ふがいない為政者を責めることは必要だ。
しかし、われわれがもっとも警戒し、厳しい目を向けて見る必要があるのは政治をも操る力を持つ財界の金持ちどもだ。
奥田碩、御手洗富士夫、それに続く経営トップたち。
日本経済を牽引すると言われる者どもに、国民を地獄に突き落とすような真似をさせてはならないと、強く思う。

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カップラーメンは1個400円、ホッケといえば煮込みが普通とシモジモの生活を考えている麻生太郎は、1人あたり1万2000円も配れば苦しい台所事情もずいぶん楽になるだろうと思っているらしい。マンガを読まなければ時代の流れをつかめないという宰相らしいといえばいえるだろうか。
自民党のバカ

もとはといえば公明党が言い出した1年限定の定額減税だが、麻生太郎は現ナマをばらまくことにこだわって定額給付金と名を変えた。
しかし定額減税にせよ、定額給付金にせよ、こんなもので国民生活が楽になるはずがない。相変わらず大企業と富裕層に対する税制優遇措置は温存したままで、シモジモには1万2000円を施した後、大々的に増税をしてモトを取ろうとする。
その魂胆が卑しい。

今日の毎日新聞社説では、「支離滅裂な施策はやめよ」と題して、政策目的が不明確で効果も疑わしく、財政にも負担をかけるような定額給付金は白紙に戻すべきだと主張している。
私は、どうせばらまくのならば年収200万以下の貧困層に2兆円をばらまいた方がいいと考えているが、毎日新聞も気持ちは同じようで、「生活対策というのならば、低所得層などに対象を絞った減税や、大胆な非正規雇用対策を講ずるのが責任ある政治の務めではないのか」と結んでいる。

麻生太郎の頭の中には、マンガのことと金持ちのことしかないのだから、こんなことを言ったところで耳を貸すわけもないだろうが、今の日本が置かれている閉塞した状況を打開するには、格差と貧困の問題を解決することが第一で、そのためには「いざなぎ景気を超えた」といわれる、ついこの間までの好況で、潤った企業や人々から置き去りにされた中小企業や労働者たちを救っていかなければならないはずだ。

麻生太郎自民党シンパの学生を集めて「庶民の声」に耳を貸した風を装って見せているが、耳を貸すならば派遣労働者など非正規雇用者が実際に生活しているタコ部屋に足を運び、彼らの苦衷に耳を傾けるべきだろう。そうでもしなければ、支離滅裂な定額給付金がいかに的外れな施策であるかなどとは気がつかないだろう。いや、おそらく頭の悪い麻生太郎のことだから、目の前で苦しい生活を強いられている人々を見ても「それは私が口を出すことではない」などと言って責任逃れをすることだろう。

麻生太郎は、定額給付金という白痴同然の施策をするにも言を左右にし、国民だけでなく自民党内にまでうんざりムードを植え付けた。それは一にも二にも麻生太郎にしっかりとした考えがなく、その場しのぎで事を運ぼうとする、一国の宰相としてはあるまじき性質に原因がある。
国民はそれでも、この愚相が言い出した1万2000円の施しを受けるのだろう。そして手取り1800万の年収がある者が果たして辞退などするものかと、苦虫を噛み潰したような思いで事態を見守ることになるのだろう。

定額給付金。それにしても何から何まで忌々しい施策ではないか。

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今回の定額給付金についてはほんとに突っ込みどころが満載だ。
まずは連日伝えられる関連ニュースから。

麻生太郎首相は10日、生活支援定額給付金の支給対象に法律上の所得制限を設けず、「高額所得者」に自主的な辞退を促していく意向を表明した。――産経ニュース

これに続く記事で、麻生の言葉が載っている。それが、なかなかいい。
所得制限を法律でやるのは手間暇がかかる。迅速性が要る。自発的に辞退してもらうのが簡単じゃないか」「5000万円もらっても高額所得じゃないという人もいれば、500万円もらっても(給付金を)要らないという人もいる」と、給付金の受け取りは本人の意思に委ねるべきだとの考えを示した。

麻生太郎は、自分のカネでもない給付金を、欲しい人にはたとえ年収5000万円の人間でも与えるし、同じく年収500万でも俺は要らないといえば与えない、とまるで仏様のような慈悲あふれるセリフを吐いている。

こうした麻生太郎のパフォーマンスの陰で、自民党内では与謝野馨や保利耕輔らが協議を重ねており、「自主辞退」するにも所得制限の線引きが必要だとの認識で一致したという。それによると、1世帯あたり1500万~2000万円を基準に公明党と最終調整するそうだ。

何にしても1人あたり1万2000円のカネ(18歳以下の子供や65歳以上の老人には2万円)がばらまかれることになる。
民主党の鳩山由紀夫は、これは明らかに選挙対策を目標とした合法的な「カネで一票を買う方法」と非難している。

しかし鳩山が何と言おうと、カネがばらまかれる以上、人々はそれを受け取る。それが人情というものだ。
たとえ、カネがばらまかれた後に身の毛もよだつほどの増税が待っているとしても、だ。

私とて、くれるというものをわざわざ要らぬと跳ね返すほどの気概はない。年収が1500万でもなければ2000万でもない私は、顔をしかめながらも、きっと1万2000円を受け取ると思う。
その1万2000円を何に使うだろう。
家族と牛角あたりでパーッと焼き肉パーティでもするか。
それとも友人と新橋あたりまで出張って居酒屋に入るか。1万2000円程度のカネでは残念ながら銀座で飲むには心細い。
あるいは、パソコンのハードディスクの容量が残り少なくなってきたから大きいものに買い換えるか。
東京に出ると電車賃がけっこうかさむので、パスモにチャージしておくか。

カネの使い道をあれこれ考えるのは、それなりに楽しいものだが、1万2000円ぽっちでは、貧乏人の私でさえ、考えているうちに何だか虚しくなってきてしまう。
政府は、麻生太郎は、下々の人間は1万2000円で大喜びし、すぐさま買い物に走ると本気で思っているのだろうか。
こんな、1月分の電気代にも足りないようなカネで、日本の景気を回復する起爆剤にできると思っているのだろうか。

くれるというカネを受け取ることについては決してやぶさかではない私だが、この際だからひとつ提言をしておきたいと思う。

麻生太郎は、あくまで自己申告で受け取りたい人が受け取り、要らないという人は受け取らなくてよいと言った。
それならば、私は受け取らなくてもいいが、その代わり、麻生らが考えている消費税増税には反対するし、これを拒否するという意思表示をする選択肢を設けてはどうか。

何度でも繰り返すが、富の再分配をせずに消費税をいくら上げても日本の景気は回復しない。私は消費税増税には断固反対である。
消費税増税を政府が撤回するのなら、1万2000円ごときの給付金など、要らぬと言ってやりたい。

政府は、定額給付金の受け取りを自己申告制にするというのなら、これにつけ加えて、受け取りを拒否するという項目を明記して欲しい。そして受け取りを拒否する者は、きたる消費税増税には反対・拒否するものであることをメッセージとして受け取って欲しい。
解散総選挙もやらず、単にカネのばらまきをして国民のご機嫌を取ろうとする姑息な手段には、国民の断固とした意思表示をする機会を与えてもらいたい。
給付金は要らない。その代わり、消費税増税は絶対に拒否する。
もしこの要望が通るのならば、1万2000円など安いものではないか。


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だいたい麻生太郎の口から出てくる言葉には重みもなければ信憑性もないのが特徴だ。
自民党総裁選のときに麻生は言った。
「日本の経済は全治3年だ」
これひとつを取ってみても、麻生が口から出任せを言っているのが分かろうというものだ。何をもって全治3年なのか。その後起こったアメリカ発の世界金融危機を差し引いても、日本の経済が3年で立ち直り、諸問題を解決した上で景気が上向くという根拠はどこにあるのか。

たとえば雇用の問題一つをとっても、非正規雇用者の数が増加の一途をたどり、ひいてはそれが社会格差の原因になっていることを考えれば、なんとかしてこれを抑制する、つまり正社員化する方策を採らなければならない。
総務相の調べでは、2007年10月現在の非正規雇用者数はおよそ1890万人。これは就業者数約6600万人のうち自営業者などを除いた数約5326万人の35.5%にあたる。雇用者の3人に1人が非正規雇用者ということだ。

金融危機と円高により、トヨタなどは純利益を2兆円からなんと6000億円へと70%以上もの下方修正をしているが、そこで最初に取られる対策は言うまでもなく雇用調整だ。そして雇用調整にはもっとも便利な存在としてクビを切られていくのが非正規雇用者であることは、もはや誰もが知っていることだろう。

トヨタに限らず、日産、ホンダも収益の下方修正をしていることから、今後、日本の社会には製造業を中心に職を失った非正規雇用者があふれ出すことが予想できる。
彼らを再就職させ、安定した収入を得させなければ経済が持ち直すことなど考えられないはずだが、麻生太郎はこの問題を3年で解決できるというのだろうか。

そしてもっとも麻生太郎の言葉が無責任なものとして響くのが、景気が持ち直した後の増税策だ。
当初、麻生は3年後には消費税を5%上乗せ、つまり倍増することを明言した。しかしその後、5%という数字はいつの間にか姿を消し、とにかく増税だけはするというようになった。
その背景には政府の社会保障国民会議がまとめた最終報告があり、それによると年金制度を維持するには現行の保険方式でも2015年までに最大8.5%、25年までに11%に引き上げなければならず、全額税方式だと15年までに16%、25年までに18%まで引き上げる必要があるという。いずれの方式を採るにしても、とても消費税5%の上乗せだけでは足りないことが明らかになっているのだ。

けれども、年金ひとつをとってもそうだが、社会保障を消費税で賄おうとするかぎり消費は冷え込み、景気の回復など望む可くもないことは明らかだ。
たとえば年収700万円の家庭の場合、今まで消費税は15万円払っていたが、8.5%になれば25.5万円、11%で33万円、16%ならば48万円、18%になると54万円もの支出になるという。
もっと年収が低い家庭の場合、たとえば年収500万円だと、これまでが11万円だったのが、8.5%で18.7万円、11%で24.2万円、16%で35.2万円、18%だと40万円と4倍近い額を支払うことになる。
つまり、収入が低いほど高い割合で消費税を支払わねばならないことになるのだ。年金受給者の場合は受給額が減る一方で消費税負担が増すのだから、生活はさらに厳しくなる。年収が生活保護基準よりも低いとされる非正規雇用者にとって、消費税増税は死活問題になってくるだろう。

どう考えても、社会保障を消費税で賄おうとする限り、こうした矛盾が出てくることは明らかなのだ。
消費税増税は、トヨタやキヤノンなど「優良企業」が舵を取る財界が強く主張し、政府自民党はその尻馬に乗る形で言い続けている事柄だが、こうした輩の言う通りにしていると、生活困窮者は今後も増加し、生活苦が原因で自殺を選ぶ者の数が増えることは火を見るよりも明らかだ。

麻生は、これで本当に日本の経済を3年で立て直せると思っているのだろうか。

少しでも本気になって経済の立て直しを考えるならば、消費税増税などではなく富の再配分を強化する以外に方策はないはずだ。すなわち富裕層の所得税と法人税、相続税の増税である。
毎晩ホテルの会員制バーで葉巻を吹かしている麻生に貧乏人の生活のことなど逆立ちしても分かるはずはない。
しかし、麻生が日本経済を立て直し、景気をよくしたいと真面目に考えるのならば、経済効果などゼロに等しい定額給付金のばらまきなどすぐにも止めて、税制の改正に取り組まなければならないはずだ。


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東京におさらばしてから、もうすぐ丸7年になろうとしている。
今でもときどき仕事の関係で東京に出かけることはあるので、地下鉄路線図を見てたじろぐということはないが、人混みの多さ、街の変貌ぶりには驚くことが多くなった。
東京は、相変わらず賑やかだ。
東京は、相変わらず情報量が多い。
東京には、相変わらず商品があふれている。
そして、東京の街は、相変わらず殺気立っている。

疲れるね、東京に行くと。
しかし、買い物をしたり映画を観たりするには、やはり東京ほど便利な街はない。美術館もあちこちにあるし、街並みを楽しみながらのんびり散歩をしようと思えば洒落た雰囲気味わうのにぴったりな景色がお好み次第で選ぶことができる。
こういうことは、地方の新興住宅街じゃどうしたってかなわない。
明日の神話

そんなことを考えつつ、今月は仕事は関係ないけれど、ちょこっと東京に出てみようかという気になっている。
ひとつは、11月17日から公開が始まる岡本太郎の「明日の神話」を見に行きたいという目的だ。
縦5メートル、横30メートルの、この巨大な壁画はすでに一昨年、修復が終わってすぐのときに汐留でしばらく公開されている。
このときも見に行ったのだが、夏休み時の、しかも日本テレビが後援しての公開だったので子どもが多い上に、無用なイベントが仕掛けられていてまるで御祭騒ぎ。こういう雰囲気の中で芸術に触れる機会を作るというのは、かならずしも岡本太郎は反対しなかったであろうが、じっくり見てみたいという思いで行くと大いに落胆させられるものだった。

今回の公開も、渋谷駅の通路という、作品鑑賞にはまったくふさわしくない場所ではあるが、テレビ局がかんでいないだけ状況はましだろう。人の通行の邪魔にならないように見るのは難しいかもしれないが、岡本太郎の代表作とも言われるこの作品をもう一度ゆっくりと見てみたい。

さらに、もうひとつは渋谷あたりにもあるであろうネットカフェあるいは個室ビデオというものを見学してみたいと思っている。
テレビ・ニュースではしばしば現代の貧困層が身を寄せる場として報じられるこれらの施設。このブログでもワーキングプアとこれらを結びつけてエントリを何度か上げてきたが、実際はかならずしも貧困層の避難場所ではなく、普通にコーヒーなどを飲みながらネットを楽しんだり、あるいはビデオを見ている客が多いという。現場を見ずして憶測だけで書くなというお叱りの声をいただいていることもあるし、やはり百聞は一見にしかずには違いない。この機会にぜひとも見ておきたいと思う。
なにしろ地方都市では、それも繁華街よりもシャッター商店街の方が目立つ街に住んでいると、ネットカフェも個室ビデオもなかなか縁がないのだ。

そして渋谷に行くからには是非とも行ってみたいのが、麻生太郎の豪邸だ。10月26日には40名ほどの貧しい若者たちが麻生の家を見に行って己の貧困をあらためて考えてみようという「リアリティーツアー」が催されたが、そのうちの3人が突然警察に逮捕されるという事件が起きた。
なぜかマスコミはいまだにこの事件を積極的に報じようとせず、報道した内容も事実とは異なる、警察の発表をそのまま垂れ流すという怠慢ぶりである。これについてはこの6日にも抗議集会が開かれたことをJanJanニュースが伝えているが、私が驚き呆れているのは、警察の発表をそのまま鵜呑みにしているマスコミよりも、逮捕された3人に対して誹謗中傷する声がネット上で少なくなかったということだ。
実際、このブログでも11月4日のエントリ「麻生よ、アキバのオタクに手を振るなら渋谷で捕まった若者に会え」でこの事件を取り上げたときには「あんなキチガイを助ける必要なんかない」というコメントが数通寄せられている。もちろん、それらは削除したのだが、悪意に満ちた言葉というのはそれに触れるだけで私の心を消耗させる。私は、こういう言葉を平然と送りつける無神経な輩に対して断固抗議する意味をふくめ、同時に不当逮捕した警察にも抗議するつもりで勝手に麻生太郎の邸宅を見物しに行こうと思っている。
おそらく周辺には警察官が立って目を光らせているだろうが、地方から東京を訪れた一見学者として、是非とも麻生の家を写真に収めてみたいと思っている。
麻生太郎の豪邸を見て、私もまた、己の貧しさとを比較し、あらためてこの社会に横たわる格差について考えてみたいと思っている。

岡本太郎にはじまって麻生太郎に終わる一人勝手連の太郎~太郎見学ツアーをいつにするか。
11月17日の作品公開以降、10日前後に決行できればと今のところ考えている。
その頃にふたたび不当逮捕のニュースが流れることがあれば、その話題の主はもしかすると私かもしれない、なんちゃって。

どうもことのころ、体調と家庭の事情が絡み合ってブログの更新が滞りがちになってしまう。体調というのはまあ、ご存じの通り、鬱であるために何をするにも気力の維持が難しくなり「~をしなければ」と思うとそれだけで疲れてしまう。ことに秋になってからその傾向が強く出てしまい、そのため10月はずいぶん空白を作ってしまった。ま、「オータム・ブルー」というやつですね。
プリン


もうひとつ、家庭の事情というのはべつに夫婦の仲が険悪になったとかそういうものじゃないのだ。
実をいうと10月10日にまたしてもオカメインコの雛を迎えてしまい、その育児と他のワンコやら先住鳥たちの世話に忙殺され、それで余分なエネルギーが残らなくなってしまったのだ。オータム・ブルーの時期に育児(1日5回の差し餌やら温度管理やら)をするのは、これでなかなかヘビーなものだった。
苦労の甲斐あって、新しく迎えたオカメもすくすく成長し、今では自分で餌を食べ、部屋中を飛び回るほど元気である。これでわが家には3羽のオカメインコがいることになるのだが、朝夕の放鳥時には両手と頭の上にオカメが羽を休めるようになり、当然これではパソコンなど開いている余裕もないというわけである。
バラク・オバマ

さて、アメリカ大統領選でバラク・オバマが圧倒的な勝利を収め、第44代大統領になることが決定したことはすでに号外が出るほど報じられたし、ブログでも彼の勝利を祝福するエントリが数多く上った。8年間続いたブッシュ政権は、アメリカだけでなく世界にとってもあまりに大きな損失を招いたが、アメリカ人たちはようやくその過ちに気づき、政権交代を実現させた。いまさらではあるが、私もまずそのことを讃えたい。


もうひとつは、バラク・オバマが見せた言葉の力について、考えさせられた。

オバマが勝利宣言をした5日、日本では関口宏の「水曜ノンフィクション」に続いて久米宏の「テレビってやつは!?」が放送されていた。「水曜ノンフィクション」の方はオーソドックスな報道番組としてアメリカ大統領選とオバマの勝利を大きく取り上げていたが、それに続く「テレビってやつは!?」では、冒頭にまず久米宏が「アメリカ大統領選については、この前の番組で関口宏さんがやっていたので触れません」と断った上、ゲストとしてホリエモンこと堀江貴文被告を紹介したので思わず見入ってしまった。

この番組、久米特有のチャチャがしばしば入るのと、ゲストが総花的で話題が掘り下げられないのであまり感心はしていない。姜尚中がとうしてまたこの番組のレギュラーになったのか不思議である。
ただ、さすがに頭が切れる彼らしく、少ない時間の中で毎回(といっても、この日で3回目の番組だが)ピシッと鋭いコメントをするときは傾聴に値する。

この日も、今はもっぱらブログを書くことを日課にしているという堀江貴文に対して、「自分はブログはやらない。なぜならブログというのは個人のつぶやきであり、対話と議論を生み出さないからだ」と語っていた。これには隣に座って堀江を攻撃していた福岡政行もしきりにうなずいていた。たしか福岡だったと思うが、
「2ちゃんねるなどのネットの言論でいちばん多く使われている言葉は『許せない』なんですよ。つまり議論をするというよりもネットではあらゆる私怨が渦巻いているに過ぎない」
と切り捨てていた。
姜らの指摘に対して、堀江は「でも、ブログにはコメントやトラックバックという機能があって意見の交換をすることは可能だ」と反論していた。
ここまでで堀江対姜・福岡の対話は平行線をたどることになるのだが、堀江と同様、ブログを書いている私としても少々考えないわけにはいかなかった。

たしかに姜尚中の言う通り、ブログはあくまでその運営者が思ったことを書き連ねるネット上の日記であり、日記であるからには「個人のつぶやきのようなもの」と考えられるのは当然である。私自身、タイトルに「日記」とつけている通り、このブログは私という人間が個人的に考えていること、感じていることを書き綴っているものだという認識を持っている。だから、建設的な意見を寄せてくれるコメントはありがたい思っているが、それに対する返事を書くことについてはあまり熱心ではない。私は必ずしもここで議論を望んでいるわけではないのだ。もちろん、必要となれば議論をすることにやぶさかではないのだが。

しかし、その一方では、やはりネット上に公開されて不特定多数の目に触れる以上はなにがしかの影響を(たとえ一人だけでも)与えることがあるのではないかと思っている。言葉というものには力が備わっていると考えている。だから、社会的な問題に触れる時には私なりに考えて、できるだけこの社会がよくなるよう願いつつ言葉を選んでいるつもりだ。そして、たとえひとつひとつのブログは個人のつぶやきでしかないかもしれないが、同じような気持ちを持つ人々が集まれば、ブログが発する言葉もやがて大きな力を持ち得ると思っている。ブログが社会を動かすまでには、残念ながら今のところ至っていないが、ブログの歴史はまだまだ浅い。これからどういう形に進化していくかは私には分からないが、きっとブログ言論もそれなりの力を持つようになっていくと思う。

その好例のひとつが、自民党総裁選でNHKが7時のニュースで時間を拡大し、まるで自民党の宣伝番組のような内容を垂れ流したときの出来事だ。番組内容に抗議した内野光子さんがNHKコールセンターの係員から信じられない対応を受け、挙げ句に「あれは自民党のコマーシャルですよ」と言われたことを公表した。これがネット上で波紋を呼んで、ついにNHKが内野さんに対して謝罪した。
もうひとつはやはり今回のアメリカ大統領選で、バラク・オバマはyoutubeをはじめとするネット上の利器を活用することでマケインに差をつけていった。ネットで彼が発した「Yes we can.」という短いけれども力強く分かりやすいメッセージが、多くの人の心に響き、アメリカ人全体を動かすほどの力を発揮したのである。

ネットでは、バラク・オバマが地元イリノイ州シカゴの公園で行った勝利演説の全文を翻訳で今も読むことができる。シカゴの聴衆に呼びかける形で始まったこの演説は、やはり力強く、希望に満ちていて万人の胸に迫るものがある。彼の演説を聴いていた多くのアメリカ人が感動に涙を流していた映像は、今も忘れられない。ニュースで字幕を読みながら、彼らと一緒に涙を流した日本人も少なくないのではないだろうか。あの瞬間は、政治が人を感動させるものであり得ることを示すと同時に、言葉の持つ力が人の心を打ち振るわせ希望を与える可能性があることを示していたのだと思う。

言葉には力がある。
たしかに、われわれはバラク・オバマではないけれど、この社会が少しでも暮らしやすく、人々が幸せを感じながら生きられるものになるように願って言葉を紡ぐことでは変わらない。ひとつひとつのブログ(ことに私のブログのような弱小ブログ)は小さな力しか持ち得ないかもしれないが、われわれの発する言葉が共感を呼び、読む人の心を少しでも動かすことがあれば、日本でもきっと社会を変えていくことができると思う。

微力ではあるが、私はそのことに賭けたい。

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昨日放送されたNHK「クローズアップ現代」ではいわゆる「貧困ビジネス」が取り上げられていた。
貧困ビジネスとは、いわゆるワーキングプアなどに代表される貧困者を相手に金を搾り取る業態のことで、番組ではネットカフェや敷金・礼金不要を売り文句にしている「ゼロゼロ物件」と呼ばれる不動産業、生活困窮者を無料あるいは低額で受け入れ、生活保護を受けさせてその大半をピンハネする宿泊施設などが紹介されていた。

ネットカフェについては、すでに「ネットカフェ難民」という言葉が定着しているが、ほんらいはコーヒーなどを飲みながらインターネットを楽しむための施設として生まれたものだ。しかし低料金で24時間営業する店が増えるにつれて、住居を失った若者を中心とする生活困窮者が住居がわりに利用するようになった。少し前までは「ネットカフェ難民」という呼称に抵抗感を現す業者もあったようだが、今では低料金をうたうだけでなく、そこを利用することで住民票を取ることができると宣伝文句にしている店もあるというのだから、もはや公然とした「難民施設」と見るのが当然だ。

そういえば、大阪で放火事件があった個室ビデオもネットカフェと同じく難民施設と見るべきで、あの事件をエントリに取り上げた時、個室ビデオ店を利用するのは生活に困った人々が大半と書いたところ、「普通に利用している人も相当数いる。こうした施設を現代の木賃宿と同列に考えるのはおかしい。ネットカフェに寝起きするようになったら人生終わりなんて思ってないで、あなたも一度泊まってみてはどうか」というコメントをいただいた。
たしかにネットカフェや個室ビデオをほんらいの目的のために一時的に利用している人もいるだろう。
しかし、番組で紹介されていたネットカフェは、そこを住居代わりにしている人々で常に満杯で、順番待ち状態が続いているということだった。この現状をどうとらえればいいのか。
ゲストで招かれていた湯浅誠は、「こうした施設に暮らさざるを得ない人々がいるということが問題なのだ」と言っていた。

今の貧困が恐ろしいのは、いちど家賃も払えないような貧困生活に陥ると、そこから抜け出すのが非常に難しいところだ。ネットカフェを住居代わりにしている人の多くは非正規雇用者で、常にギリギリの生活を強いられている。貯蓄をする余裕はほとんどなく、アパートを借りて引っ越そうにも、その資金を貯めるには気が遠くなるほど時間がかかる。しかも生活を切り詰めて貯蓄をしても、病気やケガなどをすれば治療費を使わねばならず、仕事を休めば即収入減につながる。さらに、一年を通して仕事に就けるわけではなく、盆や正月、いわゆるニッパチとよばれる2月8月などヒマな時期には雇用調整が行われて必然的に仕事が減る。
とても金を貯める余裕などないのが現状なのだ。
いちど日本型難民に陥ると、それが固定化されてしまい、抜け出すことが難しくなる。ネットカフェに寝泊まりするようになったら人生終わりと考えたとしてもおかしくないのではないか。
少なくとも、こうした生活をしている限り、希望は生まれようがない。

今の日本で、ワーキングプア人口はどれくらいあるのか。
総務相の就業構造基本調査によれば、2002年で約650万世帯と推定され、年収200万以下の労働者は2006年に1000万人と突破したという。2008年の現在、その数は増えこそすれ、減っていることはないだろう。とくに9月以来の世界規模の金融不安と円高で、大企業は雇用調整を行っており、それはすなわち非正規雇用者のクビが切られていることを意味する。

さて、そこで今、麻生太郎内閣が景気対策として掲げている定額給付金について考えてみたい。

総額2兆円規模といわれる生活支援定額給付金は、当初、麻生太郎によれば全国民に対して支給されることになるとされていた。4人家族の場合で6万円ほどが臨時収入として入ってくることになる。
しかし、こんなことをやっても、富裕層にとってははした金であり、景気回復の意味をなさない。また貧困層にとっては、ないよりましなものに違いはないが、たとえ6万円もらったとしても諸物価値上がりの折、あっという間に生活費に消えてしまう。やはり景気回復に結びつくとは考えにくい。
それにそもそも6万円など大して必要としない金持ちと、困窮に喘ぐ貧乏人と、なぜまたここだけ平等にしなければならないのかが分からない。

これについては与党内でも異論が出たらしく、麻生太郎は4日になって「高額所得者は支給対象から除外する」と考えを変えた。
ただし、毎日新聞によれば所得把握には時間がかかることから年度内支給に影響が出る可能性があるほか、支給対象者の上限ラインをどこに設けるかなど難題も浮上しているという。

麻生は、「どの辺でカットするか分からないが、自主申告とか考えないといけない。うまくやるように考える」と言い、与謝野馨も「日本人は正しく申請するとの前提にすれば、制度は非常に簡単になる」などと自主申告案を提案しているという。

あくまでも上から目線でしか考えることができない麻生太郎周辺では、年収2000万程度を上限にするとか、いや1000万程度にすべきではないかとの話が出ているようだが、私から見れば年収1000万も2000万も十分に高額所得者である。少なくとも6万円をもらってありがたやと思うような生活レベルではない。まあ年収1000万程度ならば6万の臨時収入があれば、ちょっと贅沢な、麻生が毎日通っているようなレストランで食事をするかもしれず、それはめぐりめぐって景気回復に多少はつながるのかもしれない。
しかし、いずれにしても、いかにもみみっちい話ではないか。

本当に生活支援をうたって経済対策として金を使うのであれば、2兆円をそのままワーキングプア層に配分すればいいではないか。年収200万以下の労働者が1000万いるとすれば、一人あたり20万円。決して多くはないが、これだけあればネットカフェ難民もアパートを借りる足しにできるかもしれない。劣悪な宿泊所に生活し、悪徳業者から生活保護をピンハネされている人々の何人かはそこから抜け出せるかもしれない。家賃が1日でも滞納するとカギを付け替えられて部屋から締め出されたり、夜中にたたき起こされて催促されるといった劣悪な住環境に住んでいる人も、もっとましな住処に移れるかもしれない。

それでこそ「生活支援」の意味があるのではないか。

もちろん、支給法には手続きを要する。麻生や与謝野のような坊ちゃんには分からないだろうが、自己申告などを採用すればいくらでも誤魔化そうとする人間が出てくることは明白だ。
人間とはずるい生き物だ。欲深い生き物なのだ。それくらいは麻生も与謝野も、自分の胸に手を当てて考えてみればよく分かるだろうに。
バラマキをするならば、真に必要な者にばらまくべきである。
まして選挙対策にこれを利用しようなどという魂胆は、論外である。

関連タグ : 定額給付金, ワーキングプア, 貧困ビジネス,

麻生太郎
麻生太郎は10月26日夕、東京・秋葉原駅前で首相就任後はじめての街頭演説を行った。警視庁の調べで約3200人集まった聴衆からは“太郎コール”が湧き起こったという。そして麻生は、彼らに対して「いい年をした若者が『日本の将来は暗い』みたいな顔をするな。明るい顔をしろ」などと麻生節を炸裂させたという。(産経ニュースより)

同じ10月26日の午後、渋谷ではインターネットなどの呼びかけで集まった若者約40人が、地価だけでも62億円という麻生太郎豪邸を見学するツアーを始めた。「リアリティーツアー」と命名されたこのツアーはフリーター全般労働組合が企画したもの。渋谷の駅から歩いていける距離にあるという麻生の邸宅をぶらぶら歩きながら見に行こうという「のどかな」企画であるはずだった。

一行は「お宅拝見!!」の横断幕の他、麻生太郎の顔を描いたプラカード、大きな風船に書いた麻生の顔に「うち来る? イクイク」などと書かれたものやプラカードなどを持っていた。しかし、警官が集まってきて「これは無許可のデモなので、横断幕やプラカードはダメだ」と言われ、彼らはその指示に従った。
そしてとくに騒ぐこともなく5人くらいの列になって歩き出した。

ところが、渋谷駅前のハチ公園を出て、東急本店との間にある人通りの多い交差点で、いきなり私服の公安警官が襲いかかり、現場は大混乱になった。そして、混乱が収まったときには3人の若者が逮捕されていた。
不当逮捕


この事件を産経ニュースでは、次のように伝えている。
「インターネットなどで麻生太郎首相の私邸見学を呼びかけていたグループが26日午後、東京都渋谷区で麻生首相宅に向けて無届けのデモ行進を行った。中止の警告を無視したことなどから、警視庁公安部は、デモに参加していた男3人を都公安条例違反や公務執行妨害の現行犯で逮捕した。(中略)調べでは、1人は午後3時50分ごろ、渋谷区宇田川町の路上で無届けのデモを行った。この男を都公安条例違反の現行犯で逮捕する際、ほかの2人が逮捕を妨害しようと警察官に暴行を加えた。3人は黙秘しており、身元の確認を進めている。」

実際に起こった出来事を時系列に並べるならば、渋谷での騒動で3人の若者が逮捕された、その後に麻生太郎は秋葉原駅前に赴き、聴衆に手を振って“太郎コール”に応えていたことになる。

さて。
なぜかテレビ・新聞ではどこも積極的に取り上げようとしない渋谷での事件をどう思うか。
不当逮捕。警察権力の横暴。その通りだ。
マスコミの歪曲報道。意識的スルー。これも、その通りだ。
まったくひどい話だ。

逮捕された若者たちは、いずれもいわゆるワーキングプアで、逮捕拘留されているだけで収入が減り家賃の支払いが滞る恐れがあるというのだが、今日現在、渋谷警察はいまだに彼らの身柄を拘束したままだという。

10月26日夕、秋葉原で笑顔を振りまいていた麻生太郎は、まだこの事実を知らされていなかったかもしれない。
しかし今ならばそんなことはないだろう。
なにしろ、自宅に訪れようとしていた若者が3人も逮捕されたのだ。麻生は事実を(都合よくねじ曲げられているにせよ)耳に入れているに違いない。
それでも麻生太郎からは何のコメントもなく、3人の貧しい若者が不当に勾留されているのを放置したままだ。

もし、麻生太郎の中に本当に気さくで打ち解けやすい性質があり、心から秋葉原駅前に集まった若者たちに「お宅の皆さん」と声をかけたり、「暗い顔をするなよ、もっと明るい顔をしろ」と発破をかけてやる気持ちがあるのなら、いわれのない逮捕を受けた若者3人に対しても何らかの意思表示をしてやるべきではないのか。
もちろん、彼ら3人は麻生にして見れば心情的に「招かれざる客」かもしれない。けれども、彼らは単に62億の敷地に建つ豪邸がどんなものか見て、己の貧しい身の上と比べて日本社会に横たわっている格差を形あるものとして実感したかったに過ぎないのではないか。若者に対して明るい顔をしろと声を掛ける気持ちが本心ならば、警察に留置されている若者たちに対しても同じような気持ちで声をかけ、拘束を解いてやるべきではないのか。麻生太郎にはそれだけの権力はあるのだから。

もちろん、私は麻生太郎には本心から日本の若者を思いやる気持ちなどないだろうと思っているし、オタクの皆さんに対してもその場限りの都合のいい味方くらいにしか考えていないだろうと思っている。ましてや下々の貧乏暮らしをしている若者のことなど、薄くなった後頭部に生えている産毛の先ほども考えていないだろう。

土地だけで62億もする高級住宅街の御殿に住み、夜ごとホテルのレストランや高級レストランで会食し、その後は会員制バーでゆったり葉巻をくゆらせながら密談に勤しんでいる麻生太郎に、非正規雇用者の暮らしがどんなものなのか、カップラーメンの値段以上にイメージが湧いてこないだろう。

権力の座に酔いしれているそんな麻生太郎などに、今さら呼びかけても詮ないことかもしれない。
しかし、心ある人間の一人として、私もあえて声を上げたいと思う。

麻生太郎よ、出てこい。
出てきて、捕らわれている若者たちに詫びを入れろ。
お前に人間らしい心があるならば、たとえ下々のことではあっても苦しんでいる人々がいることを忘れるな。

私は、ふたたび今回の「リアリティーツアー」のような企画があれば参加したいと思っている。
いや、集団で動くことが苦手な私は、一人でもカメラ片手に是非とも渋谷にある麻生の御殿を見物に行きたいと思っている。

麻生御殿

関連タグ : 麻生太郎, 豪邸, 不当逮捕, リアリティーツアー,

「日本が侵略国家だったとは濡れ衣だ」などと主張する論文を書いたことにより、航空自衛隊トップの田母神俊雄が更迭された。

タモガミなんて珍しい名字だなと、私は変なところに感心してしまったが、このいかれたオヤジは今年4月、航空自衛隊によるイラク活動を違憲とした名古屋高裁判決に対して「そんなの関係ねえ」と定例会見で発言した時点でクビにされるべきだった。トップとして軽率だという以前に、考え方の根本がねじ曲がっている。
そのねじ曲がり方が、やはり尋常ではなかったことが、今回あたらめて明らかになったというわけだ。

それにしても今回の出来事ではいろいろ驚かされた。
第一に、田母神俊雄の論文は「真の近現代史観」というテーマで募集されていた懸賞論文で最優秀賞を勝ち取った「作品」だったことで、しかもこの懸賞論文を募集していたのは耐震偽装問題で、セレブ社長が涙の謝罪会見をしたアパホテルが属するアパグループだった。
耐震偽装問題では営業停止処分を受けるなどして、相当な痛手を受けたであろうアパグループだが、これが第1回であるにせよ、総額500万円の懸賞を出し、審査委員に渡部昇一というトンデモ学者を迎えて右翼の論文を募集するなどという酔狂をやっている余裕がまだあったことにもう一つ驚いた。
ちなみに田母神が得た最優秀賞の賞金は300万円で、副賞は全国アパホテル巡りご招待券となっている。
大丈夫なのかね、アパホテル巡りなんかして地震にあった時は。
他人事ながら心配になる。

そしてなにより驚いたというか、いや~な気分になったのは、先の大戦を本気になっていまだに美化している人物が相当数いて、この手の懸賞論文に応募してくる手合いが大勢(応募総数は230以上だった)いるということだ。
この論文が公になったのも、もとはと言えば主催者のアパグループ代表・元谷外志雄が大得意になって防衛省の記者室に報道発表文を配って歩いたからだ。
「わが国は蒋介石により日中戦争に引き込まれた被害者である」と強調し、「穏健な植民地統治をした」「多くのアジア諸国が肯定的にわが国を評していることを認識しておく必要がある」、「わが国が侵略国家だったなどというのはまさにぬれぎぬである」といった主張が問題になるかどうか、まともな神経の持ち主で客観的に歴史を学んだ人間ならば判断できそうなものだが、もちろん、元谷をはじめとするアパグループは、これを素晴らしいと信じているから賞を授けたのだし、報道に配って自社の宣伝にも使おうとした。
それが図らずも新聞種になって問題化し、最優秀賞受賞者が更迭されるという滑稽な事態になったわけだ。

私が学生時代、安酒場によく出入りしていた頃は、カウンターの席に昼間から酒を飲んでいるオヤジたちがいて、私が近くで飲んでいるとたまに声をかけてきた。そういうオヤジが何を言い出すかというと、まるで判を押したように「あの大東亜戦争は正しい戦争だった」というものだった。
彼らは言った。
「日本はアメリカに騙されて戦争をしたのだ」
「アメリカからアジアを守るために闘ったのだ」
そんなことはないでしょうなどと言おうものなら、彼らは血相を変えて食ってかかってきた。
「何を言ってる。多くの日本人があの聖戦で流した血を、何だと心得ているのだ、貴様は!」

今から思えば、まるで田母神論文の手本のような主張である。アメリカを蒋介石に直せば、そのまま田母神論文で、安酒場にくすぶっていたアル中オヤジたちは今なら最優秀賞を取れたことだろう。
私は田母神論文を読んでみたが、A4でわずか9枚という原稿はまるで高校生の作文並みで、これでよくも最優秀賞が獲れたものだとまたまた驚嘆した。文章が稚拙なうえに、肝心の主張もお粗末。論文というにはあまりにも一面的な見方をしているうえ、具体的な説明が不足している。

たとえば
「満州帝國は、成立当初の1932年1月には3千万人の人口であったが、毎年100万人以上も人口が増え続け、1945年の終戦時には5千万人に増加していたのである。 満州の人口は何故爆発的に増えたのか。それは 満州が豊かで治安が良かったからである。侵略といわれるような行為 が行われるところに人が集まるわけがない。」
というくだり。

単に治安がいいだけで人口が爆発的に増えるのか。毎年人口が増えたのは、大日本帝国が積極的に満州への入植事業を促進したことが欠かせないだろう。一般人の他に軍人・軍属も多く入植し、それらの人々は大勢の中国人を使って働かせ、満州を一大軍事拠点にしようとした。人口が増えるのは当然で、何も治安がいいから自然に人が集まったわけではあるまい。
もし本当に治安がいいために人口が増えたというのなら、当時の満州国での犯罪発生率がどれほどのもので、それはどこと比べて「よかった」のかを明確にしなければならないだろう。
細部をことごとく端折って書いたのでは、まるで説得力がない。これでは飲み屋にいたオヤジの方が、まともな説明ができるというものだぜ。

田母神の論文は論理の飛躍などという上等な代物でさえなく、ただの独りよがりの作文としか思えない。
「人種平等の世界が到来し国家間の問題も話し合いによって解決されるようになった。それは日露戦争、そして大東亜戦争を戦った日本の力によるものである。もし日本があの時大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのがあと百年、2百年遅れていたかもしれない。」
これこそまさに軍部の暴走だ。
政府は空幕長を更迭するだけでなく、防衛相も更迭して当然といってもいい。

さらに、私が田母神のような右翼思想に触れるとたまらなく気持ち悪くなるのは、昼間から酔いつぶれているクズのようなオヤジたちと、田母神のような超エリートがほとんど同じ考えを自分の核として生きているという事実だ。

安酒場でくだを巻いている男たちならば、その言葉は単なる世迷い言として片付けられるが、田母神のように軍隊を率いる権力を持った人間が同じ言葉を吐くと、何とも不気味である。こういう考えを持った人間が自衛隊の中枢で指揮を執っていたかと思うとゾッとする。
たしかに個人の思想信条は自由が保障されなければならないが、間違った歴史観や戦争を美化する思想を持つことは許されないことである。ドイツでナチスを肯定するような論文を発表すれば罪になるのと同じことで、日本でも太平洋戦争を正当化したり美化したりすることは今後はっきりと法で禁じるべきだろう。
これは何も中国や韓国に気を遣ってやるべきだというのではない。人間がもつ良識を守るために必要だと思うのである。

私は右翼というものが嫌いである。
日本を美化して考えるのは一向に構わないが、彼らが美として考えるのは昔ながらの歴史と伝統に支えられた国の姿である。しかし、その昔ながらの歴史と伝統のなかで、特権階級だけでなく、国民すべてが平和で自由を満喫し、豊かに生活を送っていた時代などなかったのだ。常に一般庶民の上には支配階級が立ちはだかり、おのれの富と権力を守るために搾取と暴政を続けてきた。万民が自由で平等に暮らしていた時代などどこにあるというのだ。
右翼にはそのことが分かっていない。そして自分が見たいものだけを歴史の中に見出して陶酔し、その価値観を押しつけてくる。
その無神経さに虫酸が走る。

田母神俊雄のような馬鹿男が日本の中枢で権力を持ち、多くの国民が生活苦に喘いでいる。それは右翼の好きな戦前の日本と同じ社会構造ではないか。
まったく嫌になってくる。
今回の出来事に対して、中国・韓国が比較的冷静な態度を取ったことに、私は羞恥とともに敬意を表しておきたい。

■追記
時事通信によると、防衛相は3日、解任された田母神俊雄前航空幕僚長(60)を3日付で定年退職とする人事を発令した。空幕長の定年は62歳だが、通常の空将は60歳が定年。解任により、空将に降格したことにより定年がさかのぼって適用された形だ。同省は田母神俊雄の解任後、11月30日まで定年を延長し、問題となった論文に懲戒処分に当たる事実がなかったかを聴取する意向だった。しかし本人が応じなかったため、延長を打ち切り、定年を適用することにしたらしい。田母神にしてみれば、2年分の給与がふいになったわけだが、目出度く退職金も出るのだから文句はないだろう。それにしても田母神のような人物を任命した政府の責任は、今後追及されてしかるべきだろう。また、本人が聴取に応じないからといって簡単に諦めてしまう防衛省の体質も、大いに問題ありとすべきだと思う。

■補記
このエントリに対してウヨクらしき者から「お前こそ、頭の悪い極左だ」というコメントを数通いただいた。
建設的意見でないコメントは事前に削除することにしているが、私の書いたもの程度で「極左」呼ばわりするウヨクの思考回路が、私にはすでにしてキモイのである。

関連タグ : 田母神俊雄, アパグループ, 懸賞論文, 右翼,

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