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酒好き、映画好き、本好き、落語好き、バイク好き、そして鬱。 ちょっとばかり辛い日もあるけれど、フンニャロメ~と生きてます。
◎心にとめおく言葉
●人は、自分が見たいと思うものしか見ようとしない――ユリウス・カエサル
●為政者たるものは憎まれることはあっても、軽蔑されることだけはあってはならない。(塩野七生)
●自分に当てはめられない基準を他人に当てはめるべきではない
――ノーム・チョムスキー
●さまざまな知識人、文化人、政党やメディアは一般の人々よりも右よりな立場を取る――ノーム・チョムスキー
●考えろ、考えろ、考えろ!――ジョン・マクレーン

ブログを書くようになって、そろそろ7ヵ月になろうとしているが、実のところ自分が書くものを公にすることの難しさを感じることが多くなり、それがこのところ、私を悩ませている。

文章を書くのを商売にしていながら何を今さらと思われるかもしれないが、仕事で書く原稿はあらかじめテーマが決まっており、構成と結論をある程度準備してから書く。いわば目的地が決まっている旅行をしているようなもので、多少の回り道をすることはあっても、最終的に間違いなく目指した地点にたどり着けばそれで完了する。

それに比べてブログは、その性格にもよるだろうが、まったく自分が思ったことや信じていることをそのまま現していく作業になる。その結果、書き手の性格や信条が日々のエントリにダイレクトに反映されていくことになるのだが、これを旅に例えるならば目的地を定めない流浪の旅のようなものということができるのではなかろうか。

何を言いたいかといえば、つまるところ私は学者でも研究者でもなく、専門分野を持つ評論家でさえなく、したがって私が書くことは私自身が手探りをしながら考え、書いているものにすぎないということだ。
それでも、日々の暮らしの中で感じること、興味を引かれたことを思うがままに書いていければ、それは私にとってひとつの認知療法になるのではないかと思っている。
ただし、そう思っているだけでは駄目なのだということに、最近思い至った。

たとえ私のような弱小ブログでも、自分の思いを公にする以上は、私自身の立ち位置をはっきりさせておかなければならない。
つまり、私は専門家でも何でもないが、今の日本社会に生きる一人の大人として間違ったことは考えたくないし発表したくないと思っている。正しいこととは、あえて言わない。私は自分自身を偏頗な男だと思っているし、家族からもしばしば私の言うことは極端だと非難されることがあるからだ。
それでも自分なりに間違ってはいないことを信じて発言し、文章にしていかなければ、私のブログが存在する意味はなくなってしまう。

では、私は何を間違ったこととそうではないものと判断し、自分の考えに受け入れていけばいいのか。

これが非常に難しい。

私はできる限り物事を科学的に見ていこうと思っている。科学的に見るということは客観的に観察・吟味するということで、これの対角線上に位置するのが、いわゆる陰謀論疑似科学の類に属する言説である。
この世の中には常人には考えつかないような悪だくみをしている人間が確かにいるだろうし、今の科学では解明できない事象があることは認める。
けれども、それらが実は世の中を動かし地球のすべてのシステムを左右していると考えるのには躊躇いと疑いを持つ。そうした言説を信じることに対して赤信号を掲げたいと思っている。

他のブログを読んでいて楽しいと感じるのは、今まで知らなかった知識や考え方に触れることができるところにあり、自分には思いもつかなかった視点に気がつくことができたときには年甲斐もなくドキドキするようなこともある。
しかし、それも気をつけておかないと知らぬ間に陰謀論疑似科学の類の泥沼に片足を突っ込むことになる。

私がブログでリンクを張るときに基準にするのは、バイクや落語のように私の趣味と合致したブログ、ネット上で知り合った方もふくめて大人のつき合いができる人が運営するブログ、そして私にとって知的好奇心を与え、私に新しい価値観を提示してくれる貴重なブログの3種に分けられるかと思う。

一方、リンクを張らせていただいたものの、時間が経つにつれて、実はそのブログ主がどうやら陰謀論疑似科学の信奉者ではなかったかと気がつくこともある。なかには陰謀論疑似科学を論じて私など反駁する余地もないほど論理的に語っていることもあるので、暗愚な私はしばらくたってからようやくそのことに気がつく始末だ。
こういうブログにリンクを残しておくのも反面教師として役に立つのかもしれないが、私にとってそれらはいつ足を踏み外すかもしれない危ない橋だ。

私のような者が、いつまでブログを続けられるのかは分からない。できるだけ長く続けたいとは思うが、限りある時間のなかで自分を表現していくのであれば、私なりに間違った方向に進まないよう気をつけなければならない。ブログを書くための羅針盤があればいいとは思うが、結局のところ、自分を導くには判断力と知力を蓄えていく他ないのだ。その二つにおいて、いかにも私は心許ないと言うしかないが、自分が目指す方向を誤り、しかもその修正ができなくなったときには、潔くブログの更新を断念することにしようと思う次第である。

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関連タグ : ブログ, 疑似科学, 陰謀論, 科学的, 客観的,

7月も早くも中盤に入って、今日は朝から夏の日差しが照りつけている。

私もワンコも朝の散歩をすませただけでぐったりしてしまった。
元気なのはオカメインコグループだけで、ピーチなどは朝から「ウキウキ、ワキワキ!」と、なんだか訳の分からない言葉をしゃべっている。

こういう日は、ただでさえ回転の鈍い頭が、さらに働かなくなる。

というわで、今日もくだらない話題から。
山本モナ
今、話題騒然の尻軽女・山本モナである。
世の中では、今回の山本モナの行動を非難する声が多くを占めているようだ。
それにひきかえ、家庭持ちでありながら、強引に山本をホテルに誘ったとされる巨人の二岡については意外なほど批判の声が聞こえてこない。
一昔前ならば、こういう醜聞が発生すれば、非難されるのはまず男の方で、しかも「球界の紳士」(笑)であるはずの巨人軍の選手が不貞行為をはたらいたとなれば、ただではすまされなかったはずである。

二岡は罪滅ぼしのために頭を丸めたらしいが、世の中は頭を丸めるわけにも行かない女性の方の山本モナに対して俄然厳しくあたっている。
山本が出演していたフジテレビの「サキヨミ」の公式ホームページには、11日午前5時までに1016件の抗議、意見が寄せられたそうだ。その大半は「モナをもう出さないで欲しい」「辞めてください」と番組からの降板を訴えるもので、局ではすでに山本の降板を決めている。

フジテレビではよほど今回の山本の行為が腹に据えかねたらしく、「めざましテレビ」では大塚範一キャスターが騒動について言及、「(サキヨミの)1回目の放送の夜に同じ過ち(不倫騒動)をするなんて軽率。怒りのようなものを感じる」と批判した。
一方、モナが金曜レギュラーを務める日本テレビの情報番組「おもいッきりイイ!!テレビ」の司会者、みのもんたはコメントしなかったという。みのにしてみればスネに傷持つ身だからだろう、偉そうなことはいえなかったに違いない。

世の中はかように山本モナ批判一色に染まっているかのようだが、私はむしろ、今回の山本にかぎっては世の中にたまっているさまざまな不満や鬱憤を晴らしてくれた、一種のガス抜き効果の役目を果たしてくれたと思っている。
いいじゃないの、仕事が終わった後にラブホに行ったって。山本モナだって年齢的には立派なオトナなのだし。キャスターをしている人間がセックスをしてはいけないなどという理由はないわけだし、もしそれがケシカランというのなら、妻帯者や恋人のいるキャスターはみなケシカランことになるだろう。不倫をしたのがケシカランというのなら、それこそ二岡の方が責められるべきで、山本の場合は「ニュース23」のときも念願のニュースキャスターになれたために舞い上がってしまい、思わず取材相手の民主党議員と接近しすぎて情が高ぶるまま路上キスとなったのだろう。
そして今回もまた、同じように報道番組? のキャスターに復帰がかなって舞い上がった山本は、口説かれるまま二岡と意気投合し、五反田のラブホにしけこんだ。
まさに尻軽女の面目躍如ではないか。
ここまでくれば、微笑ましいといってもいいほどだ。

テレビの報道は倫理的に高潔であるべしなどという不文律はいつからあるのか。
それを求めるならば、その前に、テレビの報道はもっと公正で正確な姿勢を心がけるように自らを律すべきだ。視聴者の上等とはいえない好奇心におもねるような番組を垂れ流しておいて、今さら不倫はケシカラン、仕事帰りにラブホはよくないなどというのは笑止というほかない。

笑止といえば、山本モナ嬢と二岡がしけこんだ五反田のラブホは、報道があってからというもの平日にもかかわらず満員盛況なのだそうだ。
倫理的にケシカランというならば、昼間ッから好奇心丸出しでラブホに入っていく男と女こそケシカランというべきだろう。

こうして世の中が勝手な言い分を振り回している間、当の山本モナは自宅で謹慎をしているそうだ。テレビに出て人前に立つ「公人」としての責任がどういうものであるか、山本は果たしてどれほど感じているのやら。
そればかりは本人に聞いてみなければ分からない。

関連タグ : 山本モナ, 不倫, 抗議, 公人,