上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。
酒好き、映画好き、本好き、落語好き、バイク好き、そして鬱。 ちょっとばかり辛い日もあるけれど、フンニャロメ~と生きてます。
◎心にとめおく言葉
●人は、自分が見たいと思うものしか見ようとしない――ユリウス・カエサル
●為政者たるものは憎まれることはあっても、軽蔑されることだけはあってはならない。(塩野七生)
●自分に当てはめられない基準を他人に当てはめるべきではない
――ノーム・チョムスキー
●さまざまな知識人、文化人、政党やメディアは一般の人々よりも右よりな立場を取る――ノーム・チョムスキー
●考えろ、考えろ、考えろ!――ジョン・マクレーン

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
中国政府による人権を無視したチベット人弾圧が始まってから、もうずいぶん時が経つというのに、日本の政府は相変わらず音無しの構えだ。
19日に高村正彦が「中国首脳が来日したら、この問題に触れないわけにはいかない」などと、いかにも腰が引けた発言をしただけである。
その後何をしたかといえば、中国在留の邦人の安全確保を中国政府に要請したにすぎない。
これではほとんど、日本の政府は中国がやっていることを認めているようなものではないか。

このまま暫定税率をめぐる、不毛な論議に振り回されているうちに8月が来て、福田康夫は(もしそのときも首相だったとして)石原慎太郎と肩を並べて北京オリンピックの開会式に出席するのだろうか。
そうだとしたら、アジアの民主主義国家として、あまりにも恥ずかしくないか。

私はオリンピックをボイコットする必要はないと思う。
しかし、今回の事件に関しては、絶対になんらかの態度を表明する義務が、日本にはあると思う。
それはもう遅きに失したが、まずは政府声明を発表することだ。そして場合によっては胡錦涛来日の延期または中止も考えられるだろう。
さらには北京オリンピック開会式への政府関係者の出席拒否もある。
一刻も早く、日本としての態度を明らかにする必要がある。
オリンピックスタジアム
チベットでの事件が発生して以来、報道の中にはイラクでの死者に比べればチベットの死傷者は数が少ないから大きな問題にならないという、とんでもないものがあった。
死傷者が多くなければ問題にならないというのなら、いったい何人からなら問題になるというのだ。
人間としての権利が蹂躙され、不当な弾圧と言論統制が行われているというのに、問題が小さいはずがないではないか。しかも隣の国が、その理不尽なことを行っているのだ。
見て見ぬふりをしていていいわけがない。

昨日は三重県で、バスの車内で携帯を使っていた男を注意した男性が暴行され、死亡するという事件があった。そのとき、バスには30人ほどの乗客がいたというが、誰一人止めに入らなかったという。
いかにもひどい話で、いちばん責められるのはもちろんマナーもわきまえずに携帯を使い、注意されたことを逆恨みした犯人だ。しかし、このニュースを見聞きした人ならば、その現場に居合わせた30人もまたひどい人間だと思っただろう。
人がひどいことをされているのを、黙って傍観しているのは、悪いことだし人間として恥ずかしいことなのである。

日本政府は、このバスに乗っていた乗客たちと同じ態度を取っているとはいえないだろうか。

今日の産経ニュースによれば、国際ジャーリスト組織「国境なき記者団」(RSF)=本部・パリ=の創立者で代表のロベール・メナールは産経のインタビューに対して「アジアの大国、日本のボイコットは意義がある」と述べ、福田康夫が北京オリンピックの開会式に参列するのをボイコットすることに期待を寄せている。
すでにヨーロッパでは、ドイツやポーランド、チェコ、エストニア、スロバキアの首脳が開幕式欠席を表明している。フランスは大会ボイコットも選択肢のひとつとしながら慎重な構えを見せているが、日本はといえば構えひとつ見せていないのが現状である。
この消極的な姿勢はどこからきているものだろう。
たしかに、中国と対立を深めるのは得策ではない。しかし一方で、日本は中国と対等に話す権利を持つ国でもあるのだ。中国が行っている、明らかに非人道的な行為に対して異を唱えるのに、なにを恐れる必要があるのだろう。

今の日本国内には、まるで暫定税率と特定財源の一般化の問題しかないかのようだ。
なぜこうも、日本人というのは短視眼的にしか物事を見ないのだろうか。マスコミはテレビも新聞も手を握って情報操作をしているのではないだろうか。
北京オリンピックには電通が絡んでいるであろう。その利権があって、マスコミは口を閉ざし目を逸らしているのだろうか。だとすれば、日本のマスコミはあのバスに乗り合わせた乗客以下の卑劣漢といわねばならない。

こう書いていて思い出すのは、28日の朝刊各紙が載せた社説の一件だ。
社説見出し
道路一般財源化を打ち出した福田康夫に対して、毎日・朝日・読売・産経は右へ倣えをするように「今度は民主党が耳を傾ける番だ」と書き立てた。日経も「首相提案踏まえ与野党は協議尽くせ」とほぼ同じ論調を執っている。
しかし民主党にしてみれば、暫定税率を廃止せよといっているのにその問題については一切触れられなかったのだから、歩み寄る道理はないだろう。当たり前のことなのに、マスコミはそれが許し難いことのように書く。
これが日本式の言論統制なのか。そう勘ぐりたくもなってくる。

そうだとすればなおのこと、われわれは冷静に現実を見て、声を上げていく必要がある。
そうしなければ、今度はわれわれが、いわれのない弾圧を受ける身にならないとも限らない。


ブログランキングに参加しています。
↓よろしければクリックみっつ↓
人気ブログランキング


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
スポンサーサイト
昨日のエントリに対して、七鉄斎さんから「これから無理心中しようというとき、家族に対して抱くのは殺意ではなく、遺される家族への憐憫に近いものなのではないか」という指摘をいただいた。

これに対して、私も少々思うところがあるので書き留めておこうと思う。

たしかに、長年連れ添ってきた家族を手にかけようというとき、心にあるのは憎しみではないだろう。憎しみを持つとすれば、そのような事態にまで追い込まれてしまった自分に対してであろうし、絶望の淵から突き落とし、自分を見捨てた社会に対してであろう。

ただし、いかなる事情があるにせよ、これから人の命を奪おうと決意した者の心を占めるのは、純然たる殺意だと、私は思う。
まず第一に、人の命を奪おうというときに憐憫などがあっては刃先が鈍るだけだからだ。
もう生きてはいけない。この者たちの命を奪って自分ものう(と思ったかどうかはこの事件ではわからないが)、そういう決意をするには引き返すことができないある一点を超えなければならない。そして、その一点を超えてしまえば、いかにして確実に殺せるかのみが問題になる。
1月には、幼い子供ふたりをマンションの11階から投げ落とし、自分も身を投げてんだ母親がいた。我が子への憐憫が断ち切れずにいながら、母親は子供を投げ落とすことができただろうか。彼女は絶望の中で逃げ場を失い、圧倒的な孤独に押しつぶされそうになってぬことしか考えることができなくなった。生きて苦しい思いをするよりは、んで何も感じなくなる方がいいと思ったに違いない。ならば、確実に命を奪うしかないではないか。
2月に起きた足立区の事件では、父親が息子の両手を切断しているが、それはなぜなのか。
私は、抵抗されればいちばん困るのが息子であり、家族を確実に殺すためにはまずその手を封じておく必要があったからではないかと思う。

子供を道連れにする心中は酷いものだが、子を道連れにするのを非難するのはその人に余裕があるからで、に追いつめられた者にとっては一緒にぬことが最後に残された唯一の選択肢なのだと思うと、軽々に非難する気にはなれない。

第二に、家族のあり方が、少し前までと現在とではまったく異なっていること。以前は茶の間のテレビが象徴していたように、家族がそれを囲んで過ごす時間があった。たとえテレビに夢中になっていても、二言三言の会話が生まれる余地はあっただろうし、一緒に時間を過ごすことだけで共同体としての意識が持てた。
しかし今は違う。テレビは個々人の部屋で見るか、あるいはテレビなど見ずにパソコンに向かうようになってきている。食事さえ、今では子供がひとりで食べるのが珍しくなくなっている。家庭とは、もはや単なる人間の入れ物であり、その構成要素である個人の間には繋がりが希薄である。親子であっても憐憫の情は生まれにくくなっている。

第三に、たとえ憐憫の情を抱く家族であっても、死を決意するほどまで追いつめられてしまえば、それはかえって憎しみの対象にもなりうるという点。愛情と憎しみとは背中合わせのものであり、愛するが故に家族や恋人に対して憎しみがわくということはよくあることだ。人間の心理というものはアンビバレントであり、愛するが故に相手を守ってやれなくなったときには、それが憎しみに形を変えて発露する。今回の事件では、家族や親のために自分を犠牲にしてきた父親が、もはや家庭を維持することができなくなった。家族を守ってやれなくなった。そう観念したときに、「こいつらさえいなければ、俺の人生は違っていたかもしれないのに」と思った可能性は少なくない。
家族とは、同じ屋根の下に暮らしていても、いや、同じ屋根の下に暮らしているからこそ、ときには些細なことで殺意を持つことがあるものである。私自身を顧みても、カミサンから無神経な言葉を投げつけられると、殺意に似た感情を持つことがある。それでも私が家族を殺さずにすんでいるのは、今のところはまだギリギリまで追いつめられていないからで、状況が変われば私だって家族を道連れにするかもしれない。家族とは、それほど危うい関係でもあると思うのだ。

窮鼠猫を噛むというけれど、ネズミも追いつめられなければ歯を剥き出すことはないのだ。
それでも一度、歯を剥き出してしまえば必死で相手にかぶりついていくしかない。
悲しいことに、事件を起こした人々はみな、かぶりつくべき相手が正体のない格差社会であり、世の中に広がっている拝金主義だった。それゆえに仕方なく、血のつながった肉親に刃を向けたということではないだろうか。

人をいたわり、慈しむ心なら、普通の人間ならば誰もが持っているはずだ。
しかし、今の社会はそうしたほんらいの人間らしい心を持つことを許さない。そういう心を持つことは損であり、格好わるいことだと皆が薄々感じながら生きている。正論をいう人間は煙たがられ、金よりも義を重んじるといえばうさん臭く思われる。今どき「義」を重んじるなど、政治家の口から出るでまかせと相場が決まっている。しかし色眼鏡を外してみれば、「義」とは人間にとってもっとも大切な価値観なのではないか。

私は、今の世の中がここまで生きづらく、居心地の悪い空気が満ちていることに絶望的な気持ちを持っている。絶望してはいけないのだと思いながら、卑しい人間があまりに多いことに憤りを忘れて半ば自棄的になっている。こう書けばお前はそれほど高潔な人間かと問われるかもしれないが、もちろん私は高潔でもなんでもない。しかし高潔でない、ごくつまらない男をしてここまで絶望させる社会は、やはりどこかが間違っているのである。何かが病んでいるのである。
そして自棄的になっている私だって、この先、追いつめられさえすればやはり、家族に向かって刃を向けることがないとはいえない。
そのとき、確実に死を与えることができるのか。私にはまだ、その覚悟がないだけだ。


ブログランキングに参加しています。
↓よろしければクリックみっつ↓
人気ブログランキング


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

関連タグ : 家族, 憐憫, ,

睡眠薬は毎日飲んでいるのだが、このところ毎日4時間しか眠れない。
昨夜も1時半に床に入り、目が覚めたのは5時半だった。
寝室の外で寝ているワンコたちを起こしてやり、眠そうにしているのを引っ張り出して散歩してきた。

春が深まるにつれて、太陽が上る時間もどんどん早くなっている。
ついこの前までは6時といえばまだ暗かったのに、いまではすっかりお日様が顔を出して地上を明るく照らしている。
私は無宗教だが、このときばかりは太陽に向かって神様に挨拶する。

今日も生きていました。かわいい犬たちと散歩ができることを感謝します。

ついでに、もう一つ、頼み事をする。

生活は相変わらず辛いです。なんとか、助けてください。感謝します。

私はキリストもマホメットも信じないが、八百万の神ならば信じる。米粒ひとつにも神様が宿っており、食べるときには感謝を込めて大切にいただく。だから、毎朝ワンコの散歩に出て、まずお日様に感謝して、ついでにちょっぴり頼み事をするのが日課になっている。
神様はいるのか、いないのか。そんなことはわからないが、確かめる気もないし、もしも願いが叶ったら、そのときは改めて神様に感謝すればいいと思っている。

私はこのブログをFirefoxというブラウザを使って書いているが、ときどきIE6で見ることもある。
すると、ちゃんと整えたつもりのレイアウトがかなり乱れていて慌てることが多い。
これはテンプレートを変えたときもそうで、Fierfoxで見るものとIEで見るものとではかなり違いがあった。直せるものならできるだけ直そうと思うのだが、正直、それは疲れる。
たとえば昨日の都議会のクズ議員どもの名簿をアップしたときも、大文字で強調したつもりが、IEで見ると文字がゴチャゴチャに重なっているのがわかった。
どうにかならないものだろうか、こういうの。
近頃はアップルのsafariも登場して、こちらはかなり切れのいい表示をしてくれるのだけれども、もうひとつ使い勝手になじめない。
とりあえずは今まで通りFirefoxでいくことにして、いちおうお断りのつもりで右側にバナーをつけておくことにした。興味のある人はダウンロードして使ってみてください。

昨日はまったくひどい日で、私のパワーブックG4のOSが消えてしまい、一日苦労した。
OSXの10.3にしておいたはずなのに、インストーラーディスクがみつからず、仕方なく最初にいれた10.0.4をインストールした。しかし、6年前のOSXではネットすら満足に見ることができないので驚いた。
これでは実用にならないのだ。なんとかもういちど、10.3か10.4に戻したいと思うのだが、ディスクがない以上はお手上げである。ヤフーオークションを見ると、10.4(Tiger)がいまだに1万円以上で落札されているようだ。もういちどヤフオク会員になってオークションに参加するのも、なんだか気が重いし、まったく突然OSが逝ってしまったパソコンを抱えて途方に暮れてしまいます。
あ、もちろん、今はウィンドウズXPが入ったマシンで書いてますけどね。

そんな、しょうもないトラブルでひいこら言っているときに、昨日はまたしても悲惨な事件が起きた。
東京・文京区小石川の製本業を営む家で、父親が両親と妻を刺殺し、小学生と幼稚園の子供も重傷を負った。
小石川心中
どうやら原因は事業に行き詰まったことによる、無理心中のようである。
今現在わかっていることでいうと、容疑者となった父親は、取引先の移転や廃業に伴って売り上げが大きく減り、悩みを抱えていたという。くわえて、彼には介護を必要とする父親があり、母親も体調が悪いことからかなりのストレスを感じていたようだ。

仕事の行き詰まりと生活苦。親の介護。まったく先行きの見えない状態のなかで、忍耐は限界にまで達したのだろう。もうどうなってもいいという自暴自棄がそうさせたのか、みんなで死ぬしかないという底なしの絶望感がそうさせたのか。彼は包丁を手に、家族を次々刺した。

東京では先月も足立区で悲惨な心中事件が起きている。
この場合も、原因の多くは仕事の行き詰まりと生活苦があったようだ。
つまりは貧困がこれらの事件を起こしているのだ。昨夜遅くのニュースでは、都内の零細企業は、仕事が少なくなり、売り上げどころか生活費さえ残すのがままならない状態のところが多いという話だった。
日本はGDP(国内総生産)では世界で3位なのに、一人あたりのGNI(国民総所得)は19位と、先進国では最下位の部類に入っている。
これは何を意味しているのか。
コイズミ以下の新自由主義政策の結果が、こうした形で現れている。自公による国民不在の政治が続いていることが国民生活を追い込んでいる。

言葉にすればその通りかもしれない。
しかし、それまで仲良く暮らしてきた家族が殺し合う現実を、そんな社会科の授業で語るような言葉で済ましてしまっていいのだろうか。

もちろん、新自由主義は改正させるべきものではなく、はっきりと打破するべき「悪」である。
自公のいいかげんな政府は一刻も早く終わらせる必要がある。

しかし、いま生活に追われている「貧困」の問題に立ち向かうには、それ以上に踏み込んだ施策なり制度の制定が必要だ。
そのためには、まずわれわれが、この国の「貧困」の諸相をもう少し知る必要があるのではないか。トルストイは『アンナ・カレーニナ』の冒頭で、「幸福な家庭は皆同じように似ているが、不幸な家庭はそれぞれにその不幸の様を異にしている」という有名な文章を書いているが、われわれの社会を蝕んでいる「貧困」にも同じようなことがいえると思う。
何が家族を追い詰め、生活から希望を奪っているのか。
家族に殺意を抱かせるほどの絶望を生み出している要因はどこにあるのか。
それらの原因を丹念に探り、社会が救う手立てを考える必要があるのではないか。

石原慎太郎のように、口先だけで中小企業を救うために銀行を作るなどという、単純な思考ではとてもこの問題は解決できないように思う。
日本人は、なぜここまで貧困に喘ぐようになったのか。
労働者階級の今の疲弊ぶりは、戦前の日本を見るような思いがする。
私は、これからそのことに注意して社会を見ていきたいと思っている。

そんなことを考えていると、カミサンが封筒を持ってやってきた。
役場から送られてきたものだった。
封を開けてみると、健康保険税未納による督促状だった。

「お父さん、払うものはちゃんと払ってよね」

そういえば水道代も、払わなければならないのだった。
国から、自治体から、企業から、ありとあらゆる請求が毎月押し寄せてくる。
有無を言わせぬ取り立てから、われわれが逃げおおすことは不可能だ。

私もまた、貧困の海で、もう少しで溺れかけているところなのである。
朝の散歩で神様に感謝を捧げる程度では、とても追いつけそうもない。


ブログランキングに参加しています。
↓よろしければクリックみっつ↓

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
人気ブログランキング

関連タグ : 無理心中, 生活苦, 貧困, 社会格差, 新自由主義, 自民党,

私はたいがい朝6時に起きて、まず犬の散歩を済ませ、熱帯魚にエサをやり、プライベートな日記を書いてからブログに向かうことが日課になっている。
ブログを書くのは、したがって日記とともに朝いちばんのデスクワークになるわけだ。
その朝いちばんの作業が、毎度石原慎太郎のことから始まるのは、まったく気分のいいことではない。
朝から自分を見失っているバカ男のことなど、私としては考えたくもない。

それでも、今日もやはり石原慎太郎がらみのエントリになってしまう。

昨日の「きまぐれな日々」のエントリ『「新銀行東京」に400億円を追加増資させた石原慎太郎」』は、読んでていて、私も快哉を叫んだ。「新銀行東京」が抱える問題点が早くから取り上げられており、石原にとってはこれがいちばん触れられたくない問題であったこと。昨年の知事選ではテレビの討論番組で他の候補からさんざんこの点を突っ込まれ、石原はコテンパンにやられてしまったこと。
それでもなお、藤原紀香のようなコンパニオンもどきの女優を担ぎ出し、「少しは反省してよね! だけどやっぱり石原さん!」と言わせてまんまと逃げおおせたこと。

なによりも腹が立つのは、これだけの突っ込みどころがありながら、報道関係者たちがまったく手を束ねて傍観し、報道することを怠っていたことだ。あの都知事選では、石原の情実人事が問題となり、それが最大の弱点のようにテレビ新聞はふれて回ったが、新銀行東京が抱えている問題をクローズアップする新聞社なりテレビ局が1社でもあれば、いくら目が曇った都民たちでも、さすがに石原に投票するのは控えたのではないか。
都知事選のときのマスコミがとった怠慢は、年金問題でおかした社保庁の怠慢にも匹敵する大罪と言ってもいいと思う。

そしてもう一点は、やはり公明党の存在だ。
kojitaken氏の「都議会にせよ国会にせよ、公明党というのは日本の政治に害毒を垂れ流す存在でしかない」という見方と、「公明党は政教分離を定めた日本国憲法に違反する政党であって、解散が相当であると考えている」という考え方には、私もまったく同意する。カルト教団が支配する政党が存在し、日本の国政を担うなどということは、あってはならないことなのだ。
さらに突き詰めていえば、私自身はキリスト教もふくめ、排他的な教義を持つ一神教崇拝の宗教は、すべて政治に関わるべきではないと考えている。この点で、政教分離を定めた日本の憲法はもう一度見直すべきだと思う。もちろん、規制を強化するという意味で。

つづいて「きまぐれな日々」でも紹介しているが、「きっこの日記」では今回の新銀行東京に400億円の追加出資を認めることに賛成した思考不能な議員どもの名簿が出ており、転載自由とされている。
私もその言葉に甘えて、ここに70名のバカ議員の名前を列挙する。
腑抜けどもの名前は次の通りだ。
都議会

自民党
秋田 一郎 石森たかゆき 宇田川聡史 内田 茂 遠藤 衛 樺山たかし 神林 茂 川井しげお 川島 忠一 菅 東一 きたしろ勝彦 串田 克巳 倉林 辰雄 こいそ 明 古賀 俊昭 崎山知尚 桜井 武 佐藤 裕彦 新藤 義彦 鈴木 章浩  鈴木あきまさ 鈴木 一光 鈴木 隆道 高木けい 高島なおき 高橋かずみ 高橋 信博 田島 和明 田代ひろし 立石 晴康 田中たけし 野島 善司 野村 有信 服部ゆくお 早坂 義弘 林田 武 比留間敏夫 三田 敏哉 三原まさつぐ 三宅 茂樹 宮崎 章 村上 英子 矢島 千秋 山加 朱美 山田 忠昭 吉野 利明 吉原 修 米沢 正和


公明党
石井 義修 石川 芳昭 伊藤 興一 上野 和彦 遠藤 守 大松 成 木内 良明 小磯 善彦 鈴木貫太郎 高倉 良生 橘 正剛 谷村 孝彦 東野 秀平 ともとし春久 中嶋 義雄 長橋 桂一 中山 信行 野上 純子 東村 邦浩 藤井 一 松葉多美子 吉倉 正美 
以上、自民党が48名、公明党が22名の合計70名の思考停止議員、400億の税金泥棒議員たちだ。
石原と、これらの議員のために、東京都議会の民主主義は死んだと言っていいだろう。
この者どもの犯した罪は、主権が都民にあることを忘れた傲慢の罪である。
断じて許してはならない。
くれぐれも、来年の都議会選挙では、こいつらに票を入れないよう、注意されたい。
この名簿は、折に触れて、忘れられないように何度か掲げていこうと思う。

さて、ここまではほとんど他人の褌で相撲を取ってしまったが、最後にひとつ加えておこう。

27日、共産党東京都議団は石原慎太郎に対する不信任決議案を28日の都議会本会議に提出することを決めた。提出は43年ぶりで、都議会史上2度目となる。また民主党も、「都民の納得できる説明がされたとはいえない」として、石原に責任の自覚と反省を求める問責決議案を提出する見通しだ。(産経ニュース)
バカな与党が足並みをそろえて追加出資を認めたのだから、この際、野党も共闘して闘ってほしいものである。
不信任案は否決されることだろうが、こんどは否決に回った議員たちのことをよ~く覚えておくべきである。

■追記
自民党都議のうち、樺山たかしと佐藤 裕彦は投票に欠席した。このうち、樺山たかしは、自身のブログで「提供される新銀行からの情報は余りにも具体性に乏しい」と疑問を表明している。したがって、上記のリストから、少なくとも樺山の名ははずすべきかもしれない。



ブログランキングに参加しています。
↓よろしければクリックみっつ↓

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
人気ブログランキング



関連タグ : 石原慎太郎, 新銀行東京, 都議会議員, 自民党, 公明党, 民主党, 共産党, 民主主義,

昨日は思いもかけず、美爾依さんの「カナダde日本語」で本ブログを紹介していただき、ありがたく思っている。
べつに私には石原に対する私怨があるわけではないが、日本であれほど傲慢で、そのことに無知である男はいないと思い、そんな男が首都のトップに立っていることが我慢ならないのである。
これだけでも十分、私怨といえなくもないのだが、東の石原、西の橋下というバカ知事が、ここまできてなお高い支持を受けている現状を見ると、黙ってはおれなくなる。

さて、その石原だが、ご存じの通り26日午後、都議会では公明党が400億追加出資に賛成し、血税をドブに捨てることが正式に決まった。
これに先立ち石原慎太郎は、「(最大株主としての)都の監視責任は最終的に私にある。都民のみなさまにご心配をかけたことは大変申し訳なく、深くおわび申し上げます」と公の場で初めて謝罪した。
しかし、心ある都民からすれば、謝るのは石原一人でなく400億もの大金をろくに審議もせずにくれてやった自民・公明の議員たちにも釈明を求めたいところだろう。
いくら東京が金持ちの自治体だからといって、再建の見込みが全くない銀行に対して、それこそ無担保無利子のような付帯条件で大金を注ぎ込んだのだ。まったく人のカネを何だと思っているのだと、言ってやりたいものだ。
石原
石原は、一度は頭を下げて殊勝なところを見せてはみたが、委員会の後になると相変わらず「無駄になるかならないか黙って結果を見てください。今から水をぶっかけるようなことを言ってはだめですよ」と強気の姿勢を見せた。そして、都民から批判の声が高まっているということについても、「要するに、都民が議会以上のことを知っているわけないんでね」とし、心情論として批判は分かると言いながら「世論調査を気にしていたら政治はできない」と、いつものように開き直って見せた。
つくづく、この男は人を舐めてかかっている。

これまでの審議で満足な情報を出すこともなく、担当者たちに直接説明をさせることもせず、ただただ銀行再建ありきで400億が必要だと繰り返すばかりだったのは石原本人だったはずだ。
「都議会の内容も知らないくせに、うるさくいうな」ともとれる石原の言い草は、まったく都民を愚弄するものでしかないだろう。

昨日の可決により、東京都民は少なくとも合計1400億ものカネを払うことになる。
それは一世帯あたり約2万3000円にもなるという。
朝日新聞には、追加出資する400億の金がどれだけのものに相当するかの試算が出ている。
それによれば、都民一人あたりのの負担は3110円、1世帯あたり6520円。
400億あれば、都は緑化や温暖化対策を進める都環境局の予算1.2年分にあてることができる。
400億あれば、ネットカフェ難民への就労支援など、「低所得者生活安定化プログラム」4年分の予算になる。
400億あれば、マンション耐震化助成など「震災につよいまちづくり」事業2.7年分の予算になる、という。
もっとも、石原は弱者が嫌いだから、死んでもネットカフェ難民など支援するつもりはないだろう。
それにしてもこんなことをやらかしておいて、なお開き直っている石原を、50%近い都民はこれからも支持し続けるつもりなのだろうか。私には狂気の沙汰としか思えない。

思い出して欲しいのは、2月に足立区で起こった無理心中事件だ。
経営が行き詰まったことから母親と妻を殺し、次男の両腕を切り落とし、自分も自殺して果てた父親がいたことを、覚えているだろうか。
この一家は、足立区で長年機械の修理などを行ってきた町工場だった。
「母親には車いすで生活できる家を、妻には好きな洋裁をする家を、子供たちには自分の部屋をプレゼントしたかった。全部無くしてしまいました」
父親が残した遺書にこめられた、無念の思いは今も私の心に重く沈み込んでいる。

石原に、ほんとうに中小企業を救う気概があったのならば、こういう一家を助けてやることがいちばんの目的だったのではないのか。
彼らに対して、新銀行東京はどういう役割を果たしたのか。なんら救いの手をさしのべることもできなかったのか。
あの事件があったとき、石原は何をしていたのだろう。
中小企業を救おうと、心から願っていたのであれば、石原はまっすぐ駆けつけて「済まなかった」と詫びても良かったのではないか。

経営難に喘ぐ中小企業は、いまも数多く存在する。
それらを少しでも救うという理念はいい。
しかし実際に新銀行東京がやったことといえば、追い詰められた町工場を救うこともできず、悲惨な事件を起こさせ、そのうえ自分は放漫経営を続けて赤字を累積させ、挙げ句は都民の血税で損失を穴埋めしているのだ。

仕事にも人生にも絶望し、自殺に追い込まれた町工場の一家と、人の金で尻拭いをし、確たる方法も持たないくせに大見得を切って開き直る石原慎太郎
おそらく石原は、あの家族のことなど一瞬も考えたこともないだろう。自分に一片の責任があるとも考えることがないだろう。

私は石原の、こういうところに、たまらなく憤りを覚えるのである。


ブログランキングに参加しています。
↓よろしければクリックみっつ↓

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ


関連タグ : 石原慎太郎, 新銀行東京, 追加出資, 中小企業, 心中事件,

25日、東京都議会予算特別委員会は、新銀行東京に対する都の追加出資400億円をめぐる質疑を終えた。昨日のエントリでも伝えた通り、与党自民党と公明党が賛成する方針で固まっており、26日にはめでたく都民の血税がドブに捨てられることになる。

石原慎太郎は、昨日になってようやく「都民に心配をかけ、大変申し訳ない。銀行の存続再建に力添えをいただきたい」と演台に両手をつき頭を下げた。公明の東村邦浩議員が都の責任をただすと、石原知事はイージス艦衝突事故を引き合いに「都の監視責任は知事である私にある」と自身の責任を認めた。
自民・公明のなれあい質疑とはいえ、あの石原がやっと頭を下げる気になったのも、大甘の付帯条件でまんまと400億を分捕ることができたからだろう。
慎太郎
しかし大甘の付帯条件とはいえ、400億円が棄損されないよう再建に全力を傾けると約束するのだから、再建されなかったときにはそれなりの責任を取ることが、ますます必要とされるだろう。
そして大方の見方では追加出資したところで再建するのはおぼつかないのだから、石原は今から責任の取り方を考えておいた方がいい。

そこで提案したいのだが、この際、知事をふくむ行政府の役人たちには、不届きな行いがあった場合に江戸時代に戻って切腹させる制度を復活させたらどうだろう。
大甘の付帯条件程度で血税400億も使うのだ、それくらいの覚悟はもってもらいたい。
都庁の場合、構内に恰好の広場があるではないか。
あの中央に畳みと屏風をしつらえて三方と小刀を用意してやる。
切腹させてやるのはせめてもの武士の情けだ。石原もこれなら気に入るだろう。
残念ながら現代に介錯人はいないから、石原にははらわたを大理石の広場の上に広げてもらい、ゆっくり時間をかけて死んでもらわなければならないだろう。
さすがの石原も、死ぬまでの間に少しは反省することができていいのではないか。

石原だけではない。
今後、不正を働き国税を私物化した者は不届き至極、国家に反逆する者として皆切腹させるがいい。さもなくば、彼ら為政者と為政者とともに働いた役人たちを、貧困に追い込まれた国民全員で敵討ちする制度を復活させればいい。
福祉を削り、年金を誤魔化し、自分たちの懐ばかり肥やした連中に天誅を下してやればいい。
仇討ちはテロではない。天が下す裁きなのだ。

新銀行東京にかぎらず、石原がこれまでやってきた都政というのは、見事に弱者切り捨ての独裁政治だった。
独裁者というのは古今東西の歴史を見ても、皆自決するか国民によって誅されるのがならわしとなっている。

石原よ、400億つかって新銀行東京を立て直すことができなければ、それが明らかになった時点で腹を切れ。
都庁の汚れた床を染めるおのれの黒い血のなかで、のたうつ姿を私も見に行ってやろうではないか。


ブログランキングに参加しています。
↓よろしければクリックみっつ↓

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

関連タグ : 石原慎太郎, 新銀行東京, 破綻, 責任, 付帯条件, 切腹,

仕事の内容に関わることだから、くわしく書くわけにはいかない。
けれども、私は「その人」に会ってからの数日、考え込んでいる。

その人は、夢を追いかけ、諦めることなく振り返ることもなく前に進み続け、成功をつかんだ。
いや、まだ本物の成功とはいえないかもしれない。
成功というものは、うかうかしていると知らぬ間に指の間からすいっと抜け出してしまうものだから。
けれども今、確実にその人の手には、成功の裾が絡みついている。

私は、苦労したであろうその人が、どんな思いをして今日まで来たのかを聞こうと思った。

「大変だったでしょうね」

何気なく言った、その一言で、その人の目が変わった。
私を見据えて、その人は言った。

「どうして、就職もせず、夢を追ってきた人間を見て、安易に?大変だったでしょう?とか?貧乏したでしょう?とか言うのだろう。それは他人の人生に土足で踏み込むようなことであり、非常に失礼なことだと思う。自分を見てきたわけでもないのに、夢を追いかけることを苦労とか貧乏に結びつける。そういう考え方をどうしてするのか」

私は二の句が継げなかった。

突然、叱られたからではない。
人の苦労を思いやることが、人の人生に土足で踏み込むことになるのだろうかと思ったとたん、フラッシュバックが起こり、言葉を失ったのだ。
なぜなら私もまた、若い頃に夢を追いかけ、今でいう「就活」(この言い方は、嫌いだ)にいそしむ周囲の学生たちを尻目に、人とは違う道を選んできたからだ。

就職試験を受けるのも、経験のひとつには違いなく、今でなければ会社を受けることもないだろうからと、いくつかの企業の試験を受けてはみた。
もちろん、私のような冷やかしでやってきた学生を受け入れるところなどなかった。
それでも、重役面接まで行き、なんとも冷めた雰囲気にやれやれと思ったこともある。思いながら、ひょっとしてこのまま就職してしまったらどうしようなどと考えた瞬間もあったことは白状しておく。

しかし結果として私は就職をしなかった。いや、できなかったと書くべきか。
それでもべつに後悔はなかった。
私はまだ若かったし、若さには可能性があると思っていた。可能性があるならば試してみるのが人生ではないかと思っていた。
だから夢を持ちながら、学生時代の終わりが見えてくると簡単にそれを小さく折りたたみ、どこかに仕舞い込んでしまう連中を、私は冷ややかに見ていた。

だが冷ややかに見ることでは、向こうも同じだった。
就職もせず、わけのわからないことをやって、お前はそれでいいのか。真面目に人生のことを考えているのか。
ある大企業に就職が決まった男は、私の顔を見てすでに重役のように重々しい声で言った。

「何かあったら、俺の所にこいよ。相談に乗るから」

私は、こいつのところだけには何があっても行くものかと思った。

「その人」に会って、思いがけず怒らせてしまったとき、私はあの当時のことを思い出さずにいられなかった。
偉そうな顔をして「俺の所に相談に来い」と言った、それは同級生だったが、そいつの顔を一瞬思い浮かべた。

たしかにアイツは、あのとき土足で私の人生に踏み込んできたのだ。
私がどういうふうに生きて行こうかと、私なりに不安も抱えていたときに、アイツは高みから私を見下ろし、何の保証ができるわけでもないのに口先だけで「お前の力になってやる」と言ったのだ。
私は、その男をいまだに許していない。

大きな組織に所属し、安定した収入を得て、社会的な信用も得て、順調に暮らしていく。
それはそれで大変なことだと、今ならわかる。
しかし、その頃の私は、安定という言葉そのものに拒絶反応を持っていた。
人から色紙を出されて、一言書いてくださいと言われたときに「安心第一」と書くような人間にはなりたくないと思っていた。

夢を追いかける。
なんと心をくすぐる言葉だろう。しかしこの言葉は、耳を澄ませば虚ろな響きを持っている。
しかし私はその空虚でたよりない言葉を頼りに、歩み始めてしまったのだ。
その道のりは、長く険しくなることを覚悟はしていたが、何とかなると思い込んでいた。

そうして今でいうならフリーターに近い生活をしながら学校に行き、自分なりに頑張った。
だが、なんとかなると思い込んではいたが、夢はいつまでたっても夢であり、成功の切れ端をつかむことさえ容易ではないことが、次第に重くのしかかってきた。
夢を追いかけた人間には、その代償として途切れることのない不安と社会的に透明になっていく現実を受け入れなければならない。たとえ小さくとも成功を手に入れるまでは。

人間の可能性とは何だろう。
私は今も、かろうじて仕事をして生きているが、もし若者がいてかつての私のような考えを持っていることがわかったら、何と言うだろう。
可能性を信じて頑張れ、とは恐ろしくてとてもいえない。
私には彼の人生を請け負う自信はないし、請け負うつもりもないからだ。
夢を持つことは大切か。
そう問われればイエスと答える。
しかし、ならば夢の実現のために一生を捧げるべきかと問われれば、私には即座に答える言葉がない。

人には寄って立つ所を持つことが必要である。それがなければ、社会は存在さえ認めようとしない。
ならば夢も可能性も捨てて、安心第一の人生を歩むことこそ大切なのか。
ノー。私は小さく答える。しかし、その後に言葉をつなぐ。
人には寄って立つ所が大切である。しかし夢を失うべきではない。夢を持ち続けることは、それだけでも大変なことであり、それを実現できる可能性を持つ人間ならば、寄って立つ所を獲得しながら、そのうえでなお夢を実現するだろうと。

寄って立つ所を持たない私には、そう答えるしかない。
私は持たざるものの苦労を知っている。
けれども、こうしてなんとか生きている。少なくとも、嫌だと思う仕事はせずにすんできた。嫌な上司のおかげで胃潰瘍にならずにすんできた。
鬱にはなったが、それでもこうして生きている。

大変だったでしょうね。

そう聞かれたとき、私は果たして怒るだろうか。
わけ知り顔で、ボーナスにも退職金にも縁がない人生は辛かろうといわれれば、私は稼ぎの多寡で人を計るなと言ってやる。

カネだけが人生じゃねえよ。

そう思いながら笑顔のひとつも浮かべ、「はい、大変でしたよ」と答え、「でも、楽しくもありましたよ」と続けてやろうか。

「その人」は、なぜ自分の人生に土足で踏み込まれたように感じたのだろうか。
今、大きな成功をつかもうとしているのに、なぜ怒ったのだろう。
私の顔が、金を物差しにする人間の顔に映ったのだろうか。
私には、そこのところがよくわからず、いまだに考え込んでいる。


ブログランキングに参加しています。
↓よろしければクリックみっつ↓

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

関連タグ : , 人生, 就職, 寄って立つ, 安心, ,

今朝の朝刊一面には、朝日も読売も新銀行東京への追加出資に関する世論調査の結果が出ていた。
当然ながら調査は別個に行われたわけだが、出てきた結果は、面白いというか奇妙というか。
400億円の出資に反対とする答えが73%と、どちらも同じ数字が出ているのだ。賛成は17%でこれも同じ。
朝日調査

無作為に行った調査で、ここまで同じ結果が出るのもなんだか気持ちが悪いけれど、結果が示していることはひとつだ。
都民は400億の追加出資を認めていない。
これに尽きる。

朝日は、次に「新銀行東京」をどうすべきかという問いに対する答えを紹介していて、「銀行を精算すべきだ」とするものが61%、「経営再建を図るべきだ」とするものが26%だったとしている。
読売調査
これに対し読売では、新銀行の事業継続について質問している。
その結果は、「止める方がよい」が65%で、「存続」が21%。
次いで中小企業支援という設立目的を果たしているかについては、
「大いに」「ある程度」とする肯定派が21%で「あまり」「まったく」という否定派が64%。
都側による追加出資理由の説明も76%が「納得できない」としている。

朝日・読売の調査を見ると、新銀行東京については当初の設立目的を果たしているとはいえず、事業は精算する方がいいと考える人が過半数を占めているというわけだ。

ところが、同じ読売の調査の続きでは、石原慎太郎都知事の支持率は51.1%だという。これは1999年の調査以降最低の記録らしいが、この段になってもなお半数以上の人々が石原を支持しているということに驚きを禁じ得ない。朝日の調査でも支持率は47%で過去最低の記録らしいが、それでも半数近くが支持していることになる。

この辺を見透かしているのかどうか、都議会では自民・公明の与党がまともに審議をせず、石原が責任をなすりつけた旧経営陣を証人喚問することもせず、400億円追加出資案に賛成することを決めている。賛成には付帯決議案があって、専門的な監視機関の設置、400億円を棄損させない、再度の追加出資はしないの3点セットになっている。
言い換えればこういうことだ。

「ママはちゃんと見てますからね。無駄遣いしちゃダメよ。もうお小遣いはあげないから」

こんな叱られ方をしたところで、札付きのどら息子である石原慎太郎が言うことを聞くわけがない。
これまでに食い潰してしまった1000億を取り戻すために400億を注ぎ込んだところで、損失が1400億に膨れあがるだけだとは何人もの専門家が言っていることだ。
しかし、そんな台詞は石原はもちろんのこと、自民・公明の都議会議員たちも聞こうとしない。
51%あるいは47%の支持率があれば、まだまだ無理が通るとでも思っているのだろうか。

昨日のニュースには、旧経営陣の一人が顔を隠しながらも証言していた。
審査を3日以内に通して融資せよなどという命令が、トップダウンで下されていたこと。そこに異議を唱える余地はなかったこと。
まさに石原の号令一下で銀行業務が行われていたと、その男は証言していた。そのうえで、
「都知事に責任がないなどとは、到底いえないことだ」
と言っている。

このブログでは何度でも繰り返すが、石原慎太郎がやってきたことは経営というものをまったく無視した目茶苦茶な行為であり、それを押し通したのは、石原が独裁的な手法をとって都政を動かしてきたからに他ならない。

石原は、東京マラソンを実施して成功させ、都民のご機嫌をとりながら、その裏では四男が関与していることで批判されているTWS(トーキョーワンダーサイト)から若手画家2人の絵画3点を51万6000円で購入させている。
石原が銀行本店を視察した際、「殺風景だからTWSの作品を飾ったらどうか」と言ったのだという。
それを受けてバカ息子の友人が描いた絵を買う銀行も銀行だが、まったく石原のやっていることは金正日と変わらない。
経営破綻した銀行が殺風景になるのは当たり前だろうが。その原因を作っておいてなお、息子の友人の絵を買わせるという厚顔さ。

今、その3点の絵は飾られることもなく、本部の倉庫にしまわれているそうだ。

ほんとに、ほんとに、石原がやっていることはバカでなければできないことだらけだ。おのれは日本の将軍様だと思っているのだろうか。
そう思われても仕方ないほどの愚かさを、この男は持ち合わせている。


ブログランキングに参加しています。
↓よろしければクリックを↓

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

関連タグ : 石原慎太郎, 新銀行東京, 追加出資, 支持率, TWS, 絵画,

新銀行東京に対する東京都の400億円の追加出資が、都議会公明党が賛成方針で調整に入ったことから、いよいよドブに捨てられることが決まりそうだ。

石原慎太郎は400億の追加出資がなければ1000億の損失のうえに、さらに大きな損害が生じることになると、半ば脅しのような文句で400億をせびり続けてきた。
それに対する冷静な見方は、400億を追加出資すれば、損失が1400億に増えるだけで、新銀行東京が立ち直ることはないというものが大半だった。
それは多くの都民他、石原の動向を見守り続けている国民の目にも明らかなことだった。

しかし、石原の支持政党である都議会自民党は都議会でろくに質問することもなく出資に賛成。
そして自民党とともに与党の立場にある公明党も、なんだか煮え切らない態度を見せていたが結局賛成に回って400億の血税をドブに捨てることに協力する決意をしたようだ。

もっとも400億円を追加出資するにあたっては、経営再建の確約や都側の監視体制の確立、追加出資後に経営改善しなかった場合の追加出資の禁止などを付帯決議するらしい。

いくら条件をつけてみたところで、カネをドブに捨てることに賛成することに変わりはない。
もったいぶって条件をつけてみたって、守れませんでしたといわれたときにはどうするつもりなのか。

つくづく、公明党は今の権力の座が気に入っているものと見える。
一度握ってしまった権力の座は、どうあっても手放したくないらしい。
どうやらその執着の強さは、池田大作に対する執着の強さに次ぐほど強いようだ。

公明党とは、「大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆の中に死んでいく」ことを理念として立ち上げた党だった。党のHPを見ると、「常に民衆の側に立つことを信条としています。公明党が行動の規範とするのは、高い志と社会的正義感、モラル性、強い公的責任感、そして民衆への献身」などという美辞麗句が並んでいる。
これが公明党の、もうひとつのお題目というわけか。
ちゃんちゃらおかしい、というものだ。

美辞麗句で飾ったお題目を毎日何遍合唱しているか知らないが、結局やっていることは大衆を切り捨て大衆の上に立ち、大衆を追い詰めていくことに他ならない。

それほどまでに権力とは美味しいものか。
いちど手にすると、二度と手放したくはないものか。
大衆を裏切ってまで、その座に留まることを優先させるものなのか。

だが、考えてみれば公明党は政権与党になる以前にも、天下の愚作といわれる「地域振興券」を発案して、すでに税金の無駄遣いを公然とやってきたのだ。
いまさら400億を使うことくらい、なんとも思わないのだろう。

政党としての理念だとか信念だとかいう以前に、この党には政をする人間集団としての誇りがなく、すでにそんな自覚さえもっていないのだろう。
ただただ自民党の言いなりになるイエスマン。ロボットのような存在だ。
自民党がスイッチを押すと、賛成という商品が出てくる自動販売機のようなものだ。

こんな党に、創価学会員以外、存在価値があるといえるのか。
日蓮の教えというのは、衆生を切り捨て、生活を踏みにじることだと解釈するのが正宗の考え方なのか。
金魚の糞のような政党。
こんな政党など切り捨てればいいのに、糞を切り捨てれば本体まで死んでしまうのだから自民党も始末が悪い。

都議会自民党も都議会公明党も、もはや都民の敵である。
最低の男、石原慎太郎のお飾り集団である。

私は以前、創価学会に折伏されて断ったことがある。
すると私を取り囲んでいた連中は、私に向かって「餓鬼道に落ちる」という言葉を吐きつけて、私をその場から追い出した。
公明党とは、こういう連中によって支えられている政党なのだ。
救われるのは正宗を信じる自分たちだけであり、それ以外の者はみな地獄に堕ちて、最下等の世界である餓鬼道に落ちる、死ねばその死体は黒くなる、と考えている人間たちによって運営されている政党なのだ。
都民のカネを捨てることなど、何の躊躇もないだろう。

自民党が最低の低能集団ならば、公明党は最低の亡者集団なのだ。

こんな者どもが政界に存在すること自体、許すべきではない。
今の日本は、東京都をはじめ中央政府まで、アホと亡者に牛耳られている。
思えば鳥肌が立つような時代を、われわれは生きているということになる。

ブログランキングに参加しています。
↓よろしければクリックを↓


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

関連タグ : 新銀行東京, 石原慎太郎, 400億追加出資, 公明党, 自民党, 理念,

税制は、何よりもわかりやすくなければならない。
わかりにくいから、役人どもが姑息な手段を使って無駄遣いをする。
無駄遣いをして、それが慣習化されているのに、国民にはそれが見えず、営々と税金を支払わされることになる。

例の暫定税率などは、その最たるものだろう。

そもそも2年の期限つきだから「暫定」として設けられた税金なのに、なぜ30年以上も支払わせられなければならなかっなのか。
そしてこれからも、「暫定」はそのままに、使い道だけを道路に限るか、福祉その他にも応用できるようにするかが論議の的になっている。

これは話の根本からして間違っているのだ。

3月いっぱいで期限切れになる暫定税率ならば、それで打ち切るのがいちばんいいではないか。
理屈はいろいろあっても、これ以上わかりやすいことはないだろう。
暫定的な税を取り止めて、必要ならば新たに税を設ける。
それを国民に問えばいいだけの話ではないか。

しかし、与党も野党も、新たな税を設けると言えば選挙に響くと見て、それが言い出せない。
言い出せないからいつまでたっても「暫定」の税にこだわりつづける。

政治家たちは今、口々に政策が前に進まないことに不満を述べているが、私はまことによかったと思っている。
これは他のブログでも書かれていることだが、衆参のよじれがなければ、こうして一つひとつの問題点が国民の目にさらされることはなかったからだ。
日銀総裁人事ひとつを見ても、それは明らかだ。

いかに、今までの政権つまり自民党が官僚どもと組んでよからぬことをやってきたか。
ずるがしこいことをして国民の目を欺いてきたか。
まだまだすべてとは言い難いが、それでもずいぶん化けの皮が剥がれてきた。
結構なことである。
おかげで、日銀総裁などいなくても金融パニックなど起こらないこともわかった。
「道路は命だ」と言っている連中の言葉も、半分はウソだとわかってきた。

暫定税率維持を盛り込んだ租税特別措置法改正案(なんとわかりづらい名前!)めぐって、衆参議長が与野党の調整に入るという。
しかし期限切れで4月から揮発油税が徴収できなくなる可能性が大きくなっている。
だが、日銀総裁がいなくてもどうということはなかったのだもの、揮発油税がなくなって、ガソリン価格が安くなっても混乱は起こるまい。
起こるとすれば道路族その他の利権に絡んだ連中の間がいちばん大きいのだろうが、その混乱ならばどうなるものか楽しみに眺めてやりたいものだ。

この際、暫定税率はリセットすべきだ。今がいい機会である。
そのうえで、必要な税金ならばわかりやすい名目で税を設定すればいい。
道路財源を一般財源にしようなどと言う議論そのものが不毛である。
議員たちは、なぜこんな当たり前のことがわからないのか。わかろうとしないのか。
暫定税率をリセットして、税金制度そのものをわかりやすくする、ちょうどいい機会なのだ。

国民はこの機会から目を離すべきではない。
そして、国民にとってはもっと大きな問題がこれからのし掛かってくることに注視すべきである。
4月から堰を切ったように始まる物価の値上げ。
これに対して、政府がどんな対応を執るか。執ることができるのか。
そのことに注視すべきである。


ブログランキングに参加しています。
↓よろしければクリックを↓


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

関連タグ : 暫定税率, 租税特別措置法改正案, 自民党, 民主党,

中国によるチベットへの弾圧行為が続くなか、日本を除く世界中から非難の声が上がっている。

私が不思議に思うのは、過去何度となく中国中国人に対して差別的な発言を繰り返してきた石原慎太郎東京都知事が、今回は妙に大人しくしていることだ。
いつもだったら「そら見たことか」とばかりに罵詈雑言を発するところだろうに、私が知るかぎりではまだ何も言っていないようなのだ。
イシハラ
さて不思議なこともあるものよ、と思っていたら、こんな記事が出てきた。

東京都の石原慎太郎知事は21日の定例会見で、チベットへの対応で批判が集まっている中国で、8月に開催される北京五輪に出席するかと問われ「招待状をもらっており、状況次第では行きますよ」と述べた。2016年の東京五輪開催を目指す石原氏には、中国側から1月に招待状が届いており、開会式に出席する意向を示していた。(スポニチ)

なんと、ちゃっかり中国から招待状を受け取っていたのだ。
そのうえで、「状況次第では行きますよ」とは、どういうことだろう。
おそらく石原は、チベット族たちの粛清がすんで、事態が落ち着いたら行くというつもりなのだろう。

しかしこの前まで石原は北京オリンピックについて、「ヒトラーのやった政治的色彩の強いベルリンオリンピックに似ているような気がする」などと発言して中国側を激怒させていたのだ。
それが今度は180度態度を変えて、「東京の友好都市・北京が大会を成功させることを祈念する」と都議会で述べ、東京オリンピック誘致に中国の協力要請までしている。
この態度の豹変ぶりを産経新聞は「双方の関係に変化が見られるようになったから」だと伝えている。

なんじゃこれは。
産経の記事も訳がわからないが、石原慎太郎のように発言がぶれる男というのも珍しいのではないか。
それまで忌み嫌っていた相手でも、少しでも自分の得になるとなれば主張を変える。
この男の目には、チベットで大勢の人々が殺されている光景など映ってはおらず、ただただ自分が打ち上げた東京オリンピック誘致の花火がいかに大きく開くかしか考えにないのだろう。
オリンピック成功のためには、中国としては石原のような男を懐柔しておく必要があって招待状を送ったのだろう。それはわからないでもない。
しかし招待状を送る方も送る方なら、受け取る方も受け取る方である。
まったく、脱力するほど情けない男とはいえないか。

チベットからは、携帯電話やネットでどんどん情報が送られてきている。
そのすべてが正しい情報かどうかはわからないが、少なくとも中国が民衆に向けて銃を向け、発砲していることは間違いないようだ。明らかに銃創を受けた死体の写真がネットに公開されている。血まみれになった遺体の写真も出ている。下にあるのは「チベット人権民主化センター」のウェブサイト にある写真の一枚だ。
遺体


こうした事実から目を逸らし、抗議するどころか変節までして北京オリンピック開会式のことを言う石原慎太郎という男。
私はこの男を、心の底から軽蔑する。


ブログランキングに参加しています。
↓よろしければクリックを↓


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

関連タグ : 石原慎太郎, チベット, 中国, 北京オリンピック, 東京オリンピック誘致, 変節,

「きっこのブログ」3月9日のエントリで、テレビとパソコンどちらを選ぶかというアンケートをやっていた。
面白いと思って私も参加させてもらった。
きっこさんも言っていたけれど、今のテレビコンテンツはもうたまげるほどつまらなくて私もウンザリしている。テレビ放送がデジタルに代わり、今までの受像器じゃテレビが見られなくなるなんて脅されたってかまうもんか。
誰がテレビなんか見てやるか。そう思っている。

で、「これから死ぬまでテレビかパソコン(インターネット)のどちらか片方しか使えなくなるとしたら、あなたはどちらを選ぶのか」という設問で、
1.テレビを選ぶ 2.パソコンを選ぶ 3.両方いらない
の選択肢から私が選んだのは、とうぜん2.パソコンを選ぶだった。

最近になって、このアンケートの結果はどうなったのだろうと思って見ると、今日現在、
テレビを選ぶは、757票
パソコンを選ぶは、8677票
両方いらないは、407票
となっていた。
圧倒的にパソコンで情報を得る、あるいは動画を見るという人が多いというわけだ。

あれだけしょうもない番組を毎日垂れ流しているのだから、テレビを選ばないという人が10倍以上になるのも仕方がないだろう。
まして、デジタル放送に切り替えるには、自腹でチューナーを買ったりアンテナを立てたり、テレビを買い換えたりしなくちゃならないのだから、テレビを見なくなる人はもっと多くの割合を占めるのではなかろうか。

昨日はNHKで放送記念日特集をやっていて、私は途中から見たのだが、テレビを取り巻く日本人の生活環境は確実に変わってきていることを紹介していた。
モデルケースで登場した家庭では、子供二人と両親、その母親が暮らしていた。
少し前までは、子供二人がチャンネルの主導権を争って喧嘩になっていたと言うことだが、今では二人ともテレビには見向きもしなくなっている。
テレビを見て喜んでいるのはお婆ちゃんで、「こっちの方が面白いのに」と言いながら、孫にリモコンを奪われることもなく、ニコニコしている。
けれども、かつてはテレビを中心に家族そろって食事をしたり寛いだりしていた風景がなくなり、今では背中を向けてパソコンに熱中している孫たちの姿に、お婆ちゃんの笑顔も少しばかり淋しそうだった。テレビが茶の間の主役だった時代は20世紀とともに終わりを告げたかのようである。

21世紀になり、今やテレビに替わる娯楽の中心はゲーム機であったり、パソコンで見る動画サイトであったりする。それらに共通しているのは、「いつでも、楽しみたいときに楽しむことができる」である。

私が小学生の頃は、「昨日、ゲバゲバ見た?」なんていうのが挨拶代わりだったのだが、今は「スターウォーズ犬知ってる? 見てみなよ」というふうになってきている。
ずいぶん様変わりしたものだと思うが、それも仕方がない。
日本ではキー局を中心に電波の独占状態が続き、それに胡座をかいてきたテレビ局の連中は省コスト、高利潤ばかり追及するようになって番組のクオリティをどんどん下げてきた。
テレビ離れはパソコンとブロードバンドの普及が原因などというけれど、ほんとうの原因の多くは、彼らテレビ局がおごり高ぶってきたことのツケが回ってきたということにあるのだと思う。

だから、いまさら地上波デジタルになって画像が綺麗になります、チャンネルが増えますとか言ったって、誰もそんなこと魅力に感じなくなってしまっているのだ。
くだらない番組が、いくら綺麗に見えたって、本数ばかりが増えたって、誰も見るわけがない。
2011年7月はどんどん近づいているというのに、テレビ局はどれほどの危機感を持っているのだろうか。

もちろん、いくらくだらなくても、テレビ放送はなくならないだろう。
けれども、それを見る人の数はきっと激減するだろう。
NHKに視聴料を払ってまでテレビを見るという人も減りこそすれ、増えることはないだろう。
視聴料がなければ番組が作れないというのなら、NHKはアーカイブに徹して、これまでの遺産で食いつないで行けばいい。あとは報道番組をネットで配信するだけでいいだろう。

民放は、系列の新聞社の力も同時に弱くなってきていることからテレビ局の再編がはじまるだろう。
その結果、電通と結びついた巨大メディアと、それ以外の数多の弱小メディアに二極化していくだろう。

茶の間に置いてあるテレビはDVDか、ゲームのモニターとしての役割が中心になるだろう。
テレビ番組を見るときは、パソコンや携帯で録画したものを見たいときに見る。
それで十分だと思われるようになる。

かくして2011年を一大商機と見ている電機業界とテレビ業界の皮算用は見事にはずれ、業界の大リストラが始まる。高年収をいいことに肩で風切って歩いていたテレビマンたちが、打ち萎れた姿で安酒場にたむろする姿が見られるようになる。

あと3年とちょっとで、世の中がそんなふうに変わる。
私はそんな夢想をしているのだが、どうだろう。

そのとき、あなたはまだテレビを見続けていますか?


ブログランキングに参加しています。
↓よろしければクリックを↓


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

関連タグ : テレビ, 地上波デジタル, 動画サイト, NHK, 民放,

今日もまだ、朝から嵐のように強い風が吹いている。

実は今日、○△回目の結婚記念日なのである。

今月の初め頃、娘が「お父さん、結婚記念日に私は何をしたらいい?」と、急に言い出したので、
私はとっさに

「じゃ、逆立ちでも」

そう答えて顔をしかめられた。
「何それ」
カミサンは「肩たたき」と答えていた。

年を取ったものである。ふたりとも。

そして今日、娘は逆立ちをする代わりに、かわいらしいケーキと花束を買ってきてくれた。
hana


ケーキを食べて、コーヒーを飲んで。
「もう○△年か」
「早いね」
「うん。早いな。あっという間だ」

なんだか「東京物語」の夫婦みたいな会話になってしまう。
しかし。
「その間に、何度別れようと思ったことか」
「何度誘惑に負けそうになったことか」
私が言うと、カミサンは鼻で笑うのだった。なにが「東京物語」だよ。

「たしかに、何度も別れようと言われたわね」
「たしかに、イヌの誘惑に負けて何匹も買ったわね」
「たしかに、物欲の誘惑に負けて、いろんなものを買ったわね」

だめだ、もうこうなると敵うわけがない。
「はい、そうでした。俺が悪かったよ」
謝るしかないのである。
そして、今日もまた。

「気分が悪い。朝から調子がよくない。Kさんに電話して、原稿書けませんて言ってくれ」
「その台詞も何度も聞かされたわ」
「はい、そうでしたね」

もう黙るしかない。

桜の花もそろそろ咲こうかというのに、昨日、今日となんだか妙に肌寒い。
4匹の犬たちはストーブの前に寝転がり、イビキをかいている。
夢を見ているのだろう、時折クォンとかいってピクピクしている。

平和なことだ。
平和がいちばん。
○△年の間には、内戦が勃発しそうなときもあったけれど、なんとかやってこられたのは何よりだった。そしてこれから、何年残っているかわからないけれども、なんとか平和に過ごせたら。

まずは幸せと満足することにしよう。

また誘惑と物欲に負けるかもしれないけどね。

これからも、よろしく頼みますよ。ぺこり。

ブログランキングに参加しています。
↓よろしければクリックを↓

関連タグ : 結婚記念日,

春分の日の今日は、朝から強い風が吹き、横殴りの雨が降り続いた。
世の中では三連休を楽しもうという人々が多いだろうに、気の毒なことだ。

私にはどうせ、土日も休日もないからね。

なんてフテても仕方がない。

今日は夕方からピッツァを作ることにした。

いつもはパン焼き器で生地を作り、こいつにトマトソースにタマネギ、トマト、サラミにジャガイモ、そしてチーズを乗っけて焼き上げる。

ところが今日は、春分の日スペシャル。

一昨日、野菜ソムリエの女性と話す機会があって、そのときに手軽でおいしいビッツァの作り方を教えてもらってきたのだ。

まず、用意するのはオリーブオイルにニンニク、長ネギ、アンチョビのフィレ。
円盤形にのばした生地に、ニンニクを塗ってオリーブオイルをサーッとかける。
その上にアンチョビを並べ、細切りにした長ネギをたっぷりのせる。
これにチーズをのせてオーブンで焼けばいいのだけれど、ウチの冷蔵庫にはこの前作り、女房と娘につまみ食いされた残りのベーコンがある。
これを細かく切っていっしょにのせた。ついでに燻製タマゴも使っちゃえ。
ニンニクも、余ってしまうので適当にスライスしてネギと一緒にのせてしまった。

たっぷりチーズをのせて、やや低めの温度で時間をかけて焼くのがコツ。
私の場合は190℃で20分ほど焼いた。

時間がたつにつれて、家の中にガーリックの香りが漂いはじめた。おー、イタリアン!
なんて食欲をそそる匂いなんだろう。
時間をかけて焼くことにより、長ネギが柔らかく、そしてなんともいえぬ甘みを出すのだそうだ。
はやく焼けろ、はやく焼けろ。

まるで欠食児童のように皿を抱えてオーブンの前で待つ。

ついに焼けた。

オリーブオイルでジュワジュワいってるピッツァを、オーブンから落とさないように取り出す。
クッキングペーパーを敷いているのですべるのだ。

ようやく完成。
ピッツァ
さっそくカッターで切り分けて、一口ほおばる。

「おお!」

トマトは使ってないが、オリーブオイルとガーリックもなかなかいける。
ネギもやさしい味になっている。
ブオーノ、ブオーノ!

ベーコンの味わいもしっかり主張してくれて、製作者の私は感涙にむせびながら食べた。


いやあ、実に美味い。
長ネギを使ったピッツァ。
よかったらお試しあれ。簡単でとてーも美味しいあるよ。

ブログランキングに参加しています。
↓よろしければクリックを↓

関連タグ : 自家製ピッツァ, 長ネギ, 燻製,

隣国で、侵略と虐殺が行われている。
僧侶や一般市民を相手に軍隊が投入され、多くの人々が負傷し、命を奪われている。

今、チベットで起きている事件は、中国政府による侵略行為だ。

[中国軍][チベット騒乱][侵略]
今、チベットで起こっていること・・・多くの人々に知って欲しい
by youtube

それなのに、いまだ日本は何の反応も示そうとしていない。
テレビや新聞も、なぜか報道に消極的だ。

北朝鮮で非人道的な政治が行われていることに対しては、ヒステリックなまでに告発し続けていたテレビだったが、昨夜のニュースでは、NHKをふくめ、どのチャンネルも秋田の児童殺害事件の判決と日銀総裁人事、それにねじれ国会による道路暫定背率の行方などを優先して報じていた。
TBSの「ニュース23」では、チベットのことは、スポーツコーナーの少し前の、数分間、それも中国政府が発表した映像を流すだけのものだった。

なぜ、日本はチベットで起きていることに対して、声を上げることさえしないのか。
BBCでは、大々的にこのニュースを取り上げているというのに。
中国政府による圧力が、日本のマスコミ各社にもかかっているという話を聞いたが、だとしたらとんでもない話で、テレビ局も新聞社も反発しなければならない。
なのに、この妙に遠慮したような雰囲気はなんなのだ。
まさか、オリンピックの放送権のことを計算しているのではないだろうな、と勘ぐりたくなってくる。

現在の事態に、各国ではいち早く声が上がっている。

アメリカは15日、ライス国務長官が中国政府に対して、チベット政策の方向性を変えることなどを促す緊急声明を出した。

ドイツのメルケル首相も15日、政府報道官を通じて「チベット問題を解決するには平和的な直接対話しかない」として、中国政府とダライ・ラマ14世との直接対話を呼びかけた。
また、シュタインマイヤー外相は16日、楊潔チー(ヤン・チエチー)外相と約1時間にわたり電話で会談し「最大限の透明性を確保して、事態を収束させて欲しい」との見解を伝えた。

フランスのクシュネル外傷は18日、中国チベット自治区の暴動がさらに続いた場合、欧州連合(EU)各国が北京五輪の開会式をボイコットするよう、今月下旬のEU外相会議で提案する考えを示した。

しかし、日本政府は何をやっているのか。
外務大臣の高村正彦は19日の衆院外務委員会で「中国の首脳(胡錦濤国家主席)も来る。(楊潔チ)外相も来る。この問題に触れないということはありえない」と述べ、中国に対する働きかけについては「首脳レベルもあるし、事務方の最高レベルもある。何が効果的か考えたい」としている。

いかにも手ぬるい。歯切れが悪い。
中国に対して何をしたいのか、政府の気持ちが何も伝わってこない。
だいたいなぜ、中国から要人が来るのを待って話さねばならないのか。
高村は、まさか抗議を伝えるために胡錦涛を呼び寄せたのではあるまい。国賓として招待し、晩餐会など開きながらコソッと何かのついでに話すつもりなのだろうか。
それにしても、中国軍による虐殺が続いているという事実は知っているだろうに、「何が効果的か考えたい」とは、いかにも自民党の頭のネジがゆるんだ男の答えらしくて笑いが引き攣ってしまう。

私は、中国を相手にするときは神経を使うべきだと思うが、それはへりくだって話をしろといっているのではない。
同じ東洋人であり、隣の国でありながら、彼らはまったく異なる感性を持っている、そのうえ巨大な軍事力を持っている。それを常に考慮に入れて接するべきだといっているのだ。
まったく気心が知れない相手を刺激するのは上策ではない。
けれども、明らかに非人道的な行為が行われていることに対しては毅然とした態度を取る必要がある。

そのためには中国からトップを招き、話をするのではなく、まず立ち上がって中国政府が行っている暴力を非難する、日本政府としての態度を明らかにしておくことが重要だ。
あらゆる暴力に対して日本は反対する。あらゆる流血の事態を、日本は許さない。
はっきりと声を上げなければならない。
北京オリンピックへの参加・不参加は日本の手持ちのカードとしてまだまだ伏せておくべきだろう。
まずは侵略行為に対する反対を表明する。中国側はチベット人による暴動だとするだろうが、ならば鎮圧のために軍隊を投入したことを責めるべきである。

中国は徹底して自国内ではメディア規制を行っているようだが、youtubeなどには中国軍たちによる残虐な行為が映し出された映像がたくさん流れているし、ネットには殺害された民間人や僧侶の写真も流れている。
今の時代は、政府がいくら規制しようとも情報を押しとどめることは無理なのだ。

これだけの情報がありながら、日本の政府は抗議声明をあげるでもなく、胡錦涛が来るのを待っている。チベット侵略には最前線に立って力を振るってきた胡錦涛に、いったい政府は何をいうつもりなのだろうか。
他国の素早い反応を見るにつけ、この国の政府の愚鈍と言ってもいい反応の鈍さには呆れるしかない。

いまや、北京オリンピックを控えた中国政府は問題をもみ消すことに必死だろう。
胡錦涛だってそうとう焦っているはずだ。もし、日本政府が彼らと会うときには、
この相手に対して、強硬な姿勢をもって臨むのではなく、理性的に暴力の行使を止めるように訴えるべきだ。そのうえで、オリンピックが成功しなかったらどうなるのですかと釘を刺してやればいい。
しかし政府には、そんな戦略があるのだろうか。はなはだ疑問だ。

中国軍侵略はまだ始まったばかりで、これから反共分子の摘発が始まることだろう。
それはつまり、さらなる大量の虐殺が行われる可能性があるということだ。

しかし、この事態を見てもダライ・ラマ14世は非暴力による解決を訴えている。
われわれとしてはこの声を重く受け止め、彼の姿勢を尊重しながら、冷静に、かつ執拗に声を上げ続けていかなければならない。
すでに、世界各国では人々が立ち上がり、侵略行為と暴力対する反対の声を上げている。
私も中国政府の行為に対し、暴力をすぐにも止めるようアピールしていきたい。

ブログランキングに参加しています。
↓よろしければクリックを↓


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

関連タグ : チベット, 独立運動, 中国軍, 侵略, 虐殺行為, 北京オリンピック, 日本政府,

ブログを始めてもうすぐ3ヵ月になる。
しかし、いまだに基本的なことがよくわからずにいる。

アクセス数は、まあわかるとして、ランキングというのがどうも。
いちおう成績表みたいなものだろうと思って参加しているのだが、おかげさまでFC2ランキングでは社会部門の1位になれました。

でも、だからどうなるの?

というわけで、ランキングについてはこれまで密かに励みにはしてきたが、まだよくわかっていない。
だってBlog Rankingでは、どんどんじりじり順位が下がっているし。
ブログ村の政治・社会問題部門では反対にチョロチョロと上がってる。

どう解釈すればいいのよ、ご隠居。

なんでも参加すればいいというものではないのかもしれないし、あるいはランキングなどに左右されず超然としていればいいのかもしれない。
その方がカッコイイとは思うよ。

でも、それじゃなんだか淋しい気がするし。

で、よせばいいのに、今度はBlogPeopleの評価表をつけてしまった。
大丈夫なのか? こんなのをつけて?
みんなにスルーされたらどうしよ。
なんだかこわい……16歳の初々しかった自分にもどった気分。

と、少々おびえつつ、褒められたら単純にうれしい私。よせばいいのに。

でも、
よかったら、どなたか何か書き残してくださいませ。
しょうもない私ではありますが。

ひとつ景気づけということで。

平に、よろしく。

わかってないながら、
こんなエントリにも↓のようなものを貼り付けちゃっていいのかな。と思いつつ。

ブログランキングに参加しています。
↓よろしければクリックを↓


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

関連タグ : ブログ, ランキング, アクセス数,

自民党首相の福田康夫は18日になって、ようやく日銀総裁案を提出した。
福田にしてみれば17日に後任人事を明らかにすると約束していたのが、1日遅れてしまったのだから、よほど困った上で出した結論なのだろう。

そして明らかにされた後任人事は、田波耕治・国際協力銀行総裁だった。
田波もまた、旧大蔵省出身の事務次官経験者である。
大島理森
先に武藤敏郎にダメを出した民主党の拒否理由は、「財政・金融分離の原則に反する」というものだった。たとえそれが表向きの理由だったにせよ、武藤は結局見送らざるを得なかったというのに、またしても福田康夫が選んだのは大蔵事務次官経験者だった。
福田には、というか福田と協議を重ねたはずの自民党の大島理森らは、雁首そろえながらまったく前回の失敗を教訓にすることができなかったことになる。

吉本の芸人ならば、「お前ら、アホちゃうか!」と突っ込みが入るところだろう。

あれだけ大蔵事務次官経験者はダメだと言われていたのに、またその経験者を選ぶということは、福田康夫以下の政治家たちが無能であるということに加えて、財務省内にも日銀人事は事務次官経験者をという強い思惑が働いていたのだろう。
田波耕治
武藤が「ノーパンしゃぶしゃぶ」接待を受けた者をかばって更迭された人物なら、田波はこのスキャンダルで更迭された上司の涌井洋治に代わって内政審議室長から異例の事務次官に就任した人物である。田波自身に「ノーパンしゃぶしゃぶ」接待は直接関係はないものの、庶民感覚からすれば、同じスキャンダルが元で出世した人物が日銀総裁になるということには、なんだかなあという違和感を感じてしまう。
どうしてこんな人選しかできないかね、自民党

それに、そもそも田波耕治という男が日銀総裁の器なのか、という問題もある。
福田康夫は、田波が国際協力銀行総裁を務めていることから「国際金融をよくご存じだし、金融機関に身を置いていた」と説明しているが、朝日新聞は財務省幹部の言葉として、国際協力銀行は政府の途上国援助(ODA)の一環である円借款の実務などを担っており、「日銀の仕事と関係するような国際金融のイメージとは異なる」という異論を紹介している。

実際、田波耕治という男を調べてみても、国際金融について目立った業績も研究も行っていないらしいことがわかる。
それどころか、かつて行政改革会議の大きな目玉だった、財政と金融を分離しようとする「大蔵省解体」問題において、これを阻止するために黒幕的な働きをしたのが内閣内政審議室長時代の田波耕治だったという話もある。(「大蔵省はなぜ解体されないか」より)

旧大蔵省の財政と金融を分離しようとしたのは、それが大蔵官僚の証券界や銀行界への天下りに大きく寄与していたからであり、この官と業との癒着が「ノーパンしゃぶしゃぶ」のような破廉恥な接待を生み出す温床にもなった。
しかし田波の暗躍によって、財政と金融分離の試みはあっさり見送られたのである。

この一事を持ってみても、田波耕治が新しい日銀総裁にふさわしい人物かどうかといえば、やはり民主党ではなくとも私はNOといわざるを得ない。
武藤が隠蔽体質の持ち主ならば、田波は癒着体質の持ち主であり、つまりは自分たちさえ美味しい思いをすればいいという考えの持ち主であるということで、とても日銀総裁の器とはいえないだろう。

福田康夫はどうしてこうも、人格的に問題のある人物ばかり選び出すのだろうか。
学習能力のなさといい、人を見る目というか、素人でもできる程度の調査能力さえ持っていないという無能さといい、日銀総裁を選ぶ以前に己が自民党総裁=総理大臣としてふさわしくない人物といえるのではないか。
福田康夫

内外ともに問題が山積しているなかでの、このもたつきようは、明らかに福田政権も末期にきていることを明らかにしている。
今さらこの首相に、これからのヴィジョンを聞く気になる者など、もはやいないだろう。
それは自民党、公明党全体に対してもいえることだ。

われわれ国民としては、一刻も早く彼らに政界から身を引いてもらいたいと願うのみである。


ブログランキングに参加しています。
↓よろしければクリックを↓


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

関連タグ : 日銀総裁, 田波耕治, 癒着, 福田康夫, 自民党,

昨日のエントリは、われながら混乱した頭のまま書いたせいか、まとまりに欠けていた。
読んでいただいたみなさん、申し訳ない。
まったくダメダメです。
自分の無能を恥じて、お詫びいたします。

そこで、もういちど、今回のチベットでの騒乱事件についてまとめておこうと思う。

まず、歴史的にチベットは、中国歴代の王朝・政府から征服、支配されてきた歴史を持つ。1910年には中国の共和化を目指す辛亥革命が起き、インドに脱出していたダライ・ラマ13世は13年にチベットに帰還し、独立を求めて清朝軍に対する抵抗を指令、中国軍の占領軍はディチュ河の線まで押し戻された。
しかしチベット政府は、チベット全域の領有を目指したのに対し、中国側ではチベット全体が中国領であると主張し続けた。

その後、国民党との内戦に勝利した中国共産党は、チベットに対しても、1949年までにアムド(青海)地方、カム地方を制圧し、この年の10月に「中華人民共和国の建国」を宣言して「中国人民政府」を発足。そして1950年、「西藏和平解放」と称して人民解放軍を中央チベットに派兵、1951年にラサを占領し、チベット全土を制圧した。

中国本土で何年もかけて徐々に展開された「民主改革」「社会主義改造」は、チベット各地でも1950年代半ばから、チベット社会の独自性を無視して一挙に強要されることとなった。
それでもこれらの「改革」が、諸侯・俗人貴族の政治的地位や特権の廃止に留まっている間は、むしろ歓迎されていた。しかし「改革」による攻撃の矛先が寺院・僧侶に向かった段階で、チベット人の反発は一挙に民衆レベルにまで拡大、1956年よりアムド・カムの全域で中国支配に反発する一斉蜂起が始まった。
これが、 1959年に頂点を迎える「チベット動乱」の勃発である。
争乱は1959年にラサに波及、ダライ・ラマ14世はインドへ脱出した。
中国政府は「チベット政府の廃止」を宣言、西藏地方を「西藏自治区籌備委員会」の管轄下に置く。
ダライ・ラマ14世はインドのダラムサラにチベット亡命政府を打ち立てた。

そして今回、チベット動乱49周年を記念してチベットの独立を祈る僧侶たちがデモ行進したことに対して、中国政府は軍を派遣して「暴動」を鎮圧しようとした。その結果、民間人をふくむ多数の死傷者が出た。
中国側は今回の騒乱をダライ・ラマ14世一派による策動と非難したが、一方のダライ・ラマ14世はダラムサラで会見し、武力を使用した中国を非難、国際機関による調査を求めた。
チベットのデモ
中国・チベットの歴史には疎い私だが、チベットの人々が長い歴史のなかで中国から抑圧を受けてきたこと、それは今も続いており、チベット自治区には漢民族が入植し、民族的な対立もあることがわかった。それゆえ、中国からの独立を願うチベット人の反発は強く、怒りは埋み火のようにくすぶり続けており、常に一触即発の危機をはらんでいたといえるだろう。

中国は、今回の事件をダライ・ラマ14世らのチベット亡命政府に全責任があると発表しているが、おそらく世界はそれを信じないだろう。
田中宇の国際ニュース解説によれば、チベット人たちの独立・自治拡大の要求の運動は、中国共産党が政権を取った直後の1950年代から、冷戦の一環として米英の諜報機関が支援してきたとある。
そしてその歴史から考えると、今回の争乱も、北京五輪を成功させて大国になって行こうとする中国政府の戦略を壊そうとする、米英諜報機関の支援・扇動を受けて行われている可能性が大きいと見ている。

しかし、もしオリンピックが失敗して中国が面子を潰されると、彼らは米英に対する憎しみを強めるだけだろう。世論は一気に反欧米に傾き、反米ナショナリズムが吹き荒れることになる。田中宇は、その結果、中国はロシアと結束し、反欧米の色彩を強めると見ている。そして中国、ロシアは中東産油国と結びつき、これまで世界経済の中心だった欧米を駆逐するいきおいを持つにいたると予測する。

さて、ここで日本はどうすべきなのかだ。
まず、今回の中国による弾圧に対しては、断固とした非難を表明すべきだろう。
中国によるかずかずの人権無視の行いは、これまでもしばしば非難されてきたことでもある。
そこまで考えるのは簡単だ。
僧侶
しかし、中国は悪いことをしたのだからと、欧米と一緒になって、たとえばオリンピックをボイコットするとなると、はたしてそれは得策なのか、考えなければならない。
私は、個人的にはオリンピックという見せかけの平和の祭典など、もはやそれほど価値はないと思っている。コマーシャリズムに毒されつくしているメダルの数がどうだとかは、もうどうでもいいと思っている。

しかし、昨日のエントリではいかにも中途半端に述べたが、感情的になって早々にボイコット運動を起こしたり、また実際にボイコットを決めてしまうのは、決して得策ではないとも思うのだ。

中国との関係を悪化させることは、北朝鮮の問題も合わせて考えたときに、日本の進むべき道を非常に困難なものにするだろう。田中宇のいうように、欧米に見切りをつけた中国がロシアと近づき、さらに中東産油国と結びついていった場合、日本は政治的に大きな障害を頭上に突きつけられる形になり、経済的にも難しい立場に追い込まれるだろう。アメリカ経済が崩壊の兆しを見せ始めている今の状況を見ると、できればそんな事態は避けたい。
これまでアメリカのいいなりになってきた日本政府のことだから、今回も米英が右と言えば右を向いてしまうのだろうけれど、それではあまりに無能な話で、将来が暗くなるばかりだ。

それではどうすればいいのか。
中国に対して強硬路線を執ることは、一時棚上げして、純粋に外交つまり話し合いで折り合いをつけていくことは考えられないだろうか。
食の安全もないがしろにして責任を認めようとしない中国に対する反感は、日本人の間にかなり強くなっている。
しかし今、このムードに乗ったまま反中国の気運が高まることに、私は少なからず危機感を持つ。現実的に考えれば、食の問題ひとつをとっても、自給率が低い日本が中国産の食物を今後まったく排除して生活していくことは難しい。
毒入りギョーザの問題は究明が必要だけれども、それはそれとして、なんとかこの大国との折り合いを見つける方法はないものだろうか。

しかし、日銀総裁候補を選ぶこともできず、自国の先行きにすら明確な考えを示すことができずにいる自民党と公明党、そしてそのリーダーである福田康夫には、大きな失望を感じている。
あまりにも大きな責任を、彼らは軽んじているのではないか。そしてそれは、決して許されるべきことではないのではないか。

私はこの点を言いたいのである。


ブログランキングに参加しています。
↓よろしければクリックを↓


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

関連タグ : チベット騒乱, 独立, 中国, 北京オリンピック, 自民党,

イスラエルがパレスチナ・ガザ自治区を包囲し、兵糧攻めとロケット弾攻撃を続けている事件は、相変わらず日本のメディアは伝えようとせず、その情報がほとんど入ってこない。
状況は深刻の度合いを深めており、憂慮すべき状態にある。緒方貞子JICA理事長が、その懸念を表明したのが10日のことだったが、日本政府はこれにたいして何ら反応を示していない。マスコミも沈黙したままだ。
14日にはアメリカ、イスラエル、パレスチナがエルサレムで3者協議を開き、2003年の和平案(ロードマップ)が定めた紛争停止への義務履行を検証しようとしている。しかしイスラエルはこのところ、あからさまなロードマップ違反を繰り返しており、この三者会議にも格下の国防省高官を出席させるなど、誠意ある対応を見せているとはいえない。
暴動
そして今度は、中国チベット自治区で暴動が起こり、中国軍が鎮圧に乗り出した。
その結果、当局側との衝突により少なくとも8人の犠牲者が出たとの発表があった。もっともこれは中国側が出したもので、チベット亡命政府の報道官は、少なくとも5人の少女をふくむ80人の遺体が確認され72人の負傷者が出ていることを明らかにしている。

パレスチナチベット
一見無関係に見えるかもしれないが、実は両者が抱えている問題には共通点が多い。
パレスチナとイスラエルとの関係は3月9日のエントリですでに述べた通り、ユダヤ人の故郷パレスチナを奪還しようとするイスラエルがそこに居住しているアラブ人たちを無差別に激しく攻撃している。

一方のチベットは、中国全土を支配下に置こうとする中国共産党政府と、仏教を信仰しダライ・ラマ14世を頭に民主主義的独立を願うチベット亡命政府が対立をしている。ご存じの通り、中国共産党は民主主義も宗教も認めない方針をとっており、彼らにとってダライ・ラマ以下仏教信仰で結束しているチベット民族が邪魔で仕方がない。
それでしばしば挑発を繰り返し、1988年にはチベット書記だった胡錦涛(現・国家主席)の指揮によって中国軍は聖都「ラサ」で大規模な殺戮と弾圧、そして宗教破壊を徹底的に行った。
ダライ・ラマ14世はすでに1959年、インドに亡命して臨時政府を樹立していたが、チベット自治区にはどんどん漢民族が入植し、いまや少数派となったチベット民族に圧力を加えている。これもイスラエル・パレスチナ問題と似ている点だ。
ダライ・ラマ14世
今回のチベットでの暴動も、中国政府は公表しないだろうが、挑発したのは中国側であり、チベット人たちが抵抗したのをいいことに軍を派遣して見せしめ的に犠牲者を出したのだろう。
ここにも大国の横暴と人権無視が行われているのだ。

それにしても、中国はあと半年後に北京オリンピックが控えているというのに、いかにも思慮の浅い行動を取ったものだ。あの胡錦涛が政権を握っている中国政府は「ダライ・ラマ14世の集団が暴動を策動した」と発表しているが、その説明はいかにも苦しい。武力で圧倒的な優位に立つ中国軍が、「自由」「民主」を願う人々に対して暴力をふるったことは明らかであり、それは決して許されるものではない。
この事件は世界中から非難されてしかるべきものだろうし、北京オリンピック開催にも影響を与えるのは必至だろう。

しかし、今回も日本政府の対応は、きわめて鈍い。
隣国で起きた暴動事件だというのに、なんのメッセージも発していない。
いったい何を考えているのだろう。
昨夜は、福田康夫が自民党幹部を集めて日銀総裁の後任人事のさしかえを協議したらしいが、世界の動きのなかで、日本がやっていることは本当に短視眼的というか、オタク的というか、なんだか溜息が出るようなことばかりだ。

毒入りギョーザ事件では図らずも中国に対する食の不安が露呈したが、中国という国はそれ以前から人権軽視が問題にされてきた国であり、その他にも環境問題、治安問題などさまざまな問題を指摘されている国だ。
こういう国で開かれるオリンピックに、日本はどこまでも馬鹿面下げて「平和の祭典」などと言って参加するつもりなのだろうか。
そしてメダルをいくつ取れるかと、そんなことばかりに国民を注目させようとしているのだろうか。

私は、必ずしもオリンピックをボイコットする必要はないと思う。
いたずらに中国を刺激しても得るところは少ないからだ。
しかし、この事態を見て何もしないというのは最低だ。
日本は少なくとも、中国政府に対する態度ははっきりさせてから、この大会に臨む必要があるのではないか。大事な食の安全を脅かされたうえ、人権を軽んじている国で、どうして黙って平和の祭典などと御祭騒ぎに興じることができようか。
日本は、毒入りギョーザの問題が解決するまではオリンピック参加を凍結すべきだし、今回のチベット問題をふくめ、人権問題について一定の回答を得るまではオリンピック参加を控えるべきだと、国際社会に立場を表明すべきではないか。
日本一国では、どうせ中国は相手にしないだろう。
しかし中国に対して懸念を抱いている国は多いのだ。それらの国に働きかけて、中国を動かすべきである。
そのうえで、オリンピックに参加するかどうかを判断すべきだ。

スポーツの大会を政治に利用すべきでないという意見は常に出てくるが、逆を言えばそれだけ、これまでのオリンピックはさまざまな政治の具として利用されてきたのだ。
今回だけ政治抜きでスポーツを楽しむというのは、無理というものだろう。

本音を言えば、私はオリンピックなど、もうどうでもいいと思っている。
世界中で紛争が絶えることがないのに、なにが平和の祭典かよ、と思う。
たとえその期間だけでも停戦させられるなら、少しでも意義があるというかもしれないが、もしそんなことが実現したとしても、戦争というものは、終結しないことには意義などないのだ。一時的に人殺しを止めたところで何になろうか。
アスリートたちには悪いが、彼らにはそれぞれの世界選手権で頑張ってもらうようにすればいい。
もうオリンピックが特別な大会であるという位置づけそのものを変えた方がいい。
そして、世界中から戦争や紛争がなくなったとき、あらためてオリンピックを再開させればいいのだ。

それでこそ、オリンピックが平和の祭典としての輝きを取り戻すことができるだろう。


ブログランキングに参加しています。
↓よろしければクリックを↓


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

関連タグ : チベット, パレスチナ, 中国, 胡錦涛, 北京オリンピック,

「わー、ウィンナみたいな匂いがする!」

生け垣の向こうを通りがかった子どもたちが、そんな声を上げていた。

生け垣のこちら側では、私が涙目になって庭のベンチに腰掛けている。

「いい匂いだろ。燻製を作ってるんだよ」
私はぼそっとつぶやいた。
ただし、ウィンナじゃなくてベーコンだけどね。

そう、日曜日の今日は、一週間前から仕込んでいたバラ肉をベーコンに仕上げる日なのだ。
天気はよし、もうすっかり春の日差しになった太陽の光が降り注ぐ。
もう冬物のシャツでは汗ばんできそうだ。
これで気分がもう少しよければ。
外には光がさんさんと照っているというのに、私といえば相変わらず午前中は調子が悪く、部屋のカーテンを閉め切って寝込んでしまう。

ようやっと起き上がり、いつまでも重心が定まらないアタマに顔をしかめながらも、私はプログラムされたロボットのように冷蔵庫から肉を取り出し、庭に出る。
スモークチップとバーベキュー用の炭は昨日のうちに買ってある。

ほんとうはリンゴのチップが欲しかったのだが、どういうわけか、いつも行くホームセンターにはリンゴがなくなっていた。仕方なく、サクラのチップを買うことにした。

スモーカーの皿に火をつけた炭をいくつか置いて、その上にチップをばらまく。
……チップをばらまく。

まるで金持ちになったような言い方だ。
たちまち煙が噴き上がり、チップをばらまいたお大尽の私は一瞬にして涙目となってむせ返る。
スモーカー
たこ糸で肉をくくりつけ、金網の上にはカミサンに茹でておいてもらった卵を置いて蓋をする。

さあて、これから5時間か6時間。
たっぷり時間がかかる。これこそスローフードってか。
真面目な私は、その間に仕事もしようと、残っている校正原稿を持ってきている。
ベーコン作りながら仕事もしちゃおうというわけだ。

しかし、ベーコン作りは何にもしなくていいようでいて、スモーカー内の温度が上がりすぎないようにしなければならないし、煙が出続けるようにときどきチップを足してやらなければならない。

ほれ、チップだ。

お大尽の私は、気前よく、口を開けているスモーカーに木片を放り込む。
スモーカーは機嫌がいいのか悪いのか、ふたたびモウモウと煙を吐き出す。

そんなこんなをやっていると、結局、仕事どころじゃなくなってしまう。
うまく行かないものだ。

しかしまあ、お日様がだいぶ傾いてきたころには、いい感じのベーコンと燻製卵が出来上がった。
ベーコン
今日はこいつを肴にバーボン・アンド・ソーダを飲るのだ。

うつ病者のささやかな幸せ。

ワンコも食いたそうだが、私と目が合うとすっと顔を背ける。
変な奴、ワンコって。
ブー太郎

■追記
以上のブログを書き上げ、さて一杯やろうかと居間に降りると、その不幸が待っていた。
なんと、食いしん坊の我が女房と娘が、ベーコンの大半をつまみ食いしてしまっていたのだった。
愚妻曰わく、
「今度から、ベーコン作るときはまとめて作ろうね!」だと。

ブ、ブァカヤロー!

ぐれてやる。(棒読み)……(c)美爾依さん


ブログランキングに参加しています。
↓よろしければクリックを↓


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

関連タグ : ベーコン, スローフード, うつ, ワンコ,

新銀行東京に対する400億円追加出資案などを審議する東京都議会の予算特別委員会は、与野党が対立、紛糾したために13日午後7時45分に始まり、14日午前4時20分まで続いた。
実に8時間半におよぶ長丁場だった。

拝啓
敬愛する石原東京都知事様

都知事というお仕事は、ほんとうに大変だと思います。
ヤトウという、言うことを聞いてくれない人たちが、いつまでも追加出資には反対だとか、悪いのはこの人たちだと言っているのに、昔のことを掘り返し、ほんとうの責任者だった人を証人として呼び出せと言ったりして、いつまでも寝かせてもらえないのですから。
ずいぶんお辛いことだったと思います。
さぞ眠かったことだろうとお察しします。
やってられねえよ、石原
知事は、会議がやっと終わった後、「半分ぐらい不毛だったね」と振り返っていましたが、ほんとうにその通りです。
せっかくお仲間の自民党や公明党の議員さんたちが新銀行のことにはふれず、証人喚問にも反対してくれたのに、ヤトウの人たちはひどいと思います。
でも、キョーサン党以外のヤトウの人たちは、不思議と証人喚問には乗り気ではなかったですね。やはりそれは知事の人徳というものなのでしょうか。

ほんとうは、こんなに長いこと会議をしなくたって、知事のお気持ちは最初から決まっていたはずですね。
周りには知事の言うことをよく聞いてくれる人たちばかりだし、悪かったところはみんなその人たちが責任を取ってくれるといっているのですから、証人喚問なんかする必要は全然ないのです。
400億円だって、もう知事のお気持ちのなかでは決済のハンコを押してしまっているのですから、今さら反対されても仕方ないですよね。
ほんとうにヤトウの人たちというのは、物わかりが悪い人たちだと思います。
さぞ、つまらない会議だったことでしょうね。
さぞ、お腹立ちだったでしょうね。

とくにキョーサン党というところの議員が、開業3年目も赤字になるはずだったマスタープランを黒字に書き換えたでしょうと言ったときには、心臓がつぶれるほど驚き、「びっくりさせるんじゃないよ!」とアタマにきたでしょう。
いまさら、本物の計画書なんか出せるはずないじゃないですか。キョーサン党の人は、いつまでたっても飲み込みが悪いですね。

この銀行の問題がここまでこじれてしまう前に、ほんとうは他の銀行に買い取ってもらいたかったのだけれど、どこも相手にしてくれなかったのだから、400億円くらい追加するのは仕方ないと思います。どうせ、東京には大金持ちの人がたくさん住んでいるし、大きな会社もたくさんあるのですから、もっともっと税金を取れるようにしてやれば何も問題はないですよ。

これだけ単純で簡単な理屈なのに、どうしてヤトウの人たちも都民の人たちも、わかってくれないのでしょう。
あの人たちのなかには、知事が自腹を切ってお金を払えなんて言う人もいますね。
まったく、どうしようもない人たちだと思います。
だって、知事にはまだ、とても一人前とはいえない政治家気取りの息子2人やタレント気取りの息子、それにニートみたいな芸術家気取りの息子がいるのですから、75歳になった今でも養っていかなくちゃならないですものね。
他人のお金だと思って、ほんとうに勝手なことを言う人たちだと思います。

でも大丈夫です。都知事は日頃から政界だけでなく、芸能芸術など世界的な分野にまたがる人々との交流をお持ちです。知事が少しでも困るようなことがあれば、きっと誰かが助けの手をさしのべてくれるに違いないと思います。今ある財産を少しくらい削ってやったって、いいんじゃないですか?
それに、友人知人の手を借りなくても、失った分はカジノでもこっそり開けばすぐ取り戻せます。それも念願だったでしょう?

知事は今まで通り、頭に浮かんだことをそのまま口に出していけばいいのです。そのやり方で三選も果たしました。
都民なんて、ちょろいものですよ。
この調子で、適当に支援者たちがいる地域にはナニかしら優遇措置を執るなどしてカネをばらまいておけば、四選、いや五選だって不可能じゃありません。
そうすれば知事在任中に東京五輪だって実現するでしょうし、外環自動車道だって全線開通するでしょう。

きっとみんなで知事のことを褒め称えてくれるでしょう。
カエサル
どうです、知事。
ことしから10月1日の大東京祭では、白馬が引く四頭立ての馬車に乗って、都知事の凱旋パレードを行っては。コースはもちろん、東京マラソンと同じです。もう一日くらい、都心の交通をストップしたって、誰も文句なんか言いやしません。
「私はシーザーでもアレキサンダー大王でもない」と知事はおっしゃいましたが、謙遜は不要です。
シーザーにならって、紅のマントを羽織り、仰々しく賑々しく麗々しく東京の中心部をパレードしてやればいいのです。
都民はきっと、石のつぶてバラの花を投げて呪う祝うでしょう。

石原都知事、唯我独尊とはお釈迦様がいった言葉ですが、知事ほどこの言葉にふさわしい人が、この日本にいるでしょうか。天上天下唯我独尊とは、世の中にはいろんな考えを持つ人がいるけれども、知事はたった一人の存在であり、知事にしかできない使命を帯びて生きておられる。だから、知事一人こそ尊いという意味です。
知事を選んだ都民を、これからも、奈落までどこまでも引っ張っていってください。
同じ空の下から、私はいつまでも見守っております。

敬具

追伸:
今日は、奇しくもユリウス・カエサルの命日でした。天上のカエサルは、どんな顔をしてあなたを見ていることでしょうね。

ブログランキングに参加しています。
↓よろしければクリックを↓


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

関連タグ : 石原都知事, 新銀行東京,

昨日は関東地方を大きな雨雲が覆ったらしく、午後から激しい雨となった。
傘を持たずに出てしまった私は、ひさしぶりにずぶ濡れという奴を味わった。

久しぶりに東京の事務所に呼ばれて、これまで書いた原稿のチェック(要するに校正というやつ)を大量にしなければならなくなったのだ。
原稿を書くのもそうだが、こういう一字一句を追いながら、表記や表現の間違い、文字の間違いを探し出すという神経を使う仕事は、非常にアタマに負荷がかかる。
案の定、夕方から私は鬱を露呈して、だらしなく別室で突っ伏すというか、しばらく呆然として時を送らなければならなかった。

呆然としながら、持って行ったノートパソコンを開き、自分のブログを見ていたら、なんだかとても嫌な気分になることに気がついた。

それは3月13日のエントリ「棄民政策をとるなら、いっそ安楽死法を制定したらどうだ」で、私は保険制度の改悪により所得の少ない老人たちが窮地に立たされ、治療が必要な人ほど病院にかかることができなくなってきている現実を批判した。そして、貧乏で保険料も支払うことができず、絶望のうちに死を待つしかなくなっている老人には、いっそのこと国が楽に死ねるよう安楽死法を作ったらどうだと書いた。
それはそれで自分が思っている通りのことを(暴論ではあるにせよ)書いたのだから、間違ってはいないと思っている。
しかし、その記事のためにイメージとはいえ、フリーで使えるとはいえ、見ず知らずのお年寄りの写真を2葉使ったことに、我ながら不快感を感じずにいられなくなった。
非常に失礼なことで、不謹慎なことをしたと反省している。
ということで、この記事からは写真を削除してあります。

もし、私のエントリを読んで不快な思いをした方がいたならば、責任はすべて私の無神経にある。
伏してお詫びする次第だ。

昨夜は遅くまで東京で仕事をして、ようやく自宅に向かうローカル線に乗ったのだが、大雨のためにダイヤは乱れているし、おまけにおんぼろ車両は天井から雨漏りをしていた。
こんなことは東京の電車では考えられないことだろう。
それほどの大雨がふったということでもあるが、ローカル線には他線で使い古した車両を使うために、雨漏りがするほど老朽化した車両を使っていることが、ここで図らずも明らかになったというわけだ。

地方に住むということは、こうした小さなところにも都心部との格差が現れている。
地方に住む人々は、そうした小さな我慢を受け入れ、忍耐を積み重ねて生活している。
東京のベッドタウン化しつつある私の住む地域は、人口が急激に増えているにもかかわらず、電車の数は一向に増えない。駅前のロータリーはせまく、出迎えの車があふれそうになって危険な状態が続いているが、再開発による整備の話は選挙のたびに持ち出されるものの、改善される気配はない。
駅前周辺の利権が絡んでいるためだ。

地方に住むということは、こうした不自由、不便を甘受しながら生きなければならないということでもある。
それでも、東京に比べれば空気はきれいだし、なんといっても空が大きい。
これだけは、金では絶対に買えないものなのだと、自分に言い聞かせている。

■今日はおまけをひとつ。
少し前に、人間用の「脳内メーカー」というのが話題になったけれど、新しくワンコ用の「ぽちメーカー」というのができている(にゃんこ版もあり)。ワンコ好きの方は、試してみてはいかが? ちなみに、ウチのワンコをやってみたら、以下のような結果が出た。妙にあたってるから、おかしい。(クリックすると大きくなります)

ぽちメーカー


ブログランキングに参加しています。
↓よろしければクリックを↓


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

関連タグ : 安楽死, 不謹慎, ぽちメーカー,

2月15日のエントリで、バター不足のことを書いた。

このことは菓子・製パン業界で昨年から深刻な状況となっており、業務用バターの不足はおそらくあと1年くらいは続くと見られる。

しかし昨日の朝日新聞夕刊では、バター不足が業務用だけでなく、家庭用にもおよびはじめていることが報じられている。
スーパーでの品切れおよび購入制限、学校給食のメニュー変更などの動きもあるようだ。

こうした深刻な状況を招いたのは何か。
新聞では、新興国の消費量が拡大したこと、飼料価格が値上がりしたこと、さらにオーストラリアの干ばつが重なってバターの国際価格が上昇、一部の食品メーカーが輸入から国産に切り替えたために国内の在庫が減ったことをあげている。

さらに、国内では原料の牛乳余りが続き、06年度から減産されたこと。そして牛乳が高く売れる飲料やチーズに優先的に回され、バターや脱脂粉乳に回される分が06年度で前年比7%減少、07年度にはさらに4%減った。そのために現在のバター不足現象が起きていると解説している。

これもすでに書いたことではあるが、今回のバター不足、その結果これから必然的に起きるだろう大幅な価格の上昇は、1にも2にも、日本の農政が見方を誤ったことに原因がある。

なぜならば、上に掲げた要因のうち、予測不能だったものは昨年のオーストラリアの干ばつくらいであり、その他のことは国際情勢を見極めておけば予測できたことだった。
さらに国内の牛乳余り現象を、安易な乳牛の殺処分という方法で調整したために、乳牛を増やすのに時間がかかり、その結果、生産量を回復させるのに時間がかかるようになったのだ。
つまり、農政は目先のことだけを見て1年先、2年先のことを見るのを怠ったために、このような事態が生じたということができる。

なぜ農政は、先を見ることができなかったのか。
目先の問題を見て対処するのは官僚の仕事であり、農水省の官僚たちは見事にその手腕を発揮して06年度に乳牛を殺処分する通達を畜産農家に出したのだろう。
しかし、このときもし農水省のリーダーである農水大臣がしっかりしていて、先を見越す能力を備えていれば、今日の事態は避けられたはずである。
なぜなら、リーダーとは常に先のことを考えて決断を下すのが、もっとも重要な役目だからだ。

現在の状況を招いたということは、2006年から現在に至る農水相は、リーダーとしての仕事をなさず、ほとんどを官僚に任せていたということだ。
2006年から現在までの農水相は誰が務めていたか。
小泉内閣当時の中川昭一(2005年10月~06年9月)
安倍内閣当時の松岡利勝(06年9月~07年5月 自殺)
安倍内閣 若林正俊(07年5月~6月 臨時)
安倍内閣 赤城徳彦(07年6月~8月 バンソウコウ大臣)
安倍内閣 若林正俊(07年8月 環境大臣兼任)
安倍改造内閣 遠藤武彦(07年8月27日~9月2日)
安倍改造内閣 甘利明(07年9月2日~3日)
安倍改造内閣・福田内閣 若林正俊(07年9月4日~現在)

なんとまあ、こうして見るとわずか2年半の間にこれだけ大臣の首がすげ変わっているのだ。
個々の大臣の資質はおいておくとしても、これではリーダーとして1年先のことを考えるヒマもなかったことだろう。明らかにリーダーとして失格だった男たちもふくまれているが、1%くらいは彼らに同情してもいいような気持ちになってしまう。

なるほど、これではバターが品不足になり値上がりするわけだ。

やはりこんな事態を引き起こした、いちばんの責任は首相にあるだろう。
大臣が不祥事を起こすたびに、首相の任命責任が問われてきたが、こうして見ても、安倍晋三という男がいかに人を見る目がなかったか。そして日本の政府がいかに農政を真面目に考えてこなかったかがわかる。

今、社会では原油の高騰に端を発してさまざまな品物の値上げが、次々と国民に襲いかかってきている。
それに対して政府は何ら手を打とうとしていない。
福田康夫は、多くの大臣を安倍内閣から引き継いで組閣をしたが、彼はリーダーとして何を見て自分の内閣を作ったのだろうか。農政の不始末ひとつを見ても、それが疑問だ。
そして福田康夫という男は、これから何をやろうとしているのだろうか。
福田康夫
海自が起こした殺人事件ではへこへこと被害者宅を訪れて人のいいところをアピールして見せたが、日銀総裁人事では、あきらかに人品が劣る武藤敏郎を野党から否定されて「困った、何が悪いのかわからない」とうろたえる。

とても1年先、2年先を見越して国を運営していこうとしている人間には思えない。
彼はいったい何をしようとしている総理大臣なのだろうか。

日本の農政の失敗を見ているうちに、私の心配はいやが上にも日本の国政の不安におよぶのである。
3月3日に行われた毎日新聞の内閣支持率調査では、不支持率51%。

私にはまだまだこの数字は低すぎると思えてならない。


ブログランキングに参加しています。
↓よろしければクリックを↓


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

関連タグ : バター不足, 値上げ, 農政の失敗, 農林大臣, 福田康夫,

「血液検査いらん。高うつく」

脳梗塞で倒れ、寝たきりになった82歳の老人は妻と二人暮らしだ。
働くことができなくなった夫をかかえ、生活は妻がパートに出て支えている。
収入は、妻のパート代13万と夫の障害年金6万ほど。

かつかつの生活である。食費と医療費で、収入の大半が消えていく。
だから、余計に金がかかる検査は、たとえ必要なものでも受けることができない。

もう一人の60代の男性。
彼はひとり暮らしで、保険料未納のために保険証を取り上げられている。
体の異常に気づいて医者にかかったところ、すでに末期の喉頭癌に侵されていた。

息子はいたが、今は音信不通。
働くこともできず、病院に入ることもできず、男性はまるで木賃宿のように何もない殺風景な部屋に横たわっていた。

古舘伊知郎が好きではないためにあまり見ない「報道ステーション」だが、昨夜はつい見てしまった。
ちょうどチャンネルを合わせたときに、やっていたのが地方の医療格差の問題だった。

若い世代は比較的病院にかかることが少ないのに比べ、高齢者ほど病気になる率が高くなる。
とうぜん、医療費は老人の方が多くかかる。これまでのように65歳以上は無料で診療させていては不公平が生じるうえ、医療保険制度そのものがたちゆかなくなる。

そんな考えから、医療制度の改革が行われた。
具体的には、平成18年10月から70歳以上で現役並みの所得(夫婦2人世帯で年収520万円以上)がある人の窓口負担が2割から3割に引き上げられた。長期療養の療養病床で入院する70歳以上の患者は、食費や光熱費など居住に必要な費用が原則、自己負担となった。

さらに、窓口負担については、2008年4月から現役より所得が少ない70~74歳の人も現行1割から2割に引き上げられる。75歳以上の高齢者に対しては、「後期高齢者医療制度」を創設し、保険料率を都道府県別に設定する仕組みを設けている。
「医療が必要のない社会的入院が多い」という指摘がある療養病床(38万床)も、2012年度までに15万床に削減するほか、1)都道府県が「医療費適正化計画」を策定し、生活習慣病予防事業を実施して5年ごとに成果を検証する仕組みの創設 2)出産育児一時金(30万円)の35万円への引き上げなどが盛り込まれた。

読売新聞によると、この制度改革は、少子高齢化が進む一方、国の財政再建が大きな課題となる中、医療費膨張の主因とされる高齢者を対象に医療制度を見直すことで、持続可能な制度に改めるのが狙いで実施されるということだ。

つまり、政府がやった医療制度改革とは、今の制度を圧迫している元凶である高齢者をできるだけ切り捨て、保険制度を維持しようという企みである。
医療費の負担を平等にするとはいっても、弱者である老人から取る金は一気に100%の値上げをするのだ。おまけに、施設に入っている患者については食費・光熱費などが自己負担となる。
これは年金で細々と暮らしている老人たちにとっては半分死ねといっているようなものである。

実際、私の父親も施設に入所して5年になるが、一昨年10月から一月分の費用が3倍の15万円ほどに跳ね上がった。父親の場合は厚生年金だったこともあるが、その額の増加分を見たとき、私は目を疑ったものである。

今回おこなわれた医療制度改革は、生活力のない老人ほど、必要な医療が受けられない仕組みになっている。だから報道ステーションで紹介した老夫婦も、生きて行くのがやっと。末期ガンの男性は収入もなく、ただ死ぬのを待つばかりの状態だった。
老齢で、収入がすくなくなっているのに、保険料は上げられていくし診察・治療費も負担が増加する。
このままでは保険料が支払えず、保険証を取り上げられる老人がどんどん増えていくだろう。そうして必要な医療を受けられないまま、苦しみながら死んでいく老人がさらに増えていくだろう。
政府は、口では公平な医療費の負担をなどときれい事を言っているが、これはまさに棄民政策のひとつと言っていいのではないか。

おそらく、政府の真意はこうだろう。
老人が増えすぎて医療費がかさむ。これでは若者の負担が増えるばかりで不公平だ。
それならば、貧乏な老人から医療の機会を奪い、死ぬべき人には早く死んでもらった方がいい。

地方では病院がへり、病院があっても医者がいなくなっている。
救急の治療が必要なときにも、設備が整った病院は常に手一杯で受け入れる余裕がない。
そこで政府のもう一つの真意はこうだろう。
金のない自治体に住んでいるのが悪いのだから、そういう人から先に死んでもらった方がいい。

かくて都市部に住む金持ちと若者たちの負担は軽くなり、保健医療制度も健全化するというわけだ。


それならば政府に提言しよう。
いっそのこと、日本でも安楽死を法律化したらどうだ。
金もなく医療も受けられず、社会から見捨てられたようにしている老人は、日本中に山のようにいる。そのなかには動けなくなった体で痛みに耐え、絶望しながら、いっそ死んでしまった方がいいと思っている人が大勢いるはずだ。

保健医療制度を健全化し、世の中にはきちんと保険料を納めることができる人だけ残したいのなら、そこからあぶれる人たちには、せめて楽に死なせてやる方法を、法的に用意してやったらどうだ。
医療制度が変わって、苦労して生きてきても金もなく、生きる希望もなくなった人には今度から1割負担で楽に死ねる制度ができましたと告知してやったらいい。
口先だけで「お年寄りには長生きしてもらいたい」と百万遍唱えたところで、当の老人たちを絶望に追い込んでいる今の社会には生きる価値がない。
ならばいっそのこと、楽に死なせてやる方法を認めてやればいいではないか。

日本は欧米の先を行く、絶望した人々が合法的に安楽死を選べる国家として名を馳せるだろう。
新自由主義による改革が、また大きな実を結ぶことになる。
竹中平蔵も小泉純一郎も、安倍晋三も、小躍りして喜ぶことだろう。

国は合法的に、人が自ら死を選べる制度を制定せよ。
暴論と言われてもいい。
国は暴論でしか対応できない社会を作りつつあるのだから、仕方がない。
弱者は死ぬべし。安らかに死ぬ機会を国が提供するから、と。

しかしそのときは、弱者といえども黙ってはいないぞ。
覚えておくがいい。


ブログランキングに参加しています。
↓よろしければクリックを↓


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

関連タグ : 医療制度改革, 自己負担, 老人医療, 医療格差,

私とて仕事をしなければならない事情がある。

しかし、この男のことを考えると頭の中は逆上し、せっかく仕事に向かった意識は脱力し、怒りと侮蔑と嘲りと嘆きと義憤と痛憤が体の芯を貫いて平常心を保つことができなくなる。
私は異常な人間となる。

それほどに、石原慎太郎という男に対して怒りを感じる。

昨日の都議会で、石原は案の定、野党議員から新銀行東京のことで厳しい追及を受けた。
とくに民主党の山下太郎がトップダウンで銀行設立を決めた知事の責任が大きいと追及すると、石原は「私はシーザーでもアレキサンダー大王でもない」と声を荒らげ反論した。そのうえで「トップダウンという言葉の使い方を、政治家として知らないのではないか」と言い返した。
石原シーザー
笑止である。
石原ごときに言われたのでは、カエサルもアレキサンダーも片腹痛しと思うことだろう。
お前ごときに比べられる覚えはないと言い返すだろう。

新銀行東京は、開設当初からうまく運営できるはずがないと言われていた銀行だ。
資金繰りに悩む中小企業を救うとは名ばかりで、この銀行が提供する融資はいずれも短期、高金利で、中小業者に役立つものとなるどころか、困難に追い打ちをかけるケースもあった。
最近では、金利が一律14%の「わらしべローン」などというトンデモ商品まで出していた。
他の信用金庫や信用組合の利率が4%であるのと比べれば、その無茶苦茶ぶりは明らかだろう。
これでは借りたくても利子を払っていけない企業が大半で、事実、ほとんど誰もこのような融資は受けようとしなかった。
のみならず、この銀行は都庁職員からも見放され、誰も預金しようとさえしていないのが実情だ。

そのうえ石原は、共産党の吉田信夫が新銀行の開業時にすでに大手銀行が中小企業融資を始めていた状況を踏まえ、「知事は慎重な姿勢が欠けていた」と批判したのに対して、
「私にも『責任』がありますよ。墜落寸前の銀行を上昇させることだ。さんざん話してきたじゃないですか」と開き直った。
さらに吉田の「あなたが会社の社長だったら、1000億円の大穴をつくれば即辞任だ」という追及に対して石原は、
「最初から私が社長だったらもっと大きな銀行にしていますよ」と、居直ってみせた。

ほんとうにこの男の傲慢さと馬鹿さ加減には言葉を失う。
どこかに、このバカにつける薬はないものかと心が痛くなる。
朝日の報道によれば、ここまで開き直っておきながら、石原は都合の悪い質問には自分で立ち上がることもせず産業労働局長の佐藤広に答えさせた。
仁司泰正・元代表執行役の任命責任について問われ、「銀行設立準備担当部署が候補者を決め、最終的に知事の了承を受けた」と答弁させた。
「都議会は議会ごとに新銀行問題を取り上げてきたが、知事は馬耳東風だった」との指摘にも、明確に答えようとしなかった。
まいったな
すでに何度もこのブログで取り上げているように、この期におよんで石原はこの無用の銀行に対してさらに400億円もの金を注ぎ込もうとしている。

多くが財政難に苦しむ地方自治体から見れば、そもそも無担保・無保証で金を貸す銀行を作るという発想自体が信じがたいものであり、経営の穴埋めに400億も支出するなど、これまた考えられないことである。
地方税収入が5兆円を上回る超富裕自治体ならば可能なのかもしれないが、それでも400億といえば都が新年度から始める低所得者支援策の4年分に相当するというではないか。
なぜ、東京都にはこんな無駄遣いが許されるのか。
これは地方全体の声でもある。

東京マラソン、オリンピック誘致、築地市場移転、東京外環道建設。
石原がやってきたこと、やろうとしていることはどれも税金をばらまくことばかりだ。
そのうえ、400億も出す金があるのなら、低所得者支援を4倍手厚くしてやればいいではないか。
地方との格差是正のために基金のひとつも設けてやればいいではないか。
ほんとうにこの男の金銭感覚には目眩さえ感じてしまう。
この場に昏倒して、血反吐を吐きそうな思いになる。

カエサルは、帝国が拡大するにつれ現実に合わなくなってきた共和制という統治体制を改めた。
それは帝政という権力が集中する体制ではあったが、ローマ帝国は以後およそ200年にわたるパクス・ロマーナを築いた。
しかし独裁者の石原は、これから何を築こうとしているのか。
これから何を築けるというのか。

おのれをカエサルと比較するなど、100万年はやいというものだ。


ブログランキングに参加しています。
↓よろしければクリックを↓


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

関連タグ : 石原慎太郎, 新銀行東京, 低所得者支援, カエサル,

武藤敏郎を調べていて、いきなり「ノーパンしゃぶしゃぶ」なんて言葉が出てきたから、あんまり懐かしくなってしまい、当時のスキャンダルをもう一度調べてみる気になった。

その結果、
1.旧大蔵省検査局と銀行とは癒着関係にあった。
 つまり、銀行側は大蔵省の金融政策をいち早く知るために、役人たちを接待づけにしていた。それは常態化したことであり、役人側の要求もしだいにエスカレートしていった。そのなかで出てきたのが「ノーパンしゃぶしゃぶ」接待要求だった。
しかし、役人どもがあまりにつけあがり、目に余るものが出てきたので1998年1月、東京地検特捜部は、銀行検査を行う金融検査官らを収賄容疑で逮捕。ここで改めて大蔵官僚たちが「ノーパンしゃぶしゃぶ」接待を要求していたことが明らかになった。
財務省
2.ノーパンしゃぶしゃぶ「楼蘭」の顧客名簿
 ネット上にはノーパンしゃぶしゃぶを愛用していた役人どもの顧客名簿が出ている。
 それによると、日銀副総裁の福井俊彦の名前はあるが、武藤敏郎の名前はない。
 しかし、日銀、大蔵省はじめ、ご愛用の方々には厚生省、農水省、食糧庁、通産省、運輸省、郵政省、労働省、建設省、資源開発公団、地域振興整備公団、森林開発公団、石油公団、新東京国際空港公団、首都高速道路公団(いずれも省庁名は当時のもの)が並んでいる。
 当時の霞ヶ関の役人にとって「楼蘭」は銀座4丁目の和光ビルみたいに有名なところだったんだろうね。
 それにしても、いかにお役人たちが愛用していたか。よっぽど「楼蘭」は美味絶景をそろえていたということでありましょう。

3.各銀行・保険、証券会社には大蔵省に詰めてその動向をもらさずキャッチするのが役目の「MOF担」というセクションがあり、この担当者が役人どもを接待づけにしていた。地検特捜による捜査が入ったとき、各銀行・保険・証券会社は自分の所から逮捕者を出したくないがために洗いざらい接待の内容をゲロした。これが国民を激怒させ、大蔵省からは逮捕者が出ただけでなく、自殺者まで出た。

4.このスキャンダルが原因となって、大蔵省の金融機関検査監督機能は大蔵省から切り離され、「金融監督庁」(今の金融庁)に移管された。
 つまり、今の金融庁を作ったのは、もとはといえば「ノーパンしゃぶしゃぶ」だったということだ。

5.蛇足ながら、お若い人のために「ノーパンしゃぶしゃぶ」とはどんなものだったかを簡単に。
 たぶん80年代だったと思うが、新宿歌舞伎町で「ノーパン喫茶」というのが出現して話題になった。
超ミニスカートのウェートレスがいて、彼女たちはパンストの下に何もつけていなかった。客は、ウェートレスが動くたび、スカートが揺れるたび、何かが見えることを期待してコーヒーをむせながら飲んだのである。ノーパン喫茶の大流行にあやかって、さまざまな類似商法が現れた。その一つがノーパンしゃぶしゃぶで、他にはノーパン焼き肉というのもあった。

6.ネットとは大したもので、ノーパンしゃぶしゃぶの体験談も出ている。
 それによると、店内はテーブル席で、客の横に紙っぺらのようなスカートをはいたスケスケルック(古っ!)の女の子が座ってしゃぶしゃぶをサーブしてくれるというものだったようだ。で、ドリンクをオーダーすると、ボトルが微妙な高さにそろえてあって、女の子が立ち上がってボトルを取る、その角度によって有り難い眺めを拝めたのだそうだ。

7.2004年10月の「きっこの日記」を見ると、ノーパンしゃぶしゃぶにはスマップの仲居が入り浸ってた事実が書かれている。ちなみに同日記によると、ノーパンしゃぶしゃぶスキャンダルが発覚した1998年は現・宮崎県知事の東国原英夫が淫行事件で逮捕され、彼のマネージャーの安原慎一は出会い系サイトで知り合った女の子たち数十人を騙してホテルに連れ込み、強姦した廉で逮捕されていることも記されている。

以上のことがわかった。
今から振り返ると、1998年は10年後の日本にとんでもないダメージを与えることになるきっかけが、いろんなところで顔を覗かせていた年だったということになる。

それにしても日銀総裁人事。どうにかならんものか。
あの妙にテラテラした顔をした武藤敏郎の顔が、もう嫌らしく見えて仕方ない。
あんな男を世界の金融トップたちの前に出すなんて、考えただけでも恥ずかしいことだと思うよ。
武藤総裁候補
だいたい、武藤と福井俊彦のノーパンしゃぶしゃぶコンビが出席した、2月9日のG7では日銀の無策ぶりが露呈されているわけだし、武藤では力不足なことはあきらかなのだ。
自民党はいつまでもグダグダ言ってないで、早いとこ代替人事案を出すべきだ。
そうしなければ、今後ほんとに日本は国際的な笑いものになるっていうことを自覚すべきだろう。





追記:
今朝の朝日新聞の社説を読むと、朝日は「腑に落ちぬ不同意の理由」として、最初に自民党案つまり武藤敏郎ありきの考えらしく、それに異を唱える民主党をたしなめる論調を取っている。
私としては、まず武藤が日本の金融トップとしてふさわしい人格の持ち主ではないことから反対である。
同時に、民主党が唱えているように、副総裁人事に対しても、伊藤隆敏・東大大学院教授は格差政策を推進したことを根拠に反対の立場を取る。

朝日は、性犯罪者の東国原英夫が県知事になれるくらいなのだから、ノーパンしゃぶしゃぶで女の股ぐらを眺めながら肉を食っていた役人たちを是とした武藤など罪は軽いと考えているのだろうか。
だとしたらとんでもない考え違いだ。
日本では、相撲の横綱を決めるのでさえ人品骨柄を重視する。
いわんや日本の大事な代表を決めるときに、情実に弱く隠蔽体質を持つ男、つまり国民に対して不誠実である男を選ぶなどは論外であるはずだ。

朝日は総裁人事を政争の具としていると民主党を批判したいようだが、これは政争の具以前の問題だ。
まして「国民の多くが野党に期待するものは別のところにあるのではないか。それはガソリン暫定税率や道路特定財源の固い岩盤に穴をあけ、納得できる修正案をまとめることだ」とは見当違いも甚だしい。国民が期待しているのは格差是正、年金問題、社会保障、医療問題を解決することだ。
問題をはき違えるにもほどがある。本当に大切なものはなにも見ていないではないか。

つくづく、ジャーナリズムも劣化したものよ、と呆れてしまう。



ブログランキングに参加しています。
↓よろしければクリックを↓


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
いやはや、なんとも。

経済についてはからきしオンチの私だが、この格差社会が到来したのはコイズミだけでなく日銀トップにも責任があるのではないかと思っている。

その日銀総裁の、後任人事が今揉めている。
総裁の福井俊彦が任期満了で退任し、自民党はその後釜に現副総裁の武藤敏郎を昇格させようとしている。
ところがこれに民主党が待ったをかけた。
「財政・金融分離の原則に反する」というのが、その理由だ。
要するに、財務省の役人だった武藤が、金融のトップになるのはまずいということらしい。
しかし暗愚な私には、それがどの程度まずいことなのかがわからない。
どういうことよ、ご隠居さん。

いくら私が八つぁんに扮しても、教えてくれるべきウチのご隠居は、とうに呆けてしまった。
まあ、私の親だから、呆けていなくても教えちゃくれなかっただろうけど。

それでは仕方ない。
今さら経済を勉強しなおす根性など私にはないから、武藤敏郎なる人物がどういう男なのかを調べてみた。
武藤敏郎
そしたら、そしたら。なんとね。

武藤という男は開成高校→東大法学部→大蔵省(当時)という、お受験エリートだったことがわかった。
まあ、そうかもね。
いや、そうだろうね。
そういう感じである。

だが、これだけでは武藤という人物の表面しかわからない。
なんとか私程度の男にも理解できる手がかりはないものか。
そう思った。そして祈った。

すると、なんと祈りは通じた。
いや、それほど大袈裟なことじゃないのだが。

武藤は同省入省後、大臣官房文書課に配属されている。同期には拉致問題で顔を売った中山恭子や公取委事務総長の塩田薫範、造幣局長の井坂武彦、金融庁長官の森昭治らがいる。中山以外、私は知らないが、肩書きだけ見てもすごい連中だ。
彼ら昭和41年に入省した若手はみなできがよく、「花の41年組」などと呼ばれたそうだ。

武藤はその後、銀行局中小金融課長、
大臣官房秘書課長を経て平成4年6月に主計局次長。
大臣官房総務審議官を経て平成9年7月に大臣官房長。
ここでもう一度、大臣官房総務審議官となって平成11年7月に主計局長。
平成12年6月から大蔵事務次官となり、平成13年の省庁再編で財務省事務次官。
平成15年1月に財務事務次官を辞職し財務省顧問。
平成15年3月20日に日本銀行副総裁に就任……

疲れた。↑のゴチャゴチャは飛ばしちゃってもいいです。
ただし重要なのは平成9年に大臣官房長になり、「もう一度」大臣官房総務審議官になったというところだ。
要するに、降格されているのだ。

実は、武藤が大臣官房長をしていたときに、いわゆる大蔵省役人たちの「ノーパンしゃぶしゃぶ」スキャンダルが持ち上がっている。
そして武藤はこれがきっかけで官房長から総務審議官に更迭されているのだ。
ノーパンしゃぶしゃぶ
なつかしや。
いや、私はその店に行ったことがあるわけではない。
ただ行こうとして断られたことがあるのだ。
事情はここに書かない。

行こうとして行けなかった店ではあるが、ノーパンしゃぶしゃぶだもの、それがどんなサービスをする所かなど、想像するほどの手間もいらない。それ以前に、イヤというほど当時のマスコミは「ノーパンしゃぶしゃぶ」の中身を紹介してくれたものだ。ノーパンとしゃぶしゃぶという言葉の組み合わせが、マスコミはよっぽど気に入ったらしいからね。
ま、私もギャハハと笑いはしたよ。まだ元気だったし。

私のことはさておくとして、武藤だ。
大臣官房長とはどういう仕事をしていたかというと、民間の企業では人事部長のようなものらしい。ということは、省内でスキャンダルが発生したときには、それが事実かどうかを調べる立場にあったわけだ。
ところが、武藤は同僚が「ノーパンしゃぶしゃぶ」接待を受けた事実はないと証言した。
しかし、地検の捜査は見事にそれを覆し、武藤は更迭されたというわけだ。

つまり、武藤敏郎という男は、仲間を守るためにはスキャンダルが起きても国民に対して嘘をつく隠蔽体質を持つ男だということだ。
嘘をついて罰を受け、降格されたのだから官房長としては不名誉この上ないことだ。
私は会社員ではないからわからないけれども、クライアントに対して嘘をついたことがバレてリーダーを解任されたら、もしかしたら職を辞しても不思議ではなかったのではないか。

ところが武藤はそのまま省内に留まり、仕事を続け、昇進話が来ればそれを受け入れ、人生双六のコマを淡々と進め、ついには花の日銀へと栄転までしてしまった。
ノーパンしゃぶしゃぶのスキャンダルは過去のもの、とばかり、いつの間にか副総裁になって、とうとう総裁の座に王手をかけるところまで来たというわけだ。

なんだ、人間として尊敬できないヤツじゃん。
イヤだよ、私はこんなオヤジに日本の金融を牛耳られるのは。
民主党も、「財政・金融分離の原則に反する」などといわず、
「だって彼奴はノーパンしゃぶしゃぶスキャンダルのときに仲間を庇った奴なんだぜ」
そういえば一発でわかったのに。

ちなみに、目出度く勇退される福井俊彦だが、彼もまた日銀副総裁在任時にノーパンしゃぶしゃぶ接待を受けた廉で日銀を追い出され、富士通総研に入所している。
福井俊彦
なんだ、こいつら「ノーパンしゃぶしゃぶ」つながりだったんだ。
さすが自民党、いい人材を選んでくれるよ。
さすが福田康夫だ。「武藤さんのどこがいけないのか、わからない」とはよく言ったものだよ。
いけないところだらけじゃん。

武藤はやっぱり日銀総裁などならず、福井先輩と一緒に新手の風俗にでも出かけた方がいいんじゃないのか。
私はそう思うよ。

経済のことは相変わらずわからないけどね。


ブログランキングに参加しています。
↓よろしければクリックを↓


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

関連タグ : 日銀総裁人事, 武藤敏郎, 福井俊彦, ノーパンしゃぶしゃぶ, 自民党,

資金のやりくりに困った。
仕事が出来ない、生活していけない。
預金もない。どうにかしなければならない。

そんなときに、担保もいらない、保証もしなくていいから金を貸してやるといわれれば、誰だって飛びつくだろう。ちょいと帳簿に細工して、そのうち返せるような数字を書き込んでおけば、担当者は財務状態をろくに調べもせず、ほとんど盲判で上限の5000万円まで融資してくれるのだ。

そうとなれば返す当てなどなくたって、いざとなれば倒産して返せませんといえばいい。
借りられるだけ借りておこうという詐欺野郎もでてくるだろう。
当然である。こんなうまい話に乗らない手はないもの。
私だって考えるよ、真剣に。
しかしまっとうな世の中では、そういう出鱈目なことはあり得ないというものだ。

ところが石原慎太郎が例の強引な手法で選挙公約にまで掲げて開業させた新銀行東京は、ほんとうに信じられないことに、無保証・無担保で金をばらまくような真似をマジで行っていたのだ。

その結果、貸し倒れが続出して経営は悪化、焦げ付きは今年1月末の累計で285億円に膨らんだ。
東京都が出資した1000億はどんどん食い潰され、とうとうそれだけでは足りなくなり、こんどは400億円の追加出資をしようということになった。

もちろん、これらはみな都民から徴収した税金である。


10日、新銀行東京の津島隆一代表執行役は都庁で記者会見し、経営悪化を招いた原因を探る調査報告書の概要を公表した。
津島執行代表役
それによると、
トヨタ自動車出身の仁司泰正元代表執行役ら旧経営陣が過剰融資を奨励し、デフォルト(債務不履行)への甘い認識があったと指摘した上で、「旧経営陣の極めて不適切な業務執行により、多くの不良債権が発生、経営を悪化させた」と述べた。(時事通信社)

銀行は、旧経営陣に対する刑事・民事での法的責任追及を示唆しており、4月以降、損害の範囲などについて弁護士や公認会計士を交えた再調査を進め、今年中に結論を出す方針。特に仁司氏については「他の執行役以上に損害に対する相応の責任を求めていくことが適当」とし、厳しい対応をとる見通しだ。(毎日新聞)

しかしその一方で、石原慎太郎都知事など設立を主導した都側の責任にはいっさい触れない内容となった。

なんじゃこれは。
これでは設立当初から経営が危ぶまれていた銀行を無理矢理開業させ、トヨタから仁志泰正をトップに任命した石原慎太郎は、無罪潔白ということになる。
そんな馬鹿なことがあるか。

石原は10日の調査報告書の感想を聞かれ、「代表執行役が独断専行で反対意見を聞き切れていなかった」と、すべての責任を仁志に押しつけている。
しかし、もとはといえば中小企業を救済するというニンジンをぶら下げ、選挙公約にまで掲げて独断専行で新銀行東京を開業させ、1000億円の出資を決めた張本人は、石原慎太郎のはずだ。
銀行開業式典で、やに下がった顔をさらしていたのも石原その人だ。

それらの責任と、ずさんな経営をしていた仁志を任命した責任は、どうなるのだ。
石原慎太郎こそ、もっとも重い責任を問われてしかるべきだろう。
石原慎太郎
もっとも、今回の調査報告は、津島代表執行役はじめ元都職員の手によって作られたものだ。
ヤクザの親分のような石原に頭が上がらない連中が、公正な評価をするはずがない。

実際、旧経営陣の最高幹部の一人は「都などが作った当初計画に沿った事業をしただけ」と反論している(朝日新聞)。
デフォルト(債務不履行)を容認する業務をしたことがこのような結果になったという指摘に対しても、もとはといえば都などが設定したスコアリングモデル(無担保無保証融資を使う機械による自動審査)で自動的に融資が決められたのだから、あり得ないことだと言っている。
要するに、石原は徹頭徹尾、責任を旧経営陣に押しつけて逃げおおせようというつもりなのだろう。

まったく、旧経営陣にしてみれば言うことを聞いてその通りやったのに、いざとなると後ろ足で泥を引っかけられたような気がしているだろう。
今後、法的責任などの追及が強まれば、彼らも黙っていられまい。
石原がやってきたことを白日の下に曝してやればいい。
そのときこそ、石原の年貢の納め時だ。
この男には、傲岸不遜に恣意的な政治を行ってきた今までのつけを、すべて返してやる必要がある。

弱者を救うかのようなポーズを見せながら、その実、弱者のことなどなにもわかっていなかったことが今回の結果にも現れているのだ。
都民は決してこのことを忘れてはならない。
そして、都民のカネを使って、自分の汚れた尻を拭こうとしている石原慎太郎に鉄槌を下してやるべきである。
長らく日本の政界に寄生し、暴言暴論で日本をひっかきまわしてきた、あのダニのような男を、一刻も早く駆除してやるべきである。


ブログランキングに参加しています。
↓よろしければクリックを↓


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ



関連タグ : 石原慎太郎, 新銀行東京, 経営責任, 債務不履行, 東京都知事,

今朝の朝日新聞では、「石原銀行」こと新銀行東京で、開業からわずか3年間で17人もの役員が辞任していたことを報じていた。
放漫経営の見直しを進言したが聞き入れられず、見切りをつけたという談話が出ている。
また、別の元幹部は「放漫経営を厳しく追及するほど煙たがられ、再任されずに辞めていった」ことを明かした。
辞めていったのは役員だけではない。行員たちさえ3ヵ月に20~30人のペースで辞めていったという。
いまやこの銀行は、まさに死に体である。


無駄に無駄を重ねようとして石原慎太郎は、すでに400億円の追加出資をしようとしているが、これに対しては当然ながら都民から激しい反発が出ている。
ところが石原ときたら「都民の方々は詳細を知らない」などと批判逃れに終始したという。
さらに責任問題に触れて、知事が私財を投じるべきだという意見が出ていることについては、「法律の体系の中でどういう責任があったかで、心情的に言われても世の中に通る話じゃない」と不愉快そうに答えた。
慎太郎
責任逃れと居直り。
まったく、この男はほんとうに質が悪い。
このままで都知事でございと、この男は言い続けるつもりなのだろうか。
今後、都議会では400億の追加出資に対する審議が行われ、石原に対する責任が追及されていくことだろう。
ここにきて石原は、何を説明しても支離滅裂の状態だ。
これ以上バカな出資をさせないためにも、そして稀代のポピュリストとして悪政を重ねてきた石原を葬り去るためにも、議会は責任追及の手をゆるめるべきではない。
そして最終的には石原を逮捕するか、私財を投じさせて賠償責任を取らせるべきである。


ブログランキングに参加しています。
↓よろしければクリックを↓


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

関連タグ : 石原慎太郎, 新銀行東京, 破綻, 責任追及,

もう何年も前、はじめて子どもを水族館に連れて行ったときのことだ。
そこはガラス製の巨大な水槽が呼び物で、中では数百種類の魚たちが遊泳していた。
知らない魚もすいぶんいたが、私が見てもすぐにわかる、アジやイワシ、シマアジ、タイ、それにカツオとマグロも泳いでいた。
私はそれらをぽかんと見上げながら、思わずつぶやいた。

「美味そうだな」

すぐに傍らにいたカミサンにたしなめられたが、私にとって水槽の中を泳いでいる魚たちは、いけす料理の居酒屋の巨大版みたいなものだった。
「イカ刺し一丁!」
なんて言いながら、網でイカをすくい上げ、その場で刺身にしてくれる、アレだ。
もちろん、水族館で刺身料理を出す居酒屋コーナーはなかったけれど。

くじら
近年は、イルカウオッチングやホエールウオッチングなどというものが流行している。
イルカやクジラが棲息している海域まで行き、それらの泳ぐ姿を間近で眺める。
巨大なクジラが姿を現し、潮を噴き上げる様子は迫力満点。
というよりも、その姿になにやら感動してしまって泣き出す人までいるという。
イルカは触れあうことで障害を持った子供を癒す効果があると言われ、イルカセラピーは日本でも行われている。

イルカやクジラを見て感動したり、癒されたりする人は、これらの動物の漁をすることをどう思うだろう。
もしかすると私などはホエールウオッチングをしたら、あのヒレが美味そうだとか口走って顰蹙を買うのだろうな。

食文化というのは、国によって昔から受け継がれてきたものであり、世界中の人間があのイヤらしいマクドナルドのハンバーガーを食べるようになっても、かろうじて固有性を保っている。
日本にしてみれば、クジラ食や(私は食べたことないけれど)イルカ食、イノシシ、シカ食などが歴史ある食文化として残っている。
韓国や中国などではイヌ食が行われているし、中国ではクマの手が最高のごちそうとして食べられている。
世界中をみわたせば、ほんとうにいろいろな動物が、人間のために食べられている。
エジプトの方ではラクダの丸焼きなんかもあるそうだし、アジアから中東にかけては山羊や羊がごちそうになっている。これらの動物は単に食料としてだけでなく、神に捧げる生け贄として命を捧げられたりもしている。

さて、今、捕鯨国である日本と、捕鯨に反対する国々とが対立している。
ことにここ数日は、南極海で調査捕鯨をしている「日新丸」とアメリカの反捕鯨団体「シー・シェパード」が衝突して騒ぎを起こしている。
私はグリーン・ピースにしろシー・シェパードにしろ、環境保護運動と称して活動している彼らの「運動」は奇矯なものに見えるし、ヒステリックな感じがして好感を持っていない。妨害活動として日新丸に飛び移ったり、薬品を投げつけるという手段が、環境保護に馴染むようには思えない。
シー・シェパード
一方、「調査捕鯨」と称して、世界的には捕鯨を禁止する動きが大きくなっている中で捕鯨を続けている日本のあり方にも疑問を持っている。調査の名目でクジラを殺し、その肉は高級食材として日本各地のクジラ料理屋に流通させているところが、なんとなく卑しい感じがする。調査と商売は、どうやって結びついているのだかはっきりしていない。

私もクジラは美味いと思うよ。
小学校時代は給食で出てくるクジラの竜田揚げなんか好物だったし、クジラのステーキも悪くなかった。オトナになってからは高級食材になったからあまり食べてないけれども、おでんで食べるサエズリとかコロなんて、美味いと思うよ。
それだけじゃない。クジラはゼラチンの原料でもあるし、油は鯨油として使われていたし、ブタや牛がそうであるように、クジラも無駄なく使われていたと思う。

しかし、今はどうだろう。
「調査捕鯨」とか看板を付け替えてまでクジラを捕獲して、食べてやろうとは思わない。第一、クジラの調査とは捕獲しなければできないものなのだろうか。そのことさえよくわらないのだから、日本がやっている調査捕鯨は反捕鯨国からは理解されなくても仕方がないところがあると思う。
鯨は増えている。増えるに任せていたら、他の魚を食われてしまう。だから頭数を調整しなければならないという理屈があるようだが、どの種類がどれだけ増えているのか、そしてその結果としてほんとうに漁獲被害が生じているのか、ほんらいなら日本は具体的にデータを示さなければならないだろう。

私はそろそろ、鯨食はあきらめてもいいときに来ているのじゃないかと思う。
もういいじゃないか、大人になろうよという気がしている。
それに、裏の流通でしか食べられなくなってきているところに不正が働いているような気がして嫌な気がしている。

一方、反捕鯨国のエキセントリックな反応ぶりにも違和感を持つ。
彼らはクジラのような知的生物を殺すのは残酷だという。
まず、その理屈があまりに幼稚だ。
日本でも、「シー・シェパードを撃沈して捕鯨船を助けるべきだ」と言った自民党の中川昭一みたいな幼稚でアホな男もいるけどね。
0803100109.jpg
この問題になると、泥沼にはまったようになるので本当は嫌なのだ。
けれどもあえて言うならば、クジラやイルカを殺すのが残酷ならば、牛や豚やニワトリを殺すのは残酷ではないのか。ということに、どうしたってなるではないか。
こういう問題になると、理性よりも生理の方が先に立つから面倒くさい。
百歩譲ってクジラやイルカを殺すのはカワイソウだとする。で、牛や豚やニワトリは殺されても仕方がないとする。
それでは羊は? 山羊は? ラクダは? イヌは? アザラシは? カンガルーは?

グリーン・ピースやシー・シェパードが動物保護とか環境保護を叫ぶなら、それらまで徹底して反対行動をおこすべきだろう。それともクジラやイルカ以外の、食用にされている動物は知的生物ではなくて、殺されても仕方ないというのだろうか。

欧米人の、この手のエゴイスティックな考え方にはほんとにウンザリさせられる。
私は牛や豚やニワトリだって、ほんとはカワイソウだと思っているよ。
カワイソウで、申し訳ないと思いながら、それでも生きるために仕方ないから美味しく頂こうと思ってる。食べる限りはできるだけきれいに食べてあげようと思ってる。
牛や豚やニワトリがムダに殺されて、その肉が偽装だとかなんだとか、人間の欲望のために勝手に捨てられていくのを見ると、無性に腹が立つ。
牛や豚やニワトリは、殺しても当然の知的レベルが低い動物だなんて考えているとしたら、そういう考えを持っているやつこそ知的レベルが低いと思う。

私の家から東京方面に高速道路を走っていくと、しばしば大きなトラックの後ろにつくことがある。
そして、それらの荷台には、びっしりとカゴに入れられたニワトリが積まれていたりする。あるいは何頭もの豚が、じっと並んでいたりする。
大きな牛が、荷台にくくりつけられてこちらを見ていたりする。

私は運転していて、涙が出そうになる。
申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
ごめんな、人間のために、すまないな。そう心の中でつぶやいている。
屠畜場
食べたっていい動物、食べちゃいけない動物。
世の中にそんなものは存在しない。
けれども、人間は、生きて行くためにそれらを食べてきたのだ。
私は、クジラをめぐる争いを聞きながら、毎日のように目の前に供される動物たちの肉を前にして瞑目する。

人は命を食べて生きている。命を食べなければ生きていけない。
不毛な争いを続ける前に、
そのことを冷静に、真面目に考えてみたらどうなのだ。


※付記 屠畜の現場(http://homepage3.nifty.com/kojirotoyuki/tochiku.htm)より。
福岡県にある屠畜場では、1日平均60頭の牛と250頭の豚を処理している。年間の屠畜頭数は牛が1万6000 頭、豚は6万頭。だがこれも日本全体から見ると微々たる数である。国内で屠畜される牛は年間140万頭、豚は1700万頭。加えて豚肉は国産の6割の輸入があり、牛肉の輸入量は国産の2倍に上る。つまり日本人に食べられるために「いのち」を提供する牛は年間400万頭、豚は2700万頭にもなるのだ。これに輸入分を含む10億羽の鶏や膨大な数の魚介類などを加えると、我々の「生」が無数の「死」によって支えられていることがはっきりと見えてくる。


ブログランキングに参加しています。
↓よろしければクリックを↓


にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

関連タグ : 調査捕鯨, シー・シェパード, 屠畜, ,

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。