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酒好き、映画好き、本好き、落語好き、バイク好き、そして鬱。 ちょっとばかり辛い日もあるけれど、フンニャロメ~と生きてます。
◎心にとめおく言葉
●人は、自分が見たいと思うものしか見ようとしない――ユリウス・カエサル
●為政者たるものは憎まれることはあっても、軽蔑されることだけはあってはならない。(塩野七生)
●自分に当てはめられない基準を他人に当てはめるべきではない
――ノーム・チョムスキー
●さまざまな知識人、文化人、政党やメディアは一般の人々よりも右よりな立場を取る――ノーム・チョムスキー
●考えろ、考えろ、考えろ!――ジョン・マクレーン

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「お前はをついたのかと言われると、非常に答えが難しい」

石破茂は国会で野党議員からの質問に、こう答えた。

まさに迷文句だ。
こんどから私も使ってみようか。

「お父さん、どこに行ってたの!」
「仕事」
でしょ」
「いや、をついたのかと言われると、非常に答えが難しいな」

張り倒されるね、カミサンに。
でも、日本の国会では、このたわけた野郎を張り倒す者はひとりもいない。
皆似た者同士だからか(冷笑)

石破はをついている。防衛省のボスとして部下をあごで使い、「あたご」から航海長を呼びつけたのだ。呼びつけておいて、あの嫌らしい目つきで恫喝したに違いない。

「誰にも余計なことは言うな。俺に会ったことも言ってはならん」
石破
その言いようがあまりに横柄だったのだろう。近くにいた誰かが、ひそかにカチンときたのだろう。
だから、この密室劇を外部に漏らした。
その結果が、今を賑わす話題となったのだ。
もともと悪くてすべての責任があるのは石破なのだ。

しかし、いまや更迭は時間の問題となった石破のことなど、この際どうでもいい。
大切なのはこれからだ。

まず第一は「あたご」の責任者を一人残らず証人喚問すること。重大な過失をすみずみまで明らかにして、これらの人間を厳正に処罰することだ。

次に、内閣そのものの責任も追求すべきだろう。

今回の事件で見せた組織全体にわたる醜態の責任もさることながら、今の福田内閣にはアルカイダの友達の友達の鳩山邦夫、年金問題でこれも大をついたネズミ男厚労相の舛添要一、政治資金について後ろ暗い事情を持つ農水相の若林正俊、高額な事務所経費で批判された経産相の甘利明、金に汚い噂が絶えない財務大臣の額賀福志郎と、悪評が高い人物だけでもこれだけそろっているのだ。
そろそろこれらの薄汚いロクデナシどもに、引導を渡すときがきたのではないか。

今日の日本の混乱、この社会の閉塞した状況はこの内閣に始まったことではない。
しかし自民党が政権を取り、公明党が小判鮫のように政権の座にしがみついている限り、よくなることはない。
それだけは明らかだ。
内閣をリセットすべきである。
この場合のリセットとは、もちろん、政権交代を意味する。
二世議員どもとカルト宗教に洗脳された議員に、劣化しきった内閣に、これ以上支配されるのはたくさんだ。
格差が広がり、生きる喜びを味わうことができない社会は、一刻も早く変わってほしい。

だから、私は声を大にして叫びたい。
もうこれ以上、日本を駄目な国にしてくれるな。
自民党よ、壊滅してくれ。
公明党よ、どこか見えないところで題目を唱えてくれ。

政権が変わったら、アメリカのように官僚も首のすげ替えをしてもらいたい。
金に執着する官僚が多すぎる。
権力を笠に着た官僚が目に余る。
もうほんとうに、どうにかしてもらいたいのだ。
国民は悲鳴を上げている。
明日に希望を見出せずにいる。

この社会の構造を、なんとか変革したいと望んでいるのだ。
もはや紛らわしい、新自由主義に穢された「改革」という言葉は使うまい。
真に国民が幸福を感じることができる社会に変革することを待ち望む。
人生に絶望して自殺する人が、一人でも少なくなる社会に。
老後を悲観して、夫婦が心中をせずにすむ社会に。
若者がほんとうに自分の人生に可能性を見出せる社会に。
子どもが安心して家族と語らえる社会に。
子どもが安心して、心から楽しんで友だちと遊べる社会に。
赤ん坊が誰からも生まれてきたことを喜ばれ、心配なく育てられる社会に。

変わることを望んでいる。はかなく願っているのではない。
強く、国民が持つ権利として、それらが実現することを待っているのだ。

今、この声を受けて立ち上がる者があれば、国民は山をも動かす力となって協力するだろう。
明確な言葉を持ち、二心なく動く者が現れればいいのだ。
その席は今、主を待っている。

そう考えるのは、私だけの幻想か?


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志ん生の小咄で、今でも思い出すと笑ってしまうものがある。

「俺には答えられないものなんか何もねえ」
「ほんとか?」
「ほんとだ」
「じゃあ、聞くぞ」
「聞いてくんねえ」
「こわくて臭くて甘いものってのは何だ?」

「……鬼が便所で煮豆食ってる

今だったら、
ライスが便所で煮豆食ってる」でもいいかもね。
ライス国務長官

鬼


ネオコンの鬼だね。

おそまつ。

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イージス艦「あたご」と漁船「清徳丸」が衝突した事故で、防衛省は海上保安庁の捜査前に「あたご」の当直士官だった航海長をへりで省内に呼びつけ、事情聴取を行っていた。その席には増田好平事務次官と斎藤隆統合幕僚長、吉川栄治海上幕僚長、そして石破茂防衛相が立ち会っていた。
この事情聴取は捜査を進める海上保安庁に無断で行われたものであり、今、このことがいちばん問題になっているはずだ。

ところが、27日22時に配信された産経新聞には「航海長聴取は問題なのか」という記事が載っていた。
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事情聴取を行ったことを)一部のメディアや政治家が問題視している。だが、組織、とりわけ軍事組織が、早い段階で状況把握することは鉄則である。今後、事故後の対応をめぐり、一方では「情報公開の遅れ」を批判されている防衛省・自衛隊が、いかなる初動態勢を整備すべきなのか、二律背反の宿題を突きつけられた格好だ。(野口裕之)
------
この野口という記者は続けて書いている。
------
医療事故でも、警察当局の捜査とは別に、病院側が担当の医師・看護師らに事情を聴く。隠蔽(いんぺい)するための「口封じ」を目的とした悪質な場合もあるだろうが、通常は組織としての対応・対策を決定するために行われる。例えば、新聞記者が交通事故を起こせば、新聞社のしかるべき幹部が、本人に状況を確認しようと努力するはずだ。
航海長への聴取が問題となることは、日本が「普通の国」でないことに起因する。実はこちらの方が格段に深刻だ。海上事故に関して、自衛隊には裁判権が与えられておらず、とりわけ民間との事故では事実上、海保に捜査権を委ねることが慣例化しているからだ。

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どうやら、産経新聞では記者がクルマで人をはねた場合、その人の安否を気遣い救急や警察に連絡するよりも、まず上司に伺いを立てる規則になっているらしい。
この記事では医療事故のケースを例に挙げているが、重大な医療ミスが起きたとき、まさに捜査の手が入る前に担当医師、看護師らが上司と相談した挙げ句、カルテの改竄などが行われていた事件がいくつもあった。
そのことを産経の野口という記者はどう見ているのだろうか。

今回の防衛省石破茂がとった行動は、紛れもなく事実を隠蔽するための口裏合わせに使われたのであり、だからこそ、航海長を呼び寄せるときに「怪我人を搬送するために付き添わせた。それがたまたま航海長だった」などと白々しいウソをついているのである。
舩戸健
そしてウソの段取りをした結果、罪もない漁民を海中に放り出したまま、当の事故を起こした責任者は一向に顔を現さず、一週間も経った昨日になってようやく謝罪会見を行った。
席上に現れた艦長の舩戸健は神妙な面持ちながらも、いかにも歯切れの悪い口調で「全責任は自分にある」と認めた。そして指揮官でありながら「あの海域で、漁船が多いことを認識していなかった」と信じられないようなことを認めた。
その顔つきは、艦上で絶対の権力を握る指揮官のものではなく、防衛省の庇護のなかからいやいや顔を出してきたボクちゃんのように情けなく、肝心なことについては「捜査中なので言えない」と言い通した。
これは、「事実を隠蔽するための口封じを目的とした事情聴取」があったためなのではないのか。
産経新聞では重大事故を起こした場合、上司が事後処理をする規則になっているのかもしれないが、社会では通用しない常識である。
もし、クルマで事故を起こしたなら、まず怪我人を手当てすることと事故現場を保存し、警察を呼んで現場検証に委ねるのが世間での常識だ。
防衛省産経新聞では、その常識は通用しないらしい。恐ろしいことである。
産経新聞の件の記事では、海上事故に対して自衛隊には裁判権が与えられておらず、民間との事故では海保に捜査権を委ねることが慣例化している。軍が裁判権を持たないことは国際的にも異例であり、そのことが情報錯綜の原因となり情報公開の遅れにつながったのだと結論している。

しかし、国際的な慣例はどうであれ、現在の法令下では捜査権が海保にある以上、自衛隊はそれにしたがわなければならず、それが制約であったとしても、そのなかで最善の努力をするのが筋だろう。
ここにきて防衛省の責任を転嫁し石破茂を擁護し、ボクちゃん艦長の舩戸健までも庇うかのようなスタンスを取る産経新聞とは何者なのだ。
防衛省には事実を改竄し隠蔽してきたという歴史がある。今、それが問題になっているのではないか。
そのことを棚に上げて、「日本が普通の国でない」ことが、航海長聴取問題の原因とは、よくもいったものだ。産経新聞は、ずいぶんいい度胸をしているじゃないか。

感心してしまうよ。呆れながらね。


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イージス艦「あたご」による事件について、もう一度書いておく。
これは、海上自衛隊による殺人事件である。
清徳丸
昨日の朝日新聞夕刊では、イージス艦が清徳丸を認識したのが衝突する12分前であり、そのことは事件当日(19日)夜には石破茂防衛相に伝えられていた。にもかかわらず、石破はその後も「清徳丸を発見したのは2分前」という説明を繰り返していたことを報じている。
また、12分前だったことを防衛相幹部が説明したのは事件翌日(20日)夕方の自民党合同部会においてだったこと、さらに事件から一週間近く経った25日、増田防衛事務次官が12分前の事実を知ったのは20日の昼だったことが、防衛省での会見で記者団に明らかにされたことも伝えている。



清徳丸発見が事件発生の12分前であったにもかかわらず、2分前だったと誤った情報を流し続けた石破茂
そして12分前であったことが事実であることを25日になってようやく認めた防衛省。

このもたつきは一体、何なのだ。
これが国の緊急事態に対処するために設けられた組織のすることか。
石破は「事実確認には時間を要した」旨の言い訳をしているが、人ふたりが海中に投げ出されたというときに言うべき言葉ではない。防衛省は、事件当日の19日午前には「あたご」の航海長をヘリコプターで省内に呼びつけ、事情聴取しているが、その席には石破茂も同席していたという。明らかに事件隠蔽のための口裏合わせをしていたのだろう。そう思われても仕方のない行動を取っている。
しかも、発見が衝突の12分前だったという発表が行われたのが、なぜ自民党の合同部会でなければならなかったのか。痛いところを突かれるのを恐れたためだったのか。ならば、自民党も今回の事件では同罪である。

巨大な自衛隊艦船が無謀な航行をしたためにちっぽけな漁船がふたつに裂け、ふたりの漁民が冷たい海中に沈んだ。
すでに「カナダde日本語」の美爾依さんが怒りの記事をエントリーしているが、海自は、事故にあったふたりを助けるどころか見殺しにして、あとは事後処理をいかに矛盾なく行うかに汲々としている。まるで、ひき逃げの犯人のようである。石破と自民党は、その手助けをしている。なんという指導者であり、政権与党なのだ。
海自がやったことは、クルマでいえばひき逃げという卑劣極まりない犯罪に等しい。ひき逃げを犯した者に対しては、厳しい処罰が必要であり、そのためには責任者である「あたご」の艦長、航海長らを証人喚問して追及すべきである。そして組織の責任者である石破茂には辞任させるのが筋である。
石破茂

この点については、「世に倦む日々」でthessalonike4さんが厳しい言葉で追及している(「艦長と当直士官を証人喚問せよ - 厳罰こそ最大の再発防止策」)。さらに同ブログの「イージス艦問題への政治の無反応 - 漁師の遭難は自己責任」では、激烈な言葉でこの事件に対する怒りをぶちまけている。私は圧倒されずにいられなかった。以下、その言葉を引用させていただく。

行方不明になった漁師の若者は、父親を助けるために高校を中退して漁を始め、そして上野のホームレスのために捕った魚を運んで配っていた。高速道路も通ってない千葉の房総の僻地から、わざわざ上野までアジやサバを車で運んで届けていた。その漁師の船に1400億円のイージス艦が衝突して事故が起きた。自衛隊は情報を隠蔽し、責任逃れに終始し、事故から一週間経ったこの時点でも、まだ責任者が国民の前に顔を出そうとせず、時間を稼いで、国民の関心が薄れて事件がうやむやになるのを待っている。今の日本をこれほど象徴している事件はない。現在の日本の社会矛盾をこれほどくっきり浮かび上がらせている現実はない。辺見庸的な、絶句して鬱屈して悶絶するほどの、神経が破裂するほどの、魂魄が割れて砕け散るほどの、渾身の怒りを覚えなければ嘘なのだ。溢れるほど大量の、小便も枯れて出なくなるほど大量の、憤慨と悲嘆と憎悪の体内の水分が涙腺から分泌されて当然なのだ。

海上での「ひき逃げ事件」を何というか知らないが、この事件と、その後に行った自衛隊の隠蔽工作は厳しく追及しなければならない。この件に関しては、新聞テレビの報道もあてにならない。防衛省スキャンダル、年金問題は少しも片付いていないのに、民主党の小細工に共鳴して暫定税率問題に国民の視線を誘導し、今度は沖縄での少女暴行事件と海自の事件に対してロス疑惑を持ちだして注意を逸らそうとしている。
われわれは、騙されてはいけないのだ。もうこれ以上、政府やマスコミのすることに踊らされてはいけないのだ。

そしてもうひとつ。
マスコミに踊らされて石原慎太郎を都知事にした都民へのツケが、どんどん回ってこようとしている。
この政治家については、ほんとうにいくら言葉を重ねても足りないほどの侮蔑と嫌悪感しか湧いてこない。
つくづく、私は元都民として、なぜ今の都民はこのような言葉を知らない浅慮で尊大な極右思考の塊のような男を首長に選んだのかと情けなくなる。梨本勝に似た、品性の卑しい顔をした男を首都の代表にしたことを恥ずかしく思う。
ディーゼル車を規制する、大銀行に外形標準課税するとわかりやすい政策を打ち出したが、成果を上げたのはこれだけで、銀行税の方は条例の無効確認をした銀行側に敗訴している。

あとはポピュリストお得意の東京マラソンを開催する、東京オリンピックを誘致するといった、華やかで口に美味しそうな言葉を並べただけで、さも実行力がありそうに見せかけながら、その実やっていることは都民の税金を食い物にしているだけではないか。
おのれの浅慮を現実化するために、弱者を追い詰めているだけではないか。
情実人事を行って私腹を肥やしているだけではないか。
まわりにイエスマンを配置して、ふんぞり返っているだけではないか。
都合の悪いことを聞かれると、すぐ恫喝するヤクザと変わらない体質の男ではないか。
人間として、石原慎太郎は、最低の部類に属する男である。
石原慎太郎
今、石原は、金融・財務の知識もないくせに中小企業を救うというアメをぶら下げて新銀行東京を設立し、案の定、1000億円もの金を出資しながら経営を破綻に追い込もうとしている。そして責任は経営陣に転嫁し、あらたに400億円の追加出資という税金の無駄遣いをしようとしている。慚愧に堪えないなどとわかったような言葉を弄しているが、腹の内では舌を出しているのである。損失は税金でいくらでも穴埋めすればいい、その程度の認識で逃げ切ろうとしているのである。
東京都民はいつまでも、このような男を代表として立てておく恥辱に耐えるべきではない。
新銀行東京の失敗を教訓に、またこれをいい機会にして、石原を都知事の座から引き下ろすべきだ。
愚かなポピュリストによる政治が、結局は通用しないのだということを広く知らしめる必要がある。

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今に始まったことではない。
もう何年も、続いているのだ。この状況が。

本が売れない。日本人の活字離れが、どうにもならないほど止まらない。

出版業界の末端で生計を立てている私としては、まことにもって由々しき事態と言わざるを得ない状況が続き、その深刻の度合いは年々深まっている。

今年に入って1月には草思社が経営破綻した。
今日の朝日新聞ではその草思社を支援しようと、書店が立ち上がったことを伝える記事が載っていた。
徳大寺有恒の『間違いだらけのクルマ選び』シリーズ、中野孝次著『清貧の思想』、ミリオンセラーのF・アルベローニ著『他人をほめる人、けなす人』、ポール・ケネディ著『大国の興亡』、齋藤孝著『声に出して読みたい日本語』、横田早紀江著『めぐみ、お母さんがきっと助けてあげる』など、ヒットシリーズや話題になった本を出してきた出版社だけに、その再生を願う書店が「再建支援フェア」などと銘打ってコーナーを設けているのだ。
「他に代え難い書籍を必要な人に行き渡らせるのも、大型書店の役割」と語るジュンク堂書店の言葉はうれしい。
草思社支援
しかし、そういうことができるのも大型書店だからこそで、今、多くの書店は自身の経営が難しく、そんな余裕はないというのが実情だ。売り場面積が限られる町の本屋さんは、ベストセラーの書籍に週刊誌、あとは文庫本にコミックを置くだけで精一杯だ。近くに大型書店ができた日には、バタバタと倒産して店を閉じていく。
地方の場合は、大型書店があっても客そのものが少ないために品揃えは都市部の小規模書店と同じようなものになる。要するに場所を取らない文庫本とコミックの数はある程度そろえるが、あとは話題書、ベストセラーしか置こうとしない。数が出ない専門書の類は、最低限のものしか置かないのだ。本を置いたとしても、売れない本はなるべく早く返本して仕入れの金を回収しようとする。

こうした書店業界の目を覆うばかりの不況は、もう十年以上も続いている。90年代半ばには約2万3000店あった書店が、現在では約1万7000店まで減っていることが、その厳しい状況を現している。

出版業界の不況は、構造的なものだといわれているが、今では大手出版社でさえ経営が難しくなってきている。雑誌が売れなくなったと言われたのはずいぶん前のことで、その頃は週刊誌とマンガ雑誌が売り上げを支えていた。
ところが、今ではその週刊誌とマンガ雑誌の売り上げ部数まで凋落している。そして凋落し続ける流れを押しとどめることができずにいる。

その結果、どうするか。
出版社は出版点数を増やすのである。目新しい本をたくさん出すことでなんとか売り上げを伸ばそうとする。しかしパイをいくら大きくしても、食べる人間の方は相変わらず少ないのだから、どうしても食べ残しができる。

『出版年鑑2006』によれば、2006年の書籍の新刊点数は約8万点と、90年代に比べて倍増したが、販売額は2割増の約1兆円にとどまっている。出版社は新刊を出すと取次店から前払い金が入る。しかし本が売れなければそれらは返本されるため、最終的に過払いが発生する。その金を工面するために、また新刊を出す……朝日新聞より。

なんともはや。どうしようもない悪循環だ。
この悪循環があるから、書き手に支払う原稿料も当然抑えられるようになっていく。
社員の給料は下げられないから、契約社員や編集プロダクションに仕事をさせて人件費その他の経費を抑えようとする。

そして今日また大型出版社の倒産騒ぎが発生した。
今度はアスコムだ。yahooニュースによると、
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社員は20日付で解雇され、2月21日から事務所は閉鎖されている。アスコムは株式会社アスキーの一般書籍部門アスキー・コミュニケーションズとして設立され、田原総一朗氏、松山千春ら有名人の関連書籍を多数発行し、NHKの人気番組『ためしてガッテン』などの定期刊行物などでも知られていた。
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とある。
そしてさらに、
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インターネットや携帯電話の普及などによる活字離れや業界構造の問題などにより、出版業界は1997年以降、市場規模が年々縮小している状況だ。業界大手の講談社は今月、12年連続の減収決算を発表した。売上高確保のために出版点数は増加しているが、返品率が高く、出版業界は悪循環に陥っている。また出版社の収益減少は、執筆で生計を立てている作家やジャーナリスト、フリーライターの収入にも影響しており、少額の印税にあきれて執筆を放棄し、投資などで収入を確保しようとする作家もあらわれている。
-------
なんとね。

もう、あまりの原稿料の安さに、執筆を放棄している人もいるのか。
気持ちはわかるよ。
勝谷誠彦みたいな奴が、必死でテレビに出ている事情はここにもあるわけだ。

しかし、勝谷のような男は別にして、物書きだか作家だかが書くのを止めて、投資に走るというのもなんだかね。
背に腹は代えられないというけれども、ほんとうに夢も希望もない話だ。
芸も学もない私には、とてもできそうもない。

ネットの普及により、雑誌はもとより、現在は新聞でさえ読まれなくなってきている。雑誌などはどんどん無料化の方向に走っている。これではライターには最低限の原稿料しか入ってこないだろう。
この先、出版界はどうなってしまうのか。幸いなことに私は今回の倒産劇には関係していなかったが、これから先のことを考えると、気分は暗くなるばかりだ。
暗い気持ちを抱えたまま、これからも細々と書いていくしかない。
まるで伝統工芸の職人みたいに。
でも、私の場合はいくら頑張ったところで、人間国宝になれるわけじゃない。
まったく困ったものである。おまけに鬱ときた日には。

もの書きのデス・スパイラルは、はてしなく続いていきそうだ。


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イージス艦「あたご」と衝突し、沈没した漁船「清徳丸」被害者の捜索が、打ち切られることになった。

折しも23日から24日にかけては台風並みに発達した低気圧のおかげで全国に強風が吹き荒れ、関東ではこれが春一番となった。春一番とは春の到来を告げるうららかなイメージを持つが、実は古来から海は大しけとなり山は気温が上がって雪崩が起きるため、漁師たちは恐れを込めて使っていた言葉なのだそうだ。

二日間にわたって吹き荒れた風は、土埃を巻き上げて空を黄色く染めるほどだった。クレーンが倒れ、催事のテントが飛ばされて怪我人が出た。
海が比較的近い私が住んでいる地域も、雲が走り、空はうなりを上げて吠えていた。
今ごろ、現場の海域はどんな状態なのだろうと思わずにいられなかった。
そんな矢先に報じられた捜索中止の知らせだった。
捜索活動は、仲間の漁船が出て行われていたが、吹き止む気配のない風に、25日朝、新勝浦市漁協川津支所は現場海域での捜索を断念し、今後の独自捜索も打ち切ることを決めたと朝日新聞は報じている。

勝浦市川津地区では、海難事故が起きた場合、一週間は捜索を続けるという習わしがあるという。だが、支所での話し合いに先立ち、行方不明となっている吉清さんの家族から「無理をせず中止を」との意向が伝えられたのだという。
家族にとってはもちろん、仲間の人々にとっても、まさに断腸の思いで下した決断だっただろう。ニュースで知った私たちにとっても、まったくやりきれない思いだ。
捜索打ち切り
実は私の母方の祖父も船乗りで、外国船を港に案内する水先案内人をしていた。その祖父も、海の事故で命を落とした。私が生まれる前のことだったが、母親も祖母も、事故で失った命のことをいつまでも忘れず、相手の船のことを憎み続けていた。
今回の事故もまた、同じような悲しみと憎しみを残す結果となってしまったのが、悲しい。

「父親は外国航路にも出ていたから家にいないことが多かった。でも、亡くなって主のいなくなったお膳の上に陰膳が置かれているのを見て、はじめて父親が死んでしまったことが実感されて悲しさがこみ上げてきた」

母親はそう言っていた。
清徳丸の被害者の家族の方々も、やり場のない寂しさと悲しさ、そして怒りを噛みしめていることだろう。

 真白き富士の根 緑の江の島 
 仰ぎ見るも 今は涙    
 帰らぬ十二の 雄々しきみたまに
 捧げまつる 胸と心     

 ボートは沈みぬ 千尋の海原
 風も浪も 小さき腕に    
 力もつきはて 呼ぶ名は父母 
 恨みは深し 七里が浜    

1910年1月、神奈川県逗子開成中学の生徒たち12人が乗り込んだボートが、突風に煽られて転覆、生徒たちが海に投げ出されて命を落とす事故があった。その死を悼んで生まれたのが有名な「七里ヶ浜の哀歌」だ。賛美歌を元にしたこの曲は、歌詞は古くさいけれども気持ちは今も伝わってくる。
もちろん、今回の房総沖での事故と様相は違うが、海中に消えた人を思う気持ちには共通のものがあると思う。

昨日は風も止んで穏やかだったが、今日はまた、朝からどんよりと曇った一日が始まろうとしている。

政府よ、防衛相よ、これからどうするつもりなのだ。
失われた命は、軽くはないぞ。
怒りと無念の埋み火は、いつまでも消えることはない。そのことを忘れるな。


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テレビで放映されているドラマは大方が退屈で、ほとんど見ていない。
家人は反対にドラマが好きなので、仕方なくつきあうこともあるが、初回を見ただけで「ああ、このドラマ駄目。つまらない」と言ってしまい、顰蹙を買うことになる。
「鹿男あをによし」など、奈良を舞台にしているのに登場人物が誰一人関西弁を話さない。アホちゃうか。「あをによし」という表記も間違ってるし。

そのなかで、唯一楽しみにしているドラマがNHKの朝ドラ「ちりとてちん」だった。
ちり

ところがこのドラマも師匠の草若の死を描く数週間というもの、やたらと回想シーンが多くなり、物語がなかなか前に進まず、がっかりしていた。回想シーンが増えると、どうしてもドラマが停滞し、水増しされた感じになってしまうのだ。
それでも先々週にようやく師匠が死んで、次の展開はどうなるかと思っていたら、主人公夫婦のもとに新しく弟子がやってきた。

何でもよく気がつく男の子で、話も巧み。そのうえ家族に死に別れ、自分の面倒を見てくれた姉にも死なれて落語で身を立てる決心をしたなどと言う。その言葉に、主人公夫婦はもちろん、徒然亭一門の兄弟子たちも心を鷲づかみにされてしまうのだった。

ところがこの弟子が、実は大嘘つきだったというのが先週の話。
上方落語には「鉄砲勇助」という噺があり、千に三つの真実しか言わない大阪の男が、日本一のほら吹き男と嘘つきの勝負をするというストーリーである。この噺と嘘つきの弟子の物語とがリンクしていくところが、相変わらずの巧さだ。
何でも気がつく、よくできた弟子と思っていた若者が、実は筋金入りの大嘘つきで、話したことは全部ウソ、しかも自分のウソがばれるかばれないか、ギリギリのところで人を試すのが好きというとんでもない奴だったことが判明するというのが先週の山場だった。

ちりとてちん」に嘘つきの弟子が登場した先週、突然、三浦和義元被告がサイパンで逮捕されたというニュースが報じられて、大いに驚かされた。
三浦和義
アメリカには殺人罪の時効がないそうで、アメリカ自治領のサイパンで空港に降り立ったところをそのまま逮捕されたという。
27年前の事件、それも日本では最高裁で無罪が確定した事件が、なぜ今という思いが先に立つ。もちろん、大方の人々と同じように、私も事件当時は三浦という男が限りなくクロに近いと思っていた。彼の周りにはあまりにも事件が多すぎるからだ。しかし、あの「疑惑の銃弾」事件については、かぎりなく黒に近い灰色のまま、決定的な証拠がないために無罪になった。これはこれで、「疑わしきは罰せず」の原則に則った判決だったのかと思っていた。感情的な問題は別にして。

彼は別件の妻殴打事件と詐欺罪で有罪となり98年から服役している。そして服役中には雑誌社などを相手に名誉毀損などの訴訟を500件ちかくも起こし、弁護士も立てずにその8割で勝利している。
頭は悪くない男なのだ。いや、凡人に比べればはるかに頭が切れるといってもいいだろう。
けれども、彼は釈放後、コンビニでつまらない万引きをして再び逮捕され、起訴猶予処分を受けている。やはり犯罪と縁を切ることができない男には違いないのだ。

こうした事実を合わせてみると、この男も「鉄砲の勇助」同様、筋金入り嘘つきなのではないかという疑いを持たざるを得ない。落語の嘘つきは人を笑わせてくれるが、彼の場合はウソをつくことで自分一人が楽しんでいる風がある。そこが他人をして眉をひそめさせるところなのではないだろうか。
相手が嘘つきだと、人はまともに相手にすることができなくなる。何が本当でどこまでがウソなのか、それを考えていると疲れてしまうからだ。彼はそういうタイプの男であり、自分のウソを楽しみながら生き延び、サイパンに旅行し、思いがけず捕まったのではないか。

今回の逮捕劇はあまりに唐突で、私にはこれ以上感想を述べることはできない。
「カナダde日本語」の美爾依さんが書いているように、アメリカやカナダには重大事件に時効がないのは日本も見習うべきだと思う。
けれどもそれはそれとして、今回のことは「なぜ今?」の思いの方が強いというのが偽らざるところだ。折しも日本もアメリカも軍関係の重大事件が起きている最中であることもあり、国民の注意をナニかから逸らそうとしているような誰かの意図が働いているような、なんとなく嫌な感じがする。
そちらの方が、どうも私にとっては大きな問題である。

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体は大きいくせに体力のない私は、引っ越しが苦手である。

もう20年くらいも前のことだが、大学の先輩がマンションを買ったというので引っ越しの手伝いをした。友人や先輩の弟さんもきて一緒に荷物を運んだのだが、よほどトロくさかったのだろう、弟さんが先輩にささやいたのだそうだ。

「あの人、ぜんぜん使えないねえ」

私としては一生懸命に汗をかいて、次々に荷物を運んでいたつもりだったのだが。

他人の引っ越しでこうなのだから、自分の引っ越しとなるとなおさらで、整理整頓がまるでできない私は、荷物を前に絶望的な気持ちになってしまう。
新しい部屋に運び込んでも、とりあえず荷物を積み上げ、荷ほどきまではするが、綺麗にかたづけるとか部屋を使いやすくするとなると考えるのも嫌になってしまう。とにかく適当に荷物を納めてスペースを空けるだけで精一杯だ。本棚などカミサンと娘に頼んで並べるだけでいいからと本の片づけをしてもらうから、どこにどの本があるのかまるでわからなくなってしまう。
そのうち整理すればいいやと思いながら、そのままの状態が何年も続いている状態だ。

一昨日、ブログの引っ越しをした。
実を言うとブログをやり始めて2ヶ月しかたっていないのだが、大して比較も検討もせずに始めたエキサイトのブログは、何かと制約が多いことに気がついた。広告をつけられないのはいいとして、カウンターひとつつけるのもjavaスクリプトに対応してなかったりでやりづらい。
もっと自由度の高いものがないものかと思っていてみつけたのが、このFC2ブログだった。

で、思い立ったが吉日と、引っ越すことにした。
それまで書いた記事は四〇数本だったが、ひとつひとつコピペしていく作業は、やはり骨が折れた。
しかしようやくその作業が終わっても、問題はいろいろ残った。
まず、レイアウトがなかなか気に入らない。シンプルで見やすければいいと思っていたが、ブラウザによって見え方が違ったりして何度かテンプレートを替えた。
ランキングにも参加しようと考えたが、はじめのうちはどこにスクリプトを貼りつけたらいいのかわからず往生した。無事貼りつけたのはよかったが、ブログピープルの方はなんだか大きなランキング表みたいなものをつけてしまった。ほんとうは普通にボタンをつければよかったのだが。
アクセス解析も、ホームページを作ったことがない私にはなかなかわからなかった。

まあ、それでもなんとか今の形に落ち着いた。これでよしとするか。

あとは、できることならプロフィールを常時表示させておくのでなく、見たいと思ってくれた人がクリックすれば見られるようにしたいのだが、今のところ未解決。プロフィールを見せるのって、なんだか気恥ずかしいし。
もうひとつは、タグが本文に下線表示されるようになっているのを、本文下にでもまとめて表示できるようになればいいと思う。下線が多いとなんだかうるさく見えてしまうので。
最後に、本文のレイアウト。写真を入れた場合に文章が回り込むようにできないものか。

こういうのは、どこかに解説があるんだろうな。
でもいまのところわからないんですよ、それが。

とにかく、問題はおいおい解決していくこととして、とりあえずはときどき微調節するかもしれないけれど、このスタイルでいくことにします。

ということで、遅くなりましたが、FC2ブログで始めた「フンニャロメ日記」。
よろしくご愛顧のほど、御願い申し上げ奉ります。
ペコリ。

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人間はどういうわけか、他人より高いところにいると、偉くなったような気持ちになるようだ。
大型トラックの運転手をしていた友人のKは言ったものだ。

「運転席から周りの車を見下ろしてるだろ、そうすると気分がいいね。オラオラどけっ! て、国道でもどこでもバンバン走って行くんだ」

ただでさえ混み合った国道を大型トラックに暴走されたら、たまったものではない。
事故を起こしたことはないのかと私は聞いた。

「あるよ」
彼はしれっとして言った。

「向こうからぶつかってきたんだけどな。ちっちゃい乗用車。横から来て、俺の車の下にもぐり込んじゃった。ぺしゃんこだよ」

それでいて、奴のトラックはほとんど傷もつかなかったのだそうだ。

友人の場合は自車が停止していたから、まあよかったといえばよかった。
しかし、とてもよかったとはいえないのが海上自衛隊のイージス艦「あたご」と新勝浦市漁協所属の漁船「清徳丸」の衝突事故だ。

東京湾沿岸の海域は、大小さまざまな船が行き交うことで知られている。陸上で言えば東京の国道のように交通ラッシュが続いているといっていいだろう。そんな状況の中を、車でいえばモンスター・トラックのような軍艦が前も見ずに走っていたのだ。
前も見ずどころではない。
乗船していた自衛官たちは、ハンドルにあたる舵も握らず自動操舵にまかせていた。
周りにいた小さな漁船は、迫り来る怪物のような船の影に右往左往しただろう。逃げまどって難を逃れた船はよかったが、「清徳丸」だけが避けられずにぶつかった。その衝撃で船体はまっぷたつに裂けてしまった。
ふたつに裂けた清徳丸

これが陸上の事故ならば、まさに友人のトラックの下にもぐり込み、ぺしゃんこになってしまった「ちっちゃな乗用車」のようなものだろう。友人のケースでは、それでも死人は出なかったのが奇跡だったが、「清徳丸」の場合はどうも厳しい状況だろう。

なぜ、自衛官たちは前方を注視せず、そのうえ自動操舵までしていたのか。
そこには高いところに上がると偉くなるような、愚かな錯覚があったのではないだろうか。
小さな船を見下ろして、この海は俺様のものだという驕りがあったのではないだろうか。
そして驕りを持つ者ほど、過ちを犯したときに度を失い、隠しようもない事実を隠そうとする。これもまた愚かな人間の性といえようか。これまでの海上自衛隊の事後処理を見ていると、そう思わざるを得ない。

しかし、自衛官という立場にある人間は、ほんらいがいくら愚かな人間であったとしても、その愚かさを露呈してはならないのだ。規律というものは、人間が集まったときに出してしまう愚かさを、最小限に食い止めるために作られている。そして自衛官は、もっとも厳しい規律の中に身を置く人間たちなのだ。

なぜ、自衛官たちは、自衛隊は、これほど重大な事故を起こしておきながら決然とした態度を取ることができないのだろう。防衛相の石破茂は「私は常に退路を断っているつもりだ」と記者たちに言い、被害者の家族には隠し立てはしないと見得を切った。けれども国民の目に映るのは、卑怯な時間稼ぎをしている組織とそのトップの姿に他ならない。

首相の福田康夫は、相変わらず何が起きても他人事のような口調で談話を出しているが、今回の事故は政府の責任といってもいいのではないか。
国の中枢が劣化し、腐ってくると、その国の軍も一緒に劣化し腐っていくか、あるいは反対にクーデターを起こすものである。日本の政府と自衛隊を見るとき、その相関関係が見えてくるような気がする。つまり、自衛隊は腐りつつある組織であり、その腐敗は政府から伝染してきているもののように思えるのだ。
ことは石破茂が辞任するか否かが問題ではない。自衛隊という組織と、日本政府そのものが身の処し方を迫られている。
私は、今回の事件をそのように見ている。


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ガソリン暫定税率が、いつの間にか今国会の問題の焦点になり、あちこちでこの問題が論じられている。これについては、すでに述べているとおり、はなはだ不審であり、不満を持っている。暫定税率よりも重要で急を要する問題があるだろうに。

しかし、議論されている以上、私にも思うところがあるので書き記しておきたいと思う。

まず、地方都市に暮らす私たち家族は、車が生活の必需品であること。
毎日の買い物はもちろんのこと、病院に行くにも、映画を見に行くにも車で片道30分から1時間かけて行かなければ目的地に到達できない。子どもが友人に会うといって出掛けるにも、駅まで片道10分ではあるが、車で送っていかなければならない。もちろんバスは通っているが、1時間に数本しか運行していないバスは、たまたま電車の時間と合うのでない限り使えない。電車だって1時間に3、4本。少ない時間帯には2本しか来ないのだ。
そういう環境に生活していると、走行距離は年に1万5000キロ近くなる。近頃は燃費のいい車が多くなってきているが、わが家の場合、それでも月に120リッター程度給油しなければならない。ということは、リッター150円として18000円がガソリン代としてかかる。そのうち税金として負担しているのは2900円あまりということになる。
年に換算すれば35000円ほど。これが減るとありがたいと思うかどうかだが、私は大いにありがたいし助かると思っている。
だから、暫定税率は廃止になった方がいいと思う。

もうひとつは道路の問題だ。
議論では、無駄な道路がいかにも多い、それが問題であるというのが主な論調だ。
たしかにそうだろう。ほとんど車が通らない山奥に立派な道を造ることに、どれほどの意義があるのかという主張はわかる。
道路の特定財源を悪用して、一部の官僚や政治家が懐を肥やし、土建業者ばかりが潤うという現在の社会構造もおかしいし、是正されるべきだと思う。

しかし、地方に暮らしてみると痛感するのだが、地方の生活道路というのはいまだにおそろしく貧弱なのもまた、事実である。
たとえば農村の場合、生活道路はかつての農道を改修したものが多いから、狭かったり曲がりくねっていたりする。昔からの旧街道を舗装しただけで使い続けているから、道幅は狭い。その狭い道を大型のトラックやバスが運行しているから、危険であるうえに渋滞することが多い。
山間の道では土壌改良が十分でないまま舗装された道が使われているところがあり、そういうところではしょっちゅう道路のあちこちが陥没する。車で走っていても不快だが、私のように2輪車も使う者は、非常に神経を使いながら走ることを強いられる。

以上のことを考えると、道路は生活者にとってはまだまだ必要な部分が多いのである。
新しく高速道路を造れというのではない。生活に必要な道路の整備がまったく不十分なのだ。
ゆえに、道路特定財源を一般財源化するのには、疑問がある。

道路を語るとき、また暫定税率を語るとき、どうして皆は人気のない道路を無駄の象徴としてあげ、道路はもう十分だと言い切るのだろう。
どうして政治家や土建業者の声を取り上げて、生活者の声には耳を傾けないのだろう。
問題は、道路が十分でもう造る必要はないのではなく、無駄な道路が造られている一方で必要な道路が造られていないことにある。それを差し引きしたうえで、道路特定財源が必要なのか、暫定税率の維持が必要なのかを論じなければ、意味がないのではなかろうか。
いままでの論議を耳にしたり読んだりしてイライラしてしまうのは、生活者から見た「道路」がほとんど語られていないということだ。

私は今『ローマ人の物語』を読んでいるが、その第10巻はローマのインフラストラクチャーについて語られている。
インフラストラクチャーとは生活基盤とか社会基盤などと訳される言葉だが、2000年前のローマは帝国中に高速道路にあたる舗装道路をめぐらせ、上下水道を完備させていた。それでいてインフラストラクチャーを現す言葉がなかったという。しいて探せば「モーレス・ネチェサーリエ」という言葉で、それは「必要な大事業」という意味をもつ。そしてこの言葉には、「人間が人間らしい生活を送るためには」という一句がつけられているのだという。

人間が人間らしい生活を送るためには、道路は必要なのである。
そして、ローマでは必要な道路を張り巡らし、維持管理を怠らなかったために800年の間実用に耐えた。それどころか、一部の道路は21世紀の現在も利用されている。道路とは、単なる社会設備のひとつではなく、後代に残す遺産でもあるのだ。
しかし、今の日本では、ローマの時代から2000年がたった今も、人間が人間らしい生活を送るために必要な道路が十分に整備されていないのが実情だ。

「道は、人が足で踏み固めただけでもできる。だから、人間の住むところならば、道は必ず存在する」と、塩野七生は書いている。それでもあえて、ローマ人は完全に整備舗装された道路を造り上げたという。国家百年の計を考えれば、道路は国にとっての動脈でなければならず、人と物産の流通が自由に行われなければ国の繁栄は求められないからだ。一連の議論で、百年の計にもとづいて、どれだけ議論が行われているのだろうか。私はそのことに危惧を感じている。

今の道路行政で、いちばん問題なのは、国家百年の計に基づいて道路が造られているのでなく、一部の利権に基づいているからであり、それゆえに無駄が目に余るということではないか。
この点をきっちりと論じ分けてからでなければ、真に意味のある論議はできないのではないかと思う。
以上のことを念頭において民主党のこれまでのやりかたを見ていると、いかにも手法がまずく、説得力に乏しいといわざるを得ない。ガソリン値下げ隊などと称するパフォーマンスも、ただただ幼稚なものに映るばかりで、これでは有権者の支持を得るどころか、関心さえもまともに引くことはできないだろう。
野党第一党がこのていたらくでは、自公政権はほんとに政治がやりやすかろう。
まったく忌々しいことだが、この国では政治家たちによるまともな議論が行われていない。そのことに私のイライラは募るばかりなのだ。


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ジュリアン・シュナーベル監督の「潜水服は蝶の夢を見る」を観た。
シュナーベルは前作「夜になるまえに」で私を魅了した監督であり、7年ぶりとなる今回の作品は今年最も楽しみな作品でもあった。

「夜になるまえに」は、原作がすぐれていたこともあるが、その魅力を損なわない台詞の美しさが心に残る映画だった。それは冒頭の、主人公が子供時代を振り返るモノローグから圧倒的だった。
映画とは、もちろん物語を伝える手段だが、ストーリーを伝えることに汲々としている映画には魅力がない。ストーリーを発酵・熟成させ、昇華させる作者の思いが表れていなければならない。それは映像の作り方であり、台詞の選び方であり、また音楽・効果音の使い方に現れてくる。

「ぼくは二歳だった。裸で、立っていた。前かがみになって、地面に舌を這わせた。ぼくが覚えている最初の味は土の味。同い年の従妹ドゥルセ・オフェリアといっしょに土を食べたものだった。」

これは原作の一節だが、映画はこの文章に妖しいほどの魅力を添えた映像で幕をあけた。この瞬間、「夜になるまえに」は、私にとって傑作の一本になったのだった。

潜水服は蝶の夢を見る」は、フランス人でファッション雑誌『ELLE』の編集長をしていたジャン=ドミニク・ボビーが、43歳で突然脳梗塞に倒れ、意識はあるものの左目しか動かせない状態になって書いた本を原作にしている。そう、彼は文字通り、左目だけで本を書いたのだ。
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画面は大半がジャンの左目を通した映像として映し出される。
昏睡状態から意識を回復し、ここはどこだと戸惑いながら見回す彼の視界に、次々と顔が近づいてくる。
「大丈夫。気がついた。もう安心ですよ」
彼らは医者と看護師たちだ。
「あなたは医学の進歩によって死なずにすんだのです。これから生きていけます。私が保証します」

戸惑いながらも自分がとんでもない境遇に陥ったことを知ったジャンは、勝手に満足の笑みを浮かべている医者や看護師たちを見てつぶやく。
「なにが安心だ。なにを保証するというのだ」
泣きわめくのでなく、冷めた目で皮肉を言うところがいい。
ここまできて思い出すのは、昔見た「ジョニーは戦場に行った」だ。
あの作品では戦闘で両手両脚、目・鼻・口を失った青年が必死に自分の生を訴える姿が印象的だった。彼の場合は意識があることさえ認められず、医者から見放されそうになる。しかし頭を枕に打ちつけ、モールス信号を発することで意思の疎通を取り戻すところが見所になっていた。

あのジョニーに比べれば、はるかに医療技術も看護体制も進歩した現代で体の自由を失ったジャンは幸せといえるだろうか。
いや、そんなことはない。どんなに時代が変わっても、技術がどれだけ進歩しても、人間にとって自由を奪われることは苦痛であることに違いはないのだ。
ジャンの場合は、その不自由さを旧式の潜水服を着て海に潜っているようだと考える。
体に合わないスーツを着て、頭には巨大な鉢のようなヘルメットをつけて、水の中を漂うように動くことしかできない潜水夫。

妻と3人の子どもをもつ彼は、華やかなファッション業界でこの世を謳歌していた。仕事は充実していたし、美味いものを食べ、愛人だって何人もいた。しかし、それらはみんな潜水服の外の世界に行ってしまった。
外の世界と自分をホースのように結びつけているのは、今や瞬きだけだ。
ウィなら瞬き1回、ノンなら2回。
しかし、そうやって最低限の意思疎通はできても、動かなくなった右目の瞼は勝手に縫いつけられてしまうし、好きなサッカーを見ていてもテレビを消されてしまう。鼻の頭にハエが止まってもままならず、思わずうなり声を上げると
「やった! すごい進歩ですよ」
と勘違いな褒められ方をする。まったく可笑しくなるほどの悲しさだ。

自由のすべてを失い、絶望するしかないはずのジャンだが、彼は考える。
「私にはまだ残っているものがある。それは記憶と想像力だ」
なんという強さ。人間というのは、ここまで強くなれるのか。
記憶と想像力さえあれば、羽化したばかりの蝶のように羽をのばし、やがて自由に羽ばたくことができる。そのイメージの美しさ。
彼は言語療法士の力を借りて、特殊なアルファベットを読み上げさせ、瞬きすることで本を書き始める。その数は20万回。
まったく、手も足も動く私だが、この強さには手も足も出ない。
手も足も出ないどころか、彼を通して見れば否応なく気づかされることがある。

潜水服を着ているのは彼だけではない。自分もまた、そうなのだと。
92歳になる彼の父親は脚が痛むために4階にある自室から出ることができない。彼は泣きながら電話で息子に訴える。
「お前に会いたいが、行くことができない。俺もお前と同じなんだよ」と。
自由のように見えながら、ほんとうは誰もが不自由を背負って生きている。金持ちの不自由、貧乏の不自由、その色合いは人さまざまだが、不自由な枠の中でなんとか踏みこたえて生きている。踏みこたえていけば、何か見えてくるものがあるかもしれない。ジャンにとっての記憶と想像力のようにかけがいのないものが。
見えない潜水服を着ている私は、しばし呆然としながらエンドロールを見つめていた。

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実をいうと、私はジプシーである。

ドッグフード・ジプシーという名のジプシーである。

前にも書いたことがあるが、わが家にやってきた4匹目のワンコ(フレンチブルドッグ)は、アレルギー体質をもっている。
そうとは知らずに買ってしまったのだから仕方がないが、なんとも厄介なワンコを迎え入れてしまったものだと思う。
アレルギーとわからないうちは、他の3匹は何でもないのになぜ彼(すでに去勢しているのだが、いちおう名誉のため彼と呼んでおく)だけが、いつ見ても目にはどでかい目ヤニがたまっているし、耳の中が臭いのだろうと思っていた。垂れ耳のパグは比較的外耳炎になりやすく、わが家のパグたちも1、2度薬を処方してもらったことがあるけれど、彼の耳は臭すぎた。

病院に連れて行くと、医者は言った。
「ああ、ひでえ外耳炎だ。だけど、何でこんなに風通しがいい耳なのに外耳炎になるかなあ」
ブルース
ご存じの方が多いだろうが、フレンチブルドッグの耳はピンと立っているのが特徴で、見た目はこれ以上ないほど風通しがよさそうな形をしている。
とりあえず、そのときは抗生剤と耳の洗浄液をもらってきて、一週間か十日ほど薬の服用と一日2回の耳クチュクチュを続けた。おかげで何とか症状は治まってきた。

ところが、しばらくするとまた耳が臭いだし、今度は体中を掻きはじめた。掻きすぎて、お腹が禿げてきてしまった。で、また病院。
「ああ、これはアレルギーだね」
はあ、やっぱりそうか。
「完全に治すには、アレルギーの原因物質を調べなくちゃならないけど、その検査はけっこう面倒なうえに高くつくんですよ」

思い返せば、これが私のジプシー生活が始まったときだった。
アレルギーを治すには、アレルギー反応を起こす物質を体に入れないようにするのがいちばんだ。このとき、病院ではステロイド剤も処方されたが、あまりこの薬には頼りたくない。
とすれば、大事になってくるのは食べ物。エサである。
ところが、病院が勧めてくれたフードは、私にとっては目の玉が飛び出るほど高いものだった。それまでパグたちと一緒に食べさせていたフードの、優に7倍くらいするものだった。
パグたちにだって悪いものを食べさせていたわけではない。サイエンスヒルズとかアイムスのラム・アンド・ライスを与えていた。これらのフードだって、いちおうアレルギーが出にくいとされている素材を使っているはずなのだ。
でも、フレンチの彼にはそんなものではなく、タンパク質を厳密に調整したフードが必要で、それがやたらめったらに高価ときているのだ。

それでも、しばらくの間は医者が取り寄せてくれる処方食を買って食べさせていた。だがこれから先もずっと、このバカ高いフードにしなければならないというのは正直なところ、大きな負担だった。数ヶ月続けたところで、ひとまず様子を見ることにしますと獣医に言った。
そして、私は他にもっといい方法はないかと調べ始めた。つまり、もっと安くてアレルギーを起こさずにすむフードはないかと探すことにしたのだ。
調べた限りでは、手作り食にするのがいちばん安全らしいことがわかった。
手作り食にするなら他のワンコたちも同じものにしてやらなければ承知しないだろう。パグは食い意地が張った犬なのだ。フレンチも負けてはいないが。
けれども、厳密に栄養素をそろえて食事を作る手間、そして作った食事を保存する手間を考えると、怠惰な私には「ちょっと無理だな」と思わざるを得なかった。無理なことは続けられないに決まってる。

それではベストではなくともベターな方法を執ろうと考え、いろいろなドッグフードを調べてみた。
ドッグフードと一口に言っても、ピンからキリまで、ほんとにたくさんの種類の商品が出回っていることには驚かされる。
そのなかから「手頃で、しかも体によく、アレルギー物質をふくまないもの」を探し出すのは至難の業だ。ネットを見ていくと、可愛いワンコたちのために何を食べさせたらいいのか悩んでいる飼い主たちがけっこう多いらしく、2ちゃんねるでもドッグフードのスレが何本も立っていた。最適のフードを求めて思い悩む飼い主を揶揄してドッグフード・ジプシーと呼んでいたが、私もまさしくその一人なのだった。
これはと思ったフードのメーカーのHPを調べ、ワンコたちに必要な栄養素をふくみながらアレルギー物質がないものかどうかを調べる。でも、絶対にいいものかどうかは食べさせてみなければわからない。とりあえず、これはどうかと思ったものを通販で手に入れた。

食付きはすこぶるいい。便の状態も良好だ。これならいけるかもしれないと思った。しかし2月たち3月たっても、彼の状態は変わらなかった。耳の状態はずっとよくなったが、相変わらず目ヤニは出るし、体中掻きむしっている。そのうち、掻きすぎて自慢の耳がハゲちょろになってしまった。
私が試していたのはアメリカで作られている、一応プレミアムフードと呼ばれているものだったのだが、値段ばかりがプレミアムで、彼に合ったフードはみつからない。その後もいくつかの銘柄を試してみた。

そうこうしているうちにアメリカで大問題が起きた。
中国産の原料を使用したフードを食べた犬や猫たちが死亡する事件が相次いだのだ。
今思えば、毒入りギョーザパニックは、このときに予見できたものなのかもしれない。ニュースにもなったこの事件は、私をふくむ愛犬家たちを大いに心配させた。すぐれたフードとして輸入されていたフードは多くがアメリカやカナダから輸入された製品だったからだ。

中国の業者が製造していたフードにはプラスチックの原料として使われる「メラミン」という化学物質が混入されていた。この物質が入っていると、タンパク質含有量を高く見せかけることができるのだという。摘発された製品には、「最低含有率75%」と表示されていたという。毒入りフードを販売していたメーカーにはけっこう有名なところもあり、私も一時その商品を使っていたことがある。
あわててメーカーのHPを見たが、そこには日本に入ってくる商品には危険物質はふくまれていないという報告があった。

しかし、ドッグフードに対する不安は高まるばかりだった。加工されて粒状になったフードを見て、どれがいいものなのか判断することは不可能だ。とすれば消費者はパッケージにある表示に頼るしかない。それが今、信じられなくなってきているのだ。
幸い、日本では中毒死する犬や猫の報告はないようだが、アメリカでは今月6日、ミズーリ州の連邦大陪審が原料を製造した江蘇省のメーカーなど中国企業2社とネバタ州の輸入業者を起訴した。
産経ニュースでは次のように伝えている。
-------
 食品医薬品局(FDA)が同日発表したもので、3社の経営者らも同時に起訴された。3社は共謀して、米国で使用が禁止されている化学物質メラミンを混入した原料を「小麦グルテン」と称して800トン(85万ドル=約9000万円相当)を米国に輸入した疑い。中国当局の検査を逃れるため偽の申告もしていた。

 メラミンを混ぜると原料のタンパク質含有量を高く見せることができ、製品には「最低含有率75%」と偽表示されていた。この原料を使いカナダのメーカーが製造したペットフードで昨年3月以降、イヌやネコが大量に中毒死していたことが発覚した。

 中国政府はこれら中国企業2社を営業停止処分にするとともに責任者を逮捕。このペットフード禍は中国製品への消費者不信が広がる契機となり、その後も、有毒練り歯磨き粉のほか、抗菌剤が検出された魚介類の輸入禁止、さらには鉛が混入した玩具の大量回収と波及していった。

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まったく、とんでもないことをやってくれるよ、中国は。ほんとに彼らは金のためなら何でもやるようでコワイ。
幸い、この数ヶ月使っているフードは彼にとってよかったようで、この頃はほとんど目ヤニがつかなくなったし、体臭もきつくなくなってきた。ハゲちょろはまだ治らないが、真っ赤になっていたアゴの下もきれいになってきている。
わが家では、去年からメスのパグが膀胱炎を起こしやすくなり、今はそれこそ病院の処方食に頼っている。これも高いが仕方がない。
しばらくはこの処方食と、フレンチ君に相性がよさそうなフードの2本立てでいくことになりそうだ。

そして最後におまけ。
20日の朝日新聞朝刊にこんな記事が出ていた。
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ペットフードの安全性を確保するため、政府が今国会に提出する予定の新法案の内容が19日、明らかになった。国がペットフードの製造方法・表示の基準や成分の規格を設定し、合わない場合には製造などを禁止、有害物質が含まれれば廃棄や回収を命令できるようにする。違反すると、個人には1年以下の懲役か100万円以下の罰金を、法人には1億円以下の罰金を科す。
 法案は「愛がん動物用飼料の安全性の確保に関する法律」。対象動物は政令で定める。当面、ペットフード流通量が多い犬と猫を想定している。

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動物を飼う側からすれば、遅すぎる政府の対応だと思うが、まずは明るいニュース。
これでドッグフード・ジプシーも少しは減るのだろうか。

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デュラム小麦のセモリナ粉を買ってきて、パン焼き器を使ってピッツァ生地を作る。発酵を済ませた生地は、適度に膨らんでプクプクと炭酸ガスの気泡ができている。
これを適当な大きさに分割し、少し休ませてから麺棒でのばす。
ピッツァの生地は、あまり厚くない方が好きなので、最初の生地はごく薄く、3~4ミリにしてみた。
のばした生地にトマトソースを塗り、スライスオニオン、サラミ、ピーマン、トマト、それにたっぷりのチーズを乗せてオーブンに入れる。20分ほどして焼き上がったピッツァは、チーズが溶けて柔らかく、生地はというとパリッとお煎餅のように焼き上がって香ばしかった。
やっぱり自分で作るピッツァは美味い。
残った生地を、こんどは厚めにのばして具を乗せて焼く。
今度は具を多くしすぎたために、生地まで完全に火が通らず、ちょっと生焼け。それでもセモリナ粉独特の甘みが出ていて十分美味しく食べられる。

ああ、ジャンクフードってなんて美味いのだろう。
カロリーばかり高く、ビタミン、ミネラルなどの栄養素が不足している体に悪い食べ物。
でもこいつがなかなか止められない。
フィッシュ・アンド・チップスもたまに食べるならビールはもちろん、アイリッシュ・ウィスキーにもよく合うつまみになる。ほんらいフィッシュ・アンド・チップスは、白身魚のフライとジャガイモのフライに塩をかけて食べていたらしいが、マヨラーの私はやっぱりタルタルソースなどをつけて食べる方が好きだ。
熱々の魚とジャガイモのホクホク感、それにマヨネーズの酸味が次々に口の中に広がって、至福のジャンクフード・ワールドが展開される。そこにモルトの苦みが利いたウィスキーを流し込む。
たまらなく不健康で、幸福だ。

子どもが小さい頃、ハンバーガーを食べたいというと、私はいい顔をしなかった。
ことに今、名ばかりの管理職を店員に押しつけて荒稼ぎしている悪徳企業「マクドナルド」のハンバーガーは、通りを歩いていても外まで悪い肉と油の臭いが漂ってきて、気持ちが悪くなるので嫌だった。
「あんなもの、食べるなよ」
私は言い捨てた。
しかし、食べたいと言って顔を輝かせている子どもの気持ちを潰しては悪い親になるような気がして、5回に1回くらいはつきあってしまう。
そして、喜んだ子どもはチーズバーガーにフライドポテトにチキンナゲット、それにデザートとしてアップルパイも注文してしまう。
ほっぺたをふくらまして食べている子どもの顔を見て、私は言う。
「よく、そんなものを食べるな」
そう言いながらも、私はフィレオ・フィッシュを頬張っているのである。

私は今でもマック(関西風にいうとマクド)は好きではない。
あのハンバーガーにはどんな肉が使われているか、わかったものではないし、出がらしのように薄いコーヒーはアメリカンというのもはばかられるほどの薄さと不味さだ。
ただでさえ、ジャンクフードは体に悪いのを覚悟して食べるのに、マクドナルドの商品ときたら、そのうえに不味い。
なにが、 I'm loving it! だよ。
ちっとも愛しちゃいないよ、私は。

メタボリックシンドロームが注目され、日本肥満学会は胴回り85?以上の男性、同じく90?以上の女性は要治療であるとの基準値を設けた。しかしこの基準値だと日本人の中高年は半分以上が病気予備軍ということになってしまう。この基準は厳しすぎるだろうと、医学者の間からも異論が出ている。
そりゃ、デブは体によくないだろうさ。だけど、よけいなお世話というものだ。
何を食おうが、その結果どんな病気になろうが、生活習慣まで御上に命令されたくはない。

ところが、国は今年度から健康保険法を改正して健保組合が社員とその家族にメタボ脱却のための指導をすることを義務づけている。一定期間内のメタボ減少率が国の定めた基準に達しなかった場合、その健保に対してはペナルティを課すことが検討されている。
体によくない食べ物を食って、挙げ句に医者の世話になるとしたら、医療費が上がって国はたまらないというのだろう。
さらに国は、各企業の社員の健康状況を数値化して会社別の順位を公表するとも。

その結果、順位が低い企業は社をあげてメタボ社員を減らすべく動き出したということだが、企業によってはペナルティよりも社員たちの健康管理にかかる金の方が大きくなるらしい。ひいてはそれが企業の収益まで影響をおよぼすようになる。
ということは、最悪の場合、企業からすればメタボ社員の首を切った方が安上がりになるかもしれないわけだ。

すべては医療費削減が目的で始まったことだが、医者からも異論が出ている基準をそのまま導入して企業に圧力を掛けるというのは、これもまた新自由主義に毒された政府の手口といえるのではないだろうか。

また、厚労省ではメタボ基準値を超えた人間は最大10%の医療費アップを検討しているともいう。
たしかに、メタボリックシンドロームになるのは自己責任かもしれない。
けれども、これもまたほんとうに大きなお世話というものだ。企業だけでは飽きたらず、個人にまでペナルティを課そうという発想がまず卑しい。

もしこれが本当なら、ジャンクフードを売る側からも金を取らなければ片手落ちというものだろう。
マクドナルドなど、ごっそりメタボ税を徴収すればいいではないか。タバコにたばこ税があるように、ファーストフード店からも取ればいい。
マックのまずいバーガーを食ってメタボになって、挙げ句に国からペナルティ同然の医療費を請求されるようになるとしたら、まったく浮かばれないと言いたくなるけれど。

日本人はラーメンが好きだ。そりゃマックなんかよりもずっと好きなはずだ。
最近は、とんこつに醤油スープをミックスした和歌山風とか「家系」と呼ばれるラーメンが幅を利かせている。もちろん、ラーメン店には店それぞれに流派がありこだわりがあり、それが顕著なほど美味い店として行列ができる。
しかしラーメン店のなかには妙に素材にこだわり、客に蘊蓄を垂れたがる店が多い。なかにはヘルシーな素材を吟味して、健康にいいラーメンを提供していると謳った店もある。だが、こういう店はあまり長続きせずに店を閉めてしまうことが少なくない。

それもそのはずで、ラーメンとはやはりジャンクフードの一種なのだ。きつすぎるほどの塩分、こってりした油が浮かぶスープ。脂身の乗ったチャーシュー。肉や野菜を煮込んで作るスープは、それだけならばヘルシーかもしれないが、ラーメンとして完成したときには立派なジャンクフードになっている。客は、その不健康だけれど癖になる味が忘れられなくてお気に入りの店に足繁く通うようになるのだ。

昔は庶民の手軽な食べ物として親しまれたラーメンも、今は1杯700円、800円というものが珍しくなくなった。なかには1000円以上する高級ラーメンもある。ジャンクフードと呼ぶには畏れ多くなってきているが、いまさら改まって食べるのも業腹だ。
「高えな、ラーメンでこんなにするのかよ」
「このスープ、思い切り化学調味料を使ってやがる」
「なんだよ、煮卵に味が浸みてねえじゃねえか」
「野菜にもやしが多すぎる。味が水っぽくなってかなわねえ」
「シナチクにこんな濃い味つけをしてどうするんだよ」
などと腹の中で文句を言いながら食べる。

このごろはラーメンを食べる回数も減ってきているのだが、昨日は久しぶりにラーメン屋に出掛け、つけめんを食べてきた。
少し酸味の利いたスープに太めの手打ち麺。油が浮いたスープにはゆで卵2分の1とシナチク、小切りにしたチャーシューがたっぷり入っていた。
「ああ、魚粉の香りが強いね。それに麺が少し柔らかめだよ。いけないね、これは」
なんだか落語の「酢豆腐」の若旦那みたいなことを言いつつ、ズルズルと麺をすすり、ぐびりぐびりとスープを飲み、ふぐふぐとチャーシューを噛みしめた。
うーん、体に悪い!
しかしジャンクフードは、やっぱりやめられそうもない。

そのうち政府はラーメンにもメタボ税をかけるようになったりして。せこい話だと、書いていても嫌になってくるが。
しかし、そうなったら全国のデブと全国のラーメン党が、黙っちゃいないぞ。
きっとね。

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今日が駄目なら明日にしましょ、明日が駄目なら明後日にしましょ、
明後日が駄目なら明明後日にしましょ、どこまでいっても明日がある。

たしか、こんな歌詞だったと思う。
私が子どもの頃、NHKの「ひょっこりひょうたん島」でドン・ガバチョが陽気に歌っていた。
後年、そろそろ将来のことを考えなければと思い始めたときに、モーニングショーだったかテレビ番組の中で、この歌がひとりの男性の自殺を思いとどまらせたという話を聞いた。その男性は小さな工場を営んでいたが、資金繰りに困り、思いあまって梁にネクタイを掛け、首をくくろうとした。そしてネクタイの輪に首を通したときに、どこからかテレビの歌声が聞こえてきた。
それがドン・ガバチョの歌だった。

今日が駄目なら明日にしましょ。
どこまでいっても明日がある。

この歌を聞いて、男性はもう一度やってみようという気持ちになった。自殺を止めて必死に働き、なんとか余裕が持てるようになった。あの時、あの歌を聞かなければ今日の自分はなかったと、感謝の手紙を作者に書いた。
子ども向けの人形劇の歌が、金に困り、明日に絶望した大人の命を救ったのだ。
ドラマには、それが大人向けであろうと子ども向けであろうと、人を力づけ勇気を与え、明日を生きる希望の灯を心にともす力がある。私はそう思った。私自身、橋本忍の「私は貝になりたい」を見て、あるいは黒沢明の「生きる」を見て、生きることの尊さを学んだし、これらのドラマから力をもらったことを実感していた。
できることならば、自分も人に力を与えられるような仕事をしたいと漠然と考えるようになった。

その夢がどうなったかは、ここでは置いておこう。

今年はまだ2月も半ばだというのに、もうずいぶん時が経ってしまったような感覚がある。
あまりに多くの、それも悲惨な事件が続いていることが、そう思わせる。鬱をもつゆえ、あまりに無残な事件事故には触れたくないと思うのだが、それでもなお、これだけ酷い事件が起きるのはなぜなのかと考えざるを得なくなってくる。
1月には幼い子ども二人を11階から落とし、自分も身を投げて死んだ母親がいた。八戸では引きこもりの長男が母親と妹弟を殺害し、自宅に放火する事件が起きた。そして2月になると足立区で父親がナタで妻と母親を殺し、息子の両手首を切り落として自殺した。
大きな事件だけでも立て続けに起きている。昨年暮れには福井で認知症が進んだ82歳の妻を道連れに、80歳の夫が心中した。たった一人で妻の世話をしていた夫は将来を悲観して、妻とともに30年以上使われていなかった火葬場の炉の中に入り、ロープで蓋を閉め薪と炭に火をつけて焼け死んだという。

なんという孤独。なんという絶望。
なんという救いのなさだろう。
マスコミを賑わすこれらの事件の他にも、年間3万人以上が自殺している日本では、毎日確実に孤独と絶望が死を選ばせている。
そこにはもう、「今日が駄目なら明日にしましょ。どこまでいっても明日がある」という歌など通用しない深刻さがある。もう少し頑張って生きてみようという希望が生まれる余地もない。

悲惨な事件を伝える一方で、マスコミはGDPが年率3.7%増であることを報じている。先行きには不安材料が多いとしながらも、景気は堅調に伸びているという。
富裕層が富を独占し、日本の景気を支えながら、社会の底辺では親が子を殺し、子が親を殺す。報道ステーションでは、足立区のニュースの後に羽田の空港ビルの株を外資ファンドが大量に買ったことを報じ、朝日新聞論説委員の加藤千洋が、「これで空港ビルが華やぐ。結構なことだ」と微笑んだ。
足立の事件で家族を手にかけた50代の父親は、「母親には車いすで生活できる家を、妻には好きな洋裁をする家を、子供たちには自分の部屋をプレゼントしたかった。全部無くしてしまいました」と遺書を残している。空港ビルの華やぎは、誰のために必要なのか。足立区の父親には無縁の話だったろう。

開店休業状態の仕事場にただずみ、絶望が積み重なっていく毎日。重く苦しい気持ちは、私自身が鬱をかかえた個人事業者で不安定な仕事の状態が続いている現在、決して他人事とは思えない。凄惨な殺害方法が話題になっているが、私だって家族を殺すとなれば一撃で殺せるものを選ぶだろう。彼の場合はそれがナタだったにすぎない。
誰のせいだと恨んでも、どうにもならない。何かにすがりたくてもすがるものがない。
世の中は、そうなったのは自分の責任であり、負け組の宿命なのだから仕方がないという。
しかし、人をここまで絶望させ、死に追いやる社会、98年以降毎年3万人以上の人が自殺する社会は、やはり異常という他ないのではないか。
今の社会を何とかしなければならない。悲惨な事件を少しでも減らす努力をしなければならない。そうしなければ、私自身が押し潰されてしまうかもしれない。
そんな危機感を持っている。

今のこの社会を変えるにはどうしたらいいのか。どうしなければならないのか。真剣に考えなければならないときにきていると思う。真面目に議論しなければならない時だと思う。

しかし、しかし。
マスコミも政治家も、あまりに不誠実、不真面目だ。この目を覆いたくなるような現状に頬被りして、まともに向き合おうとしていない。そのことに腹が立つ。
ネットでは、幸いなことに真面目な考えを持っていることがわかるブログに出会えた。だから私もブログを始めてみようと思った。何かを言っておかなくてはという思いがある。そして、わずかながらネットには新しい連帯による力が生まれる可能性があるような気がしている。

駄目な今日が過ぎても明日はくる。かならず明日はやってくる。
しかし、その明日も、絶望せずにすむとはいえない。
このやりきれなさを誰と分かち合えばいいのだろう。
過度な期待はしない。だがしばらくは、ネットに向かってみようと思う。

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私はスーパーが好きではない。人が集まるところが苦手だ。
それでも、ときどきカミサンにつきあって買い物に行くことがある。
数日前もワインのつまみにチーズでも、と近くのスーパーに行った。
すると、チーズの隣に置いてあるバターの棚がやけにスカスカになっているのに気がついた。
棚には、
「ただ今、バターの入荷が少なくなっています。在庫は陳列してあるものだけになりますのでご容赦ください」
と貼り紙がしてあった。

ついにここまで来たか。

バターが不足しているという話は、昨年から聞いていた。
ある仕事で、パティシエとパン屋さんに話を聞く機会があったからだ。
バターが品薄になってきている。普段から取引が大きい店はいいが、町場の小さなお菓子屋さんやパン屋さんには行き渡らないことがある。商品を作るには欠かせない材料だから、業務用の品物を卸してもらえない店は仕方なくスーパーに走り、小売りの商品を買いあさっているというのだ。
今はなんとか商品を卸してもらっている店も、乳製品の価格が高騰し始め、苦労しているという。バターの在庫が切れて、マーガリンを使い始めているところもあるという。
「ウチはマーガリンなど使わない」と言っていた店が、今度はマーガリンの価格が高騰して手に入れられず、青くなっているという。

なぜ、こんな事態になったのか。
それは日本の農政が失敗したツケが回ってきたからである。

ことは2006年にさかのぼる。
当時、牛乳の消費が減って売れ残りが深刻な事態となっていた。
これを見た農水省は、牛乳が売れないのなら生産調整すべしとお達しを出した。
いかにも単純な解決法で、わかりやすいったらありゃしない。
しかし、農水省が出したお達しとは、単に牛から搾る乳の量を減らすというのでなく、乳牛そのものを殺処分することを意味する。
おかげで酪農農家にいる乳牛は食肉となり、目標通り数が減った。

これで目出度しと思いきや、去年の夏は猛暑だった。そのため残った乳牛がバテてしまい、お乳を出せなくなってしまった。その結果、牛乳が不足し始めた。
普段ならばこんなとき、オーストラリアが助けてくれる。
ところが、ご承知の通りオーストラリアは歴史的な干ばつで牛乳を輸出するどころではない状態。仕方なく、オランダなどヨーロッパの酪農国に頼み込んで牛乳を手配したのだそうだ。
もちろん高価格で。

けれども、そうやって入手した牛乳も、まずは飲料用に使われる。製造に手間のかかるバターは後回しで、飲料の次はヨーグルトなどの液状乳製品にまわされる。そして最後に回されるのがバター・チーズの固形乳製品となる。
しかし、せっかく作ったバターも、まずは購買力の高いスーパーなど量販小売店が優先的に仕入れていく。
メーカーにとっては安く買いたたかれる大口加工用のバターは、最後の最後にしかまわってこない。しかも量が限られているわけだから、スーパーに走るパン屋さんも出てくる。
スーパーの棚がスカスカになるわけだ。

そしてさらに悪いことには、乳牛を殺してしまったために牛乳をもとの生産量まで戻すのには、あと2年くらいかかるというのだ。
牛乳があまったら、牛を殺してしまえ。この単純すぎるバカな発想しかできなかった農水省のおかげで今、日本のバターはほんとうに不足してきている。不足しているから当然、価格も上がっている。可哀想な乳牛たち。そして可哀想な日本の国民。そのうち日本中のスーパーからバターが消えるかも?

しかもおかしいのは、飲料の牛乳は今のところ供給できているのだからバターにまわせばいいだろうに、農水省にはその融通を利かせることができない。あくまでも、飲料の次はヨーグルトを作るのであり、バターは最後に作られることになっているからだ。
つくづくおかしな国だと思うよ、この国は。
今年は小麦の価格が30%以上あがるし、このままだと乳製品全体の価格も上がるのは確実だ。大変な思いをするのはお菓子屋さんやパン屋さんだけではすまないだろう。

で、2006年当時、牛を殺させた農水省のトップは誰だったかというと、こいつらだ。
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自分で自分を殺処分してりゃ、世話ねえや。
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関連タグ : 農政の失敗, バター不足, 農林大臣, 殺処分, 価格高騰,

「強い怒りを覚える」「極めて遺憾だ」

政治家たちの口からは、
相変わらず、政治用語しか出てこない。
その言葉からは、本当の怒りも、悔しさも伝わってこない。犯罪を憎悪する念が感じられない。
事務的で、紋切り型の、いつもの台詞だ。あたたかみも共感もない。

すでに多くのブログが怒りのメッセージをエントリしているが、私も言っておかずにはいられない。誰かが言ったから済むという問題ではない。私もともに声を上げることが重要なのだ。

沖縄に駐留する38歳のアメリカ兵が、少女を暴行した。無理矢理に猥褻行為を働いた。
14歳の女子中学生を「家まで送る」と言ってバイクで自宅に連れ込み、乱暴しようとした。女子中学生が逃げ出すと車で追いかけ、車内で乱暴した。

卑劣で野蛮で人間としての理性のかけらもない残虐な行為が、また繰り返されたのである。
怒りと屈辱。やりきれない悲しさを、言葉をいくら積み重ねたところで表すことは難しい。
アメリカ軍は世界の警察でも何でもない、ただの野蛮人の集団であり、世界に恥ずべき愚連隊だ。
日本政府は、そのアメリカ軍のために基地を提供し、湯水のごとく金を貢いでいる。
口には決して出さないが、女子供を慰みものとして与えている。事件が起こっても、紋切り型の台詞しか出てこないのは、そのためだろう。

沖縄では95年にも小学生の女児が3人の海兵隊員に拉致され、集団暴行された。
このときは大規模な県民総決起大会が開かれ、基地の整理・縮小を求める運動が島全体で行われた。
しかし、それ以後も米兵による暴行事件は後を絶っていない。2001年6月、2002年11月、2003年5月にもレイプ事件が起きている。米軍は事件が起きるたびに綱紀粛正などともっともらしいことをいって弁解するが、屈辱的な不平等条約である地位協定を盾にしてほんとうの罪の償いをしようとしない。

那覇市議会議員の狩俣信子さんによる「沖縄から米兵によるレイプ事件を告発する」(http://www.kokuminrengo.net/2003/200307-usbase-krmt.htm)を読むと、アメリカ兵による暴行事件は敗戦直後から続いてきたことが明らかにされている。

沖縄戦で生き残った人々は捕虜収容所に収容されたが、そこでレイプ事件が起きたこと。収容所から畑に行く途中でレイプされたこと、畑での仕事中にレイプされたこと。やがて人々が収容所を出て、家に帰ってからもレイプ事件は続発した。まるで鬼か悪魔のように米兵は住民の家に乗り込み、家族の前で女性をレイプした。混血児が生まれ、夫婦仲がうまくいかなくなって離婚した家族もある。米兵に追いかけられて崖から飛び降り、自殺した女性もいるという。

狩俣さんが幼い頃には、夜中に鐘がガンガン鳴らされて飛び起きたことがあったという。米兵が「女狩り」を始めたことを知らせる鐘だった。
そして1953年には6歳の女の子が自宅から連れ出されてレイプされ、殺されるという事件が起きている。

沖縄が祖国復帰をしたのは1972年のことであり、これ以降、島民は日本国憲法に守られることになったはずだが、米兵によるレイプ、暴行、殺人事件は後を絶たなかった。
狩俣さんは書いている。
「2003年6月24日の衆議院沖縄・北方特別委員会において、外務省の海老原紳北米局長は1973年から2002年までに、沖縄では軍人・軍属や家族による女性暴行事件が111件発生し、126人が検挙されたと答弁している。この期間の日本全国における女性暴行事件は沖縄を含めて166件という事をみたとき、沖縄111件に対し沖縄以外の地域で55件であり、いかにこの狭い沖縄にレイプ事件が集中しているかが分かるだろう。しかも、統計に表れないレイプ事件があることを考えた時、さらにその数は大きくなる」

まさに、沖縄には女、子どもを餌食にする鬼どもが徘徊しているといってもいい。
彼らは日本を守るという美名に隠れてやってきているが、その実やっていることは街で暴れまわり、日本の女性や子どもを食い物にしているだけだ。性犯罪者どもが、群れをなしてアメリカからやってきているといってもいい。

悪い鬼は、やっつけるしかない。退散させるしかない。

不平等条約である地位協定を改定するのも必要だが、アメリカ軍が日本からいなくなれば、いちばんいいのだ。
そもそもアメリカには日本を守るなどという気は微塵もないだろう。中東への中継基地として、あるいは対北朝鮮の前線基地として、日本を利用しているだけだ。自軍の戦闘行為をやりやすくするために日本を巻き込もうとしているだけだ。戦争好きな自分たちの道具として、日本を使い倒そうとているだけだ。

性犯罪者に対する厳罰化も必要だ。
麻薬取締法なみの厳格な規制を敷いて、性犯罪者の入国はさせないこと。性犯罪者には重罰を科した上で国外追放、あるいはアメリカのミーガン法にならって国籍を問わず性犯罪者の情報を公開すること。これは基地周辺だけの問題ではない。
国を挙げて性犯罪を防止し、その被害者の救済を図らなければならない。
私は、性犯罪ほど忌むべきものはないと考えている。

日本人の子どもが、女性が安全を脅かされている。命の危険にさらされている。
この事実を前に、安全保障条約など、ちゃんちゃらおかしいというべきではないか。
ほんとうに日本の安全を保障するためには、まずアメリカ兵を始末するための軍隊が必要なのではないかとさえ言いたくなる。
アメリカは友好国などではない。アメリカは日本を属国だと見ている。自分が支配者だと考えている。属国で発生する事件は、アメリカがもたらすパクス(安全)の付属物だと考えている。大目に見ろと考えている。
アメリカに隷属するのでなく、対等に交渉できる政府が必要だ。自民党にはほんとうに、うんざりさせられる。日本の安全保障を真剣に考え、国民を納得させられるリーダーが必要だ。アメリカと裏取引をして国を売り渡そうとしている政治家は、アメリカ軍とともに太平洋の向こうに消えてもらいたい。
国民は真に信頼できる政府、政治家を待っている。
日本の歴史が、それを待っている。



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泣ける映画が、必ずしもいい映画の物差しにはならないと思っている。
しかし、やはりすぐれた作品に出合うと涙は自然に流れてくる。いくらこらえても、目の前がうるうるボヤけ、一粒、二粒と涙の滴が流れてしまう。
君のためなら千回でも」は、ほろ苦く、切ない涙を禁じ得ない、私が近年観た作品の中でもっとも愛すべき映画だった。

最後に凧揚げをしたのは、いつだっただろう。
画面を見ながら、そんなことを考えていた。
空高く舞い上がり、風に乗った凧はみるみる小さくなっていく。
凧と地上にいる私をつなぐのは一本の糸だけだ。その糸をしっかり握り、風に流されないように支えるのはけっこう大変なことだったのを思い出す。
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大空を無数の凧が飛んでいる。鮮やかに彩られた三角形の凧は、アメリカ凧に近い形をしている。その凧を飛ばしているのはアフガニスタンの子どもたちだ。
ソビエトに侵略される前の平和なアフガニスタンでは、冬のお祭りとして凧揚げの日があったことが描かれる。日本で言えば「喧嘩凧」で、飛ばした凧を巧みに操り、空中戦を演じるのが見所だ。
まるで生き物のように飛び回る凧は相手を見つけると接近し、挑発し、くるくる回転して互いの糸を切ろうとする。糸を切られた凧はむなしく地上に落ちていく。地上では落下した凧を追いかけて、子どもたちが一斉に走り始める。落ちてくる凧は拾った者がもらっていいことになっているのだ。
この映画の原題「The Kite Runner」は、凧を追いかける子どもたちのことであり、日本題の「君のためなら千回でも」は、凧を拾ってきてくれと頼んだ少年に、親友の少年が笑顔を浮かべて答える台詞として出てくる。日本ならば「喜んで!」とか「いいとも!」というところだろう。

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この映画の前半に登場する人物は、気は優しいが弱さを持った少年アミールと、その少年に献身的なまでに仕える年下の少年ハッサン。そしてリベラルな考えを持ち、人々から尊敬を集めているアミールの父親と、アミールの家に忠実に仕えるハッサンの父。
アミールの父は息子に教える。
「もっとも悪い犯罪は盗むことだ」と。
「人を殺すのは命を盗むことであり、人を欺くことは真実を盗むことなのだ」と。
アミールは、アミールのために凧を拾いに行った先でハッサンが暴行を受け、性的虐待を受けるのを目撃するが。助けることができない。のみならず、かえってハッサンを遠ざけ、いじめるようになる。ザクロの実を投げつけ、悔しかったら自分にも投げてみろという。しかしハッサンは黙って実を取り上げると、自分の顔で潰し、だまって去っていく。その決然とした少年の誇り高い表情がいい。
アミールは、挙げ句に盗みの罪を着せて召使いとして仕えてきたハッサン親子を追い出そうとする。
ハッサンは、アミールの嘘を知りながら罪を認め、ハッサンの父はもうお仕えすることはできないと出て行こうとする。
アミールの父は二人に留まるように命令するが、ハッサンの父はいう。
「失礼ながら、あなたはもう私の主人ではない。私に命令することはできない」
父もまた、誇り高い男だったのだ。

ソ連がアフガニスタンに共産主義政権を樹立しようと侵攻してくるまで、この国は親米的だったことが描かれる。パーティではアメリカの流行曲が演奏され、街では「荒野の七人」が上映されている。
アミールの誕生日には大勢の町の名士たちが訪れるが、そのなかにアフガニスタンの英雄マスードがさりげなく登場するのも、おもしろい。

ここでアフガニスタンについてのおさらいだ。
アフガニスタンといえば、私の記憶は79年にソ連軍の侵攻を受け、共産主義政権を樹立したことに始まる。アメリカをはじめとする西側諸国はこの事件に反発し、80年のモスクワ・オリンピックをボイコットした。
また、10年にわたる内戦が続きソ連軍が撤退した後にはイスラム原理主義のタリバンによって支配された。彼らの反人道的・反文化的な支配体制は世界中から非難されたが、タリバンはバーミヤンの巨大石仏を爆破するという示威行動に出てさらに非難を深めた。
アメリカはアフガニスタンと近しい関係にあったが、タリバンが国際テロ組織アルカイダをかくまい、そのアルカイダが9.11事件を起こしたことから関係が悪化。国の英雄マスードは、この事件の二日前に暗殺されている。アメリカはタリバン政権打倒とアルカイダ討伐のために出兵した。
そして2002年、ハーミド・カルザイが暫定大統領となり、2004年に選挙が行われてカルザイが当選し、正式な政権が発足した。
しかし現在はふたたびタリバンが勢力を盛り返し、国内は今も混乱している。

映画の後半は、こうしたアフガニスタンの歴史のなかで生き別れになってしまったアミールとハッサンの関係がどうなるのかを描く。
ハッサンを見捨て、騙した罪を心に残したまま20年が過ぎ、今は亡命してアメリカで暮らしているアミールのもとに、パキスタンに住む父の友人から電話がかかってくる。
「お前はアフガニスタンでやり残したことがある。今ならやり直すことができる。帰ってこい」
良心の呵責を今も感じているアミールは、どうやってあの誇り高く、無償の愛情を捧げてくれた友人との関係を修復できるのか。

後半では、タリバンに支配された故郷の無残な様子が描かれる。
樹木はすべてソ連軍に切り倒され、今ではタリバンが街中に睨みを利かせている。娯楽的なものを一切禁止したタリバンは、唯一認めたサッカーの試合で、ハーフタイムにイスラムの教えに反した男女の公開処刑を行う。そのむごたらしさ。

映画を観ている私たちは思う。共産主義思想も、原理主義的宗教も人から自由を奪い、不幸をもたらすだけだと。
ならば、人はどうすれば幸福になれるのか。
それはおそらく、思想も宗教も超えた、人間の善性原理に基づく社会を築くしかないだろう。しかし、そのためにはこの現実をどうやって変えていけばいいのか。
アフガニスタンに、ふたたび凧揚げをする日は戻ってくるのだろうか。大空を舞う凧は、自由の象徴だ。そして凧と人とを繋ぐ一本の糸は、自由と人間を繋ぐ絆でもある。細いけれども、腕に力を込め、脚を踏ん張らないと支えるのが難しい絆だ。
君のためなら千回でも」と笑って凧を追いかける。あのハッサン少年の姿が、まぶたに焼きついて離れない。

この映画は、アフガニスタンでは上映を禁止され、映画に出演したハッサン役の少年は危害が及ぶ恐れがあるとして保護されたという。
重い現実は、映画が完成した後も続いているのだ。

関連タグ : 映画, 君のためなら千回でも, アフガニスタン, タリバン,

私が通っていた高校は男子校で、今は知らないが当時はあまりガラのいい方ではなかった。
クラスの5%がガリ勉で40%が不良、残りは勉強もしないけれどワルもできないというサエない没個性組。図らずも私は第3のグループに属し、学校が嫌いで、小説と映画に没頭していた。
どこを見ても校舎は灰色で暗く、黒の詰め襟がうようよしている学校は私にとっては刑務所のように思えた。教師は威圧的か無気力で、授業は反吐が出るほど詰まらなかった。

教室はほんとに暴力教室だった。休み時間になるとワルの子分がすべての机を片隅に寄せ、空いたスペースで決闘がはじまった。彼らのカバンには教科書などなく、ヌンチャクやメリケンサック、チェーンが入っていた。
ワルが街で問題を起こすと、授業中いきなり教師がワルたちをぶん殴った。
ワルは大人しく殴られていたが、数日後、どこかでその教師に復讐したらしい。それがどんなものであったのかは分からないが、次の授業では顔を腫らした教師がいきなり掴みかかり、首謀者らしき生徒をぶちのめしはじめた。肉と骨を打つ音が教室に響き、私たちはじっと下を向いているしかなかった。
まるで時津風部屋状態。

威圧的な教師のなかで、もっとも恐れられたのが数学のヒオキという男だった。
彼は生徒を下等動物のように壇上から見下ろし、怒鳴り散らした。
ただでさえ数学が不得意だった私は、この学校で決定的に数学が嫌いになった。
当時はテレビで「必殺仕置き人」シリーズが人気だった頃で、私たちサエないグループは、その数学教師のことを「必殺ヒオキ人」と呼んでいた。ヒオキ先生がそれを知ったら、私たちはどうなったのだろう。おそらくゴミでも見るように一瞥されるだけだったろう。
とにかく、ヒオキが教室に入ってくるとそれだけで、数学ができない私は相当にびびったのを今も忘れない。

選挙で大勝し、大阪府知事に就任した橋下徹が初登庁した日の挨拶で、職員たちに号令をかけていた。
「皆さんは『破産会社』の従業員であるという、その点だけは厳に認識してください」
「給料が半分に減ることなんて当たり前」
「破産・倒産状況になれば、職員の半数や3分の2カットなんて当たり前」
職員たちは相当びびったに違いない。

たしかに5兆円もの負債を抱えているのだから、呑気に構えてはいられないのはわかる。
そのうえこれまでも、大阪府では信じられないような税金の無駄遣いをしてきたのだから、仕方がない部分がある。

しかしなあ、橋下。
初日から職員をびびらせて、どうするんだよ。
いきなり給料半額にするぞ、首を切るぞといわれて、働く気がするか?
部下を脅す上司のために、頑張って仕事をしようと思うか?
ほんとに橋下って、頭が悪いな。想像力がないな。
職員にだって生活があるんだから。
民間企業にこんな社長がきたら、業績下がるんじゃないの、普通。
イヤな奴。ヒオキみたいな奴。

あれじゃあ、仕事が嫌いになってしまうよ。
私が数学嫌いになったように。

職員同士でひそひそ言ってる声が聞こえてきそうだ。「またエライのが来たな」。
せめて、「今は非常に苦しいが、力を合わせて頑張ろう」くらい言ってやれないものか。
大阪府の財政を救うということは、職員も合わせた府民の生活を守るという意味もあるだろうに。
それを脅してどうすんだよ。
橋下ってやつは。
NHKに啖呵切るのもいいけどさ。あんまりエラそうにしない方がいいよ。
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石原都知事と握手した図。ある意味、歴史的な絵だったかもしれない。
極右知事ががっちり手を組んだ絵として。
日本の、あまり明るくない未来が見えてきそうだ。

大阪府庁が、職員たちにとって刑務所のようにならなければいいが。

私にとっての高校がそうであったように。

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昨日の報道ステーションでは、まず最初に年金問題が取り上げられていた。
民主党の長妻昭が、今の社保庁がやっている名寄せ作業では、5000万件の記録を処理するのに25年かかることになると言っていた。それに対して2010年までに作業を終えると「公約」していた厚労相の舛添要一は、人員と予算を際限なく使っていいのならば可能かも知れないが、今の状況では精一杯頑張るしかないと逃げていた。まったく、こいつの言い訳では借金取りからも逃げられやしない。暫定税率を引き延ばすように、年金処理も今後延々と引き延ばすつもりなのか。
長妻はさらに、公務員の紙台帳は一切破棄されていないのに、国民のものだけがこれだけ失われてしまっているとは何事かと詰め寄っていた。国は国民のことを見捨てているのではないかと。
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同じく民主党の蓮舫議員は、社保庁が設置したコールセンターの無駄について質問していた。
コールセンター業務は落札によって2つの業者が請け負っているが、A社は新宿の一等地にある高層ビルにオフィスを抱え、そこで業務を行っている。受注額はおよそ2億8000万。もっと安い土地の、安い賃料のビルで業務を行えばこれほど金はかからなかったのではないか。
もう一つの受注をしたB社は、豊島区にあるビルをオフィスにしている。こちらの地代賃料は新宿の10分の1だが、職員報酬を高く設定しているために受注額はやはり2億6000万だかの金額になっていた。
専門家はこの金額に対して、普通ならば2億3000万程度でできるはずだと解説していたが、その通りだとすれば8000万が無駄に使われていることになる。
社保庁はすでにねんきん特別便や名寄せ作業で莫大な費用を費やしている。それはやむを得ないとしても、さらに無駄な金を使うとはどういうことなのだと詰め寄っていた。
社保庁は決して言わないが、答えは簡単だ。それは人の金だからだ。だから無責任でいられる。

次の話題では、全国知事会など地方6団体による「道路財源の確保」緊急大会が東京で開かれ、暫定税率廃止に反対する地方の議員たちが大挙押し寄せて自民党幹事長の伊吹文明と民主党の菅直人の説明を聞いていた。
伊吹は、民主党の主張をとりあげ、「ガソリンを25円安くする、税を一般財源化する、必要な道路は造る、地方を困らせるようなことはしない、この4つの方程式を解くことはできない。管代表に教えてもらいたい」と皮肉った。
管は「国の事業費が下がるのはその通りだが、官製談合が行われて高コストが野放しになっているのが問題だ」と応じた。
伊吹文明

長妻昭が追求している問題は、国が棄民政策を採り続けていることを明らかにしている。役人どもは、自分たちの年金記録は大切に保管しながら5000万人分の国民の年金記録をなくしてしまったのであり、記録が定かでないことをいいことに国民の年金を着服することまでしてきたのだ。親の年金を子供が奪えば虐待とされるが、国が国民の金を奪っているのは国ぐるみの虐待ということにならないか。
そして蓮舫は、国のやっていることがまだまだ無駄だらけであることを明らかにしている。
文科相を務めたこともあるくせに頭の悪い伊吹文明は、方程式が解けないと開き直っているが、まともな学生ならば難しい方程式ほど一生懸命になって解を出す努力をするものである。暫定税率に頼らなくても、この国には無駄な金がいくらでも流れているのだ。それらを洗い出せば、おのずと答えは出てくるはずだろう。自民党は、伊吹をはじめとして、よほど勉強するのが嫌なのだ。無駄に流れる金は自分たちの懐に入ってくるべき金だと思っているのだろう。

番組にゲストで出ていた学芸大学の山田昌弘は、地方が暫定税率にこだわるのは道路の造成や補修工事がなければ雇用が成り立たず、生活が破綻するようになるのを恐れているのだと言っていた。つまりは疲弊しきった地方が生き延びていくためには、たとえ使わない道路でも造り続けて雇用の場を確保するしかないというわけだ。おかしな話だが、地方はそこまで行き詰まっているということだ。

そうだとすれば、頭の悪い伊吹文明などは考えつきもしないのかもしれないが、方程式の答えは自ずと出てくるだろう。
政治家が不正に金を懐に入れるのを止め、役人が無駄遣いを止め、地方の問題にもっと真摯に取り組めばいいのだ。道路工事などに頼らなくても生きていける道を地方に示してやればいい。政治家とは、そう言う仕事をするものだろう。インチキな暫定税率ありきの考え方を、まず捨てて考えてみればいいのだ。足りない金は国民から巻き上げるという山賊のような考えを改めればいい。税金が欲しければ、法人優遇税制を見直せばいい。
このごろは、政治家どもが重要な問題をさしおいて暫定税率のことばかりで騒いでいる。
国民にとっては年金、福祉、医療、教育、安全の問題などが差し迫っているのに、政治家たちには熱意が見られない。

こうなったらガソリン税など、金輪際払ってやるものかと、今では国民の一人である私も意地になってきている。

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今週も医者に行ってきた。
私のようにバーンアウトに伴って鬱の沼にはまった患者は、抗うつ剤を飲んでも意味がないのだそうだ。
状態を改善するには、生活を切り替えること、仕事の内容を改めること。そういう間接的な方法しかないという。

道理でな。
いくら薬を飲んでも気分がよくならないわけだ。
眠りも浅いし、いつも頭の中に鉛が入っているように重く、苦しい。
仕事に向かおうとすると体がすくんだように動けなくなる。他のことに逃げたくなる。余計な買い物でもして気を紛らわしたくなる。
いつまでたってもそんな状態から抜け出せない。自分ではどうすることもできない感じだ。
去年の暮れあたりから、またひどい状態が続いている。

生活を切り替える。仕事の内容を改める。

できるかよ、そんなこと。
いつもギリギリの気分でいる人間にとってはいちばん難しいことじゃないか。生活に余裕がない鬱々とした毎日を送る者には、もっとも困難なことじゃないか。
いったい、どうすればいいのだ。
どうにもできない自分に腹が立ち、腹立ち紛れに世の中を見るから妙に斜に構えたことを書く。まったく嫌になってくる。
いったいどうすれば。いったいどうすれば。
グルグルと、その言葉だけが頭の中で繰り返される。
歯がみして、仕事に向かおうとしても、頭が拒絶する。
どうにかならないものか。
薬も効かないんだってさ。

それでも以前のように死にたいとは思わなくなった。生きていたいとも思わないけれど、少し前よりは少し前進した。前進はしたけれど、これ以上は進めないかもしれない。
まったく、どうにかならないものか。

薬が効かない鬱だなんて、最悪じゃないか。
鬱はかならず治る病気です、て言ってたのはどこのどいつだ。

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昨日のエントリで、倖田來未のことを書いたが、それとほぼ同じ時間帯に放送されていたテレビ番組で勝谷誠彦が例によって金切り声を上げて倖田來未擁護論を吠えていたらしい。
たんなる偶然だとはいえ、この自称コラムニスト、日本の常識を代表するがごとき言質を弄する右翼タレントと同日、同時間帯に同じようなことを公にしたというシンクロニシティが、どうも気に入らない。あんな無責任で、平気でガセネタを流布するような奴と同じことをいってたかと思うと、自分が恥ずかしくなる。

勝谷誠彦は「闘うコラムニスト」などと称して、いつも喧嘩腰でものを言い、攻撃するのが得意だが、その軸足はぶれまくりで信用に値しない。闘うなどといいながら、文藝春秋の記者時代はいざ知らず、それ以降は真に闘う姿を見せたことがない。その場限りの攻撃で終わる。つまり、あの男の攻撃的な態度は見せ物に過ぎない。あの男の口をつく言葉は「茶の間の正義」程度のものなのだ。倖田來未の件でも、さっそくネットで「沢尻エリカのときは、俺が最初にシメてやると言っていたくせに、倖田の場合は叩く奴がおかしくて、沢尻の場合は世間と同じように自分も叩いてもいいのか」と、揚げ足を取られている有様だ。しかし勝谷がほんとうに沢尻エリカをシメたかどうかさえ、私は寡聞にして聞いたことがない。
勝谷の主張するところの右往左往ぶりはWikipediaに詳しいので、興味がある人はそちらをどうぞ。(もっとも、その記述をすべて鵜呑みにすることもまた、できないのだが)

とにかく、無責任なタレントの言いたい放題を面白半分に聞いているうちはいいけれど、この男が語る扇情的な言葉を真実だなどと思いこむと大恥を掻くことになる。勝谷という男はその程度の男だと、私は思っている。まあ、テレビラジオに出ずっぱりのようだから、稼ぎは私などの数百倍あるのかもしれないけれど。私から見れば、それだけ大資本に魂を売っている輩としか思えない。

つまらない男を攻撃したところで仕方がないのだが、勝谷のような勘に障る男についてはつい一言いっておきたくなる。えらそうに「闘うコラムニスト」などといっておきながら、いったい何と対峙してどのように闘っているのかさえ明らかでない男。こういう男のことを「ポピュリスト」と呼ぶのではなかろうか。
そしてわれわれがいちばん警戒しなければならないのが、こうした一見良識を説いているかに見せかけるポピュリストのやり口なのである。
今回ははからずも勝谷と同じ趣旨の発言をしてしまったが、この男がこれからどんな発言をしていくのかについては、気が向く限り注意していこうと思っている。
なにせ私はワイドショウの類には興味がないもので。

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倖田來未という歌手がこのところバッシングされている。
なんでも自分が受け持つラジオの番組で「35歳になると羊水が腐る」といった言葉が聴取者の不興を買ったらしく、抗議の電話が相次いということだ。
挙げ句、倖田はHPで謝罪し、当面の番組出演を自粛した。
倖田來未
ところが世間様はそれだけでは許さなかった。ネットの掲示板では誹謗中傷の書き込みが続き、倖田をCMに起用していた企業は、その放送を中止した。
自宅にこもっているらしい倖田來未は、今ごろさぞかし世の中様の恐ろしさを思い知って泣き濡れていることだろう。

バッシングが続いている昨日、毎日新聞にこんな記事が出た。
厚労省の研究班の調査によると、「一緒にいて安心できる家族や友人がいないなど、社会的な支えが少ない人は、脳卒中による死亡の危険性が高くなる」という結果が出たというのだ。

さて、倖田の発言を聞いて不快に思ったのは高齢出産した女性が多かったようで、彼女らにしてみれば自分が妊娠しちゃんと子どもを生んでいるのに羊水が腐っていたとは何事かということだろう。あるいは、これから子どもを生もうという若い女性も、自分の体内にできる羊水が年取ってしまうと腐るとは何事かと思ったに違いない。
倖田にしてみれば単なるジョークのつもりだったろうが、35歳を過ぎると体の中が腐ってくるといわれれば、たしかに誰だって不快に思うに違いない。

一方、毎日の記事の方はどうだ。家族や友人がいないと脳卒中になる確率が高くなる。この記事を口伝えしていけば「友人もいない人間は頭が腐って死ぬ」ということになるかもしれない。
私は自由業で、普段はほとんど外出せず家の中で仕事をしている。またうつ病だから、人と会うのを必要がない限り避けているし、昔からの友人との関係も絶ってきた。家族はいるものの、ほとんどひとりでいる時間が長い。
私にしてみれば、この記事を読んだとき、もしかすると自分も脳卒中になるかもしれないなと思った。思ったけれども、べつに不快に思うわけではなかったし、調査をした厚労省に抗議の電話をしようとも思わなかった。私にとっては、こちらの方がよほどショッキングだったが、厚労省のHPにきつい言葉で「ふざけんじゃねえよ。社会保障も満足にしないでおいて、無責任な研究報告ばかりするな!」とは書き込まなかった。
そして世の中の反応も、この調査結果のために何か混乱が起きたということはなかったようだ。

倖田來未のいった言葉は、根も葉もないデタラメである。
しかし、だからといって社会ぐるみでこうまで叩くのはフェアとはいえないのではないか。
これまでさんざん倖田をもちあげ、CMに起用して儲けさせてもらった企業が、手の平を返したようにCMを打ち切るのは、あまりに冷酷なのではないのか。なぜ、事態を静観しようとしなかったのだろう。根も葉もない言葉に逆上した世の中様と一緒になって倖田叩きに手を貸すのだろう。まだ若い、才能もあるだろう女性を怯えさせるほどの仕打ちを、社会全体が行う必要がどこにあるのだろう。

おかしいんじゃないのか、世の中様は。

私はべつに倖田來未のファンでも何でもないが、これまでの報道を見ていると異常にしか見えない。35歳を過ぎると羊水が腐るなど、だれも信じてはいないだろうに。それなのに、どうしてかくも容赦なく叩く必要があるのだ?
寛容であれと、いまさら説く気にもならない。
怒るなら、その矛先を向けるべきものが他にあるだろう。
物価がどんどん上昇しているのに何ら手を打たない政府に対して怒るべきだろう。
急病になっても医者がいない病院が増えている事態に怒るべきだろう。
社会格差が広がっているのに、ワーキング・プアが増えているのに、救いの手をさしのべようとしない政府に怒るべきだろう。

妄言に過剰反応するエネルギーがあるのなら、ほんとうの出鱈目をやっている自民党の政治家や官僚どもを思い切りバッシングすべきだろう。いつまでも煮え切らず、暫定税率廃止などと世迷い言をいっている民主党を叩くべきだろう。
なぜ、これらは許せるのだ。
世の中様は、叩きやすいものしか叩かないのか。

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ちなみに、厚労相の舛添要一は、現状の医師不足について、こんなことを言っている。
「医者は十年後にしか育たない。仮に、いま足りない医師をばーんと増やしたら、十年たったら余って医者のホームレスが生まれることになる」

叩くべきは、こういう奴の言葉だろう。

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私は麻雀というゲームができない。したがってルールその他をほとんど知らない。
知っているのは、相手の手の内を読みながら自分の役を作り、早く上がれば勝ち、ということくらいだ。西洋にはポーカーがあって、やはり腹の探り合いをしながら勝負をつける。しかし東洋と西洋のゲームで、どれくらい腹の探り合いの仕方に違いがあるのか。そこまではわからない。

ラスト、コーション
アン・リー監督の「ラスト、コーション(LUST, CAUTION)」を観た。
もしかすると、この作品は麻雀ができる人間の方がわかりやすいのかもしれない。
それほどに、男と女が相手の心を探り合い、ギリギリの駆け引きをする様を描いているのだ。目の動き、手の仕草、言葉の選び方、ひとつひとつが駆け引きの材料になっていて目が離せない。目が離せないのに、男の心も女の心も、本当のところは最後までわからない。物語の中で、女たちが麻雀の卓を囲むシーンが何度も出てくるが、そこでのやりとりが何らかのヒントを提供しているのではないかと思っても、私にはわからない。
しかし、わからない者もわからないなりに緊張感を持って最後まで観てしまうのだから、アン・リーの手腕はやはり優れているというべきだろう。

舞台は日本軍の占領下にある1942年の上海。ヒロインのワン(タン・ウェイ)は抗日運動をする地下組織が送り込んだスパイとして、治安警察の長イー(トニー・レオン)に接近している。イーは日本の傀儡政権の手先であり、抗日分子を検挙・拷問し、処刑することで高い地位を得た、もっとも憎むべき相手なのだ。組織は、ワンからの情報を元にイーを殺害する機会を狙っている。

そもそもワンがイーに近づくようになったのは、4年前、彼女が香港の大学で演劇部に所属するクァン(ワン・リーホン)と知り合ったのがきっかけだった。クァンは典型的なエリート学生運動家で、演劇で国民に愛国心を訴えるだけでは物足りず、イーの知り合いに近づいたことから仲間を誘ってイー暗殺を企てる。ワンは貿易商のマイ夫人としてイー宅に潜入し、奥方たちの麻雀仲間になってイーの動向を探る。しかし警戒心の強いイーは容易にワンをそばに近づけない。
学生の分際で、政府高官の殺害を目論むなど無理に決まっている。そう思わせながらも、ワンは巧みに女性としての魅力を使い、思わせぶりな仕草と言葉でイーの心に入っていこうとする。このあたり、タン・ウェイがもつ初々しさとオトナの女としての色気が入り混じった魅力は素晴らしい。トニー・レオンの感情をまったく現さない演技も不気味でありながら魅力的だ。映画はこうして序盤から目に見えない心理戦を展開させていく。

やがてイーもワンの魅力に惹かれるそぶりを見せ始め、二人で会うようになる。そして次にイーから連絡があれば、それはワンを愛人にすることになるというところまで作戦はすすむ。ところがワンにはセックスの経験がない。そして仲間の男子学生にも女を知っている者は、娼婦を買ったことがあるという冴えない男一人しかいない。ワンは、本当はクァンに惹かれており、クァンのためにマイ夫人に扮していた。しかし作戦を成就させるにはイーに処女であることを見抜かれてはならない。ワンは学生相手にセックスの「練習」を引き受けることにする。もうここまでくると、後には引き下がれない。クァンに未練な視線を送ることもせず、好きでもない男に抱かれるワンの表情が、かえって悲壮な決意を現している。
しかし、イーから来たのはは突然、香港から上海に転勤することになったという連絡。
イーは、ワンのことを見破っていたのか?

と、前半のあらましだけでもかなりな心理戦が繰り広げられる。
物語はそれから3年後、戦争のために大学を辞め香港から上海に移っていたワンが、クァンに再会し、イー殺害の計画がまだ続行中であることを知らされるところからクライマックスに向けて突き進んでいく。抗日組織からスパイとしての特訓を受けたワンは、マイ夫人としてイーに接近。今度はまんまと愛人になることに成功するのだが、彼女を待ち受けていたのは愛情表現とはほど遠い激しいセックス。イーはありとあらゆる手を使ってワンの体も心も支配下に置こうとしているかのようだ。このあたりの描写は、日本ではかなりカットされているらしいが、それでも十分に激しい。
それは戦時下の中国で、日本の手先に成り下がって出世したイーという男の屈折した心情と他人のウソを見破るプロとしてのプライドが、どこまでワンを信じられるのかを試しているかのようだ。さらにワンからすれば、一度は籠絡に失敗した憎むべき相手にとうとう体は許したものの、暗殺という目的は決して悟られてなるものかという決意がある。わずかでも、ウソがばれれば待っているのは自分やクァンの死だ。イーは冷酷に皆を殺すだろうことはわかっている。ワンにしても、セックスで負けるわけにはいかないのだ。
そんな二人が体をぶつけるようにしてセックスしていく。私にはエロチックなどというよりも、まさしく男と女の闘いに見えた。

どこまでが謀でどこまでが真なのか、ふたりの心の中は見えないままに物語は終わりが近づいてくる。男と女、さあ勝つのはどちらか。
映画はなんとも心にしみるラストシーンで画面が暗くなる。これぞ、まさに大人の映画。恋愛をファンタジーとしてしか描けない日本映画は爪の垢でも煎じて飲むがいい。
イーは絶対的な権力者としてワンに対しては強者であるが、ワンは愛をクァンに捧げながらも体を張った意地がある。最後に勝つのはやはり女の意地なのか。そんなことを思わせながら、この映画は長く心に残っていきそうだ。

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不真面目な学生だったため、恥ずかしながら私が大学で学んだことはあまり多くない。
当時の大学は、教師がサラリーマン化して学生との交流などほとんどなかったことも一因だ。
高校でつまらない授業に、いい加減うんざりしていた私は、大学の好きな学部・学科に行けば面白い教授と出会い、学問の喜びを知ることができるかもしれないと思っていた。けれども、現実はまったく反対で、大学での授業は、高校でのそれを上回るつまらなさだった。
浪人までして入学したというのに、待っていた学問とはこんなものだったのかと失望した。

だが、そんななかでもいまだに心に残っている教授の言葉がある。
それは政治学の時間に聞いた言葉で、「政治とは、ほんらい国民を感動させるものであるべきだ」というものだった。

しかし日本の政治の当時の状況は、自民党による55年体制が延々と続き、そのなかから生まれてくるのは国会議員たちの汚職や政官癒着によるスキャンダルばかりだった。そして野党第一党であった社会党は、そんな自民党の暴虐ぶりを見て、騒ぎはするけれども結局何も成果を上げられず、万年第2党と化していた。ロッキード事件など、大疑獄事件が起きると、民社党の議員がにわかに元気になるのが面白かった程度だった。

こんな政治の現実、すくなくともテレビ・新聞が伝える政治家たちの言動を見ていても、感動することはあり得なかった。

そしてその状況は現在に至っても、少しも変わってないというのが事実ではないか。
相変わらず政権は自民党が主導し、しかも小泉政権以降は竹中平蔵とタッグを組み、思い切り新自由主義的政策に舵を切って日本人の暮らしを目茶苦茶に破壊し、断崖絶壁に追い詰めてきた。
政治に感動するどころか、国民感情としては半分泣き顔になって「もういい加減にしてくれ!」と言いたいところだ。
いったい、どこまでこの国を駄目にしたら気が済むのだ。小泉は、竹中は、その他大勢の新自由主義者たちは、この国をアメリカの属国にしてハゲタカどもに食い荒らさせるつもりなのだろうか。

もううんざりしているのである。自民党と公明党による国の支配には。

ならば自民党に替わって政権を狙っている、そして参議院では第一党の民主党はどうか。
「国民生活が第一」と謳い上げながら、今熱心にやっていることはいまだに道路特定財源の一般財源化と暫定税率の廃止であり、代表の小沢一郎も昨日の記者会見で、まずは暫定税率の廃止で与党との歩み寄りが可能だとの認識を示してあくまでも暫定税率にこだわっていく姿勢を見せている。

なんども繰り返すが、ほんとうに民主党は国民が何を求めているかを考えられない輩が集まっているとしか思えない。
ガソリン価格を下げるのは結構な話だが、国民が望んでいるのは医療制度の改善であり雇用の不安をふくむ格差の是正であり、都市部と地方との生活格差是正、社会保障制度の見直しなのだ。しかもそれらの問題は、一刻の猶予も許されないほど差し迫っている。
呑気に与党議員との腹の探り合いをしている場合ではないのだ。
去年の夏の参院選で勝利を収めてからの民主党のやってきたことは、目先の戦術ばかりで戦略がない。戦略が立てられていないから、国民にビジョンを示すことができないでいる。
国民はそれほど辛抱強くない。もうそろそろ民主党にもうんざりし始めている。それがわからないのだろうか。
今、国民を感動させることができるとすれば、それは民主党が初心に立ち返って、つまりは「国民生活が第一」というスローガンをもう一度思い返し、その内容を吟味して、手法を改めるしかないだろう。

私は自民党による支配は嫌だ。もう終わりにして欲しいと心底願っている。
しかし、民主党が今のようなていたらくでは、自民の替わりに政権を預けようという気にもなれない。到底なれない。

ならば、どこを支持すればいいのか。自民党に取って代わり、新自由主義路線を大胆に改めてくれるのは誰なのか。それさえ見えれば、アメリカのバラク・オバマのように立ち上がり、民衆の心を捕らえる言葉を発してくれる政治家が現れてくれれば、はじめて国民は政治に感動を覚えることができるだろう。
しかし、それは、ないものねだりなのだろうか。

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薬による躁状態が続いた時期、私は犬だけでなく熱帯魚も買った。
それはもう、憑かれたように買った。
それまでは金魚しか飼ったことがなかったのに、グッピーから始まってネオンテトラ、ラミーノーズ、ハセマニア、コリドラス数種類、ロイヤルプレコ、クラウンローチ、そしてディスカスにエンゼルフィッシュ、エトセトラ、エトセトラ。これらを大小5つの水槽に分けて飼い始めたのである。
一遍にではないけれど、これだけの魚を買い、魚を飼うための設備を用意するためにいったいいくら使ったのか。今は考えたくもない。家人からは、この点でもいまだに冷ややかに見られている。

それでも、飼うと決めたからには一生懸命に世話をした。
魚種に合ったエサは何がいいかを調べ、水質をよくするにはどうしたらいいかを調べ、こまめに水替えをしたし、水温管理も怠らなかったし、毎日のように試薬を使って水質・pHを検査した。
それでもグッピーはすぐ全滅してしまったし、ネオンテトラもだんだん数が減っていってしまった。
悔しいので、新しい魚を補充する。
3年前までの私は、熱帯魚店に入り浸りといってもよかった。

ところが、はじめのうちは優美な魚の姿に見とれていたものの、魚が死んだり何かの条件で水質が変わったりすると藻が大量に発生するようになってきた。
こいつが発生するようになると、どんどん水槽を汚していき、何も見えなくなる。
はじめのうちはヒゲ上の藻が繁茂したが、そのうち緑色の膜のようなものがべったりと水槽のガラス面や中に入れておいた流木に貼りつくようになった。
せっかくの水槽がドロドロになり、何が泳いでいるかもわからなくなってしまった。
まるで「ちびまる子」の家の水槽みたいである。

そのうち、私の躁状態が終わってだんだん気力が低下してきた。
毎日が低調な気分との闘いで、意欲がわかない。
こうなるともう、熱帯魚を観賞するどころではなくなる。
水替えは、水量が減ってきたら補充するだけになったし、水質の検査もしなくなった。
エサこそ忘れずに与えていたが、水槽が汚れても掃除をする気にはなれなくなった。

当然、魚は小さな弱いものから減っていった。
緑色に覆われた水槽では、いったいどれだけの魚が生き残っているのか確かめるのも難しい状態だが、確実に残っているのはエンゼルフィッシュとディスカス、クラウンローチとラミーノーズ数匹、それにコリドラスたち。ロイヤルプレコも生きていた。

ところが、一昨日と昨日の二日間で魚が大量死してしまった。ラミーノーズが全滅、ロイヤルプレコも★になった。コリドラスも水面に浮かんでいた。部屋の中が妙に臭いと思ったら、原因は魚の死臭だった。
残っているのはエンゼルフィッシュ2匹とディスカス1匹、それにコリドラス数匹。
一度に3つの水槽が空になりつつある。

すまない、魚たち。面倒をしっかり見てやれなくて。すべて私の責任だ。
もう、いたずらに魚は飼うまい。せめて、今残っている魚たちにはできるだけ長生きしてもらえるよう、頑張らなくては。

やはり生き物を飼うということは、それが何であれ、大変なことなのである。

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関東地方は一昨日から寒気に覆われ、昨日は東京で雪が降った。私が住んでいる場所は夕方までみぞれ混じりの雨だったが、それでも夜になると白いものが横殴りの風とともに窓に吹きつけてきていた。

家の中にいても寒かった。ストーブが離せない。
犬たちもストーブの前にはりついて動こうとしなかった。
寒さのせいなのか、いや、これは私の病気のせいなのだろう、精神活動までが凍えてしまったようだ。
うつ病は、朝の方が体調が悪くなることが多いといわれる。私もその通りで、毎朝6時すぎには目が覚めるものの、ようやくの思いで犬の散歩をすませると、布団に横にならずにいられなくなることが多かった。そこは自由業のありがたさで、特に出掛ける用事がない日は午前中は横になっても、午後仕事をすればなんとか帳尻を合わせることができる。

ところが最近、朝だけでなく夕方近くから夜になっても調子が悪くなる。
机の前に座っているだけで気分が悪くなってしまう。
仕事をしようにも、体がすくむように頭の中が動かなくなり、何も考えられなくなってしまう。いや、考えることはできるのだけれど、根を詰めて考えることができなくなるのだ。これでは仕事ができない。そんな自分を、駄目だ、どうしようもないと嘆きながら思考は同じところをぐるぐる回転するばかり。いっそ横になって休んでしまえばいいかと思うが、それをやってしまうと本当の病人になってしまうようで、自分を許すことができない。
結局、ここしばらくは仕事もできずただパソコンの前に座ってディスプレイを見つめるという、数年前の自分にもどってしまった。

今日こそは、なんとかしようと思う。こうしてブログの記事なら書けるのだから、仕事だってできないはずはないのだ。そう思って仕事に取りかかろうと思う。
要は気持ちを切り替えればいいのだが、それができないのが辛い。
自分の頭の中のことなのに、自由が利かない不自由さ。その気分の悪さ。
でもなんとかそれに折り合いをつけていかなければ、生きていけない。

なんとか今日は。
普通に仕事をして一日を終えたい。
普通に生きるのは、ほんとにシンドイことなのだ。

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ウチには4匹の犬がいる。
2匹は今年9歳になるパグのオスとメスで、夫婦犬。7年前に5匹の子犬を生んで私が取り上げ、そのうちの一匹を家に残している。
もう1匹は5年前、私がパキシルという薬を処方されたときに躁状態になり、家族の言うことも聞かずに劣悪な環境にあったペットショップから買い取ったフレンチブルドッグのオスである。
家に来てすぐ、寄生虫のために死にかけたり、ひどいアレルギー体質で病院の世話になったりと、育てるためには金も手間も相当かかった。家人には今でもときどき「なんでこの犬を飼おうと思ったの?」と問われるが、そのときは犬を見て、飼うことしか考えられなかったのだから仕方がない。
もちろん、今ではかわいい家族の一員としての座を獲得している。

人が見れば愛犬家と思うことだろう。しかし、犬4匹を飼うというのはもちろん楽しいけれども大変なことも多いものだ。だから私は、うかつに他人に犬を飼うことを勧めようとは思わない。前にも書いたが、動物を飼うにはそれなりの覚悟が必要だからだ。癒しを求めるだけでは決して動物は飼えないし、飼ってはいけないと思っている。このことについては、また改めて書くつもりだ。

梅太とこもも

今回書こうと思うのは、年老いてきた2匹の犬たちのことだ。
犬も7歳を超えると老犬の部類に入れられる。
それに合わせたかのように、メス犬が膀胱を悪くした。メス犬には多いらしいが、石ができやすくなったり細菌に感染しやすくなって、そのたびに病院から抗生物質をもらわなければならなくなった。石の方は、尿がアルカリ性になるとできやすいらしく、酸性に保つための処方食を食べ続けなければいけないことになった。
この処方食が結構高い。そして、膀胱が細菌感染すると膀胱炎を起こして頻尿になるので、オムツもしなければならない。
精神的にも経済的にも結構な負担である。

つれあいのオスは、子犬の頃からしつけのしやすい犬で、ほとんど粗相をしたことがなかった。わが家ではいちばんの優等生である。
ところが、この犬が最近どうも呆けてきた。一日中ストーブの前で寝ているが、急に起き出すと誰もいない方を見て吠え始める。散歩をしていても突然吠えだして驚かされる。周囲には何もないのに。
そして、このごろ、頻繁に糞を粗相するようになった。我慢がきかなくなったようで、朝起きると散歩に出掛ける前に家の中でしてしまう。
「お前も呆けてきてしまったのか?」
私は犬を抱き、頭をなでながら聞いてみる。犬は黙って目を閉じている。

家の中で飼育されるようになり、栄養状態も良くなったおかげで、犬の寿命も最近は伸びていると聞く。パグの場合は平均12歳と本に書いてあったが、知り合いの家では15歳まで生きたパグがいた。もう両目が見えなくなっていたが、最後までカクシャクとしており、眠るように息を引き取ったという。

さて、ここで私も考えなければいけないのは、犬たちの老後のことだ。
わが家の犬たちも最後まで元気に過ごし、苦しみもなく眠るように逝ってくれれば、淋しいけれど飼い主としての責任は果たしたと思えるだろう。
しかし、慢性的な病気を抱えたり、あるいは本格的な痴呆がはじまってしまったら、どうしたらいいのだろう。犬たちの面倒を見るのはもっぱら私の役目だから、何とかしなければならない。
しかし、介護は大変な問題だ。

家には90に近い老人がいる。カミサンの母親なのだが、昨年の半ば頃から急に呆けてきた。
まず排泄がうまくできなくなり、トイレや家の中を汚すようになった。オムツを使うようになったが、しばしば洋服を汚したり布団に漏らす。一時は家中にその臭いが広がり、義母がそばを通ると思わず顔をしかめずにいられなかった。汚れたものがあっても自分では始末をしないので、悪臭に耐えられず、私は悲鳴を上げた。カミサンはパートに出ており、十分な世話ができずに困っていた。
悪臭と痴呆が始まった老人の存在は、正直なところ、私にとって大きなストレスだ。

その後、義母は介護認定で要支援2となり、施設のデイサービスを受けるようになった。
秋にはカミサンもパートを辞めて、母親の介護に専念できるようになった。
義母は、一度、肺炎で入院し、さらに痴呆が進んだ。同じ部屋にいる老婆たちを見回して、「あれはみんなお父さんが囲っている女だ」と娘に話したという。昼夜の別がわからなくなり、テレビは好きだがスイッチの入れ方がわからなくなった。
退院後の介護認定で、今度は要介護3になった。デイサービスは変わらず受けているが、要介護になった分支出が増えた。年金で賄っているが、オムツ代などを差し引くと後にはほとんど残らないとカミさんは言っている。ポータブルトイレを購入し、部屋で用を足すようになったが、その始末はカミサンがする。文句を言わずにやっているが、その負担はかなり重い。そして相変わらず、家の中には老人の糞尿の臭いがかすかに漂っている。

犬の介護とヒトの介護。
それが自分の愛犬であり、自分の親であれば、その面倒を見るのは当たり前であり、人間の美徳とされるのかもしれない。
けれども、介護の問題はどこまでも重くのしかかる。
この先、私はこれまで愛してきた犬たちの最期を看取ってやれるのか不安だ。
衰えていく一方の母親を、カミサンはどこまで看てやれるのか、また看てやらねばならないのか、それもまた不安の種だ。
ことに人間の場合、今の制度では個人に対する負担が大きすぎる。親の世話をするのは当たり前だという建前だけでは持ちこたえられるものではない。経済的に、精神的に、介護問題は家族を縛り、追い詰めていく。
全国で、介護の果ての親殺しや心中が後を絶たない。しかし世間を騒がす悲惨な事件は、決して他人事ではない。介護とは、それ自体、すでに悲惨なのだ。

人間ならば、殺せば事件になり罪を負うことになる。
しかし犬の場合、「処分」されてしまう数はどのくらいになるのだろう。それを想像すると、ぞっとする。自分がその手の解決にはしらずにいられるかを思うと不安になる。
「お前のことが、大好きだよ」
そう思っていられるうちに、安らかに逝ってもらいたいと、わが年老いた犬の顔を見て思うことが、このごろ多くなった。

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1日は映画の感謝デーということで、どの映画館も1000円で入場できる。
今年に入ってから、あまり興味をそそられる映画がなかったせいか、先月はほとんど観なかったけれど、今回は久々に2本の映画をはしごした。

1本目はリドリー・スコットの「アメリカン・ギャングスター」。
実話に基づく作品ということだが、なかなか面白かった。
ヘロインを現地買い付けをして中間マージンを省き、高純度・低価格のブツをジャンキーたちに提供し、巨額の富を築く黒人マフィア、フランク(デンゼル・ワシントン)。彼がやったことは、ついこの間まで日本でもはやった「価格破壊」の麻薬版だ。彼のおかげで老舗のイタリアン・マフィアたちは打撃を受け、アメとムチを使ってすり寄ってくる。冒頭、フランクのボスが「近頃はアジアのメーカーから商品を大量に買い付けて破格値で売る店ばかりになってしまった。小売店のサービスはどうなってしまうんだ」と嘆く台詞が皮肉。
日本でも中内功がそれをやって流通業界に衝撃をもたらしたわけだけれど、アメリカではベトナム戦争をやっていた頃に、ヘロインでそれをやっていたわけだ。

フランクを追う側の麻薬取締官リッチーを演じるのはラッセル・クロウ。
だいぶ贅肉がついたな、と思わせたが、それも役作りだったのか。
度胸と才気でのし上がっていくフランクに対して、リッチーは不器用な落ちこぼれ警官として登場する。なにしろ、警官へのワイロをしこたま乗せたクルマを摘発し、おかげで周囲の警官から村八分になってしまうのだ。女にはだらしないし、カミサンからは離婚を迫られ、養育権も取り上げられようとしている。
けれども、落ちこぼれだが正直な警官であることに目をつけた麻薬取り締まり局が、リッチーをスカウトする。「アンタッチャブル」のエリオット・ネスのような役目を負うことになるのだ。

アメリカン・ギャングスター
さあ、ここからがフランクとリッチーの行き詰まる対決、といきたいところだが、映画は単純にふたりの対立構造を描くのでなはない。60年代から70年代にかけてのアメリカ社会は、ベトナム戦争に翻弄されていた時代にあり、社会では汚職に手を染めた、腐った警官がマフィアに匹敵する悪行を重ねていたことを描いていく。

おかげでフランクとリッチーは、片方は悪行に手を染めていても家族を大切にし、教会にも通い、慈善活動に熱心な紳士として描かれるし、片方は相変わらず女癖が悪くて離婚裁判に出廷すれば女性弁護士とセックスしてしまうという無軌道ぶりが描かれて、善と悪の対決という図式には簡単に納まってくれない。30年代のギャングを描いた「アンタッチャブル」のようなヒーロー譚は、もはや伝説になったかの感がある。

それにしても、麻薬の密輸を、アメリカ軍がやっていたという事実には驚く。その方法まではここでは書かないが、いつの時代も戦争というのは大義名分に隠れた金儲けの手段になるということだ。イラクに侵攻したアメリカは、兵士たちの犠牲と引き替えに大統領のブッシュをはじめとする金持ちたちが巨額の石油利権を手にしているわけだし。

そんなアメリカに対して、産油国でもない日本がシッポを振ってタダで燃料補給をしてやっているっていうのは、ほんとにバカとしか思えない。ガソリンの暫定税率を下げたくないなら、こういう無駄遣いをやめてからにしてほしい。あらゆる税金の無駄遣いをやめてからにしてほしい。
おまけに、毒入りギョーザ事件いらい、政局はといえばまたもや下らないメンツの問題にすり替えられている。
利権顔をしているのは古賀や二階だけじゃない。自民党の奴ら、みんな卑しい顔をしていると思うよ。公明党も同じだ。毎日お題目を上げてるだろうに、ちっとも徳がある顔には見えない。
年金、福祉、格差是正、国民の生活がかかっている問題は山ほどあるというのに、なぜそれを論じないのだろう。新聞テレビはなぜ、目隠しでもするように報道しないのだろう。
今年は、物価上昇が津波のように押し寄せて、ほんとうに生活を苦しめようとしている。私は恐怖感さえ覚えているというのに、生活の問題は誰の念頭にもないかのようだ。
このことについては、後でいくらでも書いていこうと思う。

さて、もう一本は「28週後」。
いわゆるゾンビ映画だ。5年前に公開された「28時間後」の続編だが、私は前作は観ていない。
でも、違和感なく入って行けた。
「レイジウィルス」というウィルスに感染すると、とたんに凶暴なゾンビになり見境なく人間を襲い始める。で、襲われた人間は肉をかじり取られたりすると傷口から感染して同じように凶暴になってしまう。イギリスで発生したこの病気はロンドンを滅ぼしてしまい、アメリカ軍が出動してようやく鎮圧させる。イギリス軍ではなくてアメリカ軍というところが、この種の映画の定番といえるだろうか。
28週後
アメリカ軍は最新鋭の装備で街を徹底的に管理するのだけれども、不埒な2人の子どもが汚染された地域に入り込んだのがきっかけで感染者が再発生してしまう。
で、アメリカ軍が取る対策は何かというと、ゾンビと化した人間は片端から射殺すること。
しかし、いったん発生したゾンビたちは増殖しながら逃げまどう人々を追いかけるから、狙撃手たちも誰を撃っていいのかわからなくなる。このあたりが、なかなか上手いところだ。

そこでアメリカ軍はやむなく「全員射殺」を命じるのだ。
ウィルスから人間を守るために派遣された軍が、無辜の民衆を標的にするというのは、現実にアメリカがイラクでやっていることを揶揄しているのだろう。
自由と平和を守るために、アメリカは何度、他国に軍隊を送り、殺戮を繰り返してきたことだろうか。そして武力による鎮圧は、本当に平和をもたらすことができるとでも思っているのだろうか。
この映画では、結局、人間をゾンビにするウィルスに対する対抗手段は描かれず、アメリカ軍による「平和維持」の失敗と、その結果としてウィルスが全世界に広がっていくことを暗示して終わる。それはちょうど、イラク侵攻以降、テロが世界に拡散したのと同じ構図だ。
映画としてはちょっとばかり消化不良の印象は免れないが、まずまずの面白さだった。
それにしても、言うことを聞かない子どもには、お仕置きが必要だ。

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