●人は、自分が見たいと思うものしか見ようとしない――ユリウス・カエサル
●為政者たるものは憎まれることはあっても、軽蔑されることだけはあってはならない。(塩野七生)
●自分に当てはめられない基準を他人に当てはめるべきではない
――ノーム・チョムスキー
●さまざまな知識人、文化人、政党やメディアは一般の人々よりも右よりな立場を取る――ノーム・チョムスキー
●考えろ、考えろ、考えろ!――ジョン・マクレーン
暮らしてきたとは言っても、ほんとうに自分で犬の世話をして、飼い主と言えるようになったのはそれほど前のことではない。犬に限らず動物を飼うということは、ある意味介護にも似たところがある。いくら愛着があっても、毎日暮らして行くには忍耐を要することも少なくない。
だから、子どもには動物は飼えないと思っているし、動物のすべてを受け入れる覚悟がない人間は動物を飼うべきではないと思っている。覚悟がない人間は、結局ものを言えない動物を虐待したり、棄てたりすることになる。被害を受けるのは常に弱い立場の動物だ。
犬が好きだから、ホームセンターに行くとついペットのコーナーに足を運んでしまうし、ペットショップの近くを通りかかると寄り道したくなる。
しかし、ショーウィンドウに並んでいる犬たちを見ていると、だんだん嫌悪感がわいてくる。そして性懲りもなくペットショップを訪れてしまったことを後悔する。
なぜかといえば、そこに並んでいるのは動物ではなく「商品」だからだ。
商品であるからには、売れるものしか並べない。
CMでチワワが可愛いと話題になると、ずらりとチワワが並ぶようになる。ミニチュア・ダックスフントが流行となると、大半のウィンドウに胴の長い犬たちが寝そべっていたりする。
しかし、あめ玉ではあるまいし、人気があるからといっていきなりある犬種だけを増やすなど、自然にはできるわけがない。できるわけがないのに、それでも大量の人気犬種がウィンドウに並ぶにはそれなりの裏がある。
その裏のことを思うと、嫌悪感がわいてくるのである。
ペットショップで犬を買うな、とは言えないけれども、私は買わない方がいいと思っている。
誰もペットショップで買わなくなれば、店が困るのがよくないからではなく、売れ残った犬たちがどうなるかを思うとまた暗然としてしまうから、完全に否定はできないのだ。
26日の朝日新聞夕刊に、国が新年度から施設に収容された犬猫にえさ代を補助することを決めたという記事があった。全国の自治体では2006年度に11万8000匹の犬と23万5000匹の猫が殺処分されたという。飼い主の都合で保健所に引き取られたり、棄てられたりした犬猫が大半だ。私が伝え聞いた話でも、一時流行したシベリアン・ハスキーが保健所にあふれたことがあるという。飼いきれなくなった大型犬を見捨てた飼い主が大量発生したのだ。
引き取られた犬猫は、数日で殺処分されてしまうが、新しい制度は少しでも殺さずに動物たちに生きる機会を与えるために作られた。具体的には収容されてから3日分のえさ代が出るに過ぎないのだが、それでもないよりはいい。もし、その間に飼い主が決まれば、予防ワクチンの費用まで負担するという。
この施策は民主党の松野頼久衆議院議員が提案してきたもので、政府も今後10年間で犬猫の殺処分数を半減させることを目標に掲げているという。
久しぶりに見る、政府の前向きな施策だ。
ならば今度は国民も応えていく必要があるだろう。
犬猫を飼おうと思ったら、ペットショップではなく動物保護センターなどに引き取られている犬猫をもらい受けることだ。民間で里親を探している団体もある。そうしたところから引き取るようにするのだ。
わが家には今年9歳になる犬2匹を筆頭に、6歳、4歳の犬がいる。彼らも老いて、いつか旅立つ日が来る。それを思うと辛くて仕方がないが、彼らが年老いた分、私も老いているのである。これから再び子犬を飼おうとは思わない。
もしもまた、犬を飼うことがあるのなら、そのときはきっと可愛そうな犬たちの里親になってやりたいと考えている。そうやって少しでも「処分される」犬たちを少なくすることに協力したいと思っている。