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酒好き、映画好き、本好き、落語好き、バイク好き、そして鬱。 ちょっとばかり辛い日もあるけれど、フンニャロメ~と生きてます。
◎心にとめおく言葉
●人は、自分が見たいと思うものしか見ようとしない――ユリウス・カエサル
●為政者たるものは憎まれることはあっても、軽蔑されることだけはあってはならない。(塩野七生)
●自分に当てはめられない基準を他人に当てはめるべきではない
――ノーム・チョムスキー
●さまざまな知識人、文化人、政党やメディアは一般の人々よりも右よりな立場を取る――ノーム・チョムスキー
●考えろ、考えろ、考えろ!――ジョン・マクレーン

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昨日は、一週間前から塩漬けにしておいた豚バラ肉を燻製にした。
いつもならばスパイスを何種類も混ぜ合わせるのだが、今回は塩とコショウとナツメグだけのシンプルな味付け。
燻すにはリンゴのチップを使っていたのだが、昨日ホームセンターに行ってみるとこれがなかった。仕方なくサクラのチップを買うことにした。

ところが、ホームセンターにいるうちに気分が悪くなってきた。
私は広くて人が大勢集まる場所が苦手なのだ。落ち着かなくなってくる。状態が悪いときなどは、そこにいる客が皆自分を見ているような気がする。そして、その場に集まっている人間の中で、自分はいちばん情けない人間であるように思えてくる。めまいがしてきて立っているのも辛くなる。早く買い物を済ませて家に帰りたくなる。

これは「うつ」というよりも強迫に近いもののように思われる。
いや、私の心の中には常に自分が潜在失業者であり、教養も浅く、とても世の中には通用しない「負け組」だという観念があり、それが自分を責め苛むのだから、やはり「うつ」に違いないのか。
とにかく、ホームセンターやスーパーやデパート、人でごった返す繁華街に行くのが辛い。いつも気分が悪くなるわけではないが、できるだけそういう場所には行きたくないと思っている。仕方なく行く場合は、できるだけ早く帰ろうと思う。

昨日もそそくさと買い物を済ませ、家に帰ってとりあえず肉を燻した。
夕方から燻し始めたので、出来上がったのはもう暗くなってからだった。
自分で作るベーコンは、なかなか美味いものだが、昨日は塩抜きを怠ってしまい、アンチョビのような塩辛いベーコンになってしまった。

まあ、これはこれで食べられないこともない。
燻す煙で自分も燻製のようになりながら、塩辛いベーコンを味わった。
ニュースをつけると、中国製の冷凍餃子から農薬成分が出たと報じていた。
ほんとうに中国という国は。
これはテロなのか、事件なのか。
それとも、中国という国の体質なのか。
私には3番目のような気がしてならないのだが。北京オリンピックなどと浮かれていていいのか。
ニュースのもうひとつの話題では、やりなおしになったハンドボール予選が画面に映っていた。
選手には悪いが、そこまでしてオリンピックに行きたいのか、と思ってしまった。
今のオリンピックには、それほど価値はないように思うのだが。
カネ儲けと国の威信を示すための道具にすぎない。それも農薬入りの食材が流通する国で。

やめちまえよ。
もういいじゃないか、オリンピックなんて。

言ってはいけないことなのかもしれないけれど。
そんなことをぶつぶつ思いながら、失敗したベーコンを口に放り込んだ。
毒入りじゃないだけ、ずっとましだよ、これだって。
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関連タグ : オリンピック, 中国, 毒入りギョーザ, うつ病,

ネットの産経ニュースで「みのもんた 何が変わってしまった?」という記事が出ていた。
要するに、テレビをつけると毎日のようにみのもんたが登場している。彼の話術にかかると、つまらない問題も重大問題のように思えてくる。時事問題でも絶妙の合いの手を入れて、見ている側をうなずかせてしまう。
まるで魔術のような語り口だというのだ。

そして、記者(ライター?)は思い出す。
そういえば、みのといえば昔、プロ野球ニュースの「好プレー、珍プレー」で大いに楽しませてくれた。彼の話術で、単なる落球や転倒が一編のコントに生まれ変わる。その巧みさには舌を巻いた。

ところが、最近のみのは不二家問題で暴言を吐いたり、コメントを拒んだ相手に対して「映っちゃってるよ、もう」と笑ってコメントして訴えられたりするようになった。何かが変わってしまったようだ、と疑問を投げかけている。

しかし、傲慢で無神経なみのもんたは昔から変わってはいないのだ。
だいたいにしてから私はあの「好プレー、珍プレー」なる番組が大嫌いだった。見ていて不愉快だった。
作家の山口瞳も生前、苦々しく思っていたらしく、「人が一生懸命にやっているプレーを笑いものにするのはどうか」と書いていた。
私は小膝を打って同意したものである。

そうなのだ。
みのもんたの本質は、人が一生懸命にやっていることをネタにして高いところから(いわゆる上から目線? ケッ!)茶々を入れ、笑いものにする。それを売り物にしてきたところにあるのだ。そして、自分がそうやって人を傷つける可能性が高いことをしていながら自覚するところがなく、むしろその手法を拡大させて今日まできてしまったのだ。反省することなく、金儲けの手段にしてきたのだ。
なにひとつ変わってなどいない。変わったとすれば、面の皮がますます厚くなり、神経が太くなって他人のことを思いやることが絶望的なまでにできなくなっていることだ。

しかし、そのみのもんたをテレビ局も大衆も受け入れている。受け入れて面白がっている。
みのが吐き出す暴言を、世論であるかのように思い込んでいる。
変わったとすれば世の中の大衆と呼ばれる人々の感覚が鈍り、いっそう扇動されやすくなっている点だろう。言葉の中身を吟味する前に、雰囲気だけで判断してしまう。その傾向が強くなってきたことだろう。みのをはじめとするポピュリストたちにとって、これほど生きやすい世の中はないだろう。橋下徹は、この世の中の流れを利用したに過ぎない。

テレビを見て、みのもんたがおかしいと言う前に、鏡を見て自分はおかしいのではないかと、産経の記者は書くべきなのである。

関連タグ : みのもんた, ポピュリスト,

すでに周知の通り、大阪府知事選ではタレントの橋下徹が圧倒的な差をつけて当選を果たした。
 橋下徹

残念なことではあるが、私はそれほど落胆していない。というよりも落胆する気がしない。
なぜなら、橋下のような暴走するだけで脇の甘い男は、いずれ遠からず何らかのボロを出して政界から排除されるのではないかと思っているからだ。
あの男から過激な言葉を取った後に、いったい何が残るというのだ。
ただの無策な男であったことが白日の下にさらされて、孤立するのが落ちだろう。

それよりも、今回の選挙で問題があり、猛反省をすべきなのは民主党の方なのではなかろうか。

小沢一郎は、テロ特措法の採決に欠席までして大阪に駆けつけたが、あれ以後何をやってきたのか。あの行動がもたらした有形無形の影響は、決して小さくないはずだ。
府民の所得を50万円増やすと公約に掲げた熊谷貞俊のマニュフェストは、どれだけ信憑性を持って受け入れられたのか。ゼニのことにはシビアな感覚を持つ大阪府民は、かえってそのことに不信感を持ったのではないか。
さらに、着ぐるみをつかった「熊ちゃん」の連呼。あれは日本国民全員に、オーム真理教の選挙運動を想起させるものではなかったか。第一、着ぐるみに喜ぶのは有権者ではなく選挙権のない幼児だけであることに気がつかなかったのだろうか。
これら諸々のことを考慮して、民主党の選挙に対する考え方そのものをもういちど改める必要があるように思う。
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時評ブログでは、今回の大阪府知事選挙はポピュリズムに負けたという論調が多い。
たしかにわかりやすい言葉と一見大衆の気持ちを代弁しているかのような言説は受け入れられやすかったと思うが、橋下徹が当選を果たしたのには、単にポピュリズムが歓迎されたのではなく、水面下で自民や公明による、相当したたかな計算による根回しがあったと見る方が妥当ではないか。
民主党はそれに対する有効な対抗策を何ら施さないまま、投票日を迎えてしまったのではないか。
どうも、私には民主党が自滅した結果が、今回の選挙だったと思えてならない。

また、ブログの中にはyoutubeを使って橋下落選を訴える戸田ひさよし議員の映像を流すものもあったが、正直、戸田議員を知らない者にとってはウサンクサイもの以外の何者でもなかった。あの風体、ゲバラのポスター、BGM、どれをとっても怪しげというしかなく、いかに正論を言おうとも、まともに取り合ってもらえない類のものだった。橋下落選を願っていた人々は、あれで本当に大丈夫だと思ったのだろうか。私はセンスを疑う。
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国会でも突っ込みどころが満載の自民党に対して、なんだかとんちんかんなことをしてばかりいる民主党。
今回の大阪府知事選でも、同じ愚を犯した結果だったのではないだろうか。

いずれにしても、今や地方自治体の首長には石原慎太郎と東国原英夫、そして今回の橋下徹と、新自由主義派は次々と要所に拠点を増やしたわけだ。
昨日は山口県で安倍晋三が戦う政治家として再出発をするという決意表明をしたというし、彼ら新自由主義者の計画は、着々と進みつつあるようだ。

この事態をいかに早急に阻止できるか。それがこれからの焦点だ。

関連タグ : 橋下徹, 軽挙妄言, ポピュリズム,

子どもの頃からの動物好きで、なかでも犬とは人生の半分以上をともに暮らしてきた。
暮らしてきたとは言っても、ほんとうに自分で犬の世話をして、飼い主と言えるようになったのはそれほど前のことではない。犬に限らず動物を飼うということは、ある意味介護にも似たところがある。いくら愛着があっても、毎日暮らして行くには忍耐を要することも少なくない。
だから、子どもには動物は飼えないと思っているし、動物のすべてを受け入れる覚悟がない人間は動物を飼うべきではないと思っている。覚悟がない人間は、結局ものを言えない動物を虐待したり、棄てたりすることになる。被害を受けるのは常に弱い立場の動物だ。

犬が好きだから、ホームセンターに行くとついペットのコーナーに足を運んでしまうし、ペットショップの近くを通りかかると寄り道したくなる。
しかし、ショーウィンドウに並んでいる犬たちを見ていると、だんだん嫌悪感がわいてくる。そして性懲りもなくペットショップを訪れてしまったことを後悔する。

なぜかといえば、そこに並んでいるのは動物ではなく「商品」だからだ。
商品であるからには、売れるものしか並べない。
CMでチワワが可愛いと話題になると、ずらりとチワワが並ぶようになる。ミニチュア・ダックスフントが流行となると、大半のウィンドウに胴の長い犬たちが寝そべっていたりする。
しかし、あめ玉ではあるまいし、人気があるからといっていきなりある犬種だけを増やすなど、自然にはできるわけがない。できるわけがないのに、それでも大量の人気犬種がウィンドウに並ぶにはそれなりの裏がある。
その裏のことを思うと、嫌悪感がわいてくるのである。
ペットショップで犬を買うな、とは言えないけれども、私は買わない方がいいと思っている。
誰もペットショップで買わなくなれば、店が困るのがよくないからではなく、売れ残った犬たちがどうなるかを思うとまた暗然としてしまうから、完全に否定はできないのだ。

26日の朝日新聞夕刊に、国が新年度から施設に収容された犬猫にえさ代を補助することを決めたという記事があった。全国の自治体では2006年度に11万8000匹の犬と23万5000匹の猫が殺処分されたという。飼い主の都合で保健所に引き取られたり、棄てられたりした犬猫が大半だ。私が伝え聞いた話でも、一時流行したシベリアン・ハスキーが保健所にあふれたことがあるという。飼いきれなくなった大型犬を見捨てた飼い主が大量発生したのだ。

引き取られた犬猫は、数日で殺処分されてしまうが、新しい制度は少しでも殺さずに動物たちに生きる機会を与えるために作られた。具体的には収容されてから3日分のえさ代が出るに過ぎないのだが、それでもないよりはいい。もし、その間に飼い主が決まれば、予防ワクチンの費用まで負担するという。
この施策は民主党の松野頼久衆議院議員が提案してきたもので、政府も今後10年間で犬猫の殺処分数を半減させることを目標に掲げているという。

久しぶりに見る、政府の前向きな施策だ。
ならば今度は国民も応えていく必要があるだろう。
犬猫を飼おうと思ったら、ペットショップではなく動物保護センターなどに引き取られている犬猫をもらい受けることだ。民間で里親を探している団体もある。そうしたところから引き取るようにするのだ。
わが家には今年9歳になる犬2匹を筆頭に、6歳、4歳の犬がいる。彼らも老いて、いつか旅立つ日が来る。それを思うと辛くて仕方がないが、彼らが年老いた分、私も老いているのである。これから再び子犬を飼おうとは思わない。
もしもまた、犬を飼うことがあるのなら、そのときはきっと可愛そうな犬たちの里親になってやりたいと考えている。そうやって少しでも「処分される」犬たちを少なくすることに協力したいと思っている。

関連タグ : , 殺処分, 松野頼久, 民主党,

週末の夜遅くに放送されたニュースで、先にガンでなくなった民主党の山本孝史参議院議員の追悼演説の模様が映し出されていた。
尾辻秀久
演壇に立って追悼原稿を読み上げる自民党の尾辻秀久参院議員会長は、ときどき声を詰まらせながら「あなたは参議院の誇りであり、社会保障の良心でした」と締めくくった。
尾辻は厚労相時代、ガン対策や自殺対策に力を注いでいた山本議員と共闘した間柄であり、親交も深かったようだ。
傍聴席では演説を聴く議員たちが与野党の別なくもらい泣きをしている姿が目についた。

このニュースは、演説が行われた23日にはほとんど放送されなかったらしい。しかし、この一事は与野党の壁を越えた友情の現れとして、自民党と民主党の対立が続くなかで生まれたひとつの美談として新聞が取り上げていた。ブログでも、対立と論争で明け暮れるだけでなく、国会にもこのような心温まる光景があっていいといった趣旨の記述が見られる。

亡くなった人に対してはそれぞれの思いがあるだろう。それは否定しない。

しかし、それでも私はあえて思う。
もはや亡くなって何もできなくなった人に涙を流す暇があるのなら、国民の方を振り向き、多くの国民がどれだけ生活に苦しんでいるのか、大きな不安を抱えて生きているのか、劣悪な条件で働いているのかを見てほしい。
死者よりも、生者をこそ見て、涙を流して欲しい。それが国会議員としての努めなのではないか。あの涙を流していた議員たちの中で、いったいどれくらいの人数が、国民のために涙を流せるだろう。
「あなたは、社会保障の良心でした」とたたえる気持ちがあるのなら、現実の社会保障をもういちど見直してみたらどうなのだ。構造改革のために、今や日本の社会保障はズタズタにされているのだ。高齢者にも医療費を負担させ、生活困窮者には生活保護を与えず、保険料を滞納する者には10割負担を強いて社会保障の枠から締め出しているのが、今の日本の社会保障の姿だ。

春以降、国民生活には電気、ガスをはじめ食料品などの大幅な値上げがのしかかってくることが確実になっている。生活はどんどん苦しくなっていくのだ。賃金は上がらず社会不安は大きくなるばかりだ。国民はみな喘ぎながら生活をしている。毎年、交通事故死者をはるかに上回る自殺者を出し、極貧の生活から餓死する者が100人単位で出ている。
これからもこんな状況が続くのを放っておいていいのか。
この状況にこそ、涙するべきなのではないか。

演説が行われた23日には東京にも雪が降った。翌24日は強い低気圧のために関東地方に冷たい北風が一日中吹き荒れた。
職を失い、路上で生活することを余儀なくされた人々は、どんな思いでこの厳しい日々を送っているのだろう。彼らの中には働きたくても働けない者が相当数ふくまれている。働いても生きて行くに足るだけの収入が得られない者がふくまれている。
こうした人々を、一刻も早く救うべきではないのか。その辛さに共感すべきではないのか。

今日は大阪で府知事選挙の投票が行われる。
人間としての信義にもとる橋下徹が、まんまと得票を伸ばしていくのか。
もう少し真面目に府政を考えている民主党、共産党の候補が勝てるのか。
この選挙は、生者に対して温かい目を向けられる候補者を選ぶ選挙だ。
大阪府民の動向に、全国の心ある人々の目が注がれている。

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私はアプリリアというイタリアのメーカーの、スカラベオというスクーターに乗っている。
排気量は250cc。3年前に発売されたGT(グラン・ツーリスモ)という車種だ。


このスクーターは、日本ではまだ馴染みの薄い「ハイホイール・スクーター」と呼ばれるもので、車輪がロードバイクのように大きい。したがって車高も高く、操縦性、安定性も優れているのが特徴だ。外観はスーパーカブに似ているともいわれるが、実物を見るとそこはやっぱりイタリアンを感じさせる雰囲気がある。天候も良く、一人で出掛けるときはこのバイクに乗って移動することが多い。ETCもつけたので、高速もストレスなく走れるのがうれしい。

ところが、今まで快調に走ってきたわがスカラベオが、相次ぐトラブルに見舞われた。
事のはじめは4日前、往復40キロの道のりを走ったときである。
左折でウィンカーをつけたのに、前を走っているクルマのボディに映るはずのライトの点滅が見えない。もしやと思って路肩に寄せて確かめてみると、はたして電球が切れている。

さっそく新しい電球に取り替えようと思ったのだが、こういうときに困るのが欧州車だ。電球のかたちが微妙に異なるために、普通のウィンカーバルブが装着できない。ソケットについている突起が180℃の位置ではなく、270℃くらいの角度がつけてあるのだ。
ネットで購入できるところはないかと探してみたが埒が明かない。
仕方なくいつも世話になっているディーラーに連絡して、電車に乗って取りに行った。
このディーラーがまた遠い。クルマでいけば片道約60キロ。電車だとたっぷり2時間かかる。
電球1個のために往復4時間。
この日は発達した低気圧のおかげで冷たい北風が一日中吹き荒れていた。
歩くと、顔と耳が痛くなってきた。そうしてようやく店にたどり着いた。
電球1個では悔しいから、予備のために2個購入した。

さて、これで無事、ウィンカーもつくようになったと思ったら、今度はエンジンがかからない。
4日前は快調に走ったのに、バッテリーが上がってしまい、セルモーターが回らなくなってしまったのだ。冬には多いと聞いてはいたが、まさか今、このときに連続して不調になるとは。

またディーラーに電話してみると、こんなときにはバッテリーをジャンプすればいいという。
バッテリーのジャンプって何だ? と思ったら、要するに他のクルマについているバッテリと直結して充電させることらしい。ああ、あれか。

で、バッテリーケースを取り出そうとカウルを取り外してみると、これがぎっしりとした配線の奥に納まっていて素人の手には負えそうもない。
さて困った。
どこかのロードサービスを頼んでディーラーまで運んでもらうか。
こういうときの距離の障壁はほんとうに大きい。ホンダかヤマハのバイクなら、こんなに困ることはなかったのだが。

結局、去年ETCをつけてもらったショップにダメモトで電話してみたら、快く引き受けてもらえた。このショップならば片道20キロ。近くはないが、遠すぎるというほどでもない。引き取り料金は4200円だという。仕方がない。
で、今日の午後、スカラベオはトラックに乗って引き取られて行った。
バッテリーは充電して復活できればいいが、もしかすると交換が必要かもしれない。

いやはや、どうも。トラブルというのは重なるもののようだ。
トラックの荷台に揺られて遠ざかる愛車を見送るときは、まるで「ドナドナ」の売られた子牛を見送るような気持ちになった。

関連タグ : バイク, ハイホイール, スカラベオ,

民主党内でも、小沢一郎の求心力はそうとうに落ちているのではないか。というよりも、はっきり言って、この党首は嘗められているのではないか。

昨日、「ガソリン国会」の行方をめぐって、暫定税率堅持をを求める都道府県議450人が集まって総決起集会を行った。そのなかには自民党議員の他に19人の民主党系議員がふくまれていた。今朝の朝日新聞によると、会の主役になったのは与党幹部の横に並んだ民主党議員だったという。大江康弘、渡辺秀央、山下八洲夫。

自民党の幹事長・伊吹文明が「(暫定税率廃止という)バカなポピュリズムに乗じて党利党略的なことをすると信じたくない。民主党の心ある方の方針を聞かせてほしい」と訴えると、大江が答えたそうだ。
「この場の空気や熱意が伝わらないようであれば、我が党はKYだ。地方に住む我々にとって生活とは道路なんだ」と。
大江康広
いかにも茶番だ。大江以下の民主党議員は、自民党の内通者だ。
繰り返していうが、地方に住む我々にとって、生活とは道路ではなく格差是正であり福祉と医療制度の見直し、建て直しである。どこのだれが道路がなくてはにっちもさっちも暮らしていけないと訴えているというのだ。道路は整備された方がいい。でもそれは、生活が成り立ってからの話だ。それをすり替えて、かくも道路のための財源にこだわるとは、ここに集まった議員どもにとってはよほど美味しい蜜の味がするのだろう。そう思わずにいられない。

もともと2年という期限つきで、道路建設・維持管理のために作り上げたこの税金制度は、期限がくるたびに期間を延長し、さらに税率そのものも引き上げて30年以上が過ぎている。
一般的に考えて、我々が借金をしたとして、勝手に返済期限を延ばしたり利子を引き下げたりすることはあり得ないことである。しかし、国は30年にも渡って勝手に同じようなことを繰り返してきたのだ。
しかも、国民から巻き上げた税金を大切に使うならともかく、道路を造るといったその金で公務員の官舎を建てたり公用車を購入したり、福利厚生に使ったりしてきたのだ。
暫定税率を維持する必要がほんとうにあるのなら、これまでその金をどのように利用してきたのか、すべてを詳らかにしたうえで必要といわねばなるまい。無駄な使い方をしていないことをはっきりさせてから「我々にとって生活とは道路なんだと」主張するがいい。

この総決起集会に出席した民主党の議員たちにはその覚悟があるのか。覚悟と決意をしたうえで、それでも暫定税率は必要不可欠なものだといっているのか。
小沢一郎は、以上のことをどう考えているのだろうか。我が党はKYだ、などといわれて黙っているのだろうか。民主党が目指すべき方向性をはっきりさせず、新自由主義の異端分子を野放しにしておくつもりなのだろうか。いったい、この党首は、何を考えているのだろうか。

何度でも繰り返すが、国民は今この時期にガソリンか道路かの二者択一を求めているのではない。生活の建て直しを求めているのである。市場原理に毒されたこの社会を是正することを望んでいるのである。年金問題に見られる役人どもの怠慢と不正を糺すことを望んでいるのである。
大切な国会の時間を、勝手な問題のすり替えで誤魔化すな。
野党第一党の真価が、問われているのだ。
小沢一郎には、国民に対して、党に対して、はっきりとした態度を示す必要がある。
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関連タグ : 暫定税率, 民主党, 小沢一郎, 大江康弘,

今年初めての映画を観てきた。
期待のティム・バートン監督、ジョニー・デップ主演の「スウィーニー・トッド」だ。
スウィーニー・トッド

この作品がずいぶん前にブロードウェイで上演されていたことは記憶にあった。日本でも、宮本亜門が演出して舞台上演している。
でも、舞台を観ていない私は、この作品がミュージカルとしてはずいぶん血なまぐさい話だ、くらいの知識しか持たず、それでも贔屓のバートン=デップのコンビの作品だからと、楽しみに劇場に行ったのだった。

しかし、結論から言ってしまうと、この作品、期待とはずいぶん違った味わいの映画だった。
物語は、悪徳検事の奸計によって妻と子供を奪い取られ、無実の罪で国を追放されていた理髪師の主人公がロンドンに舞い戻り、復讐するというものである。
舞台は19世紀のロンドン。主人公に協力するのは、ミートパイを出す食堂の女将のヘレナ・ボナム=カーターで、デップが次々に血祭りに上げる人間の肉を材料にしてパイを作り、繁盛させるというところがいかにもティム・バートンらしいブラックなユーモアを感じさせる。

しかし映画は冒頭から煤煙に煙るロンドンの陰鬱な描写と、ひたすら暗い顔つきのデップが出てきて、観ているこちらの気分まで暗くなってくる。ちなみに、総髪にした老け顔のデップは、クリストファー・ウォーケンにちょっと似ていると思った。

妻は判事の求愛を拒んで自殺し、娘は判事の屋敷に軟禁されていると聞かされた主人公は復讐の鬼と化し、自慢のカミソリでいつか判事の喉を掻き切ってやろうと決意する。そして目的を達するまで、ロンドンの街にうようよしている他国者や孤独な人間を殺してはミートパイの材料として提供していく。

物語のあらましを書いただけでも十分暗いのだが、映画もその通り、ひたすら暗く、陰惨な場面を連続させていく。極めつけはやはり、デップが喉を切り裂き、犠牲者から血が噴き出すシーンだろう。ここではいつものバートン作品に感じられたユーモアが影をひそめ、単なるスプラッタショーが繰り広げられるだけだ。

どうしてしまったのだ、ティム・バートン。
かつての「シザー・ハンズ」では両手がハサミに作られてしまったロボット人間の悲しい恋を描いて感動させ、「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」「コープス・ブライド」ではグロテスクながらも美しいラブストーリーを見せてくれた。「ビッグ・フィッシュ」や「チャーリーとチョコレート工場」ではファンタジックなほら話に父子のちょっと切ない思いを描いて胸をキュンとさせてくれた。

ところが最新作の「スウィーニー・トッド」にあるのは怨念と悪意と血しぶきばかり。いかに楽曲が美しく、俳優たちが歌ってドラマチックに盛り上げても、観ているこちらは気分が滅入ってくるばかりだ。ここには「シザー・ハンズ」で瞠目させたティム・バートンの世界観も、その他の作品に見られた際どいユーモアもほとんど感じられない。「スリーピー・ホロー」とこの作品とを比較すれば、その違いは明らかだ。
もとのミュージカルがこういう作品なのだから、仕方がないというのではティム・バートンとしては不本意だろう。
この映画を観ていると、ティム・バートンの人間嫌いがいよいよ高じてきているのではないかと、ちょっと心配になってきた。
今年最初に観た映画、しかも十分期待して見た作品だっただけに、残念さだけが後に残った。
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わかりやすくするとは大事なことに違いない。
自分の仕事で言えば、もちろんうまい文章を書きたいとは願うが、その前にわかりやすく書くことを心がける。

同じように税制や年金、健康保険もわかりやすいに越したことはない。政治もしかりである。
ところが、今の国会は誰がつけたのか、いつの間にか「ガソリン国会」ということになっている。
ガソリンの暫定税率を撤廃するか否かが焦点で、その結論の持って行きようでは総辞職もあるという筋書きなのだろうか。

東京などの大都市はいざ知らず、地方に住む者にとってガソリン価格は生活に少なからぬ影響を与えるものだ。今のような高騰が続けばおのずと経済活動も縮小するだろう。だから民主党が掲げる暫定税率撤廃は歓迎すべきものであり、リッター25円も安くなれば万々歳である。揮発油税を下げるならタバコや酒税はどうなのかという話もあるが、生活必需品と嗜好品とを一緒に並べられては困るというものだ。

しかし、今回言いたいのは、ガソリンを安くせよということではない。
なぜ今国会が「ガソリン国会」でなければならないのか、ということだ。私には非常にわかりにくい。
この間まで、いや昨日も一昨日も新聞のネタになっている年金問題はどうしたのだ? 昨日の朝日新聞では、ねんきん特別便の対応窓口で助言を禁止するマニュアルを社会保険庁が作成していたことが報じられていた。今日の新聞には、さっそく是正するという社保庁のコメントが出ていたが、自らの怠慢が招いた事態に対し、この段になってもなお小賢しいことをする社保庁を放っておいていいのか。年金問題はまだまだ根が深いはずだ。

地方に暮らすものにとって、もうひとつ大きな問題は医療だ。
救急医療体制の遅れは目を覆いたくなるほどで、東京から1時間ほどのところに住む私の地域でも、救急車を要請しても到着するまでに10分から15分かかる。ようやく救急車が来ても、今度は受け入れる病院を探すのにまた時間がかかる。
この1、2年の間に、近くにある公立病院では医師不足から内科や小児科などの診察を取り止めた所が3カ所ある。入院が必要になっても、受け入れる病院がなくなってきている。
仮に心筋梗塞や脳梗塞など、緊急を要する病気を発症しても、私が住んでいる地域では救急車が来るのに時間がかかり、治療をする病院がみつからないことになる。つまりは助かるものも助からない可能性が年々高くなっているのだ。医師不足、病院不足はかなり前から問題になっているはずだが、それに答えようとする政治家の声は一向に聞こえてこない。
事はガソリン価格よりも切迫しているのに、なぜなのだ?

昨日放送されたNHKの「クローズアップ現代」では、国民健康保険料が支払えないために役所に保険証の返還を求められる問題が取り上げられていた。そこにあるのは高齢化社会と格差社会がもたらすワーキング・プアが絡み合った絶望的な状況だ。
仕事を失うと次の仕事を見つけるのが難しい。仕方なく低賃金のアルバイトを掛け持ちするが、生活に余裕はない。保険料など支払えない。仕事で無理を重ねるうちに病気になる。しかし役所は、保険料の滞納を理由に保険証を返還させ、かわりに資格証明書を出して10割負担させるようにする。保険料も支払えない人間が全額を払ってまで病院にいけるはずがない。風邪を引いて受診するにも1回1万円近くかかるのだ。
結果、重症化して死亡するケースが多くなっているという。

許せないのは、役所は保険料滞納を減らそうと躍起になっているということだ。滞納額が大きい自治体は資格証明書を発行しなければ国からの補助金を削られる。つまりは国が自治体を脅し、自治体は貧困に喘いでいる人間を脅し、保険料を取り立てようとしているわけだ。
しかも、国民皆保険制度のもとでは保険料を支払えなくても、病気になった場合には保険が適用できる特例があるのに、役所はその説明をするのに消極的だ。
生活保護基準引き上げの狙いといい、これでは国も自治体も、ヤミ金の取り立てと同じ振る舞いをしているといえるのではないか。

年金の履歴がわからないという相談者に対して、助言を禁止するマニュアルを作っていた社会保険庁。憲法25条によって生存権が保障されている国民に対して、救済措置があるのに説明を怠る自治体。そして税収を増やすために補助金削減を脅し文句に理不尽を迫る政府。
国民生活の根幹に関わる問題がこれほどあるのに、なぜ「ガソリン国会」をしなければならないのかが、わからない。

民主党は、小沢一郎を代表にしていてほんとうに大丈夫なのか。国民が必要としているのは、大連立などと大局的な問題に左右されるリーダーではなく、国の根本、国の細部に目が届くリーダーなのだ。民主党は、年金問題や格差社会の問題をおいて、ガソリン暫定税率に集中するつもりなのか。それでいいと思っているのか。だとすれば、民主党など支持する理由はない。
「ガソリン値下げ部隊」は自民党の「埋蔵金あるある探検隊」に呼応して作ったものなのか。
だとすれば、ふざけているし、人をバカにするのもいい加減にしろと言いたい。

関連タグ : ガソリン国会, 民主党, 憲法25条,

私は原稿を書くのを商売にしているが、先日はじめて取材される側の立場になった。

ある中高年向け雑誌の取材で、テーマはセックスに関するものだった。
とはいっても、私はべつに性を専門分野にしているわけではないし、性的に際立った特徴をもっているわけでもない。
ただ、この数年、フロイト的な意味でのリビドーの低下が著しく、異性に対する興味がなくなってきた。セックスの快楽を求める気持ちも、ゼロではないものの、かぎりなくゼロに近づきつつある。そんなことを知り合いの編集者に話したのがきっかけだった。

世間一般を見回す、といってもこうしたテーマで話し合う人間の範囲は限られているのだが、40代以上の男たちと話していると、夫婦で寝室を別にしているというケースがかなり多い。なかには、寝室を別にするどころか、妻とは会話さえほとんどしていないという者もいる。食卓には一緒に並ぶが共通する話題がない。極端な例になると、妻はアイドルグループの追っかけをして全国を飛び歩いている。亭主の方はカミサンが不在の間何をやっているかというと、パソコンでアダルトサイトを覗いたり、ときどき若い恋人と会ったりしているのだという。
この男の場合はいたって性欲が旺盛なのだが、夫婦に限っていえば、かぎりなく男と女の関係は希薄なのである。

90年代、中高年の男性向け雑誌に携わっていたことがある。
いわゆる成人向けのマニアックな本ではなく、オトナの趣味とライフスタイルをテーマにした本だった。そのなかで、大きなテーマのひとつになっていたのが「セックス」だった。
中年を迎えると、肉体的な性的能力はどうしても衰えてくる。そんなとき、オトコはどうしたらいいのか。心ならずも(?)愛人を持ってしまった場合、妻との関係はどうすべきなのか。ウンヌンカンヌン。。。
愛人ネタが多いのには少々ヘキエキしたが、その当時まだ中年には間があった自分は、一世代上のオヤジたちが、かくもオンナのことで頭を使っているものかと、ある意味感心したものだった。
そして他を見回せば、若者雑誌でもいかにしてカノジョをものにするか、に始まってアダルト雑誌顔負けのハウツウ記事が氾濫しているのだった。
思えば90年代までの雑誌は、男の側から見る限り、「オンナ、オンナ」と求め、訴え続けていたような気がする。

ところが今はどうだろう。
もちろん、私の知り合い(というか幼い頃からの友人)のように、妻以外の女性を切らしたことがなく、成人近い息子がいる隣の部屋でパソコンのディスプレイに映し出されるアダルト情報とその過激な画面を見続けている人種もいる。
しかし、雑誌の世界を見ると、大人向けの本では「セックスレス夫婦」や「ED」の記事を目にすることが少なくない。若者向けの雑誌でさえも、かつてのような過激な性教育記事は影をひそめているように思える。
私自身、実をいえば抗うつ剤を服用しているせいか、ここ数年ED気味である。90年代、愛人のことに頭を悩ましていたオヤジたちを見習おうにもパワーの源泉が見あたらない。
キンゼイ・レポートのようなものが今出たら、果たしてどんな結果が見られるのか興味深いところだ。

異性に対する興味を持ち続けるということは、若さを保つ秘訣であるという話を聞いたことがある。しかし、今の私は、明らかに5年前、10年前に比べると、その手の興味が少なくなっていると自覚している。もちろん、テレビで綺麗な女性を見ると「ああ、いいな」「可愛いな」と思うことはある。けれども、それで終わりだ。若い頃ならば、その先にめくるめく妄想の世界があったと薄々思い出しながらチャンネルを替える。
これはオトコとして良くないことなのだろうか。淋しいことなのだろうか。

セックスの快楽が少なくなった。また、その欲求も薄くなった。
それは種としての使命に背くことなのだろうか。
私にはわからない。
わからないけれども、今は生活の中にあるセックスの位置が若いときほど中心にないことだけは確かであり、それはそれでいいような気がしている。若い頃のように「オンナ」で頭の中を支配される煩わしさがないのは、決して悪くはないことだと感じている。
昔、映画の中でモーリス・シュバリエが「若くなくても幸せだ」という曲を歌っていたが、今はそれがわかるような気がする。シュバリエは名うてのプレイ・ボーイだったと聞くが、プレイ・ボーイではなかった私も同じかそれに近い境地に達したのだと思えば、それも素敵なことではないかと思う。

もちろん、このままオトコとしての存在価値が薄れていき、消えてしまうと考えるには一抹の淋しさがあることを白状しなければならないが。
この点、わが女房はどう思っているのだろうか。

その答えは、あまり聞きたくない。

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1月17日は阪神淡路大震災が起きた日だった。
あれから、もう13年になる。
あの日、東京にいて犬と一緒に朝の散歩をしていた私は、通りすがりの主婦たちが「関西の方で大きな地震があったらしい」と話しているのを耳にした。
それが私にとっての第一報だった。

しばらくしてテレビをつけた私の目に飛び込んできたのは、さながら怪獣が荒らし回った後のような光景だった。ビルは倒れ、高速道路が崩れ落ち、そして多くの家々が無惨なまでに押し潰されていた。やがて、倒壊した家々の中から火の手が上がり、炎が壊れた街を舐め尽くしていった。

ニュースもワイドショーも、毎日地震の現場から、悲惨な状況を伝えていた。
悲嘆に暮れる人、泣きくずれる人、呆然とする人、家族の名を呼び続ける人。
それはまるで内戦があった街のようだった。悲しみと、やり場のない憤りに満ちた光景だった。

あれから13年がたつ。
思えば、阪神淡路大震災以後も、日本は大きな災害に見舞われてきた。新潟を襲った二度の地震。洪水、土砂災害、台風。そのたびに人々は痛手を負い、それでもなんとか立ち直ろうと努めてきた。
1月17日は、そうした辛い体験、辛い日々を日本全国が新たに思い出し、祈りを捧げる日だ。
阪神淡路大震災
私は幸いなことに、これまでのところ、こうした大災害には遭わずに済んできた。
しかし、この日が近づくと、私は重い気分に浸される。震災で亡くなった人々のこと、破壊された町や村のことを思い出すのが辛くなる。気分が沈む。
1月17日は、私にとって、とてもヘヴィーな日なのである。だから私は、あまり震災特集のような番組は見ないようにしている。痛手を受けた人々に対して、軽々に哀悼の言葉を口にすることが出来ない。口にすれば、涙があふれそうになる。そして私は、素直に涙を流すことを潔しとしない人間なのだ。人前で泣くことなど、可能な限り避けたいと思ってしまう人間なのだ。泣きたいときに泣ければいいとは思うのだけれど。

昨日の晩、NHKがプレミアム10「震災13年・勇気をくれた心の歌」という番組をやっていた。
阪神淡路大震災、新潟県中越地震と中越沖地震、そしてスマトラ沖大地震による津波の被災者たちをとりあげ、それぞれの思いと自分たちを支えてきた歌について語った。
そのなかで印象に残ったのは、阪神淡路大震災に遭った女性が「あのときのことは、これ以上言えない。泣いてしまうから」と笑顔を浮かべながら話す場面だった。
そして紹介されたのはソウル・フラワー・ユニオンというグループが歌う「満月の夕(ゆうべ)」という曲だった。

「風が吹く港の方から/焼け跡を包むようにおどす風/悲しくてすべてを笑う/乾く冬の夕」

神社で行われたミニコンサートには、あの女性も席に並び、じっと耳を傾けていた。そしてあふれ出す涙をしきりにぬぐっていた。

「ヤサホーヤ 唄がきこえる 眠らずに朝まで踊る/ヤサホーヤ たき火を囲む 吐く息の白さが踊る/解き放て 命で笑え 満月の夕

悲しくてすべてを笑う、解き放て命で笑え。
「笑う」という言葉と件の女性の表情が重なった。
この歌詞にある「笑う」は、「泣く」と置き換えられる。しかしこの「笑う」は、深い悲しみに身を震わせた後、涙の替わりに訪れる笑いなのだ。
人は、ほんとうに悲しいときには、かえって笑ってしまうのかもしれない。
鼻の奥がジーンとしてくる。涙があふれそうだ。こういうときは、素直に涙を流した方が楽になれるのだが。

地震があった朝、2階に上がった直後に家が揺れ、1階が押し潰されたという音楽の教師が紹介されていた。「自分はなぜ生きているのだろう。生きていていいのだろうか」。自分を責めた。
その思いは、生き残った被災者に共通のものだろう。子どもを失った母親。弟を亡くした姉。孫を失った祖母。みな深い悲しみを背負って生きている人々だ。
生き残った人々が神戸の街に灯るルミナリオンを訪れる。無数の電球の輝きは、亡くなった人々の命の灯であり、生き残った人々にとっては希望の光と映る。

神戸ルミナリオン
「自分はなぜ生きているのだろう」
その問いは、被災した人だけが持つわけではない。生きている人間の多くが、自分に向かって問いかける問いでもある。そしてその答えは容易に見つからない。
番組では、音楽教師が作詞・作曲した歌が紹介され、「亡くなった方々のぶんも大切に」生きて行かねばならないと訴える。
それはたしかにそうだ。
しかし、亡くなった人々の分を請け負って生き続けるには、この世はあまりに辛い。

この13年は天災に遭わなかった人々にとっても、大きく社会が変わり、多くの人の生活が奪われていった13年間でもあるのだ。そのなかで「自分はなぜ生きているのだろう」という問いかけに、明快に答えることは難しい。

せめて――。
あと何年か、何十年かした後に、「生きていてよかった」と思えるようになるために生きたい。
そう考えると、まだまだ安易に涙など流してはいられない。しかし、涙を裏返して、この世の中を笑って生きていきたいと思う。
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ガソリンの高騰が続いていたが、ようやく落ち着いてきたかに見える。
それでも、5年前のリッター90円前後から比べると50円は高くなったままだ。
ガソリン価格が上昇したことで食料品その他、生活全般に関わる製品がどんどん値上がりし、その傾向はこれからも続くことが確実だ。

70年代はこのような状況を「オイルショック」と呼び、社会的な混乱が大々的に報じられたものだが、それから30年たった現在はマスコミもさほど騒がず、国民も仕方がないと受け入れている。
これは果たして、30年前に比べて現代のマスコミが成熟し、国民が賢くなったということなのだろうか。
私はガソリン価格がリッター160円を超えたら、誰かがどこかで声を上げ、暴れ始めてもおかしくないと思っている。ただし、そんなことが現実に起こったとしても、テレビ局や新聞社の社員はみな高給取りなのだから、冷ややかに報じるだけだろう。報道ステーションの古舘伊知郎が、眉をひそめながら「困ったものです」などと言っている姿が目に浮かぶようだ。こいつらは金輪際困りはしないのだ。腹の底では貧乏人は困ったものですと思っているに違いない。

まあ古館のような半端な芸人もどきのタレントなどはどうでもいい。
私は古館の言説など端から信用していないし、あの芸風が大嫌いだ。
古舘伊知郎
半端な芸風といえば、官房長官の町村信孝が、記者会見にパネルを持ち出してガソリン税の暫定税率維持の必要性を説いたという。民主党が暫定税率の廃止を訴えていることを受けてのものだったようだが、ここで町村は、暫定税率を廃止すれば国が約1兆7000億円、地方が約9000億円の計約2兆6000億円の大幅税収減につながると説明し、「民主党はお金が天から降ってくると言っているのではないか」と批判した。
町村信孝
しかしそれを言うならば「自民党はお金は国民から搾り取るものだと思っているのではないか」と言い返してやりたい。テロ特措法を勝手に認め、アメリカにガソリンをタダでくれてやると決めたのは町村をふくむ自民党(と公明党)だろう。
町村は民主党批判に続けてこんなことも言っている。
「税収が減れば、福祉や教育へのしわ寄せも考えられる」
これは国民に対する脅しに他ならない。
町村は官房長官でありながらつくづく質の悪い男であり、自民党はつくづく国民をこけにしている政党だと思う。

暫定税率を廃止して税収が減るのなら、それで困るというのなら、テロ特措法をこそ廃止すべきだろう。それでも金が足りないというのなら、防衛費を削減すればいい話だ。ミサイルがなければ防衛できないと言うのなら、その前に外交手腕を鍛えるべきだ。いつまでも稚拙な外交をしているから日本は欧米はもとより、アジアの国々からも軽く見られるようになったのだ。外交こそ、もっとも有効な防衛手段だ。防衛オタクの石破にオモチャを与えるようなことをすべきではない。
石破茂

町村が言った「税収が減れば、福祉や教育へのしわ寄せも考えられる」とは、自民党がこれまでとってきた新自由主義政策の本音であり、暫定税率廃止にかかわらず、消費税増税、福祉削減、地方交付金削減という「改革」をさらに推し進めていくことを意味している。
総理大臣の福田康夫は昨日の施政方針演説で「生活者重視」を謳いあげ、当の民主代表である小沢一郎よりもマシな風を見せた。
しかし自民党に騙されるのはこりごりだ。
暫定税率を維持し、やがてガソリン価格がリッター160円を超える。物価が軒並み上がり、賃金は上がらない。雇用は相変わらず不安定で格差が広がる。

どこかで暴動が起きる日も、案外遠くないのかもしれない。
昨日、1月16日の朝日新聞朝刊の「声」に、こんな投書が載っていた。

タイトルは「ドキッとした心憎い年賀状」で、福岡県の64歳男性からのものということになっている。
内容は、元日の朝、郵便受けに年賀状を取りに行くと、いちばん上に「明けましておめでとうございます。……吉永小百合」と書かれた賀状があり、サユリストを自認する男性はびっくりしたというのだ。
何のことはない、その賀状は民営化された郵政会社からの挨拶だったというのがオチなのだが、男性は「このヤロー」と思いながらも「郵政会社なかなかやるなあ、日本全国多くのサユリストの心をうまく捕らえたアイデアが心憎く、かつうれしく、変身した会社のすばらしい企画だったと感心した」という。

吉永小百合と印刷された文字を見ただけで、自分宛てに彼女から年賀状が来たと思ってしまう男性の単純さが微笑ましい……というところが、この投書を掲載した朝日の考えなのだろうか。
しかし、サユリストでもなんでもない私は、元日の朝、吉永小百合からの賀状など見た記憶もすでになく、したがって「郵政会社なかなかやるなあ」などとは露ほども思わなかった。
それどころか、鳴り物入りで民営化したところで、郵政会社の体質はよくなるどころかどんどん悪くなっていくのではないかと腹立たしく思っている。

この前日、報道では日本郵政会社が発売した今年の年賀はがきが、7日の時点で4億枚程度売れ残っていることがわかったと伝えている。同社は前年に比べて5.8%増の40億2104万枚を発行したが、販売数は前年同期の約36億900万枚並みにとどまった。
年賀はがきの減少を食い止めるために、同社は約80億円もの広告費を使い、CMやイベントで「年賀状は贈り物」と訴えたが、効果が得られなかったというわけだ。

売れ残った年賀はがきは、販売期間を1月18日まで延長することにし、売れ残ったはがきは段ボールや再生紙の原料にするのだという。

なにが、「郵政会社なかなかやるなあ」だよ。まったく逆じゃないか。
吉永小百合を使った広告費80億と売れ残った葉書代200億、それに再生紙を造るための加工料、もろもろあわせると300億ちかくを無駄にしているんじゃないか。
いくら日本人の習慣が変わってきているからといって、1月18日に年賀状を出すバカはいないだろう。松の内を過ぎれば寒中見舞いを出すのが常識というもので、その程度の習慣はかろうじて今の社会にも生きている。郵政会社はこの習慣を壊し、常識的に考えるならば賞味期限が切れた葉書を売り続けようとしている。アホじゃなかろか、といいたくなる。

さらに、今度は環境配慮のために古紙を40%使うとしていた「再生紙はがき」が、実は古紙を1~5%しか使っていなかったことがわかった。これは郵政会社にはがき用紙を納入している日本製紙などが品質面に問題が生じるからといって無断で古紙の配合率を変えたものだが、郵政会社は偽装した商品を、しかも賞味期限が切れても売ろうとしているということになる。
食品企業ならば、こんなことは当然許されるはずがないことだろうし、経営者の責任が問われることだろう。

こんな時期に、わざわざ冒頭に紹介したような、いかにもぬるい投書を掲載した朝日の考えはどこにあるのか。
郵政民営化が議論されていた小泉内閣当時、朝日は郵政民営化を支持する社説を掲げている(2005年7月31日「郵政民営化法案を可決すべきだ」)。
朝日としては、不祥事と失策が続いている郵政会社をなんとか庇いたいというところなのだろうが、こんなやらせ記事を載せるところがいかにも姑息だ。

政治ブログではすでに述べられていることだが、郵政民営化のねらいは、郵貯と簡保に眠る350兆円に目をつけたアメリカ政府と、その尻馬に乗った小泉純一郎・竹中平蔵がグルになってこの金を巻き上げようとすることにある。

大した議論もないままで昨年10月から郵政民営化はスタートしたが、大多数の国民は、民営化されたってほとんど変わりがないと思っていることだろう。
むしろ、一年間の期限つきだけれども送金手数料がサービスになるなど、ありがたい点が目立っているのではないか。
しかし、その一年が過ぎてしまうと今度は以前よりも高い手数料が取られるようになるし、今後収益を上げられない中小の郵便局はどんどん潰れていく。大規模なリストラが行われて郵便局員の失業が増加し、サービスが受けられなくなる地方や僻地に住む人は、どんどん不便になっていく。

郵政会社のトップには三井住友フィナンシャルグループの元社長、西川善文がつき、その他にも奥田碩、牛尾治朗、奥谷禮子、丹羽宇一郎といった自民党べったりのメンバーが顔をそろえている。彼らの頭には、地方のサービス向上など微塵もないだろう。あるのは350兆円をいかに分配するかということだけだ。さらに、アメリカのハゲタカファンドどもが舌なめずりをして目の前にある350兆円を食い物にしてやろうと狙っていることだろう。

郵政を民営化したって、いいことなど何もないのだ。
それなのに「やるなあ、郵政会社」と言ってしまう朝日新聞。
もういい加減にしてくれよ、といいたくなる。
去年の流行語大賞など、もはや忘れてしまった人が多いのではないか。
性犯罪者が知事になったことで認められたらしい「どげんかせんといかん」も、女性週刊誌かワイドショーレベルの話題に過ぎない「ハニカミ王子」も、現実の日本社会の実情とは大きく乖離したものだったために、極端に印象が薄い。
言い換えれば、どうでもいい言葉が流行語として表彰されたわけだ。
「消えた年金」で舛添がいけしゃあしゃあと出席したことからも、この賞が大衆の目をそらすために誂えた、御用流行語であることは間違いない。

真の流行語がなんであったかといえば、すでに他ブログでは「KY(空気が読めない)」だ、などという説が上がっていたが、私は文句なく「格差社会」と「ワーキング・プア」が挙げられるべきだと思う。「格差社会」は去年に始まったことではないが、NHKの番組により働く貧困層が注目を浴びたとき、誰もがあらためて「格差社会」のことを考えたに違いない。

時代を現わしながら、これらの言葉が脚光を浴びるというよりは人々の心の底に沈殿してしまっているのは、とりもなおさず今の世の中が新自由主義の勝利の下にあるためで、心ある人々は今後さらに声を大にして格差社会やワーキング・プアのことを叫び続けていかなければなるまい。流行語大賞などは、もうどうでもいいのだ。

新自由主義がはびこる陰で、日陰の花のように存在している言葉が「ディーセント・ワーク」だ。
これは1999年にILOのファン・ソマヴィア事務局長が提唱した理念・活動目標で、日本語にすると「権利が保護され、十分な収入を生み、適切な社会的保護が供与される生産的な仕事」という意味を持つ。
昨日の朝日新聞夕刊には、この言葉がなかなか浸透しないことを伝えるコラムが掲載されていた。99年に提唱されながら、いまだに社会の市民権を得られずにいるのは、ひとつには「ディーセント(decent)」という言葉に適当な訳語が見つからないために浸透しにくいことが挙げられている。ディーセントとは「ちゃんとした、きちんとした」という意味で、「やさしく働ける仕事」という訳語を当てている者もいるようだが、こんな言語センスでは浸透するわけがない。
ワーキング・プアが問題になっている社会に於いては、ディーセント・ワークの訳語はもっと切実な響きを持っている必要があるだろう。

要するに、人は誰もが労働に見合っただけの権利と保障と収入が得られるべき仕事をしなければいけないということであり、基本的人権と結びつけた言葉をつくればいいのではないか。
実際にそれがどんなものが適当なのかはおくとして、問題は、この言葉が1999年から今に至るまでまったく日の目を見なかったことは、単に訳語がダサイからというだけではないような気がすることである。
この間、政府は派遣労働法を改悪するなど、新自由主義にもとづいて労働条件を悪く、厳しくすることに懸命だった。そのためには「ディーセント・ワーク」などという言葉や概念が社会に根付くことはじゃま以外の何者でもなかっただろう。

とすれば、昨年の流行語大賞がほとんどどうでもいいような言葉に与えられた骨抜きの賞になったように、ディーセント・ワークはワーキング・プアなどとともに意図的に排除されたものなのではないかと邪推してみたくなる。

朝日のコラムでは、この言葉を定着させるために、ドラマやCMで意図的に連呼するようにしてはどうかなどと、半ば冗談めかして締めくくっていたが、ワーキング・プアという言葉がすんなりと受け入れられた土壌があれば、ディーセント・ワークもそれほど無理なく定着するように思う。
要は、この言葉が今の社会にとって切実で重要な言葉であることを十分に告知していくことであり、社会にとってはむしろ有害なドラマやCMなどに頼ることなく、しっかり骨のあるドキュメンタリーを一本作って放送すればいいだけの話なのではないか。

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宮沢喜一が総理大臣だったとき、週刊文春が「ほんにお前は屁のような」という特集記事を書いて思わず喝采したことがある。宮沢は「政治改革をやる。これは、やらねばならないことなんです」と久米宏を前にニュースステーションで大見得を切っておきながら、なんら有効な手だてを打てなかった。
当時はリクルート事件があって、政治家の倫理問題がやり玉に挙がっていたのだが、宮沢内閣は政治改革法案を成立させようとして果たせず、とうとう総理の座を細川護煕に明け渡したのだった。

今は民主党の小沢一郎に対して「ほんにお前は屁のような」と言いたい気持ちだ。

昨日、国会では新テロ対策特別措置法案が衆議院で再可決され、成立した。
この席で、民主党の小沢一郎代表は棄権して大阪府知事選の応援に出かけてしまった。
これについては民主党内からも批判の声が上がっているが、自民党政治にうんざりしている国民の側から見ていても、「何をやっているのか」と思わずにいられない。

小沢一郎という男は、はたしてリーダーたりうる器なのか。
小沢は自民党にいる頃から表立って行動することを嫌い、陰で取引するのを得意としてきた政治家だ。マスコミはそれを「豪腕」となづけて、さも実力者のように扱ってきたが、ほんとうのところ、小沢の実力などは大したものではないのでないかと思いたくなる。

安倍内閣以降、政府に対する信頼がこれだけ低下しているというのに、小沢がやったことといえば大連立の話にシッポを振ってみたり、それを咎められれば「辞める」と駄々をこねたり、みっともないことばかりだ。とても自公に替わって政権を取るのだという気概があるとは思えない。

なぜ、小沢は、民主党は、新テロ対策特別措置法案を廃案に追い込まなかったのか。57年ぶりの衆院再議決に対して問責決議案を出さないのか。
民主党内にも不満が高まっているらしく、今のままでは民主党が分裂する可能性もあるだろう。
新自由主義派の議員が離党して、自民党に吸収されるかもしれない。自民党にとってはこれほど嬉しいことはないだろう。

年金問題、防衛省スキャンダルと、今の政府には突っ込みどころが満載なのに、小沢は何もしようとしない。ほんにお前は屁のような男、だ。何のためのリーダーなのだ。民主党は何のための野党なのだ。小沢は自民党と内通して、民主党を内部から崩壊させようとしているのではないか。

衆議院での採決を欠席したことについて、記者の質問攻めにあった小沢は終始無言で通したという。なんと煮え切らない男か。こんな男を政権交代の旗印にするのは御免だ。いまや、民主党に吹いていた追い風は、急速に止みつつあるといえるだろう。信用を回復するなら、早期解散の実現だ。これしかない。いつまでも自民党による新自由主義政策を許すな。切にそれを願う。
小沢一郎

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文体のことを語るのは難しい。
私は作家ではないし、批評家でもないのだから、偉そうなことはいえない。
それに文章は、時代や感性を映すものでもあるので、うかつに批判することはそれ自体、自分が時代からずれているのを表明することになりかねない。誰だってずれてるとは言われたくない。
「イケメン」などは今でも目にするたび虫酸が走る思いがするが、いつの間にか世間で認められ、今ではテレビのアナウンサーまでも平気でこの言葉を使っているのだから半ば諦めている。諦めながら、一日も早く廃れてしまえと呪っている。

最近、ネットや雑誌で他人の書いた文を読んでいてひっかかるのは、文章の最後を「~だそう」で締めくくる書き方だ。
ネットと雑誌、どちらが先にこういう書き方を始めたのかは知らないが、読んでいてなんだか気持ちが悪い。
たとえば、今日もgooのニュースで「オタクっぽいと感じてしまう男性の格好ランキング」という記事があり、それを読んでいると「《バンダナをハチマキ状に巻く》というのがAカジの典型的なコーディネートだそう。」というくだりがあった。ちなみに、Aカジというのは「アキバ・カジュアル」という意味で、この文章の前にはアニメプリントのTシャツを着て、ぴちぴちのケミカルウォッシュのジーンズをはき、背中にリュック、腰にウェストバッグというのが典型的なAカジなのだという説明がある。

オタクのファッションなどどうでもよさそうなものだが、これを説明するのに記事では「~です・ます」に体言止めを交え、さらに「だそう」を使っている。語尾に変化をつけようという工夫のつもりらしいが、どうして「だそうです」ではなく「だそう」なのか。

「~だそう」と書かれると、自信がなさそうな感じがするうえに、妙になれなれしく感じてしまうのは私だけだろうか。見知らぬ女から、いきなり「~みたいね」と話しかけられるような。

私はラーメンが好きで、ネットでラーメン店情報を見ることが多いのだが、そのなかでも店舗あるいはラーメンを紹介するのに「出汁には~を使っているのだそう。」というのに出くわすことがある。せっかくふくらみかけていた美味そうなイメージも、こいつで一気にしぼんでしまう。

「~だそう」と書く書き手は、いったいどういう気持ちで文章を「~だそう」と締めくくっているのだろうか。
たしかに、文章を書いていると語尾を決めるのは難しい。
「です・ます」調の場合は「です」「ます」が続くとくどくなる。だから適当に体言止めを使ったりする。「である」調の場合は、あまり「である」とやると偉そうになっていけないから、「~だ」で止めたり、やはり体言止めを交えてリズムを作る。「~なのだ」は、なんだかテレビのナレーションみたいになるから最小限にとどめる。
しかし「~だそう」は何と言っていいものか。要するにキライなのである。こいつが出てくると、どんな記事も三文値打ちが下がる気がする。口語体の変形なのかもしれないが、それならば「です・ます」に混ぜて使うのは反則だろう。

気のせいか、この頃「~だそう」文に出くわす頻度が少しずつ高くなっているような気がする。
嫌だな。
こういう文体があたりまえに使われるようになったら、なんだか、気がおかしくなりそう。

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昨夜たまたま見たNHKの「クローズアップ現代」が、なかなかよかった。
太平洋戦争開戦のきっかけとなった、真珠湾攻撃に参加した特攻隊員をふくむ元日本軍兵士と、真珠湾で攻撃された側のアメリカ軍兵士たちとが終戦後63年を経て再会、真珠湾に近い球場で野球をするというものだった。
敵味方に分かれて闘った日本人とアメリカ人。今では平均年齢80歳となっている。
それでも、戦争が終わった今ならお互いに顔を合わせ、たとえ話し合うことは出来なくても、野球をすることなら出来るのじゃないかとアメリカ側からの呼びかけがあって実現したという。

ともに戦争が始まる前は野球を愛する少年たちだった。
それが戦争が始まったために、見ず知らずの相手と殺し合わなければならなくなった。
特攻隊として仲間を何人も失った日本人。レイテ島の激戦で、アメリカ軍の攻撃にさらされながら、目の前で仲間が餓死していくのを見てきた老人。
彼らのなかには、敗戦以来、アメリカで作られたものは口に出来ないと、かたくなにアメリカ産の食材を拒んできた人もいた。戦後63年と言ってしまえば簡単だが、戦争を経験した人にとっては忘れようにも忘れられない重荷を背負った63年だったのだ。

事情はアメリカ人たちも同じで、日本軍の攻撃で負傷した人、ゼロ戦の攻撃を受けて乗り組んでいた艦船が撃沈され、一度に数百人の仲間を失った人もいた。
彼らの一人は言う。
「誰も人を殺したいと思っている人間はいない。けれども、戦争とは国と国とが戦い、殺し合わなければならない状況を生み出すのだ」

試合前日、彼らははじめて顔を合わせ、一緒に食事をするのだが、なかには打ち解けることが出来ず、黙々と食べるだけで時間を過ごした人もいた。人生の終盤にさしかかった彼らは、はたして自分が体験した悲惨な戦争体験を乗り越えて、かつての「敵」と語り合うことは出来るのか。

翌日、ユニフォームを着て試合が始まると、しだいに互いの気持ちが近づき始める。
戦争には負けたが、この試合では絶対に勝つと臨んだピッチャーのお爺さんは、ホームランをふくめヒットを何本も打たれてしまう。
結局、試合は14対2でアメリカ側の圧勝に終わる。
けれども、試合後の選手たちの顔は和やかだった。
アメリカ産の食べ物は口にしなかったという人も、自分たちを攻撃していた側のアメリカ人と握手して、「お互いに大変だった」と話し合う。
ライフルをバットに持ち替えてゲームをした彼らは、ここで心を通い合わすことが出来たようだった。
そして、彼らは一様に、アメリカ側の人々と会えてよかった、63年間のわだかまりに決着がつけられたと喜ぶのだ。
「できれば、20~30年早く会いたかった」
「でも、生きていて良かった!」と、たがいに固い握手をして語る。

見ていて目頭が熱くなった。
死んでしまっては、こうしてかつての敵と味方が手を握り合い、打ち解けるチャンスもないのだ。

生きていてよかった。

そう思えることの大切さが、しみじみと伝わってきた。
戦争体験はないけれど、自分だって80歳ちかくまで生きることが出来たなら、そのときには
「生きていてよかった」
と思えるようになりたい。

日本は今、戦争でもないのに毎年自殺者を3万人以上も出し、餓死者も100人ちかく出している。けっして生きやすい世の中ではない。
そのなかで、どうやっていけば、最期に「生きていてよかった」という言葉が出てくるのだろう。

このところ、原稿を書く仕事がたまっているのだが、どうにも手をつけることが出来ずにいる。
仕事をしようとしても気持ちが向き合わない。そのうち動悸が激しくなってきて、机の前にいるのが辛くなる。
また始まった。
自分の怠け病なのか、それとも「うつ」の症状が出てきてしまったのか。
こうして思いつくままに文字を連ねることならばできるのだけど、仕事として原稿を書く作業は、同じ文章を書くとは言ってもまったく違った作業といえる。
だからできない、というのも自分に対するエクスキューズのような気がする。
いったい、どうしたらいいのだろう。

この分では、とうてい、「生きててよかった」などと言うことはできそうもないのだ。

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今日、6日の朝日新聞オピニオン欄に「われわれはどこへ」というタイトルの対談が載っていた。
「時代を見つめる2人の論客」、加藤周一上野千鶴子の対談だ。

はじめに感情論を述べておけば、日本の知性みたいな顔つきをした加藤周一が、私は嘘くさい気がして好きではないし、上野千鶴子を筆頭とする、いわゆるフェミニストという人々も好きではない。
なぜ好きではないかというと、加藤のような評論家も、上野のようなフェミニストも、偉そうなことを言っている割に、実は現実などろくに見ていないように思えるからだ。少なくとも一般平民との視点とはずれている。

で、今日の対談でもそのずれぶりが勘に障ったのでここに書いておく。

まず最初に、今年はアメリカで大統領選挙があり、日本でも総選挙があるかもしれない転換期になりそうだということから、ふたりは時代認識を問われる。
これに対して加藤周一は冷戦後から説き起こし、世界秩序がアメリカを中心に回り始めてしまったとし、それは裁判所と警察が一体化したようなものだという。しかし、経済についてはアメリカを中心としたグローバリズムについては疑問を呈している。中国やインドの経済力の台頭が、アメリカの思い通りにはならないようにしているというのだ。

本当にそうか?

サブプライム問題を見ても、世界の経済がアメリカの自分勝手な経済政策とアメリカのハゲタカどもによってひっかきまわされていることは、経済学者でなくても分かっていることではないか。日本が今のようなクソ社会になったのも、アメリカの新自由主義を真似したからだろう。
アメリカべったりで生きてきた日本から見れば、グローバリゼーションといえばアメリカ流を意味し、その留まるところを知らない自己中心的で拝金主義的な考え方はみなアメリカから譲り受けたものといえるだろう。
この時点ですでに加藤の認識は現実とずれている。
加藤は、今の日本をどう見るかという問いに対しても、「福田内閣は(社民的思想を取り入れているフランスのサルコジ政権になぞらえれば)日本式サルコジ内閣だ」と言っている。自分で冗談半分だがとエクスキューズしているものの、そのボケ具合は筋金入りといっていいのではないか。

一方の上野千鶴子は現代のルーツがポスト冷戦時代に入った90年代にあると見ている。これは正しい。ことに日本の場合、バブル崩壊以降の悪政が国民生活を惨めなまでに苦しめていることは明らかだ。上野はさらに、日本はグローバル化のなかで新自由主義を受け入れたとし、その結果女性の非正規雇用者が90年代以降激増したと述べている。しかも、新自由主義による改革を支持しているのが、他ならぬ非正規雇用者たちだと言っている。

しかし、その上野も、今後の日本について、健康保険さえ出来ない国がたくさんあるなかで、二つ目の国民皆保険となる介護保険は快挙だと言っている。
だが、父親が施設の世話になり、自宅には痴呆が進み始めている妻の母親がいる私から見ると、自立支援を基本にして作られた介護保険は欠陥だらけの制度だと思う。
介護保険がスタートする以前、妻の父親がやはり痴呆(言っておくけど、私は認知症という言葉には強い違和感を持っている)になってしまい、徘徊するなど面倒を見ていた家人が非常に苦労するのを見ていた経験があるが、介護する立場から見ると、経済的にも医療補助システム的にも以前の方が助かると感じたことが多かった。

上野は、「介護保険は草の根の福祉の担い手によって支えられてきた。希望は、彼らにある」と言っているが、現実には介護の現場で重労働・低賃金に喘いでいるのはまさしく福祉の担い手となっている「彼ら」なのだ。上野はそのことを知らずに『おひとりさまの老後』などという著作を書いているのだろうか。
将来介護の仕事につきたいと自分の子どもが言ったとしても、現実を見るかぎり、私にはその選択を勧める気には到底なれない。上野は「(介護の仕事に)携わっているのはほとんどが女性と若者。この人たちがプライドを持って働ける条件整備がぜひとも必要だ」と言っているが、それならばなぜ、介護保険を快挙などと持ち上げるのか。
「介護保険は女性や若者に雇用を作り出せる」と言っているが、現実は皮肉なことに、国民皆保険というシステムがあるが故に、おのずとパイは限られているのだ。現制度のままでは、雇用が増えればその分収入が減る。どこに希望があるというのだ。
高学歴・高収入の上野千鶴子くらいになると、そんな問題は大したものではないということか。

加藤は、上野の言葉を受けて「希望なしとはいえない。希望があるともいえない。『ある』と言いたいが、『証拠は』といわれるとつらい」と、訳の分からないことを言っている。ほとんど妄言だ。
これが現代の論客の台詞か。情けないと思う。

こんな2人の対談を、朝日新聞は一面を使ってよくも載せたものだ。
まったく勘に障るったらありゃしない。

関連タグ : 新自由主義, 介護, 朝日新聞, 上野千鶴子, 加藤周一,

正月三賀日も、例年のごとくあっという間に過ぎていった。
やはり正月らしい気分はどんどん希薄になっていき、テレビだけが、このときばかりと着物姿になった芸人たちや女子アナであふれかえって虚しいバカ騒ぎを演じている。
とは言っても、私はほとんどテレビは見なかった。見ないけれども、テレビが毎年芸もなくやっていることに変わりはないから、虚しいバカ騒ぎというのである。

そのなかで、題材に惹かれてスイッチを入れた番組がある。
3日18時半から、およそ4時間半にわたって放送した「新春歴史ミステリー古代ローマ1000年史」という番組だ。
塩野七生の『ローマ人の物語』を下敷きに制作したものだという。
ただし、司会進行がみのもんたであることと、TBSが放送するということだけで、半ば以上は諦めた気持ちにはなっていた。

言うまでもなく、みのもんたとTBSといえば、問題発言の多い劣悪番組「朝ズバッ!」の組み合わせ。これにローマ1000年の歴史を語らせようという発想からして気持ちが萎える。
塩野七生も国から勲章までもらった著作だというのに、よりによってこんな者どもに制作を許すことはなかっただろうに。

思った通り、番組は開始早々、アリタリア航空やローマ観光局、それにブルガリだかのブランドメーカーの宣伝臭ぷんぷんのタイアップコーナーが続き、合間にみのもんたが顔を出してコメントするという構成だった。
その、みのの台詞が笑わせる。
「ローマ帝国の歴史を見ると、現代日本の状況と非常によく似ていることがわかる。ローマの歴史を学ぶことによって、今の日本が抱える問題解決のヒントになるのではないか」

言葉だけを見ればその通りだろうさ。
だけど、この台詞がみのの本心で語られているはずがない。新自由主義の庇護の下、大金持ちになったこの男が、本気で日本が抱える問題など考えているわけがないじゃないか。
案の定、みのは、さして必要もないのにイタリアまで飛び、ワインとパスタを食らって「最高だね!」などとほざくのだ。

つくづく、人間というのはいくら懐が豊かでも心が卑しいと、そのいやらしさが顔に出るものだなと、みのを見て思った。あれはどう見ても、高利貸しの因業爺か、人の足元を見て値踏みする不動産屋のオヤジの顔つきだ。

これにバラエティでは人気があるらしい安住という安っぽいアナウンサーがついて、まさしくバラエティとして番組は進められていく。
ローマといえば何を連想するかと、いつとったのか定かでないアンケート結果を出してきて、その1位はやっぱり「ローマの休日」ときたもんだ。なんだろうね、このあたりでもう嫌気がさしてきた。画面では映画に登場するローマの遺跡と、その現在の様子が映し出されている。
有名な「真実の口」が、古代のマンホールの蓋だったらしいなどと解説が入る。

現代の日本の問題を解くヒントを探すどころか、合コンでも役立たないような雑学ばかり。
みのと、番組スタッフの志の低さが透けて見える。

『ローマ人の物語』が語る、重要なテーマは「よき統治とは何か」であったはずだ。
なぜ、ローマ帝国は1000年もの間、栄えることができたのか。その間には政治的な混乱や金融危機のような問題も起きている。富める者と貧しい者との格差が広がった時期もある。こうした問題を、時の統治者たちはいかにして切り抜けたのか。そこに焦点を当てていかなければテーマの本質が見えてこない。

イギリスBBCが作ったドラマを拝借したドラマ部分は、それなりに迫力があった。
しかし『ローマ人の物語』でもうひとつ重要なポイントは、この著作が非キリスト教者の視点から描かれたものであるということだ。キリスト教的な感性を持つ欧米人には見えなかったものが、塩野七生の歴史観にはある。それならば、TBSはBBSのビデオを拝借するといった手抜きをすることなく、自前でドラマを再現すべきだっただろう。

こんな志の低い番組に4時間もつきあうのはご免だ。ハンニバルとスキピオが闘った「ザマの会戦」までで私はスイッチを切った。
せめてNHKが作っていたら、もう少しつきあえたかもしれないのに。
ますます民放が垂れ流す番組が嫌いになった。

2011年には地デジに切り替わるというが、くだらない番組を見るために、誰がテレビを買い換えるかよ。
今の日本では、政治だけでなくテレビ局の再編も必要なのではないか。再編してもあまり期待できないことも両者に共通しているのだが。

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