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酒好き、映画好き、本好き、落語好き、バイク好き、そして鬱。 ちょっとばかり辛い日もあるけれど、フンニャロメ~と生きてます。
◎心にとめおく言葉
●人は、自分が見たいと思うものしか見ようとしない――ユリウス・カエサル
●為政者たるものは憎まれることはあっても、軽蔑されることだけはあってはならない。(塩野七生)
●自分に当てはめられない基準を他人に当てはめるべきではない
――ノーム・チョムスキー
●さまざまな知識人、文化人、政党やメディアは一般の人々よりも右よりな立場を取る――ノーム・チョムスキー
●考えろ、考えろ、考えろ!――ジョン・マクレーン

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暮れになると、ただでさえ面白くないテレビの番組が、明らかに手抜きだらけの特集番組ばかりになって、とくに面白くなくなる。

だからテレビなど極力つけないようにしているのだが、それでも夕食時になると家人はレコード大賞などを見てそれなりに盛り上がっている。演歌の氷川きよしのときだけはチャンネルを変えたけどね。裏でやっている番組がまた愚にもつかないような代物ばかりで気分が悪くなった。
まあ、そんなクズ番組のことをいちいちあげつらっていても仕方がないのだが、レコ大のあとになんとなく流れで見てしまったのがテレビ東京の「ソロモン流」とかいう番組だった。

この番組は、テレビ東京の宣伝文句によると、「さまざまなジャンルで強烈なこだわりを持ち、輝きを放つ、今最も注目される旬の人物の仕事や生活に密着。そして、その個性的なライフスタイルや人生哲学をドキュメンタリーしていきます」というのが趣旨らしい。
番組では彼らを「賢人」と呼んで紹介している。
もうこれだけでどうでもええわい、という気分になるのだが、それでも何となく見続けてしまった。

30日の番組に登場したのは料理研究家の奥薗壽子、パティシエの鎧塚俊彦、女優の工藤夕貴、作詞家の阿木燿子、デザイナーの芦田多恵の5人だった。
私が見てしまったのは、川島なお美と婚約して話題になっている鎧塚という男にちょっと興味があったからだった。今、スイーツ関係の調べ物をしているもので。

しかし、なんじゃろ。「賢人」というのは。
賢人と呼ぶからには、われわれは彼らから何かを学ばなければならないのだろう。
最初に紹介された料理研究家は、土鍋にこだわりを持つ「賢人」が、噴きこぼれしにくい鍋をメーカーと共同開発し、大手スーパーがさらにタイアップして大いに売り出したという話。最後に、「賢人」がお勧めする担々麺風鍋料理は、まあ美味そうだった。しかし、これは一口料理メモみたいなものだろう。わざわざ「賢人」にひれ伏して教えを請うほどのものか。

次いで登場したのが鎧塚俊彦。東京ミッドタウンに新しい店を出し、連日若い女性が列をなして彼の手になるスイーツを食べにくるという。
たしかに国際菓子コンクールで優勝したこともある、彼が作るデセールは優雅で美味そうだ。しかし、これとて彼に密着したカメラは、食材と新しいメニューにこだわる姿を追うばかり。この作り方は街の名物ラーメン屋の親父が麺とスープの素材にこだわる姿と少しも変わらない。違うのは情熱の対象がラーメンかスイーツかということだけだ。
われわれ愚民は、ここから何を学べというのか。
オープンキッチン風の彼の店で、カウンターに並ぶ客たちの卑しそうな顔は、何かを学ぶなどとは無縁の表情をしていた。
東京ミッドタウンという高級テナントに店を出すことは、鎧塚俊彦にとってはステータスになるのかもしれないが、おそらくバカ高いテナント料を毎月支払っていくのは容易なことではないだろう。もちろんこれは番組では一言も触れないことだが、オープンキッチン風の店にしたことで、馬鹿な客は鎧塚がちょっとでも席を外し、替わりにスタッフが作って出すと怒り出すのだという。これでは店を開けている限り、小便をすることもできないということだ。
さらに鎧塚は、あの川島なお美と結婚するという。べつに川島などには興味はないが、セレブ気取りの愚かさをぷんぷん臭わせたあの女が、糞のようなワインの蘊蓄をならべながら飯を食うのに毎日つきあわなければならないことを思うと、鎧塚という男が「賢人」どころか可哀想な下僕にしか思えなくなってくる。気の毒なことだ。

次に登場した工藤夕貴編では、富士山麓に1500坪の「豪邸」をたて、無農薬・無肥料の野菜を自給自足しながら生活している様子を映し出す。だだっ広いだけで人間の温もりのかけらも感じさせないような家に住む「賢人」は、その家も自分でデザインし、大工と一緒になって建てたのだという。おかげで建築費を節約することができたというが、その規模といい、誰もがたやすく真似できることではない。だからこそ賢人とよぶのかもしれないが、それにしては浮世離れしすぎているというものだ。愚かなる大衆の一人としては、「お好きにどうぞ」という他ない。

そしてお次は阿木燿子だ。番組では阿木の創作活動に欠かすことができないという、どこだかにある別荘を紹介していた。竹林に囲まれたその別荘は、夫の宇崎竜童と一緒に建てたもので、二人で選んだ家具や、阿木がこだわるインテリアなどを紹介していく。きわめつけは、すべてキッチンにあてたという2階の紹介で、何十畳だかあるフロアが見事な台所になっている。もちろんシンクを始め台所用品は特注品。これならそざかしお料理しやすいでしょう。
で、阿木が作った料理というのが、冷蔵庫に残っていたうどんとそばとパスタをミックスして冷製にした麺料理。これにチコリとサーモンやトリ肉などを合わせたオードブル風の皿などを組み合わせた6品ほどがテーブルに並ぶ。
宇崎竜童と向き合って食事をする様子が映し出され、宇崎が「美味そうでしょ」「俺たち、いつもこんなものを食べてるとおもうでしょ。それが食べてるんだよ」とおどけてみせる。なんとも貧乏くさい賢人ぶりである。

要するに、工藤にしろ阿木にしろ、富の偏在によって好き勝手なことができるということを露骨に誇示することにより、貧乏にだけはなるものじゃないというのが、この番組の狙いだったのか。
もうこの辺になると馬鹿馬鹿しくなってきて、5人目の芦田多恵は見る気もしなかった。

とにかく、この手の番組はどこからかほじくりだすようにしてある種の人間を「賢人」だとか「達人」だとか「匠」だとかいって祭り上げる。そうして、これみよがしに並の人間とはこんなにも違うのだと見せつける。
見ている方としては、「だからどうなんだよ」という気分になるしかない。

テレビに登場する賢人だの達人だの匠だのは、たしかに金儲けの才能はあるかもしれない。けれども、彼らの多くは儲けるだけで社会に還元することがない人間たちだ。半分でもいい、テレビで持ち上げる人間たちが、なんらかの社会還元を行っているならば、今の世の中はもう少しまともになっているのではないか。
愚かで貧しい下層の人間からは、そんなふうにしか見えない番組が多すぎる。
貧乏人には真似できまいと、ルサンチマンを煽ってみることに何の意味があるのだろうか。結局は新自由主義社会のゆがんだ姿を見せつけられて、不愉快になるこの暮れなのであった。
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関連タグ : テレビ, ソロモン流,

このところ、どうも外出して人と会うと、ぐったり疲れてしまう。
仕事で人と会うときもそうなのだが、気の置けない友人と話したときでさえ、家に帰ると疲労感ばかり残る。
そして翌日は全身がだるく、一日何もしたくない。できれば横になっていたいと思う。
私が通っている医者は、それは年取ってきてアタマも消化不良を起こしやすくなっているからだという。

若い頃ならば夜遅くに食事をしても、その内容が揚げ物だったりしても平気でたいらげていたものだが、今はそんなことをすると確実に胃がもたれてしまう。
アタマも同じで、人と会うという緊張がもたらされると、少しの時間でも疲れてしまうらしい。
「うつ」だと余計に疲れやすいのだろうか。その点は医者ははっきり言わなかったけれど。

2週間ほど前に、小学校時代からの友人に会った。
親友、とよべる間柄の男だが、7年ぶりくらいで再会し、笑って飲んで数時間すごしたのだが、この後がいけなかった。
仕事をしたときの疲れなど比べものにならないほどの疲労感と気鬱の大波がやってきた。心身の不調が一週間以上も続いた。
彼と話したことはといえば、お決まりの小学校、中学校時代の話で、笑い話にしかならないような話題ばかりだった。しかし私にとってはどうも、今さら昔の話を思い出して語るというのが負担なのだ。心の奥底に沈殿していたものが、いきなりかき回されてぐしゃぐしゃになるような感じがする。正直なところ、そういうことを感じるようになっていたから意識的に7年前から、なんとなく昔の友人とは会わないようにしてきたのだ。

医者にも通っているのだし、もう大丈夫かなと思ったのがいけなかった。
再会を喜んでくれた友人は、年が明けたらまた会おうぜといってくれたのだが、さてどうしたものか。

昨日は、このところいちばんお世話になっている会社の忘年会があった。
朝からなんとなくヤバイかな、と思っていたのだが、とにかく出席した。
もちろん会そのものは、なごやかで楽しいものだったが、やはり途中からだんだん辛くなってきた。それでも会がお開きになる間際までいて、帰ることにした。

ようやく帰って、家の中に入るなり、どっと疲労感に襲われた。
そして今日。やはり朝から気分が悪く全身がだるい。何をする気にもなれない。
家人は大掃除に精を出しているのだが、私ひとりは起きたり横になったりを繰り返している。まるで粗大ゴミだ。

2007年も今日を入れて3日しか残っていない。
どうにも大晦日だとか新年を迎えると行った気分にはなれないのだが、時間だけはお構いなしに過ぎていく。
この数年は自分にとっても家族にとってもヘヴィーな年が続いていたが、今年も劣らずきつかった。それでも来年は少しはよくなってくれるだろうかと、淡い期待を抱くことは許されるだろうか。

ほんとうは、今年見た映画のまとめをしてみようと思ったのだが、そんなこんなでとても書ける状態ではなく、こんな愚痴になってしまった。お許し願いたい。

関連タグ : うつ病,

クリスマスも終わって、世の中のムードはすでに正月に向かっている。
昨日は東京のオフィス街を歩いたが、ビルの入り口にはもう注連縄と門松が飾られていた。

しかし、世の中がクリスマスだと騒ごうと、正月だと盛り上がろうと、私の中では年々それらを意識する気持ちが薄れていっている。
年中行事のひとつとして、クリスマスにはローストチキンを焼きプレゼントを娘に与えるが、ケーキに立てたロウソクの火を吹き消したところで、気分は一向に盛り上がらないのである。
正月まで一週間を切って、カミサンは近くの農家に伸し餅を注文し、新聞のチラシを見てはおせちをどうするかと心配しているが、私のなかではすでにどうでもいい部類のことになっている。

気持ちが盛り上がらない、鬱々としているのはこの5、6年のことであり、一時はテレビを見ることも、新聞を読むこともできなくなった。テレビから流れる音はただの騒音だったし、活字は意味をなさない記号のように見え、目の中に突き刺さってきた。
さらに、仕事をしようとすると不安に動悸が激しくなり、何も手につかなくなった。
パソコンのスイッチを入れ、明るくなったディスプレイを一日見つめているだけの日が続いた。

むろん、そんなことをしていて楽しいはずがない。
こんなに怠けていて、収入はどうなるんだという心配が常に私を追い詰めた。
それでもどうすることもできない自分が許せず、なぜ、自分のような人間が生きているのだろうと思った。自分などは生まれてくるべきではなかった、死んでしまった方がいいと考え続けるようになった。
朝、目が覚めると今日も生きていることを恨んだ。体は鉛のように重く、歩くことさえ辛かった。
こんな自分が生きていていいはずがない。早く死んでしまいたい。そう考える毎日が続いた。

それが5年前のことである。

死にたい自分をどうすることもできない私は、ひそかに命の電話にダイヤルしてみた。しかし命の電話は何度かけてもつながらなかった。
9年続けて自殺者が3万人を超えている。つまり1日に100人ちかくが何らかの方法で自殺しているのだ。私ごときが電話をかけたところで、命の電話はこのときすでにパンクしそうな状態だったのだろう。

次いで電話をかけたのは、精神保健福祉センターだった。

そこでは精神科の診療もしているということを確かめて、私は予約をとった。
数日後、はじめて受診をした私に、医者は典型的なうつ病だと告げた。
自分の精神的な状態をはじめて話し、それがうつ病だと言われたとき、私はなぜか泣けてきた。
病気と認められ、薬を処方されたところで自分を取り巻く状況は少しも変わらない。しかし他人に話すことで少しは救われた気持ちになれたのだと思う。この後、はじめて家族に自分がうつ病だということを告げた。

それ以来、毎日薬を飲むことと定期的に医者を訪ねることが日常に組み込まれた。
おかげで状態は一時ほど悪くはない。
まだ、午前中は調子が悪いけれど、騙し騙し仕事もできるようになった。
こうして、自分を客観的に見て、文章を書けるようにもなった。
テレビはうるさいと思うことが多いが、活字は積極的に読めるようになった。

なぜ自分がうつ病になったのか、思い当たる個人的な理由はいくつもある。それはここでは書くまい。
しかし自分が「うつ」になってみて、はじめて見えてきたことがある。
それは、自分だけではなく、どうやら世の中全体が「うつ」を病んでいるらしいことである。
あちこちのブログを読んでいても、今年はクリスマスだというのに気分が盛り上がらなかったとか、正月らしくない気持ちのまま何となく新年が始まってしまったといった記述を見ることが多い。みんな、なんとなく鬱々とした気分を抱えているように思える。

あなたは、今年のクリスマスを楽しめましたか? もうすぐやってくる新年にわくわくしますか?

現代は「うつの時代」だとマスコミはいっているけれど、この世の中を覆っている、いわく言い難い不自由さというか窮屈感はどこからきているのだろう。
なんだか生きづらい。
誰もが心のどこかで時代の閉塞感を感じているのではないだろうか。
毎年、自殺者は交通事故死者の3倍を上回り、餓死者は平成17年で77人もいたという。2週間に3人の割合で餓死しているということだ。しかも、餓死者の数は、95年以降急激に増えているのだという。94年までは20人程度だったのが、95年に61人となり、2005年までに867人が餓死しているという厚労省の統計がある。

つまり、ほぼ時期を同じくして自殺者も餓死者も急増しているというわけだ。
これは異常な事態ではないのか?
鬱々とした気分のままにそんなことを考えているときに行きあたったのが「新自由主義」という言葉だ。

市場原理に基づき、福祉などの社会保障を切り捨てるこの考え方は、何事もアメリカに追従する自民党政権(中曽根政権あたりから)によって導入され、小泉純一郎によって日本全国に影響をおよぼすまでになった。結果、自己責任という看板を掲げた格差社会(貧乏なのはお前が悪いからだ)と規制緩和による地方の疲弊、中小・零細企業の破綻がもたらされた。

ということは、いま現在多くの人が感じている(もちろん私もふくめて)閉塞感、生きづらさの原因は、新自由主義にあるのではないか。
私がうつ病になった原因まで新自由主義に求めようとは思わない。
けれども、社会がここまでギスギスしたものになった原因は、あきらかに新自由主義にあると思う。

これからはノンポリだなどとはいっていられない。誰もが政治に向き合わなければならない時期が来ている。
私はそのなかで、これからは新自由主義とその信奉者たちを糾弾していこうと思う。

関連タグ : うつ病, 自殺, 新自由主義,

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