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テレビ

ここでは、「テレビ」 に関する記事を紹介しています。
◎心にとめおく言葉
●人は、自分が見たいと思うものしか見ようとしない――ユリウス・カエサル
●為政者たるものは憎まれることはあっても、軽蔑されることだけはあってはならない。(塩野七生)
●自分に当てはめられない基準を他人に当てはめるべきではない
――ノーム・チョムスキー
●さまざまな知識人、文化人、政党やメディアは一般の人々よりも右よりな立場を取る――ノーム・チョムスキー
●考えろ、考えろ、考えろ!――ジョン・マクレーン

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ネットの産経ニュースで「みのもんた 何が変わってしまった?」という記事が出ていた。
要するに、テレビをつけると毎日のようにみのもんたが登場している。彼の話術にかかると、つまらない問題も重大問題のように思えてくる。時事問題でも絶妙の合いの手を入れて、見ている側をうなずかせてしまう。
まるで魔術のような語り口だというのだ。

そして、記者(ライター?)は思い出す。
そういえば、みのといえば昔、プロ野球ニュースの「好プレー、珍プレー」で大いに楽しませてくれた。彼の話術で、単なる落球や転倒が一編のコントに生まれ変わる。その巧みさには舌を巻いた。

ところが、最近のみのは不二家問題で暴言を吐いたり、コメントを拒んだ相手に対して「映っちゃってるよ、もう」と笑ってコメントして訴えられたりするようになった。何かが変わってしまったようだ、と疑問を投げかけている。

しかし、傲慢で無神経なみのもんたは昔から変わってはいないのだ。
だいたいにしてから私はあの「好プレー、珍プレー」なる番組が大嫌いだった。見ていて不愉快だった。
作家の山口瞳も生前、苦々しく思っていたらしく、「人が一生懸命にやっているプレーを笑いものにするのはどうか」と書いていた。
私は小膝を打って同意したものである。

そうなのだ。
みのもんたの本質は、人が一生懸命にやっていることをネタにして高いところから(いわゆる上から目線? ケッ!)茶々を入れ、笑いものにする。それを売り物にしてきたところにあるのだ。そして、自分がそうやって人を傷つける可能性が高いことをしていながら自覚するところがなく、むしろその手法を拡大させて今日まできてしまったのだ。反省することなく、金儲けの手段にしてきたのだ。
なにひとつ変わってなどいない。変わったとすれば、面の皮がますます厚くなり、神経が太くなって他人のことを思いやることが絶望的なまでにできなくなっていることだ。

しかし、そのみのもんたをテレビ局も大衆も受け入れている。受け入れて面白がっている。
みのが吐き出す暴言を、世論であるかのように思い込んでいる。
変わったとすれば世の中の大衆と呼ばれる人々の感覚が鈍り、いっそう扇動されやすくなっている点だろう。言葉の中身を吟味する前に、雰囲気だけで判断してしまう。その傾向が強くなってきたことだろう。みのをはじめとするポピュリストたちにとって、これほど生きやすい世の中はないだろう。橋下徹は、この世の中の流れを利用したに過ぎない。

テレビを見て、みのもんたがおかしいと言う前に、鏡を見て自分はおかしいのではないかと、産経の記者は書くべきなのである。
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関連タグ : みのもんた, ポピュリスト,

正月三賀日も、例年のごとくあっという間に過ぎていった。
やはり正月らしい気分はどんどん希薄になっていき、テレビだけが、このときばかりと着物姿になった芸人たちや女子アナであふれかえって虚しいバカ騒ぎを演じている。
とは言っても、私はほとんどテレビは見なかった。見ないけれども、テレビが毎年芸もなくやっていることに変わりはないから、虚しいバカ騒ぎというのである。

そのなかで、題材に惹かれてスイッチを入れた番組がある。
3日18時半から、およそ4時間半にわたって放送した「新春歴史ミステリー古代ローマ1000年史」という番組だ。
塩野七生の『ローマ人の物語』を下敷きに制作したものだという。
ただし、司会進行がみのもんたであることと、TBSが放送するということだけで、半ば以上は諦めた気持ちにはなっていた。

言うまでもなく、みのもんたとTBSといえば、問題発言の多い劣悪番組「朝ズバッ!」の組み合わせ。これにローマ1000年の歴史を語らせようという発想からして気持ちが萎える。
塩野七生も国から勲章までもらった著作だというのに、よりによってこんな者どもに制作を許すことはなかっただろうに。

思った通り、番組は開始早々、アリタリア航空やローマ観光局、それにブルガリだかのブランドメーカーの宣伝臭ぷんぷんのタイアップコーナーが続き、合間にみのもんたが顔を出してコメントするという構成だった。
その、みのの台詞が笑わせる。
「ローマ帝国の歴史を見ると、現代日本の状況と非常によく似ていることがわかる。ローマの歴史を学ぶことによって、今の日本が抱える問題解決のヒントになるのではないか」

言葉だけを見ればその通りだろうさ。
だけど、この台詞がみのの本心で語られているはずがない。新自由主義の庇護の下、大金持ちになったこの男が、本気で日本が抱える問題など考えているわけがないじゃないか。
案の定、みのは、さして必要もないのにイタリアまで飛び、ワインとパスタを食らって「最高だね!」などとほざくのだ。

つくづく、人間というのはいくら懐が豊かでも心が卑しいと、そのいやらしさが顔に出るものだなと、みのを見て思った。あれはどう見ても、高利貸しの因業爺か、人の足元を見て値踏みする不動産屋のオヤジの顔つきだ。

これにバラエティでは人気があるらしい安住という安っぽいアナウンサーがついて、まさしくバラエティとして番組は進められていく。
ローマといえば何を連想するかと、いつとったのか定かでないアンケート結果を出してきて、その1位はやっぱり「ローマの休日」ときたもんだ。なんだろうね、このあたりでもう嫌気がさしてきた。画面では映画に登場するローマの遺跡と、その現在の様子が映し出されている。
有名な「真実の口」が、古代のマンホールの蓋だったらしいなどと解説が入る。

現代の日本の問題を解くヒントを探すどころか、合コンでも役立たないような雑学ばかり。
みのと、番組スタッフの志の低さが透けて見える。

『ローマ人の物語』が語る、重要なテーマは「よき統治とは何か」であったはずだ。
なぜ、ローマ帝国は1000年もの間、栄えることができたのか。その間には政治的な混乱や金融危機のような問題も起きている。富める者と貧しい者との格差が広がった時期もある。こうした問題を、時の統治者たちはいかにして切り抜けたのか。そこに焦点を当てていかなければテーマの本質が見えてこない。

イギリスBBCが作ったドラマを拝借したドラマ部分は、それなりに迫力があった。
しかし『ローマ人の物語』でもうひとつ重要なポイントは、この著作が非キリスト教者の視点から描かれたものであるということだ。キリスト教的な感性を持つ欧米人には見えなかったものが、塩野七生の歴史観にはある。それならば、TBSはBBSのビデオを拝借するといった手抜きをすることなく、自前でドラマを再現すべきだっただろう。

こんな志の低い番組に4時間もつきあうのはご免だ。ハンニバルとスキピオが闘った「ザマの会戦」までで私はスイッチを切った。
せめてNHKが作っていたら、もう少しつきあえたかもしれないのに。
ますます民放が垂れ流す番組が嫌いになった。

2011年には地デジに切り替わるというが、くだらない番組を見るために、誰がテレビを買い換えるかよ。
今の日本では、政治だけでなくテレビ局の再編も必要なのではないか。再編してもあまり期待できないことも両者に共通しているのだが。

関連タグ : みのもんた, ローマ帝国, テレビ,

暮れになると、ただでさえ面白くないテレビの番組が、明らかに手抜きだらけの特集番組ばかりになって、とくに面白くなくなる。

だからテレビなど極力つけないようにしているのだが、それでも夕食時になると家人はレコード大賞などを見てそれなりに盛り上がっている。演歌の氷川きよしのときだけはチャンネルを変えたけどね。裏でやっている番組がまた愚にもつかないような代物ばかりで気分が悪くなった。
まあ、そんなクズ番組のことをいちいちあげつらっていても仕方がないのだが、レコ大のあとになんとなく流れで見てしまったのがテレビ東京の「ソロモン流」とかいう番組だった。

この番組は、テレビ東京の宣伝文句によると、「さまざまなジャンルで強烈なこだわりを持ち、輝きを放つ、今最も注目される旬の人物の仕事や生活に密着。そして、その個性的なライフスタイルや人生哲学をドキュメンタリーしていきます」というのが趣旨らしい。
番組では彼らを「賢人」と呼んで紹介している。
もうこれだけでどうでもええわい、という気分になるのだが、それでも何となく見続けてしまった。

30日の番組に登場したのは料理研究家の奥薗壽子、パティシエの鎧塚俊彦、女優の工藤夕貴、作詞家の阿木燿子、デザイナーの芦田多恵の5人だった。
私が見てしまったのは、川島なお美と婚約して話題になっている鎧塚という男にちょっと興味があったからだった。今、スイーツ関係の調べ物をしているもので。

しかし、なんじゃろ。「賢人」というのは。
賢人と呼ぶからには、われわれは彼らから何かを学ばなければならないのだろう。
最初に紹介された料理研究家は、土鍋にこだわりを持つ「賢人」が、噴きこぼれしにくい鍋をメーカーと共同開発し、大手スーパーがさらにタイアップして大いに売り出したという話。最後に、「賢人」がお勧めする担々麺風鍋料理は、まあ美味そうだった。しかし、これは一口料理メモみたいなものだろう。わざわざ「賢人」にひれ伏して教えを請うほどのものか。

次いで登場したのが鎧塚俊彦。東京ミッドタウンに新しい店を出し、連日若い女性が列をなして彼の手になるスイーツを食べにくるという。
たしかに国際菓子コンクールで優勝したこともある、彼が作るデセールは優雅で美味そうだ。しかし、これとて彼に密着したカメラは、食材と新しいメニューにこだわる姿を追うばかり。この作り方は街の名物ラーメン屋の親父が麺とスープの素材にこだわる姿と少しも変わらない。違うのは情熱の対象がラーメンかスイーツかということだけだ。
われわれ愚民は、ここから何を学べというのか。
オープンキッチン風の彼の店で、カウンターに並ぶ客たちの卑しそうな顔は、何かを学ぶなどとは無縁の表情をしていた。
東京ミッドタウンという高級テナントに店を出すことは、鎧塚俊彦にとってはステータスになるのかもしれないが、おそらくバカ高いテナント料を毎月支払っていくのは容易なことではないだろう。もちろんこれは番組では一言も触れないことだが、オープンキッチン風の店にしたことで、馬鹿な客は鎧塚がちょっとでも席を外し、替わりにスタッフが作って出すと怒り出すのだという。これでは店を開けている限り、小便をすることもできないということだ。
さらに鎧塚は、あの川島なお美と結婚するという。べつに川島などには興味はないが、セレブ気取りの愚かさをぷんぷん臭わせたあの女が、糞のようなワインの蘊蓄をならべながら飯を食うのに毎日つきあわなければならないことを思うと、鎧塚という男が「賢人」どころか可哀想な下僕にしか思えなくなってくる。気の毒なことだ。

次に登場した工藤夕貴編では、富士山麓に1500坪の「豪邸」をたて、無農薬・無肥料の野菜を自給自足しながら生活している様子を映し出す。だだっ広いだけで人間の温もりのかけらも感じさせないような家に住む「賢人」は、その家も自分でデザインし、大工と一緒になって建てたのだという。おかげで建築費を節約することができたというが、その規模といい、誰もがたやすく真似できることではない。だからこそ賢人とよぶのかもしれないが、それにしては浮世離れしすぎているというものだ。愚かなる大衆の一人としては、「お好きにどうぞ」という他ない。

そしてお次は阿木燿子だ。番組では阿木の創作活動に欠かすことができないという、どこだかにある別荘を紹介していた。竹林に囲まれたその別荘は、夫の宇崎竜童と一緒に建てたもので、二人で選んだ家具や、阿木がこだわるインテリアなどを紹介していく。きわめつけは、すべてキッチンにあてたという2階の紹介で、何十畳だかあるフロアが見事な台所になっている。もちろんシンクを始め台所用品は特注品。これならそざかしお料理しやすいでしょう。
で、阿木が作った料理というのが、冷蔵庫に残っていたうどんとそばとパスタをミックスして冷製にした麺料理。これにチコリとサーモンやトリ肉などを合わせたオードブル風の皿などを組み合わせた6品ほどがテーブルに並ぶ。
宇崎竜童と向き合って食事をする様子が映し出され、宇崎が「美味そうでしょ」「俺たち、いつもこんなものを食べてるとおもうでしょ。それが食べてるんだよ」とおどけてみせる。なんとも貧乏くさい賢人ぶりである。

要するに、工藤にしろ阿木にしろ、富の偏在によって好き勝手なことができるということを露骨に誇示することにより、貧乏にだけはなるものじゃないというのが、この番組の狙いだったのか。
もうこの辺になると馬鹿馬鹿しくなってきて、5人目の芦田多恵は見る気もしなかった。

とにかく、この手の番組はどこからかほじくりだすようにしてある種の人間を「賢人」だとか「達人」だとか「匠」だとかいって祭り上げる。そうして、これみよがしに並の人間とはこんなにも違うのだと見せつける。
見ている方としては、「だからどうなんだよ」という気分になるしかない。

テレビに登場する賢人だの達人だの匠だのは、たしかに金儲けの才能はあるかもしれない。けれども、彼らの多くは儲けるだけで社会に還元することがない人間たちだ。半分でもいい、テレビで持ち上げる人間たちが、なんらかの社会還元を行っているならば、今の世の中はもう少しまともになっているのではないか。
愚かで貧しい下層の人間からは、そんなふうにしか見えない番組が多すぎる。
貧乏人には真似できまいと、ルサンチマンを煽ってみることに何の意味があるのだろうか。結局は新自由主義社会のゆがんだ姿を見せつけられて、不愉快になるこの暮れなのであった。

関連タグ : テレビ, ソロモン流,

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