上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。

生活

ここでは、「生活」 に関する記事を紹介しています。
◎心にとめおく言葉
●人は、自分が見たいと思うものしか見ようとしない――ユリウス・カエサル
●為政者たるものは憎まれることはあっても、軽蔑されることだけはあってはならない。(塩野七生)
●自分に当てはめられない基準を他人に当てはめるべきではない
――ノーム・チョムスキー
●さまざまな知識人、文化人、政党やメディアは一般の人々よりも右よりな立場を取る――ノーム・チョムスキー
●考えろ、考えろ、考えろ!――ジョン・マクレーン

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
サマータイムの導入が検討されたのは小泉内閣当時のことだったかと思う。
春から夏にかけて、日照時間が長くなるのを利用し、時計を1時間早く戻す。その方が一日を有効に利用できるという考えが基本だった。
しかし、大方の国民から見れば時計の針を1時間戻し、今までより早起きするようにしたところで寝不足になるばかりだろうという冷めた見方が大勢を占めていたように思う。
早起きして早くから仕事を始め、終業時間も早くする。
しかし、実際にはずる賢い経営者が多いこの世の中だ、始業時間だけ早めて就業時間は変えない企業が続出したのではないだろうか。サマータイム手当などとわずかばかりの額を給料に上乗せするだけで、実質的には強制的に長時間労働を課すのに役立てられるばかりだったのではないだろうか。

以上は私のつまらない妄想だが、実際、時計の針を戻したところで人間の体は容易に時計通りに生活のリズムを順応させることはできないものである。
それはもう、すでに私が実証済みだから間違いない。

それというのも、わが家には4匹のがいて、このたちが夜明けが日毎に早まるこの時期になると有無を言わさずサマータイムを導入してくれるからだ。

幸か不幸か私はたちに好かれており、家族の中でも序列はいちばん高いところに置いてもらっているらしい。
そのため、家の中であればどこであろうとたちは私のそばから離れようとしない。
ソファに座ってテレビを見ていれば足下に4匹が私を取り囲むようにして寝そべり、そのうちあわよくば私に抱かれようと隙をうかがっている。私が油断しようものならひょいと飛び乗って私の腿をベッドにゆっくりと眠りに入る。なるべくそんなことはしたくはないのだが、難儀なことに私はちょくちょくに対して隙を見せてしまうので、私はソファに座るときはかなりの確率でを抱くことになる。

風呂に入れば脱衣場に入ってきて、私の脱いだ服を敷いて横たわる。犬が入ってこないようにドアを固く閉めて風呂に入ると、犬は風呂場のドアの前で私が出るのを待っている。

そして夜ともなれば、犬たちは当然のように私のそばに寝たがるのだが、さすがに寝室にまで犬4匹を入れる気にはなれないので、わが家では寝室のドアの前に犬用の寝床を広げ、そこで眠らせるようにしている。なに、寝床と言っても古くなった夏掛けなどを折りたたんで敷いてやるだけだ。夏になって暑くなれば、布団に変えてアルミの板などを置いてやる。犬たちはそれぞれに気に入った場所で一晩を過ごしている。

さて、それで困っているのはこの3月から4月にかけて夜明けが早まってくるにつれ、犬たちが目覚める時間も早くなってくるらしく、目が覚めると私にも起きろと鼻を鳴らしたり寝室のドアをカリカリひっかいたりするのである。
冬の間は、犬たちも平気で7時近くまで熟睡していたものが、最近では犬の立てる音に目を覚まして時計を見ると5時半だったりする。
犬たちにしてみれば明るくなったのだから散歩に出かけ、早いところエサにありつきたいということなのだろう。

しかし、犬に誘われるまま5時半に起き出していてはこちらの身が持たないし、第一それでは飼い主としての示しがつかない。
そこで私は犬が鼻を鳴らしても素知らぬふりでもう一度眠りに入る。
だが、犬も容易に諦めるものではなく、何とかして私に起きてもらいたいと騒ぎ続ける。
そして私もついには根負けして、体調が良ければ6時頃に起き出して散歩に出ることにする。
体調が悪く、起きるのが辛いときでも6時半頃には起きている。

つまり、この季節になると私は犬によって強制的にサマータイムを導入せざるを得ない状況になるのである。

これで小泉純一郎が狙ったように、私の一日が効率よく時間を使うことができれば文句を言う必要はない。
しかし実際には、無理矢理起こされると睡眠を邪魔された不快感が残り、寝不足のボーッとした状態が続く。
犬を散歩させ、望み通りにエサを与え、ついでに鳥のケージを掃除したりエサやりをしていると、いつの間にか1時間半から2時間近くが過ぎている。
それから朝食をとるのだが、その頃になると私は大概気分が悪いというか、とにかく調子が悪くなってきて起きていられなくなる。我慢できなくはないが、我慢をするとその不調を一日引きずることになる。だから、私は気分が悪くなってくると家族に告げてもう一度寝床に入ることにしている。そうして1時間から2時間眠るのだ。

ほんとうはこんなことはしたくない。
せっかく起きたのにもう一度床に入るのは、自分としては許し難い行為で、時間を無駄にしているとしか思えない。
けれども起きていれば気分が悪いためにもっと時間を無駄にすることになる。
私は頭を掻きむしり、チクショー何でこうなるんだと呻きながら、2度目の睡眠に入る。

もし犬たちが騒がず、わが家のサマータイムが導入されていなければ、私は邪魔されることなく睡眠を続け、適当な時間に気持ちいい目覚めを得ることができるのだろうか。
それは何とも言えない。
犬を飼いはじめてもう何年にもなるが、そしてここ数年の間、私は毎日簡単な日記をつけているのだが、この時期の日記を読み返すとこの時期はずっと犬に起こされて気分が悪い、調子が悪いと行った記述ばかりが続いているのだ。

ことほどさようにサマータイムなど導入したって人間の体はそう単純についていけるものではないのだ。
一日を有効に活用するだって?
冗談じゃない。
それより安心して眠れる生活の方がずっと大切だよ。
そう思いつつ、私は今日も犬たちを恨めしい目で見つめるのである。

スポンサーサイト

関連タグ : サマータイム, , 睡眠,

最近、自分の人生は間違っていたのじゃないのか、と考えることがある。

他人の人生と比較してみてもつまらないが、少なくとも非正規雇用の最右翼に位置するフリーランスの一人として新自由主義の荒波に洗われつつ、社会には何のセーフティネットもなく、むしろ妙な偏見さえあるという現実の中で生きてくると、否応なく「ほんとうはもっとましな生き方を選ぶ余地があったのではないか」と思うことになる。
ことに自分の子どもがこれから世の中に出ようとする時に、「悪いことは言わないからフリーランスにだけはなるな」と忠告せざるを得ないときの苦い気持ちは、誰になんと訴えたらいいものかと思うほどに辛い。

しかし、もしもう一度人生をやり直せるとして、どこまで遡り、どう修正を加えれば、間違えずにすんだのかというと、分からなくなってしまう。
結局、どこをどうやり直してみても、私は今の私にしかなりようがなかったのではないか。

私は、運命論など信じないし、神の存在もドーキンスのいう「妄想」に近いものだと思っている。
それでも人間には抗いようのない「必然の力」が働いているとしか思えない。

この世に神は存在しないが、宇宙を創った見えざる力は働いている。
それを神と呼ぶのならば神はあると言おう。
ただし、その神は意志などもたない物質あるいは現象なのだから、人の祈りは通じない。祈りもまた妄想の類である。
神はただそこにあり、宇宙を運行させている。
地上にあるわれわれ人間は、たまさか起きる偶然を神の意志として捉えたがるが、所詮は確率論の問題でしかない。グスタフ・ユングのいう「共時性」も、私にはただの偶然の一致か、ある出来事に起因する化学反応的な連鎖の結果としか思えない。
夢に見たコガネムシの話をしているまさにその時に、部屋の中にコガネムシが飛び込んできたとして、それになんの意味があるというのだ? それよりは貧困がテロを生む温床になっているという連鎖現象の方が何倍も大きな問題だし、雇用創設をして職を失った人々への対策を講じなければ日本社会が荒廃していくことを心配する方がずっと意味があると思う。

それでも、人が生きる道には何かの必然が働いているように思えてならない。
私に限っていえば、薄給のくせに毎日飲んだくれて帰ってくる父親と、外国航路の船長をしていた父親の家庭に育ち、それゆえに一種の奉公人に等しいサラリーマンを軽蔑している母親が何の奇跡か一緒になった結果、この世に生まれてきた。いくら母親が世の中を知らなかったからとはいっても、飲んだくれの安月給取りの男との結婚生活がうまくいくはずもなく、私はごくごく幼い頃から日常的に絶えることのない夫婦喧嘩と母親から吹き込まれる「サラリーマンほど下らないものはない。男なら腕一本で世界に出て活躍するようでなければならない」という教えのなかで育てられてきた。

もうこれだけで、私の人生は決まったようなものである。
私は、高校・大学の頃から就職をしてサラリーマンになることに興味を持たなかったし、酔いつぶれてふらふらになっている父親、人の生き方についてなどまともに考えることもなく会社に通っている父親を見て軽蔑の念を強めるばかりだった。

母親は、今思えば典型的なファザー・コンプレックスで私を自分の父親のようにさせたい一心だった。その思いは狂信的であり、息子が何に向いているのか適正を見極めようとするよりは自分の理想とする医者か弁護士という陳腐な枠組みに当てはめようとするばかりだった。
当然のことながら、私は父親を軽蔑する一方で、母親にも猛烈に反発した。しかし母親による洗脳は強烈で、父親のようにはなってはならない、大人になったら自分の才能と腕一本で世の中を乗り切っていける人間にならねばならないと自然に思い込むようになっていた。

「そうよ、やろうと思えばなんだってできるんだから。下らないサラリーマンなんかになっちゃ駄目よ」

母親は、毎日満員電車に揺られてカイシャに通うサラリーマン生活を、いくら働いても決まった額の(母親からすれば不当に安い)給料しかもらえず一生をカイシャのために捧げなければならないサラリーマン人生を、惨めでつまらないものだとして蔑んだ。私は父親を反面教師にしながら、母親の言葉を刷り込まれていった。

幸か不幸か、いや不幸なことに、私は小学生の頃から国語が得意で、中学・高校の頃には小説や映画に興味を持つようになっていた。大きな賞を取ることはなかったが、作文が何かのコンクールで佳作に選ばれたり、図工で描いた絵が県内の銅賞だか銀賞をとったことがあった。すると母親は言った。
「あんたは芸術家に向いてる。だからそっちの方で頑張りなさい」
単なる親ばかである。
しかし母親は本気で、とは言ってもそのために息子を特別な学校に入れたり家庭教師をつけたりするという方法は取らず、自分がいいと思う映画を見せたり音楽を聴かせたりすることで感受性を育てようとしたようだ。父親は相変わらず仕事が終わっても酒を飲んでくるのでいつも帰りが遅い。母親と一人息子である私は、食事が終わると決まってレコードをかけ、音楽鑑賞をするのが日課のようになっていた。

今、母親のことを思うと、芸術方面に刺激を与えてくれたことを感謝はするが、彼女は明らかに私を自分の思うがままにコントロールしようとしていたのであり、新自由主義的な考え方を吹き込んで息子を世の中の勝ち組にしようとしていたのだと思う。
教育熱心な母親、とくに駄目な亭主を持つ一人息子の母親はみな新自由主義者で、人に使われるよりは使う立場になれ、貧乏は悪いことで金持ちになることが幸せになるには欠かせないという価値観を子どもに植えつける。

残念ながら、私は母親が期待するほどの才能を持ち合わせておらず、成長するにしたがって母親の価値観に疑問と反発を感じるようになっていった。
その結果、今の私がある。

フリーランスが辛いといったってね」
今、知り合いの編集者は私の愚痴を聞くとこういう。
「自分で考えてみてくださいよ。会社勤めが務まったと思います? 思わないでしょう」
私はうなずかざるを得ない。
「ね。務まらないんですよ。だからフリーランスになった。いいじゃないですか、それで。仕方ないですよ」

たしかに、私はどう考えてみてもサラリーマンはできなかったと思う。集団で作業をするのが苦手だし、組織に管理されることに我慢がならない。さらには組織というものを信用していない。

私は、若者には無限の可能性があるという言い方には反対である。それは私の母親が「やろうと思えばなんでもできる」と言っていたのと同じで、裏を返せばその考え方は限りなく自己責任論に近づいていくからだ。
人間には大きな可能性が秘められている。けれども、人にはおのずと限定された生き方しかできないと思っておいた方がいい。もちろん、多くの中には天才的なひらめきを発揮して成功する人もいるし、信じられないほどの幸運に恵まれて幸せをつかむ人もいる。
でも、それはあくまでマイノリティであり、宝くじを買う人は多いのにあたる人はごくごく限られているのと同じである。

さて、こうして考えてみると、自分の人生は間違っていたのではないかと思うことがある私は、仮にタイムマシンがあって人生を遡ることができたとして満足できる方向に軌道修正できるのかという最初の問題にも答えが出てきそうだ。
つまり、人の一生はたとえやり直しが利くとして、それほど劇的に変えることはできないのではないか、というのが今のところ私の答えだ。もし変えるのならば、まず親を選び直すことから始めなければむずかしいだろう。
たしかに、転機はいくつかあった。
しかし組織で生きることを嫌い、他人と共同歩調を取ることができないのが私の基本である以上、それを裏切らずに選び取ってきた選択の結果が「今」なのだ。

フリーランスとして厳しい人生を選んでしまった私には、後戻りすることは難しい。
ならば、これから少しでもよりよく、自分で納得できる幸せをつかむためにはどうしたらいいのか。

そのためにはフリーランスに対して常に厳しい条件を突きつける社会を変えていくしかないのではないか。フリーランスライターというと(得体の知れない仕事をしている怪しい人間)という偏見をなくしていくことしかないのではないか。
その上で収入が増えれば言うことなしだが、カネのことは言うまい。
カネの話はもっとも苦手だし、第一、金儲けすることが人生の幸せとはかぎらないことを証明するために、私はこの仕事を選んだといえるのだから。

■追記
今、安月給で毎日飲んだくれていた父親は、結局定年と同時にアルコールのために脳に機能障害を得て施設に入って余生を送っている。私のことは分かるけれど、せっかく会いに行っても、ものの1時間もしないうちに私と会ったことを忘れてしまう。
そんな父親でも、会社に勤め続けたおかげで企業年金と厚生年金でかなりまとまった額の年金が入ってくる。フリーランスの私などよりもずっと安定した収入を得て、心配のない暮らしを送っているのである。
そんな現実を見るにつけ、人生はやっぱり金を稼げる者、つまりは会社という組織に所属してカイシャ人間として人生を全うできる人間が、とりあえずは最低限の幸福を得られるのかもしれない、などと思ったりもする。不本意ではあるけれど。


関連タグ : フリーランス, 人生, 選択, 幸せ,

暦が変わって9月になり、とうに立秋も過ぎているのだが、今日の関東地方はまだ蒸し暑く、数日来の不安定な天候が続いていて一時的に雨が降ったりした。
まだまだを引きずっている。

それでも今年のは去年の猛暑を思えばまだ凌ぎやすかったような気もする。
去年の今ごろは、ブログなどやろうとも思っていなかった頃で、今ごろはひたすら暑さに毒づき、鬱々とした気分の中でとぐろを巻いていた。岐阜県多治見市で40.9度という最高温度の記録を塗り替える猛暑の日があり、東京でも8月の平均温度が29.5度だったという記録が残っている。
この暑さの中、私が産婆役をして取り上げた子犬のうち、里子に出した1匹が命を落としたのがいまだに忘れられない。
7月の終わりのある晩、里親さんから電話がかかってきた。
彼は「すみません、○○が。。。亡くなってしまいました」
そう言って電話の向こうで泣き崩れていた。

里子に出した後も何度か会わせてもらい、家にも訪ねてきてもらった可愛い子だった。
その子がこの世にいなくなってしまったことを思うと、残念でならなかった。
しかし、電話の向こうでひたすら私に謝っている里親さんを、私は責めることができなかった。
いちばん悲しんでいるのは、なんといっても彼だったから。
「あまり悲しまないで。○○ちゃんも、あなたに可愛がられてきたのだから、きっと幸せでしたよ」
そう言ってやるのが精一杯だった。

あれから一年以上が過ぎ、今年のは去年ほど凶暴ではなかったかと思うが、8月の終わりに義母が亡くなった。
87歳という年を思えば寿命かと思うが、やはり私にはどうしてもとを結びつけようとする気持ちがある。
旧盆の迎え火をしたとき、覚束ない足取りで玄関口に出てきた義母は、階段にぺしゃんと腰を下ろし、素焼きの皿で燃える火に向かってじっと手を合わせていた。
「いったい何を拝んでいるんだろう」
「誰が帰ってくるのかわかってるのかね」
私たち夫婦は、その姿を見て笑った。義母は頭が頼りなくなってきており、13年前に亡くなった連れ合いのことが分からなくなっていた。仏壇に飾ってある写真を見て、不思議そうに「この人は誰?」と聞いてきた。
そんな義母が迎える霊は誰のものだったのだろう。
今となっては確かめる術もない。

9月になって、長いもあと少しだと思えるようになった。
暑さに弱い、わが家のワンコたちも一安心だ。
反対に、の間も元気いっぱいだったインコたちが、今度は寒さ対策を必要とする。
元気いっぱいに飛び回るピーチの陽気な口笛というか歌声が家中に響き、うるさいと思いながらも心が癒される。
ピーチ


動物というやつは、ほんとうに私にとってありがたい存在だ。
これからどれだけ彼らと一緒に過ごすことができるだろう。
夏を終えた私は誕生日を迎え、また一つ年を重ねることになる。
夏と。夏を通り過ぎていくことはその分、に近づいていくことでもある。

厳しい暑さは続いても、確実に日が暮れるのが早まり、夜が長くなっている。
まだ、夏とも秋とも言えないこの数日。
なんだか感傷的になって、私は動物たちの顔を眺めて過ごしている。

関連タグ : , , ワンコ, インコ, 動物,

人の誕生は、喜びとともに訪れるが、は、驚きとともに突然訪れる。
なんだかトルストイみたいな書き出しをしてしまったが、私も自分の後について考えておかなければと思った。
後といっても、霊の世界じゃないよ。
私はエハラじゃないんだから。

7年間同居していた義母が、22日夜、突然亡くなった。

その日の夕方まで元気だった。朝からデイサービスに出かけて昼食を食べ、入浴もして帰ってきて、自室に戻ってからはテレビをつけて「水戸黄門」を見ていた。
それが、3時間後の7時半、カミサンが夕食を知らせに部屋に入っていくと、ベッドの上で息絶えていた。

慌てて救急に連絡し、言われた通り心臓マッサージを続けながら隊員が到着するのを待った。
病院に運ばれていって蘇生術が続けられたが、すでに心肺停止の状態で、夜9時半に亡が確認された。

あまりに突然の、あっけない
87歳という年を考えれば、いつきてもおかしくはないと思っていても、いざ本当にそのときがきてしまうと、少なからず動転してしまう。

義母は、自室でひとり息を引き取ったため、手続き上は変扱いとなり、警察が来て検屍をした後、私たち夫婦は事情聴取を受けた。義母には財産がどれくらいあったのか。生命保険などには入っていたのか。土地・家屋の名義は誰のものになっているのか。
世の中には金目当てで親をも殺す手合いがいるものだから、私たちも一応、その線の疑いがないかを調べられたのだ。

義母には借金もなかったが、財産もまったくなかった。
生活は年金ですべて賄っており、そのわずかな収入は、日々の暮らしのためにほとんど消えてしまっていた。
ここ数年は体も頭も衰えてきたことから、娘であるカミサンが金の管理をしていたが、食費の他に介護保険や健康保険料を支払い、デイサービスの費用を支払い、ベッドなど介護用品のレンタル料を支払い、下の世話をするためのオムツや尿取りパットなど日用介護用品を購入すると、後にはほとんど金は残らなかった。

借金こそないのは幸いだったが、蓄えもまったくなかったので、葬儀は私たちがやらねばならなくなった。
義母が亡くなったその夜、葬儀社の人間がさっそく家に訪れて、夜通しかかって葬儀の見積もりを始めた。

私たちは互助会に入っていたために、30万円近くをすでに支払い終わっていた。おかげで、遺体の搬送や棺代、霊柩車代、さらには通夜・告別式の会場費に祭壇の費用などが免除された。もしこのサービスを受けずにいたら、祭壇だけでも60万からの金が必要になる。棺が8万4000円、霊柩車が7万3500円、病院の霊安室から自宅まで遺体を運ぶだけでも2万6000円の金がかかるということだった。
互助会に入っていたおかげでこれらはすべてタダ。

やれやれと思ったのもつかの間、葬儀社の男は次に、サービスにふくまれないもろもろの費用について説明を始めた。

施主が祭壇に供える生花は欠かせないでしょう。
これが1対で4万2000円。
個人は花がお好きだったそうですが、遺影のまわりを花で飾りましょう。これは30万から20万、10万とありますが、どれにしましょうか。
ご親戚やお友達からの生花は1基3万1500円からありますが、どうしますか。
お寺さんは私どもがご紹介します。ただし、住職へのお支払いは直接なさってください。
お車代として通夜・告別式にそれぞれ5000円ほど。お食事をご一緒しないという場合には食事代を包んでください。
戒名についてはお寺さんによっては「お気持ちで包んで下さい」というところがありますが、失礼があってはいけないのでお幾らをお包みすればいいのか聞くようにしてください。
葬儀社の男は手慣れた口調で次々と必要項目を挙げて、その金額を提示していった。

「で、戒名をつけてもらうには、だいたい相場はどれくらいなんですか」
私は恐れをなして聞いてみた。
「そうですね、お寺さんにもよるし、戒名にもよりますが、高いところでは70万から80万。でも、だいたいの相場は40万というところです」
「はあ、戒名だけで40万ですか」

男はそれからも必要なものを挙げていった。
通夜には何人くらい来るでしょう。それにあわせて食事を用意しなければなりません。だいたい、10人前のセットが5万、3万、2万とあって、それぞれ品数が違います。これだけでは足りないでしょうから、他におつまみのようなものもご用意した方がいいでしょう。お寿司の場合で5人前9750円からになっています。

火葬場は、公営施設なので料金は当日その場で払っていただきます。ご自宅の区域にある火葬場の場合、1万5000円ですが、少々遠くにあるため車で1時間ちかくかかります。この場合、参列者の方々もお疲れになるでしょうし、マイクロバスを借りる場合は長距離になるとその分、料金も割高になります。
区域は違いますが、葬祭場の近くにある火葬場をご利用になってはいかがでしょう。料金は6万円になりますが、車で20分ほどですからご参列の方にも負担になりません。もちろん、マイクロバスの費用も安くなりますから、総体で比較すれば1万円ほどしか違いません。

火葬場では、だいたい1時間から1時間半ほど待ち時間があります。その間にみなさんにはお菓子などを食べていただいた方がいいと思いますが、こちらはだいたい5人分で2100円となっています。
火葬が終わった後は、精進落しになりますが、お料理の方はどうしましょうか。「やすらぎ」が1人前6500円、「おもかげ」が5500円、「おもいで」が3600円、「しらぎく」が2500円となっていますが。

そんな説明を聞きながら、さて87歳の義母のためにいったい何人の人が通夜・告別式に来てくれるのか。私には見当もつかなかった。しかし、それをはっきりさせなければ、料理ひとつをとっても差し障りが出る。多すぎれば高い料理が無駄になるし、反対に足りなくなれば会葬者に失礼なことになってしまう。
これには本当に頭を悩ませた。
カミサンが自分の親戚などを勘定して、なんとか頭数を出したが、ほんとうにそれで大丈夫でしょうね、と念を押されると心許なかった。

そうやって諸々を計算すると、出てきた金額は通夜・葬儀費用だけで150万ほど。これに戒名料や住職への礼もふくめると、かるく200万を超えてしまいそうだった。

今、全国の平均的な葬儀費用はおよそ237万円といわれる。
今回の義母の場合は、ごく内々で式を執り行いたいという希望を出して総額200万になろうとしたのだ。故人の年齢や社会的立場、さらに家の考え方によって、この金額はいくらでもふくらんでいくだろう。

しかし、借金もなかったかわりに残した財産もない義母の場合。
私たち夫婦がいきなり200万の金を負担することは不可能だ。
それに、考えてみれば葬儀社の男が挙げていた諸費用のひとつひとつは普通の相場から考えてもあまりに高くないか。
たとえば遺影に飾る生花が、なんで30万とか20万もするのか。祭壇に飾る花だって、普通の花屋に頼めば数千円でアレンジしてくれるだろう。なぜ、葬儀用というだけで万単位になってしまうのか。
見積書をじっくり見直してみると、ひとつひとつのレートがとにかく高い。
儀式だから、特別なのか。
遺体につけるドライアイスが30キロで1万8700円というのは、どうなのか。
納棺式の費用が31万5000円というのはどうなのか。
遺体を乗せていた布団を焼却する「お焚上げ」が1万5750円というのはどうなのか。
坊主丸儲けとはいうけれど、戒名をつけるだけで40万からの金を支払う習慣というのは、守る必要があるのか。

もちろん、人が死んだ後にはそれなりの手続きが必要だし、死者を敬う気持ちを持つのも必要だろう。
しかし、そのために平均200万以上の金を待ったなしで払わなければならないというのは、理に適っているといえるのだろうか。

もし、亡くなった義母に確かめることができるなら、葬式はどの程度にするのか、花はどれくらい必要なのか、誰と誰を呼ぶ必要があるのか、そもそも葬式が必要なのかどうかを聞いてみたいと思った。

死者に鞭打つようなことを言うべきではないのは承知しているが、自分が死んだときはどうしてもらいたいのか、ほとんど金も残さず死んでいくのであれば、葬儀はどの程度で妥協するのか、義母にははっきりさせておく義務があったと思う。
生前、体だけは健康でと言い、血の滴るようなステーキを食べたいという元気があった義母は、自分が死ぬことなど考えることもできなかったのだろう。
しかし、本当は後に残る人間のことを少しでも思う気持ちがあるのだったら、自分の始末の仕方を伝えておくのが思いやりというものだ。年金が入るのを楽しみして、金が入ると買い物をするのが気晴らしになっていた。その気持ちは分かる。それくらいの楽しみがなければ、生きていたって何が楽しいものか。
それでも、自分が必ず死ぬ日がやってくるということは、頭のどこかに置いておくべきだったのだ。

いまさら責めたくはない。しかし私自身、義母との生活には疲れを感じていたこともある。カミサンの親ではあるけれど、生活様式もものの考え方もまったく違う人と一緒に暮らすことは、箸の上げ下げひとつを見ても気にし出せばストレスになる。認知症とはいわれなかったが、明らかに行動がおかしくなり、下の始末ができなくなってからというものは臭いにも耐えて暮らさなければならなかった。義母の入った後に風呂に入ると小便の臭いがする湯船に入らなければならなかった。さすがに風呂だけは勘弁してくれと、義母の入浴は最後にすることにし、体力が衰えてからはデイサービスで入浴を済ませるようにしてもらった。それでも近くによると排泄物の臭いが抜けない義母を、正直なところ、私は疎ましく思いはじめていた。
もう限界だ、勘弁してくれ。しばらくでもいいから施設に入れられないか。
そう思った矢先の、突然の死だった。

通夜と告別式には、思いの外大勢の人たちが集まってくれた。義母が可愛がっていた孫たちも、自分の子どもを連れて泊まりがけできてくれた。皆が、義母との別れを惜しんでいた。そのなかで、ひとりホッとした気持ちに包まれていた私は、とんでもない罰当たりだったかもしれない。

しかし、自分の人生の結着を明らかにしなかった義母を見て、私はあらためて教えてもらった。
俺が死んだときには葬式もいらないし、墓を建てる必要もない。そう娘たちには伝えておこう。
今は昔ながらの葬儀が執り行われる一方で、新しい葬儀のあり方を考える人々も多くなっている。葬送の自由を考える会やもやいの会などNPOも活動している。それらは多くが生前に手続きする必要があるようだが、私もなるべく早くそうしたものに入会しておこうと思う。

なにしろ、死は自分にとっても突然、驚きとともにやってくるだろうから。

関連タグ : , 葬儀, 費用, 葬送の自由,

あの男とだけはつきあってくれるなよ。

私はそう思い、カミサンにも娘本人にも言い伝えておいた。

けれども、娘が就職して関東の端にある自宅からの通勤が困難となり、都内に部屋を借りて独立することが決まったとき、よりにもよって娘がその男とつきあっていることが分かった。

娘は、部屋を見つけると言っては休日になると朝早くから出かけ、夜は終電ぎりぎりで帰ってくることが多かった。今日は友だちの家に泊まるからと、夜遅くなってから連絡してくることもあった。
少しでも時間ができれば、娘は家を出て行った。
はじめのうち、私は、なかなか部屋が決まらないのだと思っていた。
けれども、いつまでたっても部屋は決まらず、娘が家を空ける時間は多くなるばかりだった。
免許を取りに通っていた自動車学校も、「あの学校は波長が合わない」と言い出して行くのを止めてしまった。
もったいないとは思ったが、私は勝手にしろと言っていた。

娘は朝、暗いうちから起き出して風呂を沸かし、ひとり湯を使って早い電車で出て行く。そして友だちと会って、一緒に部屋を探す。その友だちとは娘の中学校時代からのつきあいで、娘が高校に上がるのと同時にわが家が都内から引っ越してからは、しばしば泊まりに来たこともあるグループだった。

5、6人のそのグループのなかには男友だちも数人ふくまれていた。
仲良しが娘の部屋に来て、雑魚寝をしているのはまあ仕方がないと思っていた。

けれども、その中に一人だけ、許すことができない男がいた。

その男は時間にルーズで、あるとき、皆と一緒にわが家に来るはずが一人だけ遅れ、翌朝早く来たのを娘が迎え入れていた。
朝食のとき、私がリビングに入っていくと、前日きた連中のなかに新しい顔がひとつ混じっていることに気づいた私は、カミサンに「あれは誰だ? 昨日はいなかっただろう?」と聞いた。
カミサンは「なんか、一人だけ後から来たみたいよ」と言った。
私はなんだか面白くない思いでリビングに戻って行ったが、前夜から来ていた連中が「おはようございます」と挨拶をしたなかで、その男はひとり無言でテレビを見ていた。

「なんだあいつは。泥棒ネコみたいな奴じゃないか。人の家に勝手に入ってきて、挨拶もしない」
いったい、どんな男なんだと私はカミサンに問いただした。
カミサンは言い渋ったが、私が怒り出すと仕方なく話し始めた。
その男は中学校の頃から最低の成績で、高校にはようやく入ったものの長続きせず、中退して今ではフリーターをやっているのだという。自営業をやっている親はそんな息子を叱咤するでもなく、好きにさせているともいう。

「駄目だ、そんな奴は」
私は、あの男とだけは娘とつきあわせるなと言った。

ところが、娘はまさにその男とつきあっていたのだった。
朝早くいそいそと出かけていったのはみな、その男と一緒に過ごすための方便だったと分かったとき、私はそれまで新しい部屋を借りるときの保証人になってやるという約束も、用立ててやると言っていた引っ越し費用の約束も、すべてご破算にした。

「今後はいっさい、お前の援助はしない」

私は本人にそう宣言した。

娘は黙って部屋に入っていったが、やがてようやく借りる部屋が決まり、保証人などの手続きが必要になってきたときになって、私に食ってかかってきた。

「お父さん、保証人になるって約束したじゃない。どうして、そういう意地悪をするのよ」
「あんな男とつきあっている限り、援助はしないと言ったはずだ。保証人は自分で探せ」

そう言うと、娘は泣きながら私を殴り始めた。1発、2発……。

私はしばらく打たれてやってから、娘を張り倒した。
「親をだましてあんな男とつきあって。お父さんは絶対に許さないからな」

娘は捨て台詞を残して泣きながら部屋に戻っていき、それから私と口をきこうとしなくなった。
保証人はカミサンの甥っ子に頼み込んだらしい。甥っ子から私に「僕が保証人になってもいいの?」」と連絡がきたが、私はすまないがよろしくたのむと返事した。面白くはなかったが。

引っ越しの日取りが決まり、荷造りを始めると、娘の頭にはもう新しい生活のことしかないようだった。あるとすれば、それは私に対する憎しみだったろう。

「それじゃ、失礼します」

一言だけでも挨拶していったのだから、まだましだったのだろうか。
娘は出て行った。
そしてそれきり、家には戻らなくなった。
カミサンが携帯に電話をかけても通じないことが多かった。メールを送っても返事が返ってくることは稀だった。
「元気にやっているのかどうか、それくらい言ってくれればいいのに」
カミサンも怒っていた。
私はもう、なにも言わなかった。

娘にとって、カミサンは理解者だったはずなのに、誕生日が来ても、母の日が来ても、クリスマスが来ても、正月が来ても、娘からは葉書一枚来なかった。
そうして1年がたち、2年、3年と時が過ぎていった。

成人式はあの仲良しグループと一緒に迎えると言ってきた娘に、カミサンは誂えた着物一式を持って東京まで出かけ、着付けをしてやってきた。そのときとった写真を後で見せられたが、私は何も言わなかった。実際、喜びといった感情は湧いてこなかった。
むしろ勝手なことをしておいて、晴れやかに笑っている娘のことが、さらに許せないと思った。

娘ははじめ、ある製薬メーカーに派遣社員として就職したのだった。
「人間には寄って立つ所が必要だと思う。一人でできることは、ごく限られている。できることなら、なんとか正社員になれるように頑張れよ」
私と娘がまだ口を利いていた頃、私はそう言ったのを覚えている。
それは、寄って立つ所を持たず、いまだに悪戦苦闘している親父からの、せめてものアドバイスのつもりだった。

その言葉を忘れなかったのかどうか、娘は社内で試験を受けて正社員になることができたらしい。
珍しく送られてきたメールでそのことを知ったカミサンは喜んだが、一方で、娘はいまだ寄って立つところを持たないフリーター男とつきあっているのだった。
私から見れば将来に見込みのない、頼りない男に過ぎないのだが、娘はそんな男といると安心できるのらしい。

どうせそのうち、娘もわかるようになって、あんな奴には見切りをつけるだろう。

私はそう思っているのだが、さて、現実はどうなるのかわからない。
娘が幸せならば、それでいいと思うのが親なのだろうか。
いや、そんな甘い考えで幸せになれるほど、今の社会はやさしくないぞ、とも思う。

愚かな選択をしたことに早く気がついて、別れちまえよ。

私はそう思い続けているのだが、人の気持ちを変えることは難しい。
たとえそれが自分の娘であっても。
せめてこちらの気持ちの10分の1でも、娘が汲み取ってくれればいいのだが。

気持ちを伝えること、分かり合うことの困難さを、私はこれからもしばらく味わい続けていかなければならないようだ。

関連タグ : 気持ちを伝える, 分かり合う,

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。