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社会

ここでは、「社会」 に関する記事を紹介しています。
◎心にとめおく言葉
●人は、自分が見たいと思うものしか見ようとしない――ユリウス・カエサル
●為政者たるものは憎まれることはあっても、軽蔑されることだけはあってはならない。(塩野七生)
●自分に当てはめられない基準を他人に当てはめるべきではない
――ノーム・チョムスキー
●さまざまな知識人、文化人、政党やメディアは一般の人々よりも右よりな立場を取る――ノーム・チョムスキー
●考えろ、考えろ、考えろ!――ジョン・マクレーン

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大阪市此花区で起きたパチンコ店放火事件については、触れようと思っていなかった。

しかし犯人の高見素直(41)が自首して逮捕され、犯行の動機として「仕事もカネもなく、人生に嫌気がさした。通り魔みたいに誰でもいいから人を殺したいと思った」と自供したことを知り、これは触れておかなければならないと思った。

つまり、今回の事件もまた、人生絶望した人間が見知らぬ人を巻き添えに無残な犯行を起こしたことで、記録にとどめておく必要があると思ったからだ。

ここ数年、われわれは幾度となく人生絶望した人間が犯した犯行を目にしてきた。
近くは1年前の6月、秋葉原の歩行者天国に自動車で突っ込み、通行人をナイフで殺傷した加藤智大の事件が記憶に新しい。
翌7月には東京八王子市の駅ビルで、女性2人が包丁で刺され死傷した。捕まった菅野昭一は「大きな事件を起こして両親を困らせようと思った」と話し、誰でもいいから殺そうと考えていたことが明らかになっている。
さらに10月には大阪市浪速区の個室ビデオ店で客16人が死亡した放火事件。この事件では、離婚や早期退職で人生に挫折した小川和弘が捕まっている。
昨年は3月にも茨城県土浦市で金川真大が、人生に嫌気がさし、死刑になりたいという願望から8人を殺傷した。

どの事件にも共通しているのは相手は誰でもよかったという場当たり的な犯行である点と、その動機に人生に対する深い絶望が横たわっている点である。

こうした事件を防ぐにはどうしたらいいのか。
それぞれの事件後には、警察関係者や弁護士、心理学者など、専門家たちがテレビに登場してそれぞれの意見を述べていた。
ことに、凶器としてナイフが使われた土浦の事件と秋葉原の事件以降は、アウトドア用の器具としてどこでも売られていた両刃のナイフ(ダガーナイフ)が斑馬を規制されるようになった。
大阪で起きた個室ビデオ店の事件では、迷路のようになっている店の構造が問題となり、火災に対する備えの重要性が叫ばれた。

今回の高見素直が犯したパチンコ店放火でも、昨日のニュースでは消防関係者が出て、「どんなに規模が小さい店でも、スプリンクラーの設置が必要だ」と述べていた。

しかし、これらの犯罪のいちばん重要なポイントであるはずの、犯人たちがなぜ人生に絶望したのか、という点については何も語られない。
加藤智大が事件を起こした直後は、派遣労働者たちの過酷な労働環境や、人をモノとして扱う人材派遣業者やその受け入れ会社の非人間性が非難された。

けれども、それから1年以上がたった今、また同じように人生に絶望した男が人を無差別に殺傷する事件が起きたというのに、この男の絶望については語られることがない。

われわれは、あの秋葉原事件から1年が過ぎたというだけで、派遣労働者の問題も、非人間的な労働環境の問題も解決したと思っているのだろうか。
あるいは、この社会に生きることがいかに難しく、希望さえ持てなくしているという事実から目を反らすように教え込まれてしまったのだろうか。

加藤智大の事件のとき、私は、同じようにこの社会に絶望しているし、大きな不満を抱えて生きている。もしかしたら自暴自棄になって、私自身もまた破滅的な行動に出るかもしれない。加藤と私は同じ人間だと書いた。
その思いは今も変わらない。
社会は閉塞して息苦しく、名ばかりの自由はあるけれど、経済的な苦しさや精神的な辛さに、今にも押し潰されそうになっている。
こうしてブログを今も書いていられるのは、ほんの偶然と言ってもいいのかもしれない。

今の日本社会は、一部のゆとりのある人々にとっては過不足ない社会かもしれないが、生活にゆとりが持てない人間にとっては毎日がギリギリの崖っぷちを歩いているようなもので、一度バランスを崩したら、犯罪を犯すか自殺するしか自分を解放する術がない。

一連の無差別殺人事件で、いちばん語られる必要があるのは、この社会が持っている病理であり、歪みを正していくための方法についてだ。
ナイフの販売や所持を規制したり、火災の時にも対応できる設備を作るのは、下痢をしたときに下痢止めを飲むのと同じだ。たとえ薬のおかげで下痢が止まったとしても、体内に蓄積される有毒物質をすっかりはき出さない限り、根本的な治癒は望めない。

昨日のニュースでは、過労死・過労自殺についての報道もあった。
毎年3万人以上が自殺しているなかで、過労自殺もまた増加しているという。
しかし過労死や過労自殺をしたとしても、遺族がそれを証明するためには大変な障害があるという。
まず、企業側が社員を過労死・過労自殺に追いやったことを認めたがらない。
そのうえ、過労死・過労自殺の実態を知ろうとしても、労働局が企業名の公表を拒む。企業名を公表すれば、その企業の業務に支障が出る可能性がある、というのが理由だ。

自殺者が1日に100人も出ているという、戦争よりもひどい現実にありながら、企業にしても労働局にしても、なんという後ろ向きな姿勢だろう。
国は自殺対策プロジェクトをスタートさせているが、その成果は上がるどころか、一向に自殺者の数は減らず、今行っているような手ぬるい対策では早急な効果は望めないのではないか。

自殺もまた人生に絶望した人間が、最後に選ぶ道である。

生きて行くことの苦しさから逃れる選択肢が、犯罪か自殺しかないとしたら、あまりに酷いことだとはいえないか。

景気対策として気前よく補正予算からバラマキを続けてきた麻生太郎には、日本の社会が抱えている本当の問題が見えていないし、解決する気もないだろう。
この異常な社会の上でままごとのような閣僚人事を行い、不祥事を起こしては首を挿げ替えるといったゲームのような政局に明け暮れている人間どもには、犯罪を犯した人間や自殺していった人間の心の闇は分かるまい。

人の痛みを共有できない今の日本には、私はつくづく嫌気がさしている。嫌悪しているといってもいい。
自分でももてあましてしまうほどの嫌悪感を抱きながら、一縷の望みをまだ捨てきれずにいるのは、もうすぐ政権交代が実現し、今よりは少しでもマシな社会が実現できる可能性がないわけではない、と思うからである。

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関連タグ : 人生, 絶望, 過労死, 自殺,

昨日18日、衆院本会議で臓器移植法改正4案のうち、脳死を人の死と認め、15歳未満の子どもからの臓器提供を可能にする案が可決された。これは他の3案に比べ、もっとも人の死を認定するハードルが低い案であることが論議を呼んでいる。

もちろん、人の死を安易に決めてはならないことは当然であり、「死」の判定には慎重の上にも慎重が要求されることは言うまでもない。

けれども、私としては基本的に、昨日の衆院での採決の結果は妥当だったのではないかと思っている。
これまで、臓器移植をすれば命が助かる可能性があるのに、未成年であるが故に日本で手術を受けられず、莫大な金を払ってアメリカなど海外で移植手術を受けねばならないという、我が国の医療事情には問題があると思っていた。
手術を受け付ける国にも移植を必要とする幼い患者がいるのであり、彼等にしてみれば他国の患者よりもまずは自分を、自分の子どもを助けてやってほしいと考えるのはもっともなことだ。
さらにはそうした事情から順番待ちを強いられ、ようやく移植手術が受けられると海を渡っていったものの、手後れになって助からなかったという事例がこれまでどれだけあったかと思えば、今後は日本国内でも子どものドナーから臓器の提供を受け、国内で手術できるようになることは、患者達にとって大きな希望を与えるものになったと思う。

だが、テレビの報道を見ていると、臓器移植を待つ幼い患者がいる一方で、生まれつき障害を持ち、「限りなく脳死に近い状態」で何年も生き続けている子どももいることを知った。生まれてから一度も目を開いたことはないけれど、人工呼吸器を付けて息をしているけれど、赤ん坊から小児へと体は成長し、髪の毛は伸び、爪も伸びている。医師からいくら「脳死に近い」と言われ、「場合によっては治療を中止するかもしれない」と言われたとしても、親にしてみれば眠ったままのわが子はまさに生きているのであり、目を開けないし言葉も話さないけれど、成長を続けているのである。
こうした子どもを持つ親にしてみれば、脳死を人の死と認め、子どもにも臓器移植の道を開いた今回の結果は、法律によってわが子が「生きていない」と決めつけられる恐れがあると心配をもたらすものだったに違いない。

子どもの脳死判定には医学的にも難しい問題があり、さらに医療事情がガタガタに崩壊しつつあり医師不足、病因不足が深刻になっている日本では、はたして満足な脳死判定とその後の臓器移植手術が行えるのかという心配もある。

臓器移植でしか助からない命と、脳死に近いと言われながら生きている命。それらの間で対応を迫られる医療。いくら国会で法案が可決されても、問題は大きく根深いものがある。

また、日本人の間では脳死よりも心臓死を「死」と考える精神風土があることも、臓器移植問題にとって大きな壁となっている。

私は日本人の精神風土については、これから積極的に変えていく必要があると思うし、そうしなければ助かる命がいつまでたっても助けられないことになってしまうと思っている。
だから、その考えを延長したところにある今回の法案可決には私も賛成としておきたい。

けれども、いざ脳死と判定された子どもが出ました、あなたのお子さんの臓器を他の子どもを助けるために提供してくださいとなったとき、果たして心を悩まさずに承諾できる親がいるだろうかと考えると、なんとも悩ましくなってしまう。
「だって、まだ心臓が動いてるのに」
「体だって温かい」
「息を吹き返すかもしれないじゃないか」
親だったら誰だってそう思うだろう。

しかし、私はあえてそれを患者のミーイズムと呼びたいと思う。

誰だって助かりたいし、わが子を死なせたくはないのだ。

移植手術を待ち続けている子どもやその親もそう思っているし、「限りなく脳死に近い」と言われている子どもの親も思っている。
ミーイズムは「私だけは」と我を張ることで、決していい意味では使われない言葉だが、立場を正反対にした患者とその親は、究極のミーイズムを発揮しなければ命を助けることができないのだ。だからこの場合のミーイズムを責めることは、誰にもできない。

それでも。

私はできるだけ、助けるのはより健康に人生を送る可能性が高い患者の方にするべきではないかと思うし、患者本人が生きる喜びを教授できる結果をもたらす選択がなされるべきだと考える。
毎日新聞には人口100万人あたりの年間心臓提供者数のグラフが出ているが、1位のスペインが12.5人であるのに対して、日本はわずかに0.05人と極端に少ない。この状態はなんとしても改善していく必要があるのではないか。

毎日は社説でも臓器移植法に関してはまだまだ議論がし尽くされていないと、慎重な姿勢を見せている。
それはその通りだ。
もっともっと話し合っていくべきだ。そうすることで日本人の「死」に対する考え方も変えていく必要があるだろう。
そしてもっとも重要なのは、究極のミーイズムに折り合いを付けることで、そのために話し合う時間を惜しむことがあってはならないと思うのである。

たとえば親から虐待を受けて脳死になった子どもから臓器を移植できるのかという倫理的な問題もある。

強烈なミーイズムと目を背けたくなるような問題に曝されながら、それでもわれわれはこの問題に真剣に取り組むしかない。皆で知恵を出し合い、考え続けていくしかないと思うのである。

関連タグ : 臓器移植法, 脳死,

少し前の情報になるが、19日付けの「ITpro」というネットマガジンで「本当に『いす』がなかった、キヤノン電子のオフィス」という記事が出て、一部で話題になった。

なぜ話題になったかと言えば、同社の社長である坂巻久は『椅子とパソコンをなくせば会社は伸びる!』(祥伝社)という本を書いており、その内容通りに社内から椅子を撤去することによって大きな収益改善効果を上げているとされたからだ。

なぜ、社内から椅子を撤去すれば収益改善に結びつくのか。
坂巻の著書によれば、会議室から椅子を撤去したことで会議への集中力が高まり、年間の会議時間が半減した。オフィスでも、立つことで社員同士のコミュニケーションが密になり、問題解決の精度やスピードが劇的に改善した。
さらに椅子代も不要、椅子をなくした分のスペースが節約されるなど、椅子をなくすことのメリットは計り知れない、というのである。
椅子がない職場

これだけ読めば、画期的な社長のアイデアで社内は活力にあふれているだろうといった想像がなんとなく芽生えてくる。

しかしネットの住人たちが驚き、話題にしたのは作業台の前に立って作業している社員たちの、なにか殺伐とした光景であった。
さらに驚かされたのは、廊下の一部に青く塗られたゾーンがあり、「5m3.6秒」と書いてあるところだ。

坂巻が言う。
「広い工場なので、移動に費やす時間がバカにならない。社員に歩くスピードを体得してもらうための仕掛け」
なのだそうだ。
この5mのゾーンの両端にはセンサーが設置されており、3.6秒以内でそこを通過しないと警報が鳴る仕組みになっている。
廊下

この記事を書いた記者は、こうした光景を目にしながらも、
「本当にいすのないオフィスを目の当たりにして,改めて“改革の達人”と呼ばれる酒巻社長の実行力に感銘を受けた。いすをなくすことに代表される酒巻社長のさまざまな改革により,キヤノン電子の業績は,いすをなくした2000年から2007年の8年間で,経常利益率が9.7ポイント改善した」
と評価し、
「急激な在庫調整を行った製造業各社にとって,在庫が適正水準に戻ったこれからが正念場。100年に一度の不況を乗り越えるために企業に求められているのは,「いすをなくしましょう」と言って本当になくしてしまえるような,実行力のあるリーダーなのだろう」
と結んでいる。

だが、ネットでの反応は違う。

「これなんて収容所」
「足腰の弱い奴はやってけんな」
「ほんと社畜って感じだな」
「どこの刑務所だよ」
「刑務所の方がまだましってレベル。もはや従業員はブロイラー」
「さすがキヤノン、社員の扱いは奴隷のようですね。刑務所でさえ椅子はあると思うぞ」
などと、批判的な感想が大半を占めた。

そりゃそうだ。
誰だって、こんな光景を見て、自分もそこで働いてみたいなどとは思わないだろう。さすがに休憩時間ぐらいはしゃがめるのだろうが、一日中立ちんぼで作業させられて、廊下を歩く速度まで測られる。
毎日毎日、そんなことの繰り返しをして給料がいくらなのか知らないが、人生が楽しいなどという言葉は出てきようがない。
まさにキヤノン電子というカイシャは、社員にとっては生活を維持していくために必要なところといえるだろう。

チャップリンは「モダン・タイムス」という作品で企業の効率化優先のために、従業員の人間性が犠牲になる様を描いて見せたが、今その世界が現実になっているのだ。

これはホワイトカラーにもいえることで、国家公務員一般労働組合の活動をしている人々によるブログ「すくらむ」が「このままでは仕事に殺される-過労死・過労自殺を強制する経団連会長・副会長出身企業13社」というエントリで、その実体をつまびらかにしている。

過労死は、今や「KAROSHI」として英語の辞書にも載っているというが、企業が成果主義を取り入れ、生産性と効率の向上を追求するようになった結果、従業員の間には賃金格差が生じ、さらに精神ストレスまでも強める結果になったという。

>成果主義の狙いの一つは、リストラによって人員削減がつづく環境のもとで、ホワイトカラー労働者を相互に競わせ、まえより少ない人員でもっと働かせて、人件費総額を抑制することにあった。その結果、最近は、ホワイトカラーのあいだでも、仕事が増えて給与が下がるという事態が生じている。<

>第一生命経済研究所主任研究員の松田茂樹氏によると、ホワイトカラーの男性正社員の労働時間は、2001年の1日平均 9.5時間から2005年の10.2時間に増え、10時間以上働く人も4割から6割に急増した。このように労働時間は増えたにもかかわらず、平均年収は 2001年の645万円から、2005年の635万円へと10万円下がった。時間当たり賃金は、2001年を100とすると、2005年は91で、1割近く減少したことになる。これらのことは結局、ホワイトカラーが絞り込まれていっそう搾り取られるようになったことを意味している。<

株主の立場から企業の社会的責任(CSR)を求めて活動している「NPO法人株主オンブズマン」は、日本経団連の会長・副会長出身企業16社の労務コンプライアンスの現状を把握するために所轄の労働局に対して時間外・休日労働協定(36協定)に関する情報公開請求を行った。
「36協定」というのは労働基準法第36条に基づく、時間外・休日労働協定のことで、使用者は労働者の過半数を代表する労働組合ないし従業員組織と協定を結び、労働基準監督署に届け出れば、労基法の定めを超えて時間外および休日に何時間労働をさせても罰せられないものとしている。
力関係から見れば、これはずいぶん使用者側に都合のいい協定のように思える。
そして実際、厚労省は「36協定」における労働時間の延長の限度を、1週15時間、2週27時間、4週43時間、1カ月45時間、2カ月81時間、3カ月120時間、1年360時間としているものの、法的拘束力はなく、この限度を遙かに超える時間外・休日労働を可能にする「特別延長時間」を設けている企業が大多数だという。
これ、橋下徹流に言えば企業がやっていることはぼったくりバーと同じ、ということである。

そしてこの情報開示の結果、明らかになったのは、日本経団連の会長・副会長企業の36協定は、三菱商事・全日空空輸・第一生命の3社を除いてすべて過労死ラインを超える36協定を結んでいることだった。

会長企業のキヤノンの場合、最大延長時間は月90時間、年1080時間。
同社の別の事業所では最大で月80時間、年700時間働かせることができる協定を結んでいるが、その場合の1日の延長可能な時間は15時間。
ということは、1日9時間の拘束時間を15時間延長し、24時間働かせることもできるわけだ。
同じように、パナソニックでも1ヶ月に延長できる最大時間は100時間だが、1日に延長できる最大時間は13時間45分。
日立製作所も一日延長できる最大時間が13時間となっている。

これでは過労死や過労自殺が起きるのも当たり前だ。

「すくらむ」では最後に次のように書いている。

経団連はCSRに対する取り組みのなかで、ILOが唱える「ディーセント・ワーク」(まともな働き方、人間らしい労働)の実現を言葉としては受け入れている。しかし、実際には会長・副会長企業の大多数は、付表の36協定の概要に明らかなように、過労死・過労自殺を招く長時間残業の削減にはきわめて消極的である。<

末端の工場では従業員たちが歩く速度まで規制され、立ったまま働かされ、管理職は設定された目標を実行するために身を削って1日中働き続ける。
もはや労働に喜びや達成の喜びをみつけるのは夢物語の世界となっている。
職場は人間交流の場であり、人間成長の場である、というのも幻想に等しい。

あるのは効率と成果。いかに無駄をなくして収益を増やすか。

大不況に見舞われているときに、仕事にありつくことさえ難しくなっている現在だが、その仕事の現場が人間性のかけらもない、ただの「工場」になってしまっているのが恐ろしい。
このままでは企業だけが肥大化し、幸福を得るのはトップだけということになってしまう。
国民生活を豊かなものにするためには、政治を正すだけでなく、企業にもその社会的責任を重く考えさせるようにしていかなければならない。

関連タグ : 経団連, キヤノン, 過労死,

私は好きである。
しかし好きにもいろいろあって、普段はいい奴なのに、酔うと手に負えなくなる類の人間ガいる。
さいわい、私は酔うと陽気になる質らしく、おしゃべりになって翌日喉が痛くなるということがある。

しかし私の友人の中には乱の気があって、飲んでいるといつの間にか目つきが変わり、こちらの言うことにいちいち絡んでくるようになる男ガいる。素面の時は冗談ばかり言って人を笑わせていた男が、ある一瞬から不機嫌になり、古いつきあいである私に対してさえ、気に入らないことがあると難癖をつけてくる。
いつぞやなどはもう一人の友人と3人で飲んでいて、近頃読んだ本のことなどを話していたのだが、気がつくと一人言葉少なになっていた例の男が怒り出した。
「なんだお前ら、さっきから本のことばっかり話しやがって」
その男は読書とは縁遠い生活をしていることを、私たちは忘れて話にふけっていたのだった。
「俺はな、そういう話がいちばん気に入らねえんだよ」
男は私の胸ぐらをつかんですごんで見せ、今にも殴りかからんとする勢いだった。
「おいおい、よせよ」
もう一人が慌てて止めに入ると、今度はうるせえといってコップの水を浴びせかけた。
あわや乱闘。
私も殴られることを覚悟した。
だが、そこで店のマスターのストップが入り、私たち3人は出入り禁止を宣告されて追い出されてしまった。

古い友人、私の小学校時代の同級生ではあるが、この男は乱なのである。
そして乱ほど迷惑で人騒がせなものもない。
とはアルコールという薬物を含んだ飲み物であり、人の神経に強い作用を及ぼしてしまう恐ろしい飲み物であることを私たちは忘れてはならないと思う。
日本では麻薬は厳しく禁止されているが、依存性が高く、ときには人格を破壊することもある酒に対しては非常にゆるやかな制限が設けられているに過ぎない。

そのせいもあろうか、酔っぱらって失敗をしでかす人間に対しても、この社会は概して甘い対応を取ることが多いように思う。

六本木で泥酔し、全裸になって深夜に大声でわめいたスマップの草なぎ剛は、公然猥褻罪で警視庁赤坂署に逮捕された。草なぎは逮捕されるとき、警察官に体を押さえられると暴れて抵抗し、「裸になって何が悪い」と叫んだという。

絶大な人気を誇る人気グループの一員で、なかでもひときわ善良な若者のイメージがある草なぎ剛が逮捕されたということで、世間は大騒ぎとなり、にわかに同情論が沸き起こった。
ファンだけでなく、日本中の大多数が草なぎを擁護し、アイドルとして日頃大きなプレッシャーにさらされ続けてきた草なぎが、全裸になって叫んだことを「よくやった」、なかには草なぎの行為から「勇気をもらいました」とブログで書く者まで現れた。

しかし、酒乱の幼友達を持ち、自分の父親がアルコール依存症のために脳機能障害を負ってしまっている私からすれば、これほど奇異に映る現象もないと言いたくなる。

私は草なぎ剛というタレントが特別好きでも嫌いでもない。
それでも彼が出ている番組はしばしば見ているし、その番組の中で草なぎがかなりの酒好きであり、アルコールに対して抑えが効かない類の男であることは見ている。
私は、草なぎ剛はかなりの確率でアルコール依存症だと思っている。
アルコール依存症の人間は少しでも体にアルコールが入ると飲み続けずにいられなくなり、泥酔するまで飲み続ける。泥酔すればそこにあらわれるのはアルコールに支配された人間性で、草なぎの場合は限りなく酒乱に近い形でそれが現れた。

つまり、日頃どんなプレッシャーにさらされていようと、34歳にもなった一人前の男が自分を失うほど酒を飲み、あまつさえ全裸になって大声で叫ぶなどは、どの点を見ても同情することはできないどころか理解してやることさえ難しいのである。

私は幼なじみではあるが、酒乱と分かったその友人とはきっぱりと酒を飲むつきあいを止めた。会って話をすることはあるが、「飲みに行こう」と彼が言い出すと、私は帰るといって妥協しない。
おかげで彼とはずいぶん疎遠になってしまったが、仕方がない。
私は酒乱になってしまった男とは友人ではいられないのだ。

しかし日本の世間はどこまでも酒で失敗した男には甘く、今日の報道で草なぎはあの逮捕劇から一月ほどしかたたない28日から再びテレビ活動を再開するのだそうだ。
またあのさわやかな「剛くん」の笑顔が見られると、みんな大歓迎といったところか。

なんとも脳天気なことである。

その一方で、私が捨て置きできないと考えているのは北野誠である。
北野は、自分がパーソナリティを務めているラジオ番組で「あること」を言ってしまった。
何を言ったのか、最近になって少しずつ真相らしきものがあちこちで語られるようになってきたが、正式な発表はいまだにない。
誰もほんとうのところは分からないまま、テレビやラジオという公共の場を仕事の舞台にしていた50歳の男が、突然、問答無用に無期限謹慎を言い渡されて姿を消してしまった。
噂では、ある芸能プロダクションの社長が暴力団組織と関わりがあることを公衆の場で話したことが問題になったというが、一人の社会人がひとつの失言がもとで仕事を取り上げられ、社会から抹殺されるようなことがあっていいものだろうか。

しかし、アル中で酒乱の気がある草なぎ剛にはやさしい態度を見せた日本の社会は、北野に対しては何をしたのか真相も知らないのに、いたって冷たい反応しか示さない。
むしろ、2ちゃんねるなどでは「北野のような生意気な奴は追放されて当然」といった書き込みがなされているのである。

草なぎ剛北野誠
芸能界の力関係で言えば比較にならないほど草なぎの方が圧倒的に強者だろう。人気度においても収入においても北野誠など、足下にも及ばないかもしれない。
だからなのか、草なぎは公然猥褻罪という歴とした犯罪を犯しながらも励まされ、暖かく迎えられようとしている。一方の北野誠は涙の謝罪会見をしたものの事の真相を語ることなく消えていき、そのことを誰も問題にしようともしない。

草なぎが男性器を公然とさらし大声で喚いたのは紛れもなく犯罪で、だからテレビはこぞってこれを報道したが、北野が失言をして闇に葬られたのは犯罪ではないからテレビはこれをスルーし、北野と共に番組に出ていた関係者までが口を閉ざし、そもそも北野誠という存在などなかったかのように振る舞っている。
どう考えても、これはおかしいのではないか。
公平で公正を建前とする公共放送は、このままでいいのか。

日本は言論・表現の自由が認められた国ではなかったのか。
この国は、いつからタブーに触れてはならず、それに触れたものは葬られるのが当たり前になってしまったのか。

私はいまや慄然として、この世の中を見ているのである。

関連タグ : 草なぎ剛, 北野誠, , タブー,

これから仕事がやりづらくなるな。
私も取材して原稿を書くのを仕事にしている人間の一人である。
昨日、奈良地裁で判決が出た医師による調書漏洩事件で、刑法の秘密漏示罪に問われた精神科医が有罪となり、医師が取材に協力して調書を提供したのは「プライバシーに対する配慮を欠いた軽率な行為」とされたのである。
もの書き業は、これからやりづらくなるなと思わないわけにはいかなかった。

この事件では、草薙厚子というライターが奈良で起きた母子3人放火殺人事件を取り上げ、ノンフィクション『僕はパパを殺すことに決めた』(講談社)を書くために、事件を起こした少年の精神鑑定をした医師に取材し、その過程で資料として供述調書や鑑定書を閲覧した。
問題は、この草薙というライターが、非公開であるはずのこれらの貴重な資料をそのまま原稿に引用し、本にしてしまったことに起因する。
起訴された医師がこれらの重要書類を見せたことの裏には、少なくともライターとの間に信頼関係が成り立っていたはずである。つまり、本来は一般に公開され得ない文書を見せるからには、それを使って原稿を書く場合、出典を隠し、文章を変えて書くのがライターとして信頼に応える唯一といっても言い方法なのだ。
しかし草薙厚子は調書をそのまま文中に引用して原稿を完成させ、本にしてしまった。
本来ならば、原稿を書いた事典で取材者協力者にも読んでもらい、OKが出た事典ではじめて出版するというのが道理である。

たしかに、いくら信頼関係があったからといって、マスコミ関係者に精神鑑定書や供述調書を見せていいものか、訴えられた医師の行動には疑問が残る。
しかし私には、いちばん責められるべきは取材協力者に対して誠意のない仕事をしてしまったライターの草薙厚子にあるように思えてならない。そしてさらにいえば、内容チェックをしたはずの編集者と売らんかなの魂胆丸出しのタイトルをつけて本を出した講談社にも問題があったと思う。
ノンフィクションというのは取材が命である。
取材のなかには人には語りたくないことを語ってもらわなければならない場合もある。そういう相手に対して、取材者は誠意を尽くして説得し、なんとか貴重な証言を手に入れる。そこにあるのは最後には全責任を自分が取るという取材者側の覚悟と誠意でなければならない。
それがなければ、だれが他人に話などしてやるものか。
『僕はパパを殺すことに決めた』を書いた草薙厚子に、その誠意と覚悟はあったか。
講談社にはそれがあったのか。

今回出た判決に対し、講談社側は控訴したようだが、彼らが行った行為はジャーナリズムに関わる人々すべての首を絞める結果をもたらしたと言えるだろう。

昨日はもうひとつ、大きな報道があった。
朝日新聞阪神支局襲撃事件など、一連の朝日新聞社を狙った「赤報隊」の犯行をめぐり、実行犯を名乗る男の手記を4回に渡って掲載した『週刊新潮』(新潮社)が、誤報を認めて謝罪したのである。この記事については掲載当初からウソであるという声が上がっていたが、新潮社は掲載を続けた。しかしここにきて、当の手記を書いた男性がウソを認め、新潮社側もこれを認めないわけにはいかなくなった形だ。
世間を震撼させた事件の犯人による手記という特ダネで、『週刊新潮』の売り上げがどれだけ伸びたかは知らない。
しかし、その特ダネ記事を作る上でもっとも重視されなければならないはずの事実確認(裏を取る、と言われる)が、信じられないことに行われていなかった。『週刊新潮』の早川清編集長は、産経新聞のインタビューに答えて「真実であると証明できないが、否定もできなかったから手記を掲載した」と述べている。
ここでもまた取材記事の命と言ってもいい事実の信憑性の確認が疎かにされ、販売優先で本が作られてしまった。
この件でテレビの取材を受けた佐野眞一は「裏を取らないとは信じられない。これはジャーナリズムの自殺行為だ」と断じた。

講談社、新潮社という日本を代表する大出版社が相次いで起こした今回の出来事は、日本のマスコミジャーナリズムが確実に劣化していることを示しているように思う。

つい最近では日本テレビの「真相報道バンキシャ!」がでっちあげの証言を採用して岐阜県の裏金問題を報じて問題になった。ここでも、取材対象者の確認と事実関係の裏づけが抜け落ち、視聴率優先で放送してしまったことが批判されている。
テレビの場合はこの手の安易な番組作りがたびたび問題になっているが、いっこうになくならないのはなぜなのか。

こうした慎重さと誠意を欠く仕事を続けていく限り、日本のマスコミジャーナリズムはどんどん自分で自分の首を絞めていくことになる。
そしてそのしわ寄せが、末端で仕事をしている私のようなしがないもの書きにも押し寄せ、ジワジワと首を締め付け、生活の糧を奪っていくのである。

いまや劣化が著しいとしかいいようがない日本のマスコミだが、私はそれでもかろうじて自ら属する世界を「マスゴミ」などと汚らしい言葉では呼ばないようにしている。
しかし、このような問題が今後も重なっていくならば、私のささやかな自負心も持ちこたえようがなくなってしまうと言わざるを得ない。

関連タグ : ジャーナリズム, マスコミ, 草薙厚子,

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