◎心にとめおく言葉
●人は、自分が見たいと思うものしか見ようとしない――ユリウス・カエサル
●為政者たるものは憎まれることはあっても、軽蔑されることだけはあってはならない。(塩野七生)
●自分に当てはめられない基準を他人に当てはめるべきではない
●さまざまな知識人、文化人、政党やメディアは一般の人々よりも右よりな立場を取る――ノーム・チョムスキー
●人は、自分が見たいと思うものしか見ようとしない――ユリウス・カエサル
●為政者たるものは憎まれることはあっても、軽蔑されることだけはあってはならない。(塩野七生)
●自分に当てはめられない基準を他人に当てはめるべきではない
●さまざまな知識人、文化人、政党やメディアは一般の人々よりも右よりな立場を取る――ノーム・チョムスキー
最近、思わず笑ってしまったテレビでの会話。
「吉永小百合って、いつまでたってもきれいだよな」
「あれ、CGだろ」
たしかに吉永小百合という人はいつまでも変わらない。本物はどうなのか知らないが、テレビで見る限りではシワらしいシワも見あたらない。年を取れば誰しも皮フがたるみ、重力に負けてあちこちが垂れ下がってくるものだが、テレビで見る限り、吉永小百合の肌はいつもピカピカのツルツルだ。
実はCM業界では知られていることだが、吉永小百合はとっくに引退しており、今画面に映っているのは過去の映像を元に作られたCGなのだ。
誰かがそう言ったなら、100人中30〜40人は信じてしまうのではなかろうか。
それほどに、吉永小百合は今も若い。

まことにコンピュータ技術の進歩には目を見張るものがある。
映像に携わる人間にとっては、まさに魔法の杖のようなものだろう。
この世にないものをあるかに見せて人を疑わせない技術は、北京オリンピックの開会式にも利用され、巨人の足跡を描いた花火が実は実写ではなかったことがニュースになったのは昨日のことである。中国政府はCGを使うことで自らの威信を守って見せた。世界中の人々は、そのCGによって見事にペテンにかけられ、さる有名なブロガーなども感動のエントリを上げてしまったほどである。
しかし、ミーハーながら長年映画を見続けてきた私にとっては、今やCGは親の仇のようなものと言っていい。
CGによって見事な映像が作られ、あり得ないような画面が繰り広げられるほど、私の興はどんどん冷めていく。
どうせCGだろ。
よくできたコンピュータと、よくできたコンピュータ・ソフトが気の遠くなるような計算をして作り上げたとしても、それは巨大な演算結果が目の前で踊っているに過ぎない。数値で作られた画像からは手作りの工作に見られるような、ぎこちないけれどため息が出るほど「よくできている」質感もなければ、工夫に工夫を凝らし苦労に苦労を重ねて作ったであろう作り手の情熱も伝わってこない。
CGが作る画面にそれらが欠けているというのではない。それらはたしかにあるのだろうが、かつて私が映画を見て感じたときめきをもたらしたものとは明らかに質が違うものなのだ。
昔はよかったな。

それはVFXが登場する前の特撮映画であり、SFXと呼ばれる手法が使われていた時代までのことである。
レイ・ハリーハウゼンのストップモーション・アニメは、精巧に作られた人形を少しずつ動かして撮影しているのだと分かっていても、私は画面に引きつけられたし、東宝の怪獣映画が子ども心にもミニチュアと着ぐるみで作られていると分かっても、私は手に汗握り夢中で映画を繰り返し見た。
近くでいえば「スターウォーズ」の模型の精巧さに唸ったし、「ウルフェン」や「ハウリング」で見た変身のリアルさに「すげぇ!」と声を上げて友だちと語り合わずにいられない興奮を覚えた。クローネンバーグの「ヴィデオドローム」や「スキャナーズ」のおぞましい場面には声を失い、どうやって撮影したのだろうと好奇心をかき立てられた。
こうした映画は映画史の中では必ずしも名作といわれるものではないものがふくまれているけれども、製作者の熱意と工夫はダイレクトに伝わってきたし、映画の登場人物たちの気持ち――恐怖や痛みまで――を感じ取ることができた。
しかし映画にVFXが使われるようになると、画面の作りは精巧になったが、特殊効果は誰が携わっても同じようにしか見えないし、なまじ本物らしく見えるがゆえにかえって嘘くさく感じられるようになった。そこでは登場人物たちがいかに苦闘しようとも、見ている私には痛みも恐怖も伝わってこない。
どうせCGだろ。
吉永小百合がいくら若く見えて容色に衰えが見えなくても、CG処理してるのだと思えば不思議でも何でもなくなるように、CGを使っている映画からは驚きや好奇心といったものが薄れていく。どんなに精巧でリアルに見えても、一度ばれてしまった嘘でメッキが剥げてしまうように、CGを使っているというだけで興が冷めていく。
やっぱり映画は昔の方がよかったな。
あらゆるジャンルの映画にCGが使われるようになり、アニメーションもCGが当たり前になってしまった今、私はそう思わずにいられない。
映画は科学と技術の進歩とともに発展してきたが、コンピュータが使われるようになってから、どうも道の選択を誤ってしまったような気がしてならない。
このままではどんどん映画がつまらなくなる。
リアルを追求するがためにかえってリアルから遠のこうとしている。
映画はこれでいいのか。
一映画ファンとして大きな危機感を抱きつつ、私は映画館に足を運び続けている。
「吉永小百合って、いつまでたってもきれいだよな」
「あれ、CGだろ」
たしかに吉永小百合という人はいつまでも変わらない。本物はどうなのか知らないが、テレビで見る限りではシワらしいシワも見あたらない。年を取れば誰しも皮フがたるみ、重力に負けてあちこちが垂れ下がってくるものだが、テレビで見る限り、吉永小百合の肌はいつもピカピカのツルツルだ。
実はCM業界では知られていることだが、吉永小百合はとっくに引退しており、今画面に映っているのは過去の映像を元に作られたCGなのだ。
誰かがそう言ったなら、100人中30〜40人は信じてしまうのではなかろうか。
それほどに、吉永小百合は今も若い。

まことにコンピュータ技術の進歩には目を見張るものがある。
映像に携わる人間にとっては、まさに魔法の杖のようなものだろう。
この世にないものをあるかに見せて人を疑わせない技術は、北京オリンピックの開会式にも利用され、巨人の足跡を描いた花火が実は実写ではなかったことがニュースになったのは昨日のことである。中国政府はCGを使うことで自らの威信を守って見せた。世界中の人々は、そのCGによって見事にペテンにかけられ、さる有名なブロガーなども感動のエントリを上げてしまったほどである。
しかし、ミーハーながら長年映画を見続けてきた私にとっては、今やCGは親の仇のようなものと言っていい。
CGによって見事な映像が作られ、あり得ないような画面が繰り広げられるほど、私の興はどんどん冷めていく。
どうせCGだろ。
よくできたコンピュータと、よくできたコンピュータ・ソフトが気の遠くなるような計算をして作り上げたとしても、それは巨大な演算結果が目の前で踊っているに過ぎない。数値で作られた画像からは手作りの工作に見られるような、ぎこちないけれどため息が出るほど「よくできている」質感もなければ、工夫に工夫を凝らし苦労に苦労を重ねて作ったであろう作り手の情熱も伝わってこない。
CGが作る画面にそれらが欠けているというのではない。それらはたしかにあるのだろうが、かつて私が映画を見て感じたときめきをもたらしたものとは明らかに質が違うものなのだ。
昔はよかったな。

それはVFXが登場する前の特撮映画であり、SFXと呼ばれる手法が使われていた時代までのことである。
レイ・ハリーハウゼンのストップモーション・アニメは、精巧に作られた人形を少しずつ動かして撮影しているのだと分かっていても、私は画面に引きつけられたし、東宝の怪獣映画が子ども心にもミニチュアと着ぐるみで作られていると分かっても、私は手に汗握り夢中で映画を繰り返し見た。
近くでいえば「スターウォーズ」の模型の精巧さに唸ったし、「ウルフェン」や「ハウリング」で見た変身のリアルさに「すげぇ!」と声を上げて友だちと語り合わずにいられない興奮を覚えた。クローネンバーグの「ヴィデオドローム」や「スキャナーズ」のおぞましい場面には声を失い、どうやって撮影したのだろうと好奇心をかき立てられた。
こうした映画は映画史の中では必ずしも名作といわれるものではないものがふくまれているけれども、製作者の熱意と工夫はダイレクトに伝わってきたし、映画の登場人物たちの気持ち――恐怖や痛みまで――を感じ取ることができた。
しかし映画にVFXが使われるようになると、画面の作りは精巧になったが、特殊効果は誰が携わっても同じようにしか見えないし、なまじ本物らしく見えるがゆえにかえって嘘くさく感じられるようになった。そこでは登場人物たちがいかに苦闘しようとも、見ている私には痛みも恐怖も伝わってこない。
どうせCGだろ。
吉永小百合がいくら若く見えて容色に衰えが見えなくても、CG処理してるのだと思えば不思議でも何でもなくなるように、CGを使っている映画からは驚きや好奇心といったものが薄れていく。どんなに精巧でリアルに見えても、一度ばれてしまった嘘でメッキが剥げてしまうように、CGを使っているというだけで興が冷めていく。
やっぱり映画は昔の方がよかったな。
あらゆるジャンルの映画にCGが使われるようになり、アニメーションもCGが当たり前になってしまった今、私はそう思わずにいられない。
映画は科学と技術の進歩とともに発展してきたが、コンピュータが使われるようになってから、どうも道の選択を誤ってしまったような気がしてならない。
このままではどんどん映画がつまらなくなる。
リアルを追求するがためにかえってリアルから遠のこうとしている。
映画はこれでいいのか。
一映画ファンとして大きな危機感を抱きつつ、私は映画館に足を運び続けている。
9.11事件の当日、あのビルにいた誰かがビデオを手にしており、航空機が突っ込んできたそのときを撮影していたら、こんな映像が残ったかもしれない。
スクリーンを見ながら、そんなことを考えた。
今日は、「クローバーフィールド/HAKAISHA」を観てきた。

映画はタイトルもなく、唐突に始まる。
最初にビデオのテストパターンが出て、そこに字幕が現れ、この画面はセントラルパークだったところから回収されてきたものだと説明される。
セントラルパークだったところ……
ということは、すでにニューヨークマンハッタンの、あの公園は此の世から姿を消しているということか。
しかしまた、なぜ?
考える間もなく、画面はごく普通のホームビデオの映像になる。
そこに登場する二人の男女。
一夜をともにした翌朝らしく、男の子が持つカメラが窓の外の眺めから家の中、そしてまだベッドの中にいる彼女と映していく。
歩きながら撮影するとこうなります、というように画面はブレブレで見にくいったらありゃしない。でも、これが作者の狙いなのだ。ビデオマニアが恐ろしい事件に遭遇したら、どんな映像を撮るか。これが、良くも悪くも「クローバーフィールド」の核となるアイデアだからだ。
同じような試みで作られた映画に「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」があったけれど、こちらは映画クルーがたまたま怪奇現象に遭遇してしまったという設定だった。
なんだ、同じじゃん。
でも、こっち(「クローバーフィールド」)の方がスケールがでかいよ。スケールがでかいから、生に近い臨場感が伝わってくる。だから思わず、私は9.11を連想してしまったのだ。

9.11では、見えないテロリストが人々を恐怖のどん底に突き落としたのだが、この映画でもそこいら辺がうまく考えられている。
突然ニューヨークの街が破壊され、人々がパニックを起こす場面が描かれていくのだが、一体何事が起こったのか、なかなかわからせてくれない。どうやら巨大な生物が暴れているらしいのだが、その正体がわからない。
どんな姿をした生物なのか、それはどこからやってきたのか、なぜ街を破壊し、人々を殺戮していくのか。
映画はこれらのことについて、ほとんど語ろうとしない。だから、映画を観ているわれわれも、登場人物と一緒になって混乱しながらストーリーを追うしかないのだ。
あの日、自分たちのオフィスがあるビルに飛行機が衝突するなど、だれも想像できなかった。しかし、悪夢のようなことが実際に起こったとき、人はどんな行動を取るのか。映画を作る勘所はここにあるだろう。
この映画が成功作になり得なかったのは、最初の思いつきは面白かったものの、結局は極限状態に追い詰められた人間というものを突き詰めて描けなかったところに原因がある。得体の知れないものに襲われ、暗闇募る夜の街を逃げまどう登場人物たちのセリフやリアクションが、いかにも嘘くさいのである。アイデアは面白いが、才能ある脚本家と監督だったら、もっと違う味つけをしていたに違いない。HAKAISHAの造形も、それがなぜ破壊に至るようになったのかをきっちり描くだろう。9.11の恐ろしさが、アルカイダというテロ組織によって起こされた無差別殺人だったとわかるにつれ、エスカレートしていったように。
しかし、だからといってこの映画がまったくつまらなかったわけではない。
訳もわからず、まったく理不尽に命を狙われることになる主人公たちの恐怖感は十分伝わってくるし、アメリカお得意の軍隊出動が、少しも頼りにならないところなどは皮肉に笑える。
結局、アメリカ政府はニューヨークを自らの手で消滅させてしまったのだが、果たして凶暴な威力をふるった敵を倒すことはできたのか。
そこは観客の想像にまかせる、というところがまた、なんともニクイね。
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スクリーンを見ながら、そんなことを考えた。
今日は、「クローバーフィールド/HAKAISHA」を観てきた。

映画はタイトルもなく、唐突に始まる。
最初にビデオのテストパターンが出て、そこに字幕が現れ、この画面はセントラルパークだったところから回収されてきたものだと説明される。
セントラルパークだったところ……
ということは、すでにニューヨークマンハッタンの、あの公園は此の世から姿を消しているということか。
しかしまた、なぜ?
考える間もなく、画面はごく普通のホームビデオの映像になる。
そこに登場する二人の男女。
一夜をともにした翌朝らしく、男の子が持つカメラが窓の外の眺めから家の中、そしてまだベッドの中にいる彼女と映していく。
歩きながら撮影するとこうなります、というように画面はブレブレで見にくいったらありゃしない。でも、これが作者の狙いなのだ。ビデオマニアが恐ろしい事件に遭遇したら、どんな映像を撮るか。これが、良くも悪くも「クローバーフィールド」の核となるアイデアだからだ。
同じような試みで作られた映画に「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」があったけれど、こちらは映画クルーがたまたま怪奇現象に遭遇してしまったという設定だった。
なんだ、同じじゃん。
でも、こっち(「クローバーフィールド」)の方がスケールがでかいよ。スケールがでかいから、生に近い臨場感が伝わってくる。だから思わず、私は9.11を連想してしまったのだ。

9.11では、見えないテロリストが人々を恐怖のどん底に突き落としたのだが、この映画でもそこいら辺がうまく考えられている。
突然ニューヨークの街が破壊され、人々がパニックを起こす場面が描かれていくのだが、一体何事が起こったのか、なかなかわからせてくれない。どうやら巨大な生物が暴れているらしいのだが、その正体がわからない。
どんな姿をした生物なのか、それはどこからやってきたのか、なぜ街を破壊し、人々を殺戮していくのか。
映画はこれらのことについて、ほとんど語ろうとしない。だから、映画を観ているわれわれも、登場人物と一緒になって混乱しながらストーリーを追うしかないのだ。
あの日、自分たちのオフィスがあるビルに飛行機が衝突するなど、だれも想像できなかった。しかし、悪夢のようなことが実際に起こったとき、人はどんな行動を取るのか。映画を作る勘所はここにあるだろう。
この映画が成功作になり得なかったのは、最初の思いつきは面白かったものの、結局は極限状態に追い詰められた人間というものを突き詰めて描けなかったところに原因がある。得体の知れないものに襲われ、暗闇募る夜の街を逃げまどう登場人物たちのセリフやリアクションが、いかにも嘘くさいのである。アイデアは面白いが、才能ある脚本家と監督だったら、もっと違う味つけをしていたに違いない。HAKAISHAの造形も、それがなぜ破壊に至るようになったのかをきっちり描くだろう。9.11の恐ろしさが、アルカイダというテロ組織によって起こされた無差別殺人だったとわかるにつれ、エスカレートしていったように。
しかし、だからといってこの映画がまったくつまらなかったわけではない。
訳もわからず、まったく理不尽に命を狙われることになる主人公たちの恐怖感は十分伝わってくるし、アメリカお得意の軍隊出動が、少しも頼りにならないところなどは皮肉に笑える。
結局、アメリカ政府はニューヨークを自らの手で消滅させてしまったのだが、果たして凶暴な威力をふるった敵を倒すことはできたのか。
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関連タグ : クローバーフィールド, 9.11,
4月4日の「世に倦む日々」のエントリを読んで、ずっと心の中に澱のように沈んでいる言葉がある。
この日、取り上げられていたのは青森県八戸市で起きた、母親による8歳の息子絞殺事件のことだった。東京で結婚し、子供をもうけたが離婚して八戸の実家に息子と2人で帰ってきた母親。自宅に引きこもりがちだったという母親に、何があったのかはわからない。しかし、いつもそばにいて、母親が苦労している様子を見てきた息子は、「おかあさん」という題名の詩を書き、それが学校の教師の目にとまり、コンクールに応募して入賞を果たした。その詩の内容は、母親に対する愛情にあふれるものだった。
母親に対して深い愛情を持ち、全幅の信頼を寄せていたであろう8歳の息子の首を、30歳の母親は電気コードで締めて殺害した。
なんとも痛ましい事件がまたひとつ起きたわけだが、私の心に染みついて離れないのは、thessalonike4氏による以下の言葉だ。
「私にはどうしてもこういう問題とは自分を向き合わせなくてはならないのだという気分がある。それに触れずに先に行くことができない。何が起きているのかを考え、言葉にしなくてはいけないと思い、最も適切な言葉は何だろうかといつも思う。格差社会の戦場にいるのだ。それが私自身が最も納得できる言葉である。新自由主義の砲弾が飛んできて、隣にいた人間の頭部を吹き飛ばしたり、前を歩いていた人間の内臓をぐしゃぐしゃに潰して、死体が散乱して血だらけになった地面の上を歩いているのだ。戦場だから、次の瞬間に砲弾の犠牲になるのは自分だから、誰にも何も声をかけず、目を背けることもせず、ただ生体が死体になる事実だけを喉からのみこんで歩くだけなのだ。戦場では弱い者から犠牲になるのだ。イスラエルの地上軍はガザの子供を銃で頭を撃って殺すが、日本の新自由主義は日本の弱者の子供をこうやって殺す。」

われわれは戦場に暮らしている。
目には映らず、耳にも聞こえないが、新自由主義の砲弾や銃弾が降り注ぐ修羅場の中で生きている。その言葉が、重く心にのしかかる。
親が子供を殺し、家族が家族を手にかける事件が相次いで起きている。
また、先月には土浦で無差別殺人事件が発生し、岡山では駅のホームから他人を突き落とすという衝動殺人事件もあった。
それぞれの事件には異なる背景があるが、私にはどの事件も、現代を象徴するもののように思えてならない。それを言葉にすれば「世に倦む日々」の記述と同じことになってしまうのだが。
戦場の中で生きているうちに、われわれの心は荒み、死というものに対する恐れが鈍ってきている。人の死を悼む気持ちはあるが、一方では悲惨でむごたらしい死が日常のことになって心の上層を滑り落ちていく。死はきまぐれに人々の上に訪れて、人間を弄ぶようにして命を奪って去っていく。人はなぜ、このような死に方をしなければならないのか、考えるいとまもなく死んでいく。
これまで、人間はいかに生きるべきかを考えることが人生の大きな命題だったが、今やわれわれはなぜ死なねばならないのかについても考えなければならないときにきている。
本年度の米アカデミー賞で、作品賞、監督賞など4部門を受賞したジョエル&イーサン・コーエン兄弟による「ノーカントリー」を観てきた。
すでにこの作品については様々なことが書かれていることと思うが、何の予備知識も持たずに観に行った私は、この作品がまさしく現代的な死をテーマに据えた、緊張感にあふれる物語として画面に見入った。
冒頭、画面はテキサスの広大な荒れ地を映しながら、保安官のエド(トミー・リー・ジョーンズ)の長い独白で映画は幕を開ける。「今の殺人は、まったく訳がわからない。老人の家に押し入った強盗が、年金を奪っただけで老人を拷問し、殺して穴に埋める。なぜ、そんなことをしなければならないのか」「自分はこの前、少年を死刑にした。彼は殺人を犯したが、理由などなかった。ただ殺したくて殺した。もし刑務所から出ることがあったら、また殺すと言っていた。まったく訳がわからない」――そんなモノローグが続いていくと、警官がひとりの男を逮捕する場面になる。男はおとなしく手錠をはめられてパトカーに乗り、保安官事務所まで連行される。まだ年若い保安官補が電話をかけていると、その背後に男が忍び寄り、手錠をかけた腕で保安官補を絞め殺す。渾身の力を腕に込めながら、どこか恍惚とした表情を浮かべて命を奪っていく。その男の名は、アントン・シガー(ハビエル・バルデム)。この映画の主役といってもいい、異様な殺人者だ。

画面が替わって、この映画のもう一人の主要人物、ジョシュ・ブローリン演じるルウェリンという男がライフルを構えて鹿を狙っているところをカメラがとらえる。彼は岩でライフルを支え、照準器を使って一頭の鹿に狙いを定める。息を凝らし、全神経を集中させて、鹿の胸のあたりを狙って引き金を引く。
次の瞬間、鹿は一瞬ガクッとよろめくが、銃声に驚いた他の鹿たちと一緒に逃げていってしまう。
獲物を逃したルウェリンは、双眼鏡であたりを見回しているうちに奇妙な光景を発見する。
それは、ギャングたちが麻薬取引で撃ち合いとなり全員が死亡してしまった現場だった。彼はそこで大量の麻薬と200万ドルという大金を見つけてしまう。誰も見ている者はいないが、そのカネに手をつけることは命を狙われることを意味する。それでも彼は200万ドルが入ったバッグを手に歩き去る。
物語は、ここから命がけで逃げるルウェリンと、ギャング組織に命じられてその命を狙うシガー、そして大量殺人事件解決とルウェリン保護のために立ち上がるエドの3つの視点から進められていく。
これ以上、ストーリーの説明は不要だろう。誰が死んで、誰が生き残るのか、そんなことはこの映画は問題にしていない。いちばんの眼目は、「死」というものがいかに理不尽に、しかも気まぐれに人に襲いかかるかという点にある。登場人物の一人がこんなセリフを言っている。
「死というやつは誰の思い通りにもならない。病気で長くはないとわかっていても、死ぬとなればなぜ今日なんだと思わずにいられない」
シガーは金などといった人間的な価値観を超越した存在で、人を殺していく。前を走っている車を止めては、不審気に降りてきた男に世間話のように語りかけ、屠畜用の圧搾ポンプで額に穴を開ける。彼は死そのものであり、彼のそばに寄るものは、カラスだろうと一発見舞われることになる。
しかしこの映画では、とかく関心は異常な殺し屋のシガーに向けられるが、私はむしろルウェリンという「まともな男」が狩りをしている場面が心に引っかかる。
ルウェリンはなぜ、狩りをするのだろうか。食料が必要だから? 毛皮や肉を売って金にするため? それとも、単にハンティングを楽しむだけだったのか。
映画ではルウェリンがベトナム戦争帰りだということが明かされるが、死神そのもののシガーの存在だけでなく、動物を狙い撃つルウェリンもまた、実は確たる理由もなく死をもたらす側に属していることを映画は暗示している。
数多くいる鹿たちのなかから、一頭に狙いを定め、引き金を引く。その一頭を殺さなければならない理由は何もないのだ。鹿に対して、ルウェリンは何も特別な感情を持ってはいない。ただ殺す。そこに獲物がいるから銃を撃つだけだ。シガーは、同じ臭いを持つ存在に感づいたから、導かれるように彼を追いつめようとする。

思えば土浦で起きた無差別殺傷事件も、岡山で起きた駅ホームでの突き落とし殺人事件も、犯人となった男たちは得体の知れない死神のように被害者に迫り、命を脅かした。彼らは誰かを殺す必然に駆られて行動を起こした。ただし、その必然には意味などなかった。貧困、孤独、絶望、そんな言葉が浮かんでくるが、それこそが新自由主義が日本全国に絨毯爆撃のようにまき散らしている砲弾にほかならない。その砲弾にあたり、人生を粉砕された人間が我が子の首を電気コードで絞めて窒息させる。その銃弾に前途を閉ざされた若者が、見ず知らずの会社員をホームで突き飛ばした。あるいは集中砲火によって仕事の取引がなくなり、経済的に追いつめられた父親が家族を抹殺しようとした。まだ年若い母親が、マンションから我が子を投げ落とし、自分も身を投げた。彼らはみな、新自由主義の見えない狙撃手から照準器で狙いをつけられ、不幸にも被弾してしまったのだ。
「ノーカントリー」では、理由なき殺人を繰り返すシガーの存在を現代的な死の象徴として描く。彼に対して、われわれは善悪のものさしすらあてはめて考えることができない。純然たる死に、いいも悪いもない。死の前に、われわれはただ膝を屈するしかない。
その言いようもない挫折感と絶望感。
きわめて現代的な死の問題をわれわれに反芻させつつ、この映画は幕を閉じる。
なぜ人は死ななければならないのか。その死は、どうして訪れたのか。これからは、その背景を思いつつ、「現代の死」に向き合う必要がある。そんなことを考えさせる映画だった。
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この日、取り上げられていたのは青森県八戸市で起きた、母親による8歳の息子絞殺事件のことだった。東京で結婚し、子供をもうけたが離婚して八戸の実家に息子と2人で帰ってきた母親。自宅に引きこもりがちだったという母親に、何があったのかはわからない。しかし、いつもそばにいて、母親が苦労している様子を見てきた息子は、「おかあさん」という題名の詩を書き、それが学校の教師の目にとまり、コンクールに応募して入賞を果たした。その詩の内容は、母親に対する愛情にあふれるものだった。
母親に対して深い愛情を持ち、全幅の信頼を寄せていたであろう8歳の息子の首を、30歳の母親は電気コードで締めて殺害した。
なんとも痛ましい事件がまたひとつ起きたわけだが、私の心に染みついて離れないのは、thessalonike4氏による以下の言葉だ。
「私にはどうしてもこういう問題とは自分を向き合わせなくてはならないのだという気分がある。それに触れずに先に行くことができない。何が起きているのかを考え、言葉にしなくてはいけないと思い、最も適切な言葉は何だろうかといつも思う。格差社会の戦場にいるのだ。それが私自身が最も納得できる言葉である。新自由主義の砲弾が飛んできて、隣にいた人間の頭部を吹き飛ばしたり、前を歩いていた人間の内臓をぐしゃぐしゃに潰して、死体が散乱して血だらけになった地面の上を歩いているのだ。戦場だから、次の瞬間に砲弾の犠牲になるのは自分だから、誰にも何も声をかけず、目を背けることもせず、ただ生体が死体になる事実だけを喉からのみこんで歩くだけなのだ。戦場では弱い者から犠牲になるのだ。イスラエルの地上軍はガザの子供を銃で頭を撃って殺すが、日本の新自由主義は日本の弱者の子供をこうやって殺す。」

われわれは戦場に暮らしている。
目には映らず、耳にも聞こえないが、新自由主義の砲弾や銃弾が降り注ぐ修羅場の中で生きている。その言葉が、重く心にのしかかる。
親が子供を殺し、家族が家族を手にかける事件が相次いで起きている。
また、先月には土浦で無差別殺人事件が発生し、岡山では駅のホームから他人を突き落とすという衝動殺人事件もあった。
それぞれの事件には異なる背景があるが、私にはどの事件も、現代を象徴するもののように思えてならない。それを言葉にすれば「世に倦む日々」の記述と同じことになってしまうのだが。
戦場の中で生きているうちに、われわれの心は荒み、死というものに対する恐れが鈍ってきている。人の死を悼む気持ちはあるが、一方では悲惨でむごたらしい死が日常のことになって心の上層を滑り落ちていく。死はきまぐれに人々の上に訪れて、人間を弄ぶようにして命を奪って去っていく。人はなぜ、このような死に方をしなければならないのか、考えるいとまもなく死んでいく。
これまで、人間はいかに生きるべきかを考えることが人生の大きな命題だったが、今やわれわれはなぜ死なねばならないのかについても考えなければならないときにきている。
本年度の米アカデミー賞で、作品賞、監督賞など4部門を受賞したジョエル&イーサン・コーエン兄弟による「ノーカントリー」を観てきた。
すでにこの作品については様々なことが書かれていることと思うが、何の予備知識も持たずに観に行った私は、この作品がまさしく現代的な死をテーマに据えた、緊張感にあふれる物語として画面に見入った。
冒頭、画面はテキサスの広大な荒れ地を映しながら、保安官のエド(トミー・リー・ジョーンズ)の長い独白で映画は幕を開ける。「今の殺人は、まったく訳がわからない。老人の家に押し入った強盗が、年金を奪っただけで老人を拷問し、殺して穴に埋める。なぜ、そんなことをしなければならないのか」「自分はこの前、少年を死刑にした。彼は殺人を犯したが、理由などなかった。ただ殺したくて殺した。もし刑務所から出ることがあったら、また殺すと言っていた。まったく訳がわからない」――そんなモノローグが続いていくと、警官がひとりの男を逮捕する場面になる。男はおとなしく手錠をはめられてパトカーに乗り、保安官事務所まで連行される。まだ年若い保安官補が電話をかけていると、その背後に男が忍び寄り、手錠をかけた腕で保安官補を絞め殺す。渾身の力を腕に込めながら、どこか恍惚とした表情を浮かべて命を奪っていく。その男の名は、アントン・シガー(ハビエル・バルデム)。この映画の主役といってもいい、異様な殺人者だ。

画面が替わって、この映画のもう一人の主要人物、ジョシュ・ブローリン演じるルウェリンという男がライフルを構えて鹿を狙っているところをカメラがとらえる。彼は岩でライフルを支え、照準器を使って一頭の鹿に狙いを定める。息を凝らし、全神経を集中させて、鹿の胸のあたりを狙って引き金を引く。
次の瞬間、鹿は一瞬ガクッとよろめくが、銃声に驚いた他の鹿たちと一緒に逃げていってしまう。
獲物を逃したルウェリンは、双眼鏡であたりを見回しているうちに奇妙な光景を発見する。
それは、ギャングたちが麻薬取引で撃ち合いとなり全員が死亡してしまった現場だった。彼はそこで大量の麻薬と200万ドルという大金を見つけてしまう。誰も見ている者はいないが、そのカネに手をつけることは命を狙われることを意味する。それでも彼は200万ドルが入ったバッグを手に歩き去る。
物語は、ここから命がけで逃げるルウェリンと、ギャング組織に命じられてその命を狙うシガー、そして大量殺人事件解決とルウェリン保護のために立ち上がるエドの3つの視点から進められていく。
これ以上、ストーリーの説明は不要だろう。誰が死んで、誰が生き残るのか、そんなことはこの映画は問題にしていない。いちばんの眼目は、「死」というものがいかに理不尽に、しかも気まぐれに人に襲いかかるかという点にある。登場人物の一人がこんなセリフを言っている。
「死というやつは誰の思い通りにもならない。病気で長くはないとわかっていても、死ぬとなればなぜ今日なんだと思わずにいられない」
シガーは金などといった人間的な価値観を超越した存在で、人を殺していく。前を走っている車を止めては、不審気に降りてきた男に世間話のように語りかけ、屠畜用の圧搾ポンプで額に穴を開ける。彼は死そのものであり、彼のそばに寄るものは、カラスだろうと一発見舞われることになる。
しかしこの映画では、とかく関心は異常な殺し屋のシガーに向けられるが、私はむしろルウェリンという「まともな男」が狩りをしている場面が心に引っかかる。
ルウェリンはなぜ、狩りをするのだろうか。食料が必要だから? 毛皮や肉を売って金にするため? それとも、単にハンティングを楽しむだけだったのか。
映画ではルウェリンがベトナム戦争帰りだということが明かされるが、死神そのもののシガーの存在だけでなく、動物を狙い撃つルウェリンもまた、実は確たる理由もなく死をもたらす側に属していることを映画は暗示している。
数多くいる鹿たちのなかから、一頭に狙いを定め、引き金を引く。その一頭を殺さなければならない理由は何もないのだ。鹿に対して、ルウェリンは何も特別な感情を持ってはいない。ただ殺す。そこに獲物がいるから銃を撃つだけだ。シガーは、同じ臭いを持つ存在に感づいたから、導かれるように彼を追いつめようとする。

思えば土浦で起きた無差別殺傷事件も、岡山で起きた駅ホームでの突き落とし殺人事件も、犯人となった男たちは得体の知れない死神のように被害者に迫り、命を脅かした。彼らは誰かを殺す必然に駆られて行動を起こした。ただし、その必然には意味などなかった。貧困、孤独、絶望、そんな言葉が浮かんでくるが、それこそが新自由主義が日本全国に絨毯爆撃のようにまき散らしている砲弾にほかならない。その砲弾にあたり、人生を粉砕された人間が我が子の首を電気コードで絞めて窒息させる。その銃弾に前途を閉ざされた若者が、見ず知らずの会社員をホームで突き飛ばした。あるいは集中砲火によって仕事の取引がなくなり、経済的に追いつめられた父親が家族を抹殺しようとした。まだ年若い母親が、マンションから我が子を投げ落とし、自分も身を投げた。彼らはみな、新自由主義の見えない狙撃手から照準器で狙いをつけられ、不幸にも被弾してしまったのだ。
「ノーカントリー」では、理由なき殺人を繰り返すシガーの存在を現代的な死の象徴として描く。彼に対して、われわれは善悪のものさしすらあてはめて考えることができない。純然たる死に、いいも悪いもない。死の前に、われわれはただ膝を屈するしかない。
その言いようもない挫折感と絶望感。
きわめて現代的な死の問題をわれわれに反芻させつつ、この映画は幕を閉じる。
なぜ人は死ななければならないのか。その死は、どうして訪れたのか。これからは、その背景を思いつつ、「現代の死」に向き合う必要がある。そんなことを考えさせる映画だった。
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ジュリアン・シュナーベル監督の「潜水服は蝶の夢を見る」を観た。
シュナーベルは前作「夜になるまえに」で私を魅了した監督であり、7年ぶりとなる今回の作品は今年最も楽しみな作品でもあった。
「夜になるまえに」は、原作がすぐれていたこともあるが、その魅力を損なわない台詞の美しさが心に残る映画だった。それは冒頭の、主人公が子供時代を振り返るモノローグから圧倒的だった。
映画とは、もちろん物語を伝える手段だが、ストーリーを伝えることに汲々としている映画には魅力がない。ストーリーを発酵・熟成させ、昇華させる作者の思いが表れていなければならない。それは映像の作り方であり、台詞の選び方であり、また音楽・効果音の使い方に現れてくる。
「ぼくは二歳だった。裸で、立っていた。前かがみになって、地面に舌を這わせた。ぼくが覚えている最初の味は土の味。同い年の従妹ドゥルセ・オフェリアといっしょに土を食べたものだった。」
これは原作の一節だが、映画はこの文章に妖しいほどの魅力を添えた映像で幕をあけた。この瞬間、「夜になるまえに」は、私にとって傑作の一本になったのだった。
「潜水服は蝶の夢を見る」は、フランス人でファッション雑誌『ELLE』の編集長をしていたジャン=ドミニク・ボビーが、43歳で突然脳梗塞に倒れ、意識はあるものの左目しか動かせない状態になって書いた本を原作にしている。そう、彼は文字通り、左目だけで本を書いたのだ。

画面は大半がジャンの左目を通した映像として映し出される。
昏睡状態から意識を回復し、ここはどこだと戸惑いながら見回す彼の視界に、次々と顔が近づいてくる。
「大丈夫。気がついた。もう安心ですよ」
彼らは医者と看護師たちだ。
「あなたは医学の進歩によって死なずにすんだのです。これから生きていけます。私が保証します」
戸惑いながらも自分がとんでもない境遇に陥ったことを知ったジャンは、勝手に満足の笑みを浮かべている医者や看護師たちを見てつぶやく。
「なにが安心だ。なにを保証するというのだ」
泣きわめくのでなく、冷めた目で皮肉を言うところがいい。
ここまできて思い出すのは、昔見た「ジョニーは戦場に行った」だ。
あの作品では戦闘で両手両脚、目・鼻・口を失った青年が必死に自分の生を訴える姿が印象的だった。彼の場合は意識があることさえ認められず、医者から見放されそうになる。しかし頭を枕に打ちつけ、モールス信号を発することで意思の疎通を取り戻すところが見所になっていた。
あのジョニーに比べれば、はるかに医療技術も看護体制も進歩した現代で体の自由を失ったジャンは幸せといえるだろうか。
いや、そんなことはない。どんなに時代が変わっても、技術がどれだけ進歩しても、人間にとって自由を奪われることは苦痛であることに違いはないのだ。
ジャンの場合は、その不自由さを旧式の潜水服を着て海に潜っているようだと考える。
体に合わないスーツを着て、頭には巨大な鉢のようなヘルメットをつけて、水の中を漂うように動くことしかできない潜水夫。
妻と3人の子どもをもつ彼は、華やかなファッション業界でこの世を謳歌していた。仕事は充実していたし、美味いものを食べ、愛人だって何人もいた。しかし、それらはみんな潜水服の外の世界に行ってしまった。
外の世界と自分をホースのように結びつけているのは、今や瞬きだけだ。
ウィなら瞬き1回、ノンなら2回。
しかし、そうやって最低限の意思疎通はできても、動かなくなった右目の瞼は勝手に縫いつけられてしまうし、好きなサッカーを見ていてもテレビを消されてしまう。鼻の頭にハエが止まってもままならず、思わずうなり声を上げると
「やった! すごい進歩ですよ」
と勘違いな褒められ方をする。まったく可笑しくなるほどの悲しさだ。
自由のすべてを失い、絶望するしかないはずのジャンだが、彼は考える。
「私にはまだ残っているものがある。それは記憶と想像力だ」
なんという強さ。人間というのは、ここまで強くなれるのか。
記憶と想像力さえあれば、羽化したばかりの蝶のように羽をのばし、やがて自由に羽ばたくことができる。そのイメージの美しさ。
彼は言語療法士の力を借りて、特殊なアルファベットを読み上げさせ、瞬きすることで本を書き始める。その数は20万回。
まったく、手も足も動く私だが、この強さには手も足も出ない。
手も足も出ないどころか、彼を通して見れば否応なく気づかされることがある。
潜水服を着ているのは彼だけではない。自分もまた、そうなのだと。
92歳になる彼の父親は脚が痛むために4階にある自室から出ることができない。彼は泣きながら電話で息子に訴える。
「お前に会いたいが、行くことができない。俺もお前と同じなんだよ」と。
自由のように見えながら、ほんとうは誰もが不自由を背負って生きている。金持ちの不自由、貧乏の不自由、その色合いは人さまざまだが、不自由な枠の中でなんとか踏みこたえて生きている。踏みこたえていけば、何か見えてくるものがあるかもしれない。ジャンにとっての記憶と想像力のようにかけがいのないものが。
見えない潜水服を着ている私は、しばし呆然としながらエンドロールを見つめていた。

シュナーベルは前作「夜になるまえに」で私を魅了した監督であり、7年ぶりとなる今回の作品は今年最も楽しみな作品でもあった。
「夜になるまえに」は、原作がすぐれていたこともあるが、その魅力を損なわない台詞の美しさが心に残る映画だった。それは冒頭の、主人公が子供時代を振り返るモノローグから圧倒的だった。
映画とは、もちろん物語を伝える手段だが、ストーリーを伝えることに汲々としている映画には魅力がない。ストーリーを発酵・熟成させ、昇華させる作者の思いが表れていなければならない。それは映像の作り方であり、台詞の選び方であり、また音楽・効果音の使い方に現れてくる。
「ぼくは二歳だった。裸で、立っていた。前かがみになって、地面に舌を這わせた。ぼくが覚えている最初の味は土の味。同い年の従妹ドゥルセ・オフェリアといっしょに土を食べたものだった。」
これは原作の一節だが、映画はこの文章に妖しいほどの魅力を添えた映像で幕をあけた。この瞬間、「夜になるまえに」は、私にとって傑作の一本になったのだった。
「潜水服は蝶の夢を見る」は、フランス人でファッション雑誌『ELLE』の編集長をしていたジャン=ドミニク・ボビーが、43歳で突然脳梗塞に倒れ、意識はあるものの左目しか動かせない状態になって書いた本を原作にしている。そう、彼は文字通り、左目だけで本を書いたのだ。

画面は大半がジャンの左目を通した映像として映し出される。
昏睡状態から意識を回復し、ここはどこだと戸惑いながら見回す彼の視界に、次々と顔が近づいてくる。
「大丈夫。気がついた。もう安心ですよ」
彼らは医者と看護師たちだ。
「あなたは医学の進歩によって死なずにすんだのです。これから生きていけます。私が保証します」
戸惑いながらも自分がとんでもない境遇に陥ったことを知ったジャンは、勝手に満足の笑みを浮かべている医者や看護師たちを見てつぶやく。
「なにが安心だ。なにを保証するというのだ」
泣きわめくのでなく、冷めた目で皮肉を言うところがいい。
ここまできて思い出すのは、昔見た「ジョニーは戦場に行った」だ。
あの作品では戦闘で両手両脚、目・鼻・口を失った青年が必死に自分の生を訴える姿が印象的だった。彼の場合は意識があることさえ認められず、医者から見放されそうになる。しかし頭を枕に打ちつけ、モールス信号を発することで意思の疎通を取り戻すところが見所になっていた。
あのジョニーに比べれば、はるかに医療技術も看護体制も進歩した現代で体の自由を失ったジャンは幸せといえるだろうか。
いや、そんなことはない。どんなに時代が変わっても、技術がどれだけ進歩しても、人間にとって自由を奪われることは苦痛であることに違いはないのだ。
ジャンの場合は、その不自由さを旧式の潜水服を着て海に潜っているようだと考える。
体に合わないスーツを着て、頭には巨大な鉢のようなヘルメットをつけて、水の中を漂うように動くことしかできない潜水夫。
妻と3人の子どもをもつ彼は、華やかなファッション業界でこの世を謳歌していた。仕事は充実していたし、美味いものを食べ、愛人だって何人もいた。しかし、それらはみんな潜水服の外の世界に行ってしまった。
外の世界と自分をホースのように結びつけているのは、今や瞬きだけだ。
ウィなら瞬き1回、ノンなら2回。
しかし、そうやって最低限の意思疎通はできても、動かなくなった右目の瞼は勝手に縫いつけられてしまうし、好きなサッカーを見ていてもテレビを消されてしまう。鼻の頭にハエが止まってもままならず、思わずうなり声を上げると
「やった! すごい進歩ですよ」
と勘違いな褒められ方をする。まったく可笑しくなるほどの悲しさだ。
自由のすべてを失い、絶望するしかないはずのジャンだが、彼は考える。
「私にはまだ残っているものがある。それは記憶と想像力だ」
なんという強さ。人間というのは、ここまで強くなれるのか。
記憶と想像力さえあれば、羽化したばかりの蝶のように羽をのばし、やがて自由に羽ばたくことができる。そのイメージの美しさ。
彼は言語療法士の力を借りて、特殊なアルファベットを読み上げさせ、瞬きすることで本を書き始める。その数は20万回。
まったく、手も足も動く私だが、この強さには手も足も出ない。
手も足も出ないどころか、彼を通して見れば否応なく気づかされることがある。
潜水服を着ているのは彼だけではない。自分もまた、そうなのだと。
92歳になる彼の父親は脚が痛むために4階にある自室から出ることができない。彼は泣きながら電話で息子に訴える。
「お前に会いたいが、行くことができない。俺もお前と同じなんだよ」と。
自由のように見えながら、ほんとうは誰もが不自由を背負って生きている。金持ちの不自由、貧乏の不自由、その色合いは人さまざまだが、不自由な枠の中でなんとか踏みこたえて生きている。踏みこたえていけば、何か見えてくるものがあるかもしれない。ジャンにとっての記憶と想像力のようにかけがいのないものが。
見えない潜水服を着ている私は、しばし呆然としながらエンドロールを見つめていた。

関連タグ : 映画, 潜水服は蝶の夢を見る, 閉じ込め症候群, ジュリアン・シュナーベル,
泣ける映画が、必ずしもいい映画の物差しにはならないと思っている。
しかし、やはりすぐれた作品に出合うと涙は自然に流れてくる。いくらこらえても、目の前がうるうるボヤけ、一粒、二粒と涙の滴が流れてしまう。
「君のためなら千回でも」は、ほろ苦く、切ない涙を禁じ得ない、私が近年観た作品の中でもっとも愛すべき映画だった。
最後に凧揚げをしたのは、いつだっただろう。
画面を見ながら、そんなことを考えていた。
空高く舞い上がり、風に乗った凧はみるみる小さくなっていく。
凧と地上にいる私をつなぐのは一本の糸だけだ。その糸をしっかり握り、風に流されないように支えるのはけっこう大変なことだったのを思い出す。

大空を無数の凧が飛んでいる。鮮やかに彩られた三角形の凧は、アメリカ凧に近い形をしている。その凧を飛ばしているのはアフガニスタンの子どもたちだ。
ソビエトに侵略される前の平和なアフガニスタンでは、冬のお祭りとして凧揚げの日があったことが描かれる。日本で言えば「喧嘩凧」で、飛ばした凧を巧みに操り、空中戦を演じるのが見所だ。
まるで生き物のように飛び回る凧は相手を見つけると接近し、挑発し、くるくる回転して互いの糸を切ろうとする。糸を切られた凧はむなしく地上に落ちていく。地上では落下した凧を追いかけて、子どもたちが一斉に走り始める。落ちてくる凧は拾った者がもらっていいことになっているのだ。
この映画の原題「The Kite Runner」は、凧を追いかける子どもたちのことであり、日本題の「君のためなら千回でも」は、凧を拾ってきてくれと頼んだ少年に、親友の少年が笑顔を浮かべて答える台詞として出てくる。日本ならば「喜んで!」とか「いいとも!」というところだろう。

この映画の前半に登場する人物は、気は優しいが弱さを持った少年アミールと、その少年に献身的なまでに仕える年下の少年ハッサン。そしてリベラルな考えを持ち、人々から尊敬を集めているアミールの父親と、アミールの家に忠実に仕えるハッサンの父。
アミールの父は息子に教える。
「もっとも悪い犯罪は盗むことだ」と。
「人を殺すのは命を盗むことであり、人を欺くことは真実を盗むことなのだ」と。
アミールは、アミールのために凧を拾いに行った先でハッサンが暴行を受け、性的虐待を受けるのを目撃するが。助けることができない。のみならず、かえってハッサンを遠ざけ、いじめるようになる。ザクロの実を投げつけ、悔しかったら自分にも投げてみろという。しかしハッサンは黙って実を取り上げると、自分の顔で潰し、だまって去っていく。その決然とした少年の誇り高い表情がいい。
アミールは、挙げ句に盗みの罪を着せて召使いとして仕えてきたハッサン親子を追い出そうとする。
ハッサンは、アミールの嘘を知りながら罪を認め、ハッサンの父はもうお仕えすることはできないと出て行こうとする。
アミールの父は二人に留まるように命令するが、ハッサンの父はいう。
「失礼ながら、あなたはもう私の主人ではない。私に命令することはできない」
父もまた、誇り高い男だったのだ。
ソ連がアフガニスタンに共産主義政権を樹立しようと侵攻してくるまで、この国は親米的だったことが描かれる。パーティではアメリカの流行曲が演奏され、街では「荒野の七人」が上映されている。
アミールの誕生日には大勢の町の名士たちが訪れるが、そのなかにアフガニスタンの英雄マスードがさりげなく登場するのも、おもしろい。
ここでアフガニスタンについてのおさらいだ。
アフガニスタンといえば、私の記憶は79年にソ連軍の侵攻を受け、共産主義政権を樹立したことに始まる。アメリカをはじめとする西側諸国はこの事件に反発し、80年のモスクワ・オリンピックをボイコットした。
また、10年にわたる内戦が続きソ連軍が撤退した後にはイスラム原理主義のタリバンによって支配された。彼らの反人道的・反文化的な支配体制は世界中から非難されたが、タリバンはバーミヤンの巨大石仏を爆破するという示威行動に出てさらに非難を深めた。
アメリカはアフガニスタンと近しい関係にあったが、タリバンが国際テロ組織アルカイダをかくまい、そのアルカイダが9.11事件を起こしたことから関係が悪化。国の英雄マスードは、この事件の二日前に暗殺されている。アメリカはタリバン政権打倒とアルカイダ討伐のために出兵した。
そして2002年、ハーミド・カルザイが暫定大統領となり、2004年に選挙が行われてカルザイが当選し、正式な政権が発足した。
しかし現在はふたたびタリバンが勢力を盛り返し、国内は今も混乱している。
映画の後半は、こうしたアフガニスタンの歴史のなかで生き別れになってしまったアミールとハッサンの関係がどうなるのかを描く。
ハッサンを見捨て、騙した罪を心に残したまま20年が過ぎ、今は亡命してアメリカで暮らしているアミールのもとに、パキスタンに住む父の友人から電話がかかってくる。
「お前はアフガニスタンでやり残したことがある。今ならやり直すことができる。帰ってこい」
良心の呵責を今も感じているアミールは、どうやってあの誇り高く、無償の愛情を捧げてくれた友人との関係を修復できるのか。
後半では、タリバンに支配された故郷の無残な様子が描かれる。
樹木はすべてソ連軍に切り倒され、今ではタリバンが街中に睨みを利かせている。娯楽的なものを一切禁止したタリバンは、唯一認めたサッカーの試合で、ハーフタイムにイスラムの教えに反した男女の公開処刑を行う。そのむごたらしさ。
映画を観ている私たちは思う。共産主義思想も、原理主義的宗教も人から自由を奪い、不幸をもたらすだけだと。
ならば、人はどうすれば幸福になれるのか。
それはおそらく、思想も宗教も超えた、人間の善性原理に基づく社会を築くしかないだろう。しかし、そのためにはこの現実をどうやって変えていけばいいのか。
アフガニスタンに、ふたたび凧揚げをする日は戻ってくるのだろうか。大空を舞う凧は、自由の象徴だ。そして凧と人とを繋ぐ一本の糸は、自由と人間を繋ぐ絆でもある。細いけれども、腕に力を込め、脚を踏ん張らないと支えるのが難しい絆だ。
「君のためなら千回でも」と笑って凧を追いかける。あのハッサン少年の姿が、まぶたに焼きついて離れない。
この映画は、アフガニスタンでは上映を禁止され、映画に出演したハッサン役の少年は危害が及ぶ恐れがあるとして保護されたという。
重い現実は、映画が完成した後も続いているのだ。
しかし、やはりすぐれた作品に出合うと涙は自然に流れてくる。いくらこらえても、目の前がうるうるボヤけ、一粒、二粒と涙の滴が流れてしまう。
「君のためなら千回でも」は、ほろ苦く、切ない涙を禁じ得ない、私が近年観た作品の中でもっとも愛すべき映画だった。
最後に凧揚げをしたのは、いつだっただろう。
画面を見ながら、そんなことを考えていた。
空高く舞い上がり、風に乗った凧はみるみる小さくなっていく。
凧と地上にいる私をつなぐのは一本の糸だけだ。その糸をしっかり握り、風に流されないように支えるのはけっこう大変なことだったのを思い出す。

大空を無数の凧が飛んでいる。鮮やかに彩られた三角形の凧は、アメリカ凧に近い形をしている。その凧を飛ばしているのはアフガニスタンの子どもたちだ。
ソビエトに侵略される前の平和なアフガニスタンでは、冬のお祭りとして凧揚げの日があったことが描かれる。日本で言えば「喧嘩凧」で、飛ばした凧を巧みに操り、空中戦を演じるのが見所だ。
まるで生き物のように飛び回る凧は相手を見つけると接近し、挑発し、くるくる回転して互いの糸を切ろうとする。糸を切られた凧はむなしく地上に落ちていく。地上では落下した凧を追いかけて、子どもたちが一斉に走り始める。落ちてくる凧は拾った者がもらっていいことになっているのだ。
この映画の原題「The Kite Runner」は、凧を追いかける子どもたちのことであり、日本題の「君のためなら千回でも」は、凧を拾ってきてくれと頼んだ少年に、親友の少年が笑顔を浮かべて答える台詞として出てくる。日本ならば「喜んで!」とか「いいとも!」というところだろう。

この映画の前半に登場する人物は、気は優しいが弱さを持った少年アミールと、その少年に献身的なまでに仕える年下の少年ハッサン。そしてリベラルな考えを持ち、人々から尊敬を集めているアミールの父親と、アミールの家に忠実に仕えるハッサンの父。
アミールの父は息子に教える。
「もっとも悪い犯罪は盗むことだ」と。
「人を殺すのは命を盗むことであり、人を欺くことは真実を盗むことなのだ」と。
アミールは、アミールのために凧を拾いに行った先でハッサンが暴行を受け、性的虐待を受けるのを目撃するが。助けることができない。のみならず、かえってハッサンを遠ざけ、いじめるようになる。ザクロの実を投げつけ、悔しかったら自分にも投げてみろという。しかしハッサンは黙って実を取り上げると、自分の顔で潰し、だまって去っていく。その決然とした少年の誇り高い表情がいい。
アミールは、挙げ句に盗みの罪を着せて召使いとして仕えてきたハッサン親子を追い出そうとする。
ハッサンは、アミールの嘘を知りながら罪を認め、ハッサンの父はもうお仕えすることはできないと出て行こうとする。
アミールの父は二人に留まるように命令するが、ハッサンの父はいう。
「失礼ながら、あなたはもう私の主人ではない。私に命令することはできない」
父もまた、誇り高い男だったのだ。
ソ連がアフガニスタンに共産主義政権を樹立しようと侵攻してくるまで、この国は親米的だったことが描かれる。パーティではアメリカの流行曲が演奏され、街では「荒野の七人」が上映されている。
アミールの誕生日には大勢の町の名士たちが訪れるが、そのなかにアフガニスタンの英雄マスードがさりげなく登場するのも、おもしろい。
ここでアフガニスタンについてのおさらいだ。
アフガニスタンといえば、私の記憶は79年にソ連軍の侵攻を受け、共産主義政権を樹立したことに始まる。アメリカをはじめとする西側諸国はこの事件に反発し、80年のモスクワ・オリンピックをボイコットした。
また、10年にわたる内戦が続きソ連軍が撤退した後にはイスラム原理主義のタリバンによって支配された。彼らの反人道的・反文化的な支配体制は世界中から非難されたが、タリバンはバーミヤンの巨大石仏を爆破するという示威行動に出てさらに非難を深めた。
アメリカはアフガニスタンと近しい関係にあったが、タリバンが国際テロ組織アルカイダをかくまい、そのアルカイダが9.11事件を起こしたことから関係が悪化。国の英雄マスードは、この事件の二日前に暗殺されている。アメリカはタリバン政権打倒とアルカイダ討伐のために出兵した。
そして2002年、ハーミド・カルザイが暫定大統領となり、2004年に選挙が行われてカルザイが当選し、正式な政権が発足した。
しかし現在はふたたびタリバンが勢力を盛り返し、国内は今も混乱している。
映画の後半は、こうしたアフガニスタンの歴史のなかで生き別れになってしまったアミールとハッサンの関係がどうなるのかを描く。
ハッサンを見捨て、騙した罪を心に残したまま20年が過ぎ、今は亡命してアメリカで暮らしているアミールのもとに、パキスタンに住む父の友人から電話がかかってくる。
「お前はアフガニスタンでやり残したことがある。今ならやり直すことができる。帰ってこい」
良心の呵責を今も感じているアミールは、どうやってあの誇り高く、無償の愛情を捧げてくれた友人との関係を修復できるのか。
後半では、タリバンに支配された故郷の無残な様子が描かれる。
樹木はすべてソ連軍に切り倒され、今ではタリバンが街中に睨みを利かせている。娯楽的なものを一切禁止したタリバンは、唯一認めたサッカーの試合で、ハーフタイムにイスラムの教えに反した男女の公開処刑を行う。そのむごたらしさ。
映画を観ている私たちは思う。共産主義思想も、原理主義的宗教も人から自由を奪い、不幸をもたらすだけだと。
ならば、人はどうすれば幸福になれるのか。
それはおそらく、思想も宗教も超えた、人間の善性原理に基づく社会を築くしかないだろう。しかし、そのためにはこの現実をどうやって変えていけばいいのか。
アフガニスタンに、ふたたび凧揚げをする日は戻ってくるのだろうか。大空を舞う凧は、自由の象徴だ。そして凧と人とを繋ぐ一本の糸は、自由と人間を繋ぐ絆でもある。細いけれども、腕に力を込め、脚を踏ん張らないと支えるのが難しい絆だ。
「君のためなら千回でも」と笑って凧を追いかける。あのハッサン少年の姿が、まぶたに焼きついて離れない。
この映画は、アフガニスタンでは上映を禁止され、映画に出演したハッサン役の少年は危害が及ぶ恐れがあるとして保護されたという。
重い現実は、映画が完成した後も続いているのだ。
関連タグ : 映画, 君のためなら千回でも, アフガニスタン, タリバン,













