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映画

ここでは、「映画」 に関する記事を紹介しています。
◎心にとめおく言葉
●人は、自分が見たいと思うものしか見ようとしない――ユリウス・カエサル
●為政者たるものは憎まれることはあっても、軽蔑されることだけはあってはならない。(塩野七生)
●自分に当てはめられない基準を他人に当てはめるべきではない
――ノーム・チョムスキー
●さまざまな知識人、文化人、政党やメディアは一般の人々よりも右よりな立場を取る――ノーム・チョムスキー
●考えろ、考えろ、考えろ!――ジョン・マクレーン

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ずいぶん更新が滞ってしまった。
今年の夏は、格別に暑く、私もさすがに参ってしまったのだ。
その上、政治的には民主党の代表選があったが、菅直人も小沢一郎も支持する気になれず、民主党政権そのものに呆れてしまったことから、一連のドタバタ劇も白けてみていた。
だからリスタートとなる今日は、政治を離れてドラマの感想を書こうと思う。


WOWOWで、7月から毎週日曜日に放送されていたドラマシリーズ「ザ・パシフィック」が、いよいよ今夜最終回を迎える。

最初に断っておくと、このドラマはたいそうな金と最新の技術を使って作られているが、人間の描き方には物足りないものがある。
それでも太平洋戦争という地獄の釜の中に放り込まれた若者たちの群像劇として見れば、彼らにとって戦争とは何だったのかと考えさせられるところはある。
私は、アメリカ人から見た太平洋戦争がどんなものだったのか、彼らは日本人と闘って何を感じたのかが少しでも分かればと思って10回の放送を見ることにした。

ここで描かれるのも、勇ましいヒーローが誕生する舞台などではない。兵士一人ひとりが生きるか死ぬかという絶えざる緊張の中で怯え、ジャングルの熱気、いつ止むとも知れない雨、蚊が媒介するマラリアに苦しみ、気が狂ったり自殺したりする者が続出する地獄で、いかに生き抜いていったかを、おそらく事実に忠実に再現していると思う。

「ジャップはつり眼の猿だ。皆殺しにしてやる」

そう言って船に乗り込み、最前線に送り込まれた海兵隊の新兵たち。
彼らにとって戦争に志願し、日本軍をやっつけることは名誉であり、憧れでもある。
しかし最初の数日間の戦闘で心身ともにボロボロになり、遙か遠くのアメリカが恋しくなる。
この辺は日本人の兵士も同じようなものだろうが、日本兵の場合は徴兵された者が多かっただろうし、アメリカ人をやっつけるよりは天皇のために美しく散ることを命じられていたのだから悲惨である。

けれどもそんな事情を知らないアメリカ兵にとっては、密林の中から際限なく飛び出し、バンザイ突撃を仕掛けてくる日本兵は恐怖でしかない。
「奴らは勇敢なのか、それとも狂っているのか」
こうしたつぶやきは、彼らの本音だろう。

圧倒的な兵力と火力をもって進軍しているアメリカ軍の兵士だが、最前線の死にものぐるいの中では少しも優位は感じられない。
アメリカ軍の「優位」を見るのは、日本人兵士の死体から金歯を抜いたり、まるごしで逃げる民間人を撃ち殺したり、子どもも撃ってしまう残虐行為だ。
さすがに子どもを殺したときには撃った兵士が責められるが、彼はへらへら笑いながら言う。
「だって俺たちはジャップを一人残らず殺すために来たんじゃないか」

沖縄に上陸したアメリカ軍は、こうして人々を殺していったのか。
沖縄を占領した後、後から来た兵士が広島のことを伝える。
「新型爆弾を広島に落とした。町ごと吹っ飛んで、たくさんのジャップが死んだらしい」
「いったいどんな爆弾なんだ?」
「さあね、でもこれで戦争が早く終わる」

言うまでもないが、このドラマを通して戦争に対するアメリカの反省を見ることは難しい。
もちろん、戦争の悲惨さや戦場体験が与える心の痛手のようなものは描かれるが、彼らにとっては今も、日本人は「つり眼の猿」で、死ぬことも厭わない狂った人種なのだろう。

アメリカはその後もベトナム戦争で大きな犠牲を払ったが、この戦争の矛盾を描いたドキュメンタリー「ハーツ・アンド・マインズ」で、軍の司令官だったかが言っていた言葉が忘れられない。
「東洋人にとって、命はわれわれよりも価値が低いのだ」
当時、私は高校生だったが、この言葉には「何を!」と憤った。

その後もアメリカはイラクやアフガンに侵攻し、今も戦争を続けているが、おそらく彼らの考えは60年以上変わっていないのではないだろうか。
もしかすると、アメリカ人が戦争による本当の痛みを知り、警察国家などという思い上がりをなくすためには、アメリカ国内で戦争をするしかないのかもしれない。

「ザ・パシフィック」。そんなこんなを思いながら、最終回を見ようと思う。

《追記》
奇しくも「ハーツ・アンド・マインズ」が東京で公開されたようだ。
今もやっているのかは分からないが、機会があればぜひ。
私がテレビで見たときは、たしか残虐なシーンがあるというので白黒放送だったと思う。
今、それと思われるシーンがようつべでも見られるが、正直、私はさほど残虐とは思えなかった。
それは私自身が暴力に慣れ、汚れたものを見過ぎてしまったからなのだろうか。

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関連タグ : アメリカ, 戦争,

チェンジリング


クリント・イーストウッド監督の「チェンジリング」を観てきた。

この映画、紹介文を読むとどうしても最近ビデオで観た「バニー・レークは行方不明」(1966)を想起させる。
「バニー・レークは行方不明」は、自分の娘が行方不明になったというのに誰も娘のことを知らない、見たこともないという状況に置かれた母親が孤軍奮闘して真実を明らかにしていくという物語。ローレンス・オリビエ扮する刑事も、当初は母親の言い分がおかしいのではないかと疑ったりするが、母親の熱意に動かされて次第に事件性を感じ取っていく。
娘は本当にいたのか? いたとすれば今どこに? 誰が、なぜ娘を連れ去ったのか?
この謎の解明に向かって物語は進んでいく。

チェンジリング」もまた、息子がある日突然姿を消してしまい、その行方を追い続ける母親の物語だ。
ところがこちらの方は、5ヵ月後に息子が見つかったとして警察が男の子を連れてくるところで一件落着。しかし、その男の子は別人で、母親はそれを訴え、息子はどこにいるのか捜査を続けて欲しいと懇願するのだが、警察は頑として受け付けようとしない。
まるで「バニーレークは行方不明」を裏返したような物語だが、なんとこちらは現実にあった事件だというから驚きである。

チェンジリング」では、息子が見つかったという事実を受け入れようとせず、なおも捜査を求める母親を、警察は強制的に精神病院に入院させてしまう。
怖いといえばこちらの方が断然怖い。やはり事実は小説よりも奇なり、である。
息子はどこにいるのか? 連れてこられた別人の少年はいったい誰なのか?
観客はこの疑問を抱きながら物語を見守ることになる。

しかし「チェンジリング」の場合は、この後ストレートな息子捜しの物語とはならず、思いもかけなかった大量殺人事件の露見と警察の腐敗が糾弾される方向に向かっていく。
なんとも恐ろしい事件、しかも謎めいた展開を見せる事実に目をつけたクリント・イーストウッドはさすがと言いたい。映画にするには打ってつけの事件じゃないか。

今、アメリカ映画は経済危機によるファンドの破綻でどの映画会社も資金難に苦しんでいるという。アメリカ映画と言えば派手なアクション、大金を注ぎ込んで作ったセットが売り物だったけれど、これからしばらくの間、ハリウッドではそういう映画は作られないだろうといわれている。もし作るとしてもそれは他国の資本が入った場合で、事実、今年のアカデミー賞作品賞はインド資本で作られた「スラムドッグ$ミリオネア」だったし、「レッドクリフ」のようなど派手な大作は中国資本によって作られている。
そんな状況下でいい映画を作り続けて行くには一にも二にもすぐれた題材、アイデアによる脚本を練り上げていくしかない。そして出来上がった脚本のよさを最大限に活かして演出する監督がいなければハリウッドは早晩滅びてしまうだろう。
クリント・イーストウッドは今のハリウッドの中で、間違いなくその命運を握る監督の一人といえるだろう。ただし、それを託すには少々年をとりすぎているのが心配なのだが。

というわけでイーストウッドによる「チェンジリング」は今回もなかなかよくできているのである。主演のアンジェリーナ・ジョリーも、息子を捜して憔悴する一方で、決して諦めない母親の強さをよく演じていたと思う。

しかし、客席にいる私としては入れ替わってしまった息子の行方を追う物語が、意外な男児誘拐殺人事件と警察告発となっていくにつれて「あれれれ?」と思わざるを得なかった。

<以下、ネタバレあり。ご注意>


ひとつには息子として現れた少年の正体がもうひとつはっきり説明されなかったことがある。

自宅に帰ってから実際に起きたこの事件のことを調べてみると、少年は継母との折り合いが悪く、家出したところを警察が保護したものらしい。警察はおざなりな調査をして行方不明の少年と決めつけ、主人公の母親に押しつけてしまった。1928年当時のロサンジェルス市警の腐敗ぶりはほんとうにひどかったようだが、この母親も典型的な犠牲者の一人となったわけである。しかし、映画の中では継母との折り合いのことなど一切触れられず、遊園地に行きたかったとか言って、本当の母親が迎えに来て連れ去られて終わりである。
これでは観客にとっては消化不良を催させずにおかないだろう。

もうひとつ解せなかったのは、肝心の男児誘拐殺人――しかも20人にもおよぶ大量殺人――の動機がはっきり示されないことである。
映画では明らかに精神異常のゴードン・ノースコットという男が、自分の甥を使って男の子をさらっては農場に隔離し、ある程度人数がたまったところで惨殺する、というように描かれている。
まあ、それだけでも異常には違いなく、映画ではそれ以上描く必要はないのかもしれないが、男の子だけを何人も誘拐するとすれば誰だってそこに性的な目的があったのではないかと思うはずで、ただ惨殺するために子どもを誘拐していたというのではかえって不自然な感じがしてしまう。
実際、現実に起きた事件ではゴードン・ノースコットは性的目的で男児を誘拐し、自分の慰めものにした挙げ句、飽きてしまうと次々撲殺していったという。さらに悪質なことに、この男は同じ性的嗜好を持つ「客」のために誘拐した男児を提供してもいた。だからこそ3人でも5人でもなく20人もの子どもが犠牲になったのであり、これに当時の警察の腐敗・無能さが加わって事件を大きくしたのである。

「チェンジリング」は2時間半の長尺を緊張感を途切れさせることなく、最後まで見せてくれる映画だが、事件はそれでも説明しきれないほど複雑かつ怪奇なものだったわけだ。
とすると、クリント・イーストウッドには悪いが、事件の描き方はこれで十分だったのかと問いたくなる。
抑えた演出で引き締まった物語にしようとしたのはよく分かるのだが、肝心の事件の動機や謎解きに納得のいく説明はするべきだったのではないか。
ゴードン・ノースコットは裁判でものらりくらりと証言を二転三転させたようだが、事件の闇は闇としてきっちりと描く必要がある。

贔屓のクリント・イーストウッドではあるが、今回の作品は私としては70点の出来。
次回作「グラン・トリノ」では自ら主演しているようだが、こちらの方を今から期待したい。

関連タグ : クリント・イーストウッド, チェンジリング,

最近、思わず笑ってしまったテレビでの会話。

「吉永小百合って、いつまでたってもきれいだよな」
「あれ、CGだろ」

たしかに吉永小百合という人はいつまでも変わらない。本物はどうなのか知らないが、テレビで見る限りではシワらしいシワも見あたらない。年を取れば誰しも皮フがたるみ、重力に負けてあちこちが垂れ下がってくるものだが、テレビで見る限り、吉永小百合の肌はいつもピカピカのツルツルだ。

実はCM業界では知られていることだが、吉永小百合はとっくに引退しており、今画面に映っているのは過去の映像を元に作られたCGなのだ。
誰かがそう言ったなら、100人中30~40人は信じてしまうのではなかろうか。
それほどに、吉永小百合は今も若い。
ハルク

まことにコンピュータ技術の進歩には目を見張るものがある。
映像に携わる人間にとっては、まさに魔法の杖のようなものだろう。
この世にないものをあるかに見せて人を疑わせない技術は、北京オリンピックの開会式にも利用され、巨人の足跡を描いた花火が実は実写ではなかったことがニュースになったのは昨日のことである。中国政府はCGを使うことで自らの威信を守って見せた。世界中の人々は、そのCGによって見事にペテンにかけられ、さる有名なブロガーなども感動のエントリを上げてしまったほどである。

しかし、ミーハーながら長年映画を見続けてきた私にとっては、今やCGは親の仇のようなものと言っていい。
CGによって見事な映像が作られ、あり得ないような画面が繰り広げられるほど、私の興はどんどん冷めていく。

どうせCGだろ。

よくできたコンピュータと、よくできたコンピュータ・ソフトが気の遠くなるような計算をして作り上げたとしても、それは巨大な演算結果が目の前で踊っているに過ぎない。数値で作られた画像からは手作りの工作に見られるような、ぎこちないけれどため息が出るほど「よくできている」質感もなければ、工夫に工夫を凝らし苦労に苦労を重ねて作ったであろう作り手の情熱も伝わってこない。
CGが作る画面にそれらが欠けているというのではない。それらはたしかにあるのだろうが、かつて私が映画を見て感じたときめきをもたらしたものとは明らかに質が違うものなのだ。

昔はよかったな。
ハリーハウゼン

それはVFXが登場する前の特撮映画であり、SFXと呼ばれる手法が使われていた時代までのことである。
レイ・ハリーハウゼンのストップモーション・アニメは、精巧に作られた人形を少しずつ動かして撮影しているのだと分かっていても、私は画面に引きつけられたし、東宝の怪獣映画が子ども心にもミニチュアと着ぐるみで作られていると分かっても、私は手に汗握り夢中で映画を繰り返し見た。
近くでいえば「スターウォーズ」の模型の精巧さに唸ったし、「ウルフェン」や「ハウリング」で見た変身のリアルさに「すげぇ!」と声を上げて友だちと語り合わずにいられない興奮を覚えた。クローネンバーグの「ヴィデオドローム」や「スキャナーズ」のおぞましい場面には声を失い、どうやって撮影したのだろうと好奇心をかき立てられた。
こうした映画は映画史の中では必ずしも名作といわれるものではないものがふくまれているけれども、製作者の熱意と工夫はダイレクトに伝わってきたし、映画の登場人物たちの気持ち――恐怖や痛みまで――を感じ取ることができた。

しかし映画にVFXが使われるようになると、画面の作りは精巧になったが、特殊効果は誰が携わっても同じようにしか見えないし、なまじ本物らしく見えるがゆえにかえって嘘くさく感じられるようになった。そこでは登場人物たちがいかに苦闘しようとも、見ている私には痛みも恐怖も伝わってこない。

どうせCGだろ。

吉永小百合がいくら若く見えて容色に衰えが見えなくても、CG処理してるのだと思えば不思議でも何でもなくなるように、CGを使っている映画からは驚きや好奇心といったものが薄れていく。どんなに精巧でリアルに見えても、一度ばれてしまった嘘でメッキが剥げてしまうように、CGを使っているというだけで興が冷めていく。

やっぱり映画は昔の方がよかったな。

あらゆるジャンルの映画にCGが使われるようになり、アニメーションもCGが当たり前になってしまった今、私はそう思わずにいられない。
映画は科学と技術の進歩とともに発展してきたが、コンピュータが使われるようになってから、どうも道の選択を誤ってしまったような気がしてならない。
このままではどんどん映画がつまらなくなる。
リアルを追求するがためにかえってリアルから遠のこうとしている。
映画はこれでいいのか。

一映画ファンとして大きな危機感を抱きつつ、私は映画館に足を運び続けている。

関連タグ : CG, VFX, 特撮映画,

9.11事件の当日、あのビルにいた誰かがビデオを手にしており、航空機が突っ込んできたそのときを撮影していたら、こんな映像が残ったかもしれない。
スクリーンを見ながら、そんなことを考えた。

今日は、「クローバーフィールド/HAKAISHA」を観てきた。
クローバーフィールド01

映画はタイトルもなく、唐突に始まる。
最初にビデオのテストパターンが出て、そこに字幕が現れ、この画面はセントラルパークだったところから回収されてきたものだと説明される。

セントラルパークだったところ……

ということは、すでにニューヨークマンハッタンの、あの公園は此の世から姿を消しているということか。
しかしまた、なぜ?

考える間もなく、画面はごく普通のホームビデオの映像になる。
そこに登場する二人の男女。
一夜をともにした翌朝らしく、男の子が持つカメラが窓の外の眺めから家の中、そしてまだベッドの中にいる彼女と映していく。

歩きながら撮影するとこうなります、というように画面はブレブレで見にくいったらありゃしない。でも、これが作者の狙いなのだ。ビデオマニアが恐ろしい事件に遭遇したら、どんな映像を撮るか。これが、良くも悪くも「クローバーフィールド」の核となるアイデアだからだ。

同じような試みで作られた映画に「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」があったけれど、こちらは映画クルーがたまたま怪奇現象に遭遇してしまったという設定だった。
なんだ、同じじゃん。
でも、こっち(「クローバーフィールド」)の方がスケールがでかいよ。スケールがでかいから、生に近い臨場感が伝わってくる。だから思わず、私は9.11を連想してしまったのだ。
クローバーフィールド02
9.11では、見えないテロリストが人々を恐怖のどん底に突き落としたのだが、この映画でもそこいら辺がうまく考えられている。
突然ニューヨークの街が破壊され、人々がパニックを起こす場面が描かれていくのだが、一体何事が起こったのか、なかなかわからせてくれない。どうやら巨大な生物が暴れているらしいのだが、その正体がわからない。

どんな姿をした生物なのか、それはどこからやってきたのか、なぜ街を破壊し、人々を殺戮していくのか。
映画はこれらのことについて、ほとんど語ろうとしない。だから、映画を観ているわれわれも、登場人物と一緒になって混乱しながらストーリーを追うしかないのだ。
あの日、自分たちのオフィスがあるビルに飛行機が衝突するなど、だれも想像できなかった。しかし、悪夢のようなことが実際に起こったとき、人はどんな行動を取るのか。映画を作る勘所はここにあるだろう。

この映画が成功作になり得なかったのは、最初の思いつきは面白かったものの、結局は極限状態に追い詰められた人間というものを突き詰めて描けなかったところに原因がある。得体の知れないものに襲われ、暗闇募る夜の街を逃げまどう登場人物たちのセリフやリアクションが、いかにも嘘くさいのである。アイデアは面白いが、才能ある脚本家と監督だったら、もっと違う味つけをしていたに違いない。HAKAISHAの造形も、それがなぜ破壊に至るようになったのかをきっちり描くだろう。9.11の恐ろしさが、アルカイダというテロ組織によって起こされた無差別殺人だったとわかるにつれ、エスカレートしていったように。

しかし、だからといってこの映画がまったくつまらなかったわけではない。
訳もわからず、まったく理不尽に命を狙われることになる主人公たちの恐怖感は十分伝わってくるし、アメリカお得意の軍隊出動が、少しも頼りにならないところなどは皮肉に笑える。
結局、アメリカ政府はニューヨークを自らの手で消滅させてしまったのだが、果たして凶暴な威力をふるった敵を倒すことはできたのか。

そこは観客の想像にまかせる、というところがまた、なんともニクイね。


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関連タグ : クローバーフィールド, 9.11,

4月4日の「世に倦む日々」のエントリを読んで、ずっと心の中に澱のように沈んでいる言葉がある。
この日、取り上げられていたのは青森県八戸市で起きた、母親による8歳の息子絞殺事件のことだった。東京で結婚し、子供をもうけたが離婚して八戸の実家に息子と2人で帰ってきた母親。自宅に引きこもりがちだったという母親に、何があったのかはわからない。しかし、いつもそばにいて、母親が苦労している様子を見てきた息子は、「おかあさん」という題名の詩を書き、それが学校の教師の目にとまり、コンクールに応募して入賞を果たした。その詩の内容は、母親に対する愛情にあふれるものだった。
母親に対して深い愛情を持ち、全幅の信頼を寄せていたであろう8歳の息子の首を、30歳の母親は電気コードで締めて殺害した。

なんとも痛ましい事件がまたひとつ起きたわけだが、私の心に染みついて離れないのは、thessalonike4氏による以下の言葉だ。

「私にはどうしてもこういう問題とは自分を向き合わせなくてはならないのだという気分がある。それに触れずに先に行くことができない。何が起きているのかを考え、言葉にしなくてはいけないと思い、最も適切な言葉は何だろうかといつも思う。格差社会の戦場にいるのだ。それが私自身が最も納得できる言葉である。新自由主義の砲弾が飛んできて、隣にいた人間の頭部を吹き飛ばしたり、前を歩いていた人間の内臓をぐしゃぐしゃに潰して、死体が散乱して血だらけになった地面の上を歩いているのだ。戦場だから、次の瞬間に砲弾の犠牲になるのは自分だから、誰にも何も声をかけず、目を背けることもせず、ただ生体が死体になる事実だけを喉からのみこんで歩くだけなのだ。戦場では弱い者から犠牲になるのだ。イスラエルの地上軍はガザの子供を銃で頭を撃って殺すが、日本の新自由主義は日本の弱者の子供をこうやって殺す。」
土浦殺人事件
われわれは戦場に暮らしている。
目には映らず、耳にも聞こえないが、新自由主義の砲弾や銃弾が降り注ぐ修羅場の中で生きている。その言葉が、重く心にのしかかる。
親が子供を殺し、家族が家族を手にかける事件が相次いで起きている。
また、先月には土浦で無差別殺人事件が発生し、岡山では駅のホームから他人を突き落とすという衝動殺人事件もあった。
それぞれの事件には異なる背景があるが、私にはどの事件も、現代を象徴するもののように思えてならない。それを言葉にすれば「世に倦む日々」の記述と同じことになってしまうのだが。
戦場の中で生きているうちに、われわれの心は荒み、死というものに対する恐れが鈍ってきている。人の死を悼む気持ちはあるが、一方では悲惨でむごたらしい死が日常のことになって心の上層を滑り落ちていく。死はきまぐれに人々の上に訪れて、人間を弄ぶようにして命を奪って去っていく。人はなぜ、このような死に方をしなければならないのか、考えるいとまもなく死んでいく。
これまで、人間はいかに生きるべきかを考えることが人生の大きな命題だったが、今やわれわれはなぜ死なねばならないのかについても考えなければならないときにきている。

本年度の米アカデミー賞で、作品賞、監督賞など4部門を受賞したジョエル&イーサン・コーエン兄弟による「ノーカントリー」を観てきた。
すでにこの作品については様々なことが書かれていることと思うが、何の予備知識も持たずに観に行った私は、この作品がまさしく現代的な死をテーマに据えた、緊張感にあふれる物語として画面に見入った。

冒頭、画面はテキサスの広大な荒れ地を映しながら、保安官のエド(トミー・リー・ジョーンズ)の長い独白で映画は幕を開ける。「今の殺人は、まったく訳がわからない。老人の家に押し入った強盗が、年金を奪っただけで老人を拷問し、殺して穴に埋める。なぜ、そんなことをしなければならないのか」「自分はこの前、少年を死刑にした。彼は殺人を犯したが、理由などなかった。ただ殺したくて殺した。もし刑務所から出ることがあったら、また殺すと言っていた。まったく訳がわからない」――そんなモノローグが続いていくと、警官がひとりの男を逮捕する場面になる。男はおとなしく手錠をはめられてパトカーに乗り、保安官事務所まで連行される。まだ年若い保安官補が電話をかけていると、その背後に男が忍び寄り、手錠をかけた腕で保安官補を絞め殺す。渾身の力を腕に込めながら、どこか恍惚とした表情を浮かべて命を奪っていく。その男の名は、アントン・シガー(ハビエル・バルデム)。この映画の主役といってもいい、異様な殺人者だ。
シガー
画面が替わって、この映画のもう一人の主要人物、ジョシュ・ブローリン演じるルウェリンという男がライフルを構えて鹿を狙っているところをカメラがとらえる。彼は岩でライフルを支え、照準器を使って一頭の鹿に狙いを定める。息を凝らし、全神経を集中させて、鹿の胸のあたりを狙って引き金を引く。
次の瞬間、鹿は一瞬ガクッとよろめくが、銃声に驚いた他の鹿たちと一緒に逃げていってしまう。
獲物を逃したルウェリンは、双眼鏡であたりを見回しているうちに奇妙な光景を発見する。
それは、ギャングたちが麻薬取引で撃ち合いとなり全員が死亡してしまった現場だった。彼はそこで大量の麻薬と200万ドルという大金を見つけてしまう。誰も見ている者はいないが、そのカネに手をつけることは命を狙われることを意味する。それでも彼は200万ドルが入ったバッグを手に歩き去る。
物語は、ここから命がけで逃げるルウェリンと、ギャング組織に命じられてその命を狙うシガー、そして大量殺人事件解決とルウェリン保護のために立ち上がるエドの3つの視点から進められていく。

これ以上、ストーリーの説明は不要だろう。誰が死んで、誰が生き残るのか、そんなことはこの映画は問題にしていない。いちばんの眼目は、「死」というものがいかに理不尽に、しかも気まぐれに人に襲いかかるかという点にある。登場人物の一人がこんなセリフを言っている。
「死というやつは誰の思い通りにもならない。病気で長くはないとわかっていても、死ぬとなればなぜ今日なんだと思わずにいられない」

シガーは金などといった人間的な価値観を超越した存在で、人を殺していく。前を走っている車を止めては、不審気に降りてきた男に世間話のように語りかけ、屠畜用の圧搾ポンプで額に穴を開ける。彼は死そのものであり、彼のそばに寄るものは、カラスだろうと一発見舞われることになる。
しかしこの映画では、とかく関心は異常な殺し屋のシガーに向けられるが、私はむしろルウェリンという「まともな男」が狩りをしている場面が心に引っかかる。
ルウェリンはなぜ、狩りをするのだろうか。食料が必要だから? 毛皮や肉を売って金にするため? それとも、単にハンティングを楽しむだけだったのか。
映画ではルウェリンがベトナム戦争帰りだということが明かされるが、死神そのもののシガーの存在だけでなく、動物を狙い撃つルウェリンもまた、実は確たる理由もなく死をもたらす側に属していることを映画は暗示している。
数多くいる鹿たちのなかから、一頭に狙いを定め、引き金を引く。その一頭を殺さなければならない理由は何もないのだ。鹿に対して、ルウェリンは何も特別な感情を持ってはいない。ただ殺す。そこに獲物がいるから銃を撃つだけだ。シガーは、同じ臭いを持つ存在に感づいたから、導かれるように彼を追いつめようとする。
ルウェリン
思えば土浦で起きた無差別殺傷事件も、岡山で起きた駅ホームでの突き落とし殺人事件も、犯人となった男たちは得体の知れない死神のように被害者に迫り、命を脅かした。彼らは誰かを殺す必然に駆られて行動を起こした。ただし、その必然には意味などなかった。貧困、孤独、絶望、そんな言葉が浮かんでくるが、それこそが新自由主義が日本全国に絨毯爆撃のようにまき散らしている砲弾にほかならない。その砲弾にあたり、人生を粉砕された人間が我が子の首を電気コードで絞めて窒息させる。その銃弾に前途を閉ざされた若者が、見ず知らずの会社員をホームで突き飛ばした。あるいは集中砲火によって仕事の取引がなくなり、経済的に追いつめられた父親が家族を抹殺しようとした。まだ年若い母親が、マンションから我が子を投げ落とし、自分も身を投げた。彼らはみな、新自由主義の見えない狙撃手から照準器で狙いをつけられ、不幸にも被弾してしまったのだ。
ノーカントリー」では、理由なき殺人を繰り返すシガーの存在を現代的な死の象徴として描く。彼に対して、われわれは善悪のものさしすらあてはめて考えることができない。純然たる死に、いいも悪いもない。死の前に、われわれはただ膝を屈するしかない。
その言いようもない挫折感と絶望感。
きわめて現代的な死の問題をわれわれに反芻させつつ、この映画は幕を閉じる。

なぜ人は死ななければならないのか。その死は、どうして訪れたのか。これからは、その背景を思いつつ、「現代の死」に向き合う必要がある。そんなことを考えさせる映画だった。

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関連タグ : 児童殺害, 衝動殺人, 新自由主義, 戦場, ノーカントリー,

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