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酒好き、映画好き、本好き、落語好き、バイク好き、そして鬱。 ちょっとばかり辛い日もあるけれど、フンニャロメ~と生きてます。
◎心にとめおく言葉
●人は、自分が見たいと思うものしか見ようとしない――ユリウス・カエサル
●為政者たるものは憎まれることはあっても、軽蔑されることだけはあってはならない。(塩野七生)
●自分に当てはめられない基準を他人に当てはめるべきではない
――ノーム・チョムスキー
●さまざまな知識人、文化人、政党やメディアは一般の人々よりも右よりな立場を取る――ノーム・チョムスキー
●考えろ、考えろ、考えろ!――ジョン・マクレーン

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郵政社長人事をめぐる対立で、とうとう鳩山邦夫総務相が更迭された。

麻生太郎にしてみれば鳩山は「太郎会」の会長であり、麻生が代表選に立ったときには3回も選対本部長を務めたほどの功労者だ。
その鳩山を麻生が切った裏には、あの「郵政民営化」選挙で大勝利を収めた自民党内に、今もこの問題を逆行させるような動きに対しては大きな抵抗が働いていることを感じさせるものがある。
鳩山が対決しようとした西川善文は、竹中平蔵の肝煎りで三井住友銀行から迎えられた人物で、西川に辞任を迫った鳩山に対しては竹中が血相を変えて非難している様子がテレビに映し出されていたのが印象的だ。
今回の決着を導いたのにも竹中=小泉=財界の思惑が働いていたのは明らかであり、鳩山邦夫は孤軍奮闘の英雄気取りで「正義を貫く」と言い続け、更迭が決まってからは「潔く去る」といいところを見せようと涙目になっていた。

しかし、鳩山邦夫という男は「正義漢」どころか「男らしい」人間でもなく、これまでの経歴をたどれば再三にわたって恩を仇で返してきた卑劣な人間であることが分かる。
その辺をkojitakenの日記がうまくまとめているので、引用させていただく。
タイトルは「鳩山邦夫裏切りの人生」だ(笑)。

[旧民主党結党時に武村正義・村山富市両氏を排除]

鳩山由紀夫・邦夫の兄弟が「排除の論理」と称して、さきがけの武村正義氏や社民党の村山富市氏の民主党への参加を拒否。この動きに特に熱心だったのが、弟の鳩山邦夫だったことはよく知られている。

[東京都知事選立候補のためと称して民主党離党、その後なんと自民党入り]

そんなわがまま三昧の鳩山邦夫だったが、1999年の東京都知事選に立候補するためと称して民主党を離党。しかし、都知事選では民主党の支援を受けて戦った。結局都知事選は、「後出しジャンケン」で参入した、鳩山邦夫以上に卑劣な石原慎太郎に敗北。しかし鳩山は、都知事選後も民主党に戻らず、あろうことか自民党入りしてしまった。

[菅直人への「刺客」として衆院選に立候補]

民主党を裏切って自民党入りした鳩山邦夫は、ナナナナナント! 2003年の衆院選で菅直人の「刺客」として東京18区から立候補。この時鳩山邦夫は、「あのような人物を一国の総理にするわけにはいかない」とほざいた。この選挙で鳩山は、一時は菅直人を上回っているとも報道されたが、結局地力の差が出て選挙区では落選、比例で復活した。


どういうわけか、反自民を標榜するブログ界では今回の鳩山邦夫の「反抗」を持ち上げ、あろうことか民主党に戻って兄・由起夫とタッグを組むべしなどという輩がいるようだ。
しかし上の引用にもあるように、鳩山邦夫は都知事選のために民主党を離党し、そこで敗れるとあろうことか今度は自民党に寝返った男である。そして今度は菅直人の刺客として立候補した。これはまさに、恩人に対して後脚で泥を浴びせるような真似といってもいいのではないか。
鳩山邦夫がいかに見得を切って「潔く去る」などと言っても、決して騙されてはならないと思う。

私自身が鳩山に対して不信を抱くのは、法相時代に「死刑をベルトコンベアー式に自動化する方法はないものか」といい、2月ごとに死刑執行を命じていたことが大きい。この男は人の命をどう考えているのだろうか。そう思わずにいられなかった。
朝日新聞の素粒子が「死神」呼ばわりして、鳩山は血相を変えて怒ったが、数日前に冤罪だったことが明らかになった管家利和さんの例を見ても分かるように、死刑制度は罪もない人を殺してしまいかねない危うさを持っている。
それを鳩山のような考えで自動化していったらどうなるか。
管家さんのように無罪を主張し、確たる証拠もなかったのに死刑が執行されてしまった飯塚事件の久間三千年さんのことを考えても、慄然とするしかないのである。
鳩山邦夫という男は、不完全な死刑制度を積極的に肯定し、自ら機械仕掛けのロボットのように2月ごとに死刑執行の命令を下していったのである。
このような男を、どうして今さら「正義の人」などと呼べるだろうか。

民主党員のさとうしゅういちさんもまた、鳩山邦夫に対しては厳しい見方をブログで見せている。
さとうさんは鳩山のことを「正直に申し上げて「裏切り三昧で信用できない人」だとわたしは思います。」と評し、「野党であろうが、与党であろうが、一般有権者であろうが、この方を過剰に持ち上げることは愚策だ」と述べている。そして鳩山の本質は「信念などあまりなく、その場その場で、受けそうな行動を派手にぶちあげる。」というところにあることはたしか、としている。
そのうえで、さとうさんは鳩山邦夫が民主党に復党することについて、「弟だからといって特別扱いしたら、それこそ、民主党の世襲立候補禁止の趣旨(仲間内政治の排除)にも反してくる」と釘を刺している。

今回の郵政社長人事では、またしても決断力のなさを見せつけた麻生太郎だが、この一件が支持率をいっそう低下させるのならばまだしも、端から見れば自民党内のゴタゴタでしかなかった今回の事件を上手いこと理由付けして郵政民営化を正当化し、さらなるカイカクを進めようという議員たちを勢いづかせてはならない。
国民にとっては西川善文などのことよりも、苦しくなる一方の生活をどう立て直すか、社会保障をどう見直していくのかが最大の焦点なのだ。
このことを忘れて自民党に利するようなことがあってはならない。
なによりも政権交代をして自民党を倒し、これまで自公政府が行ってきた悪政ひとつひとつを新しい政権の手で洗い直していくのをなんとしてでも実現化しなければならないと思う。

私は民主党が第一党になっても批判すべき点はたくさん出てくると思っているし、そのときには遠慮なく批判していきたいと思っている。できることならば民主党を中心に社民、国民新党の連立でバランスの取れた政治を行ってもらいたいものだが、どんなときにも政権を厳しく監視するのは国民の務めであることを忘れないでおきたいと思っている。
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関連タグ : 鳩山邦夫, 正義,

朝日新聞が夕刊のコラム「素粒子」で、鳩山邦夫法相が宮崎勤をふくむ死刑囚13人の刑を執行したことに触れ「死に神」と表現したことに対し、思わぬ波紋が広がっている。

死に神呼ばわりされた鳩山邦夫が激怒したことは、話の流れから当然ともいえる。
私とすれば、あまりに言葉が軽く、死刑をベルトコンベヤーに乗せるようにして執行できないかなどという法相にあるまじき無責任な発言をしていた鳩山邦夫に対しては、たとえに用いられた死に神の方が失礼だと怒ってしかるべきだと思っている。
ことに、秋葉原の通り魔殺人の直後に宮崎勤を処刑したのには、みせしめという政治的な意図も見て取れる。

それでも朝日は、激怒した鳩山に対し、「中傷する意図はなかった」と謝罪した。

鳩山が納得したかはともかく、これで一件落着と思っていたら、そうではなかった。
今度は「全国犯罪被害者の会(あすの会)」が怒り出したのだ。
あすの会の言い分はこうである。
「確定死刑囚の1日も早い死刑執行を待ち望んできた犯罪被害者遺族は、法相と同様に死に神ということになり、死刑を望むことすら悪いことだというメッセージを国民に与えかねない」として「素粒子の表現は、犯罪被害者や遺族をも侮辱する内容」としている。そして、死刑執行の数がどうして問題になるのか」など4項目の質問を送った。

朝日はこれに対して「いただいた『抗議および質問』を真摯に受け止め、速やかにお答えする」とコメントを出した。

すると、こんどは「地下鉄サリン事件被害者の会」が抗議文を朝日に送りつけた。
「被害者遺族にどんな気持ちを起こさせるか考えなかったのか」とのあすの会の質問に対して朝日側が「気持ちに思いが至らなかった」と回答したことに触れ、「犯罪被害者へのさまざまな二次被害防止の取り組みがなされている中、(朝日新聞社は)旧態依然と言わざるを得ない」と批判している。そして鳩山邦夫については、「現行法に従って粛々と(処刑を)実行した。なんら非難、中傷を受けるようなことではない」と擁護した。

さて、あすの会による抗議にはmahounofuefukiさんが「世界の片隅でニュースを読む」のエントリで朝日は「あすの会」に謝罪する必要はないという意見を述べている。
朝日の「素粒子」に対して、鳩山が抗議するのにはもっともな理由がある。
しかし、それに追随して「あすの会」までが抗議するとはどういうことか。「素粒子」が書いた文章には「あすの会」や犯罪被害者を侮辱したり、彼らの活動を否定するような文言はまったくない以上、「あすの会」の抗議は単なる言いがかりにしか思えない、というのである。

私も、ニュースで「あすの会」が朝日新聞に抗議したと知り、その内容が、自分たちもまた死に神ということになるという点については違和感を抱いていた。
だって、「素粒子」の記事は、逆さにして読んだところで「あすの会」までも「死に神である」と言っているとは読めないからだ。どこをどう解釈すれば、自分たちまで侮辱を受けたと思えるのだろう。この人たちの国語力というか、読解力には根本的に問題があるのではないかと思えたのである。

たしかに犯罪被害者に対しては、文句を言いづらい気持ちはある。しかし新聞社として、この場合ははっきりと「素粒子」の文章が「あすの会」のことに触れた部分はまったくないと反論すべきだった。覚えのないことに対する言いがかりを受けつける必要などなかったのだ。

依然として、この国には重い罪を犯した者には極刑をもって償わせるべきであるという考え方が根強くあるが、死刑は国家による殺人であるとして極刑には懐疑的な考えを持つ者もいる。「あすの会」は殺人を犯した者に対しては死をもって報いよという考えで統一されているのかもしれないが、それでは鳩山の言う「ベルトコンベヤー」装置の一部になるということであり、この装置を少しでも認めないところがある者は許せないとして過剰反応をするあたりは、一種のファッショといえるのではないか。
「あすの会」の抗議に同調する形で抗議文を送った「地下鉄サリン事件被害者の会」もまた、同様である。

理不尽な犯罪によって大切な家族を失った悲しみは、たしかに当事者でなければ分かるものではないだろう。
しかし、だからといって自分たちの意向に反するものは何者も許せないという態度は、いかにも狭量であり、自由な言論を封じ込める危険性すらはらんでいる。

それは北朝鮮による拉致被害者家族にもいえることだ。
家族が突然北朝鮮に連れ去られてしまったという国家的犯罪に遭って、非常な悲しみと苦しみを受けていることは分かる。しかし、安倍晋三のような極右政治家に扇動されていつまでも北朝鮮に対する強硬路線を主張することは、国民にとっては反対しにくいことではあるけれども、国家の利益やアジアの平和全体を考えると、彼らの主張が決して日本の将来にとって善い影響を与えるとは思えない。
アメリカの歴史でもっとも凡庸な大統領の一人に数えられるブッシュは、いったん決めた北朝鮮のテロ支援国家指定解除を昨日になって「拉致問題を忘れることはできない」と言い出して、平和と対話に向けて動き出した北朝鮮との関係に再び水を差す動きを見せてしまった。アメリカにとっては拉致問題など優先順位が低い問題のはずなのに、ブッシュはここにきて冷徹な政治家になりきることができず、八方美人になる方を選んでしまった。
今や拉致被害家族は、日本にとってもアジアにとっても「困った存在」であることは確かで、アジアの平和を欠かすことができないアメリカとしては、拉致被害家族に対して、これからは日本と北朝鮮の二カ国間で話し合いを続けるようにと言えばよかったのだ。

いわれのないことに対して言いがかりをつける犯罪被害者遺族たち。
アメリカだのみで拉致問題の解決を願う拉致被害者の家族たち。
これらに対して敢然として否ということができないマスメディアのだらしなさ。
日本的タブーの存在が言論や報道の自由を損ない、そのあり方を歪めている事実に私は憂慮し、大きな危機感を持つものである。

関連タグ : 素粒子, 鳩山邦夫, あすの会, 地下鉄サリン事件被害者の会, 北朝鮮拉致被害家族,

「2カ月間隔でゴーサイン出して新記録達成。またの名、死に神
朝日新聞の夕刊コラム「素粒子」がこう書いた。
これに対して、書かれた本人である法相の鳩山邦夫が机を叩いて激怒した。
鳩山邦夫
「(死刑囚は)犯した犯罪、法の規定によって執行された。死神に連れていかれたというのは違うと思う。(記事は)執行された方に対する侮辱だと思う」

確かに死神につれて連れて行かれたのではあるまい。鳩山邦夫が「あの世に送れ」と指示を出したのだ。死神は人に取り憑いて死に追いやるが、鳩山は判を押して囚人を死刑台に追いやる。
宮崎勤は拘禁状態により精神に異常をきたしていたことは明白であり、そのような者を死刑に処してはならなかったと私は思っている。
しかし鳩山は、直近に起きた秋葉原通り魔事件に呼応するように宮崎の死刑を命じた。この処刑は誰の目にも理不尽で残虐な犯罪を犯した者に対する「見せしめ」と映ったに違いない。
鳩山は2ヵ月ごとに死刑の執行を「粛々と」行い、半年に13人をあの世に送ってきた。のみならず、側近の者には「もっと処刑者のリストをよこせ」と命じているという。
朝日の素粒子の筆者は、そのことも頭にあって「死に神」と書いたのではないか。

激怒した鳩山は、続けて言った。
「私を死に神と表現することがどれだけ悪影響を与えるか。そういう軽率な文章を平気で載せる態度自身が世の中を悪くしていると思う」

いったい何を言いたいのか意味不明だが、鳩山を死神呼ばわりすることが世の中にとって悪影響を与えることにつながると言いたかったのだろう。頭の悪い鳩山には、まともな言葉づかいもできないようだ。それにしても友だちの友だちはアルカイダという鳩山ごときを死神になぞらえたところで、何の悪影響があるというのだろう。鳩山には是非具体例を挙げて反論してもらいたかった。

それにしても、こんな、本物の死神でさえ怒り出すような幼稚なおつむの持ち主に対して、日本社会では擁護する者が多い。そのことに驚きを禁じ得ない。件のコラムを掲載した朝日新聞社には、1800件もの抗議や意見が寄せられたというのだ。その多くは「鳩山法相は法に従って職務を遂行しただけだ」といった内容だったという。たしかに法律では死刑が確定してから6ヵ月以内に刑を執行しなければならないという定めがあるが、精神異常を疑われる者は刑を執行してはならないという定めもまたある。鳩山は自分に都合のいい規則を選んで刑を執行したにすぎないのではないか。

激怒した鳩山に対し、兄の鳩山由紀夫は「弟は死神ではない。私は『死神の兄』と呼ばれたくはない」と言った。マスコミはこれを兄が邦夫を擁護したものと伝えているが、そうだろうか。私には「愚かな弟と並び称されたくない」と言っているように思えるのだが。

鳩山邦夫という男は、死刑が自動的に執行されることを望んでいる人間であり、死刑を執行することに対する責任や罪の意識から逃れたいと願っている人間だ。死刑が確定した人間はその瞬間から死刑台へのベルトコンベアーに乗せる。法の名の下にどんどん人を吊していけば、それが見せしめとなって犯罪が防げるという考えを持っている単細胞な人間だ。そこには法相としての責任感など微塵も感じられないではないか。
こんな男に死刑台に送られる死刑囚こそ、人生の最後に侮辱を受けるようなものであり、さぞかし無念を抱えて刑場に消えたことだろう。精神異常の宮崎勤を除いては。

今の内閣はさまざまな病根を抱えているが、鳩山邦夫はそのなかでも特大の病巣のひとつに数えられるだろう。


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関連タグ : 鳩山邦夫, 死刑, 死に神,

「お父さんは、死刑がない方がいいと思うの?」

数日前、「ニュース23」を見ながら、娘が聞いてきた。
番組ではその日、死刑擁護論者というよりも推進者の鳩山邦夫法相と死刑廃止論者の亀井静香が対談をしていた。
鳩山は、法相に就任して以来、今日までに10人の死刑確定者に対して死刑執行を命じている。
死刑については、鳩山は昨年「法相が関わらず、自動的に死刑執行をするシステムがあってもいいのではないか」という発言をして物議を醸したことでも知られる。このときは言葉の選び方がよくなかったと弁明したが、鳩山が死刑そのものを必要なものと考えており、死刑執行は粛々と執行されるべきものと思っていることに変わりはない。
鳩山邦夫
この日の放送でも鳩山は、死刑執行が犯罪の抑止力になっているという持論を述べていた。人を何人も殺しておいて、犯人の命だけが助かるのはおかしい、日本の風土に合わないと言っていた。

これを聞いていて、私は思わず「そうかな」とつぶやいたところ、それを聞きとがめた娘が冒頭の問いを私に投げかけてきたというわけだ。

私は、少し考えて、「やっぱり死刑制度はない方がいいと思うよ」と答えた。

「どうして。それじゃあ殺された人の家族が可哀相じゃない」

たしかにその通りだ。
自分だって、家族を殺されたら、殺した犯人をただにしてはおかないと思うだろう。殺されたのが犬だって、相手を憎む気持ちは変わらないだろう。

けれども、理不尽なことに対する憎しみを解消する手段として「死刑」があってもいいのかとなると、どうしても躊躇する。
人を殺すことは、もう一人殺すことでチャラになるのか。そう考えると、私にはどうもチャラになるとは思えないのだ。

死刑は国の権力に基づいて行われる刑罰である。
しかし、国というものは、国民の安全と生活を守る義務はあるけれども、犯人とはいえ国民の一人の命を奪う権利はないのではないかと思うのだ。
もちろん、これに対しては国民の生活を守るために殺人を犯すような人間は死刑にすべきだという答えが返ってくるだろう。
けれども。
私は、国には「お前は悪いことをしたのだから、世間の人々と一緒にいては困るよ」と刑務所に隔離する権利はあっても、「お前は悪いことをしたのだから、生きていてはいけない」という権利はないように思えて仕方がないのだ。

死刑をせよ、と今なら鳩山邦夫がそれを命じる。
果たして鳩山邦夫という男にそれだけの権利があるのか。
鳩山は、死刑を執行せよとは言うが、実際に死刑を行うのは刑務所の刑務官である。彼は役人だから、上司の鳩山から命じられればそれに従うしかない。
そして個人的には何の関係もない「犯人」を、法の名の下に「殺人」するのだ。
むろん、刑務官に殺人をするという意識はないだろうが、それでも自分の手で一人の人間を死に至らしめることの重みは感じるに違いない。

タイトルを忘れてしまったが、死刑執行を描いたノンフィクションを読んだことがある。そこでは、死刑執行を行う刑務官の苦悩も描かれていたことを記憶している。

人が人を殺す。これは一般社会のなかではあってはならないことである。
それと同様に、刑務所の中でも、人が人を殺すことはあってはならないのではないか。たとえそれが法務大臣の命令だとしても。

「それじゃあ遺族の気持ちはどうなるの」

娘は不満げだ。

「何も悪いことをしてないのに家族を殺されて、ずっと悲しみと憎しみをこらえて生きて行かなければいけないの?」

私はまたも考えて、やはりそうだとうなずく。
激しい怒りと悲しみと、憎しみ。
それを生むから犯罪は忌むべきものなのだ。けれども、その激しい感情は犯人を死刑にすることでしか癒せないものなのか。あるいは昇華することはできないものなのか。私はそこで暴論を言う。

「ほんとうに遺族が気持ちを晴らせるようにするなら、もういちど仇討ちを復活させるしかないだろう」
「そんなこと、できるわけがないじゃない」
「できないよ。だから、何とか別の方法で気持ちを落ち着かせなければならないのじゃないか」

ここまで話すと、どうしても思いは山口県光市で起きた母子殺人事件におよぶ。22日にはいよいよ判決が言い渡されることになっているが、被害者遺族の本村洋氏が強く死刑を望んでいることは私も知っている。
それについて私が言うことはない。
あのむごい事件に遭って、犯人に対する怒りを燃やすことは当然のことだ。死刑を願うのも自然だろう。

けれども、第3者である私はやはり、死刑には反対だと唱える。
ただし、仮釈放なしの終身刑にはしてやりたいと思う。被告が犯した罪は、一生かけて償う必要がある。今の法制度には仮釈放なしの無期懲役刑はないが、裁判員制度がはじまるまでにはぜひとも、この量刑を法に盛り込むべきだと思う。

むごい殺人事件を起こしても死刑にならないとしたら、犯罪は増えることになるのだろうか。鳩山邦夫は増えるという。私の娘もそれに賛成する。
しかし私は、賛成しない。

裁判の判決が厳しくなるのはある程度、犯罪の抑止力になるとは思うが、死刑判決がそれに結びつくとは思えない。打ち首獄門が行われていた江戸時代でも、犯罪は起きていたのだ。
鳩山邦夫が10人の死刑を執行したこの期間に、目立って犯罪が減ったかと言えば、そんなことはない。犯罪は死刑があるかどうかで発生数が変化するのではなく、政治が悪いかどうかで変化すると考える方が妥当だろう。悪政が行われて社会に不安が満ち、秩序が乱れれば犯罪が発生するのは当たり前ではないか。そこに死刑がどれほど関係するというのだ。

それでも娘は、まだ納得せずに言う。
「無期懲役が最高刑になったら、被害者遺族が払う税金で犯人を養うことになる。私はそんなの許せないと思う。死刑にした方がお金がかからなくてすむでしょう」

人の命をコストで計るということには抵抗があるが、それも見逃せない理屈であることはたしかだ。
単純に考えると死刑の方がコストがかからないように思えるが、実は反対で、死刑の方が無期懲役よりもコストがかかるという報告がアメリカではなされている。そこには収監中の生活維持費や裁判費用などの要素が複雑にからんでくるのだが、実際には両者のコストを正確に比較することは難しいようだ。日本ではこのような試算が行われていないようだが、それはなぜなのか。

というわけで、コストの点から死刑を存続させるべきという意見にも、私は疑義を呈する。

娘は、ついに到底納得しない様子でぷいと立ち去ってしまった。

そうなのだ、犯罪とは当事者だけでなく、それについて思いを巡らせる人間にとっても、到底納得できるものではないのだ。

だから厄介なのだ。厄介だけれど、真剣に考えていかなければならない問題なのだ。
裁判員制度が始まろうとしている今、その重要性はますます高まっているといえるだろう。


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関連タグ : 裁判員制度, 死刑制度, 鳩山邦夫, 光市母子殺害事件,

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