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酒好き、映画好き、本好き、落語好き、バイク好き、そして鬱。 ちょっとばかり辛い日もあるけれど、フンニャロメ~と生きてます。
◎心にとめおく言葉
●人は、自分が見たいと思うものしか見ようとしない――ユリウス・カエサル
●為政者たるものは憎まれることはあっても、軽蔑されることだけはあってはならない。(塩野七生)
●自分に当てはめられない基準を他人に当てはめるべきではない
――ノーム・チョムスキー
●さまざまな知識人、文化人、政党やメディアは一般の人々よりも右よりな立場を取る――ノーム・チョムスキー
●考えろ、考えろ、考えろ!――ジョン・マクレーン

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最近、自分の人生は間違っていたのじゃないのか、と考えることがある。

他人の人生と比較してみてもつまらないが、少なくとも非正規雇用の最右翼に位置するフリーランスの一人として新自由主義の荒波に洗われつつ、社会には何のセーフティネットもなく、むしろ妙な偏見さえあるという現実の中で生きてくると、否応なく「ほんとうはもっとましな生き方を選ぶ余地があったのではないか」と思うことになる。
ことに自分の子どもがこれから世の中に出ようとする時に、「悪いことは言わないからフリーランスにだけはなるな」と忠告せざるを得ないときの苦い気持ちは、誰になんと訴えたらいいものかと思うほどに辛い。

しかし、もしもう一度人生をやり直せるとして、どこまで遡り、どう修正を加えれば、間違えずにすんだのかというと、分からなくなってしまう。
結局、どこをどうやり直してみても、私は今の私にしかなりようがなかったのではないか。

私は、運命論など信じないし、神の存在もドーキンスのいう「妄想」に近いものだと思っている。
それでも人間には抗いようのない「必然の力」が働いているとしか思えない。

この世に神は存在しないが、宇宙を創った見えざる力は働いている。
それを神と呼ぶのならば神はあると言おう。
ただし、その神は意志などもたない物質あるいは現象なのだから、人の祈りは通じない。祈りもまた妄想の類である。
神はただそこにあり、宇宙を運行させている。
地上にあるわれわれ人間は、たまさか起きる偶然を神の意志として捉えたがるが、所詮は確率論の問題でしかない。グスタフ・ユングのいう「共時性」も、私にはただの偶然の一致か、ある出来事に起因する化学反応的な連鎖の結果としか思えない。
夢に見たコガネムシの話をしているまさにその時に、部屋の中にコガネムシが飛び込んできたとして、それになんの意味があるというのだ? それよりは貧困がテロを生む温床になっているという連鎖現象の方が何倍も大きな問題だし、雇用創設をして職を失った人々への対策を講じなければ日本社会が荒廃していくことを心配する方がずっと意味があると思う。

それでも、人が生きる道には何かの必然が働いているように思えてならない。
私に限っていえば、薄給のくせに毎日飲んだくれて帰ってくる父親と、外国航路の船長をしていた父親の家庭に育ち、それゆえに一種の奉公人に等しいサラリーマンを軽蔑している母親が何の奇跡か一緒になった結果、この世に生まれてきた。いくら母親が世の中を知らなかったからとはいっても、飲んだくれの安月給取りの男との結婚生活がうまくいくはずもなく、私はごくごく幼い頃から日常的に絶えることのない夫婦喧嘩と母親から吹き込まれる「サラリーマンほど下らないものはない。男なら腕一本で世界に出て活躍するようでなければならない」という教えのなかで育てられてきた。

もうこれだけで、私の人生は決まったようなものである。
私は、高校・大学の頃から就職をしてサラリーマンになることに興味を持たなかったし、酔いつぶれてふらふらになっている父親、人の生き方についてなどまともに考えることもなく会社に通っている父親を見て軽蔑の念を強めるばかりだった。

母親は、今思えば典型的なファザー・コンプレックスで私を自分の父親のようにさせたい一心だった。その思いは狂信的であり、息子が何に向いているのか適正を見極めようとするよりは自分の理想とする医者か弁護士という陳腐な枠組みに当てはめようとするばかりだった。
当然のことながら、私は父親を軽蔑する一方で、母親にも猛烈に反発した。しかし母親による洗脳は強烈で、父親のようにはなってはならない、大人になったら自分の才能と腕一本で世の中を乗り切っていける人間にならねばならないと自然に思い込むようになっていた。

「そうよ、やろうと思えばなんだってできるんだから。下らないサラリーマンなんかになっちゃ駄目よ」

母親は、毎日満員電車に揺られてカイシャに通うサラリーマン生活を、いくら働いても決まった額の(母親からすれば不当に安い)給料しかもらえず一生をカイシャのために捧げなければならないサラリーマン人生を、惨めでつまらないものだとして蔑んだ。私は父親を反面教師にしながら、母親の言葉を刷り込まれていった。

幸か不幸か、いや不幸なことに、私は小学生の頃から国語が得意で、中学・高校の頃には小説や映画に興味を持つようになっていた。大きな賞を取ることはなかったが、作文が何かのコンクールで佳作に選ばれたり、図工で描いた絵が県内の銅賞だか銀賞をとったことがあった。すると母親は言った。
「あんたは芸術家に向いてる。だからそっちの方で頑張りなさい」
単なる親ばかである。
しかし母親は本気で、とは言ってもそのために息子を特別な学校に入れたり家庭教師をつけたりするという方法は取らず、自分がいいと思う映画を見せたり音楽を聴かせたりすることで感受性を育てようとしたようだ。父親は相変わらず仕事が終わっても酒を飲んでくるのでいつも帰りが遅い。母親と一人息子である私は、食事が終わると決まってレコードをかけ、音楽鑑賞をするのが日課のようになっていた。

今、母親のことを思うと、芸術方面に刺激を与えてくれたことを感謝はするが、彼女は明らかに私を自分の思うがままにコントロールしようとしていたのであり、新自由主義的な考え方を吹き込んで息子を世の中の勝ち組にしようとしていたのだと思う。
教育熱心な母親、とくに駄目な亭主を持つ一人息子の母親はみな新自由主義者で、人に使われるよりは使う立場になれ、貧乏は悪いことで金持ちになることが幸せになるには欠かせないという価値観を子どもに植えつける。

残念ながら、私は母親が期待するほどの才能を持ち合わせておらず、成長するにしたがって母親の価値観に疑問と反発を感じるようになっていった。
その結果、今の私がある。

フリーランスが辛いといったってね」
今、知り合いの編集者は私の愚痴を聞くとこういう。
「自分で考えてみてくださいよ。会社勤めが務まったと思います? 思わないでしょう」
私はうなずかざるを得ない。
「ね。務まらないんですよ。だからフリーランスになった。いいじゃないですか、それで。仕方ないですよ」

たしかに、私はどう考えてみてもサラリーマンはできなかったと思う。集団で作業をするのが苦手だし、組織に管理されることに我慢がならない。さらには組織というものを信用していない。

私は、若者には無限の可能性があるという言い方には反対である。それは私の母親が「やろうと思えばなんでもできる」と言っていたのと同じで、裏を返せばその考え方は限りなく自己責任論に近づいていくからだ。
人間には大きな可能性が秘められている。けれども、人にはおのずと限定された生き方しかできないと思っておいた方がいい。もちろん、多くの中には天才的なひらめきを発揮して成功する人もいるし、信じられないほどの幸運に恵まれて幸せをつかむ人もいる。
でも、それはあくまでマイノリティであり、宝くじを買う人は多いのにあたる人はごくごく限られているのと同じである。

さて、こうして考えてみると、自分の人生は間違っていたのではないかと思うことがある私は、仮にタイムマシンがあって人生を遡ることができたとして満足できる方向に軌道修正できるのかという最初の問題にも答えが出てきそうだ。
つまり、人の一生はたとえやり直しが利くとして、それほど劇的に変えることはできないのではないか、というのが今のところ私の答えだ。もし変えるのならば、まず親を選び直すことから始めなければむずかしいだろう。
たしかに、転機はいくつかあった。
しかし組織で生きることを嫌い、他人と共同歩調を取ることができないのが私の基本である以上、それを裏切らずに選び取ってきた選択の結果が「今」なのだ。

フリーランスとして厳しい人生を選んでしまった私には、後戻りすることは難しい。
ならば、これから少しでもよりよく、自分で納得できる幸せをつかむためにはどうしたらいいのか。

そのためにはフリーランスに対して常に厳しい条件を突きつける社会を変えていくしかないのではないか。フリーランスライターというと(得体の知れない仕事をしている怪しい人間)という偏見をなくしていくことしかないのではないか。
その上で収入が増えれば言うことなしだが、カネのことは言うまい。
カネの話はもっとも苦手だし、第一、金儲けすることが人生の幸せとはかぎらないことを証明するために、私はこの仕事を選んだといえるのだから。

■追記
今、安月給で毎日飲んだくれていた父親は、結局定年と同時にアルコールのために脳に機能障害を得て施設に入って余生を送っている。私のことは分かるけれど、せっかく会いに行っても、ものの1時間もしないうちに私と会ったことを忘れてしまう。
そんな父親でも、会社に勤め続けたおかげで企業年金と厚生年金でかなりまとまった額の年金が入ってくる。フリーランスの私などよりもずっと安定した収入を得て、心配のない暮らしを送っているのである。
そんな現実を見るにつけ、人生はやっぱり金を稼げる者、つまりは会社という組織に所属してカイシャ人間として人生を全うできる人間が、とりあえずは最低限の幸福を得られるのかもしれない、などと思ったりもする。不本意ではあるけれど。


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