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酒好き、映画好き、本好き、落語好き、バイク好き、そして鬱。 ちょっとばかり辛い日もあるけれど、フンニャロメ~と生きてます。
◎心にとめおく言葉
●人は、自分が見たいと思うものしか見ようとしない――ユリウス・カエサル
●為政者たるものは憎まれることはあっても、軽蔑されることだけはあってはならない。(塩野七生)
●自分に当てはめられない基準を他人に当てはめるべきではない
――ノーム・チョムスキー
●さまざまな知識人、文化人、政党やメディアは一般の人々よりも右よりな立場を取る――ノーム・チョムスキー
●考えろ、考えろ、考えろ!――ジョン・マクレーン

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駅近くにあるそのネット・漫画カフェは、雑居ビルの5階にあった。
細い階段の入り口には「3時間900円、6時間1600円、ナイトパック1400円」という看板が立っており、その横には液晶テレビの画面があって、若い女性の声が明るく呼び込んでいた。
「清潔な店内、シャワールームつき。もちろんソフトドリンクは飲み放題!」

このところ、私の心には以前、私のエントリに対してもらったコメントにあった言葉がずっとひっかかっていた。
そのコメントは、まずネットカフェが若者を中心とする貧困者たちのシェルターのような存在になっており、そこで生活するようになると抜け出すのは難しい(もちろん、ネットカフェに泊まる金もなくなれば、あとは野宿をするしかなく、そう言う意味でネットカフェ生活を抜け出すのはいとも簡単である)という趣旨の私の記述に対して、ClossOver氏から「ネットカフェ貧困者があふれているという情景がどこにでもあるというものではなく、あるとすればそうしたネットカフェこそが『異端』なのだ。実際の姿を見ずに語るのでなく、自分の目で確かめてみるべきだ」という指摘をいただいたのだ。

指摘されたこと、とくに実際を見ることなく印象だけで語るべきではないという言葉は耳にいたかったし、現代の貧困を語るうえでネットカフェの存在を抜きにはできないとしたら、やはり私は自分の目でネットカフェなるものを見ておくべきだと思った。

ネットカフェにも松・竹・梅のランクがあるだろうし、私がたまたま訪れたそのネットカフェはどれにあたるものだったのかはよく分からない。しかしネットで料金表を調べてみると100円か200円の違いはあるものの、同じような料金設定のところが多いようなので、だいたい平均的な竹レベルのカフェではなかったかと思われる。

そして中に入ってみると、そこは照明を落としているものの不潔な感じはなく、フロアを細分している壁にドアが整然と並んでいた。
見る限りではここにどれだけネットカフェ難民がいるのかを把握するのは難しい。昼間の時間帯ということもあり、客の出入りはほとんどなかったが、この時間に個室に入っているとすれば、あるいはそれが今日の仕事にあぶれたネットカフェ難民といえるのかもしれない。店の話では、たしかに常連は何人かいるとのことだったが、ここを定宿にしている人がどれくらいいるのかについては曖昧な返事しか得られなかった。「ネットカフェ難民」という言葉は業界にとっては有り難くない言葉に違いなく、誰もが普通にコーヒーでも飲みながら漫画を読んだりネットを楽しんだりする施設であることを強調したいのは当然だ。

たしかに、外回りの仕事中に空き時間ができた営業マンが体を休めがてらネットで仕事をするには都合がいい施設だ。あるいは終電を逃してしまい、やむを得ずどこかに泊まらなければならなくなったとき、シャワー施設も完備したこの施設に入れば、リクライニングシートではあるけれど、一泊4000円はかかるカプセルホテルよりも安くあげることができる。
ネットカフェは、なかなか重宝な施設に違いない。

だからここで私は訂正しておこうと思う。
ネットカフェが難民であふれているという、いかにもマスコミが好みそうな大仰な状況はかならずしも見られないと。
しかし、いくつも並ぶドアの向こうに明日の生活がどうなるかも覚束ない人間がうずくまっている可能性があることもまた事実だ。

湯浅誠の『反貧困』(岩波新書)にはネットカフェ難民から「もやい」に寄せられた相談例が綴られている。それによると、相談してきた男性は38歳で、時給700円の派遣労働をしていた。この賃金では最低賃金ぎりぎりだが、残業時間が長いために生活保護基準は少し上回る収入を得ていた。おかげで1泊1500円程度のネットカフェに泊まる費用は捻出できたが、アパートに入居するための諸費用を貯めることはどうしてもできない。そしてネットカフェを泊まり歩く生活は精神的・肉体的に限界に来ていたという。
湯浅は、「ネットカフェでの暮らしは、低収入であると同時に、高支出である」と書いている。

「毎晩1000円~1500円の宿泊費、三食の食事代はもちろん、風呂代、荷物を預けるためのコインロッカー代、仕事上の身なりを保つためのコインランドリー代、その他もろもろの経費がかかる。いわば、常時旅行しているような状態だ」
そして、ぎりぎりに食事を切り詰めるなどして金を貯めても、「なんとか5万~10万貯められたと思ったころに、無理がたたって体を壊してしまう」のだという。風邪を引けば仕事を休まざるを得ず、住所不安定では健康保険にも入っていないので病院にかかることもできない。せっかく貯めた金も一気になくなってしまう。

さらに、現代の貧困層を「ネットカフェ難民」として一括りにするのにも無理があると湯浅は書いている。ネットカフェ難民はネットカフェだけでなく路上や会社寮、サウナなどを転々としている人々であり、野宿者ではないかもしれないが、居所と住民票所在地が乖離している住所不安定状態という広義のホームレス状態にある。そしてこうした人々は膨大な数に上っているというのだ。ネットカフェを利用しているのは、そのうちのごく一部に過ぎないというわけだ。

こうした観点から見れば、たしかにネットカフェが困窮者であふれている状態というのはレアケースかもしれないが、カプセルホテルに、個室ビデオ店に、サウナに、派遣会社が用意する寮に、簡易宿泊所に、ドヤ街に、われわれが普段何気なく歩いている街のあちこちに、生活に行き詰まった人々が満遍なく分布しているといえるだろう。
ネットカフェが困窮者たちのシェルター的存在になっているという言い方に抵抗を覚えるClossOver氏も、貧困が街を広く薄く覆っており、その様相は次第に濃く厚くなりつつあるという見方に同意してくれるのではないだろうか。

2007年8月、厚労省は「住宅喪失不安定就労者の実態に関する調査」を発表している。それによると、ネットカフェの常連となっている宿泊者は全国に5400人いると推計。東京で300人、大阪で62人に行われた聞き取り調査では、平均月収10万7000円、4人に3人が職に就いているが、そのうち60%は日雇いであるという実態が明らかになっている。
しかし現実には「難民」の数はもっともっと多いことは明らかであり、政府はさらに精度のある調査を行い、この社会を覆っている貧困に対する施策を講じなければならない。

今、テレビなどが報じる「社会」では一人あたり1万2000円といわれる定額給付金についての議論が盛んだが、この金に経済効果があるか、5000万円の所得がある者に支給する必要があるのかという議論は、貧困問題を前にするといかにも不毛である。
2兆円の金を使うのならば、せめて貧困問題を少しでも解決するために使う方法はないものだろうか。
私はそう思わずにいられない。


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関連タグ : ネットカフェ, 貧困, 定額給付金,

昨日、埼玉と東京都内で連続して起きた元厚生次官らの殺傷事件は、その手口が似通っていることから同一人物による犯行の可能性が出ている。また、被害者とその家族が旧厚生省で年金行政に関わっていたことから「年金テロ」ではないかとも言われている。

捜査に進展が見られない現時点で、軽々に憶測するのは控えたい。しかし、もしこの事件が厚労省および社保庁による一連の不祥事や怠慢に原因があって起きたものであるならば、嫌でも6月に起きた秋葉原での無差別殺傷事件を思い起こさずにいられない。
年金記録の紛失や改竄など、数え上げたらきりがないほどの不始末を厚労省と社保庁の役人たちはやってきた。その結果、受け取るべき年金を受け取れなかったり、金額を不当に低くされてしまったりして不利益を被った人はどれほどの数になるのか想像もつかない。なかには年金を払っていたにもかかわらず記録を紛失されて無年金とされ、厚労省による確認はできたものの、金が支払われる前に亡くなってしまった老人もいるという。
厚労省と社保庁に対する恨みを持つ人間は、日本中にいるだろう。
年を取って仕事が出来なくなり、収入の道が途絶えたとき、頼りになるのは年金だけという人が、役人の不手際のために金を受け取れなかったなら、あるいは支払った額に対してわずかな金額しか受給されなかったなら、はたしてどんな思いを抱くだろうか。自分の生活を台無しにし、幸福や希望を奪ったに等しい役人たちに対して恨みを持つのは当然というべきだろう。

秋葉原事件の加藤智大は、派遣労働という不安定で差別を受けやすい、労働者として最下層に位置する自分に絶望し、希望を求めようにも求めようがない社会の冷たさに憤怒して凶行に走った。

もし、今回の事件も年金に関わる恨みが元にあるのであれば、それは年老いた加藤智大のような人物が罪を犯したのかもしれない。
どんな理由があるにせよ、人を殺傷するという行為が正当化されることは絶対にない。
しかし、そうした行為に人を向かわせる可能性をこの社会が持っているのもまた事実であり、今の社会をよりよく変えていかなければ今後もおぞましい犯罪が起きることは十分にあり得ると考えた方がいいだろう。

社会をよりよくするには何をすればいいのか。
それはまず第一に貧困の問題を解決することではないだろうか。
今日の毎日新聞の社説には、「高齢者の犯罪 刑務所が老人施設でよいか」という訴えが載せられている。これによると、昨年中の交通関係をのぞく一般刑法犯の検挙者は約36万6000人で、3年連続で減少した。しかしそのうちの約13%にあたる4万9000人ほどを65歳以上の高齢者がが占めた。この数は10年前の3.8倍で、20年前の約5倍にあたり、過去最多となっている。さらに刑務所に収容された高齢者も20年前の約6倍の1884人で最多記録を更新したという。

社説では、「高齢者人口もこの20年で倍増したが、高齢の検挙者や新規受刑者の増加率は人口増を大きくしのぐ。年代別に人口あたりの犯罪率をみると、各年代が前年を下回っているのに、70歳以上だけが上昇する特異な現象となっている。高齢者は分別があって体力が衰えるので犯罪率は低い、という従来の常識は覆された形だ」と続けている。

なぜ、このような現象が起きているかといえば、そこには「貧困」がある。高齢者の検挙容疑の多くは窃盗など比較的軽い犯罪で、その理由も生活に困窮したり空腹に耐えかねてといったものが多い。法務省が出した『犯罪白書』では、こうした事実を踏まえたうえで「高齢者の生活の安定を図り、孤立させないよう福祉を拡充し、地域と連携して社会全体で対策を講じる必要がある」と提言している。

年間2200億円もの社会保障費を削り続けている一方で、よくもまあこんなことが言えたものだと皮肉のひとつも言いたくなるが、法務省の提言はまったくの正論である。
今のままでは社会保障の網から漏れた高齢者たちが、必要な福祉を受ける代わりに刑務所に入って命をつなぐという悲惨な状況がどんどん広がっていく恐れがある。
格差と貧困が広がり、自分の力ではどう頑張っても這い上がることができない今の社会は湯浅誠が言う通り、まさに「すべり台社会」で、貧困の泥沼にはまったが最後、ネットカフェ難民になるか野宿者になるか、最後には自殺をするか犯罪を犯すしか選択肢がなくなってしまう。

海の向こうからは今も頻繁に自爆テロ事件が伝えられるが、自爆するテロリストの多くは貧困者だということが分かっている。家族を救うためにいくばくかの金をもらって自爆をするか、あるいは自爆することで来世での幸福を得ようとするか。いずれにしても貧困さえなければ悲惨な事件は起きずにすみ、犠牲者が生まれることもないのだ。
日本でも貧困が広く根深いものになっていくにつれ、人々は幸福感を忘れ、希望を失い、社会を不穏なものにしていくだろう。イラクで、アフガンで今日起きていることは明日の日本で起きていることかもしれない。

そうならないためには、貧困問題に真摯に取り組み、これを解決していく他ない。

関連タグ : テロ, 貧困, 高齢者, 年金,

昔、日雇い労務者は日銭を稼ぐと簡易宿泊所、いわゆる木賃宿に寝泊まりしていた。そこではまったくの素泊まりだけで簡単なカギのついた部屋に薄くてかび臭い布団があるだけだった。料金は前払いで、金がなければもちろん泊まることはできない。
周辺では仕事にあぶれた男たちが昼間からカップ酒を飲み、どこからか拾ってきた新聞を広げて見ていたりする。
なんとも殺伐とした光景だった。

私が学校に通う時、電車の窓から木造長屋の木賃宿が見えていた。「一泊300円」などという、ペンキの剥げかかった看板が掛かっているのを見ながら、ああいうところで寝泊まりするようになったら終わりだな、などと勝手な想像をしていたものである。今ならその看板も「一泊1500円」程度に掛け替えられているのではなかろうか。それでもそこを利用する客は、なくならないだろう。

その木賃宿が、最近はネットカフェや漫画喫茶、個室ビデオ店と衣を替えて繁華街に進出している。
利用するのは終電を逃したサラリーマンが多いらしいが、一泊1000円程度で泊まれるとあって、金に困っている日雇い労働者や派遣社員など、ワーキングプア層もねぐらとして利用しているようだ。

さいわいにも私はネットカフェや漫画喫茶、それに個室ビデオ店も利用したことはないのだが、もしそこで寝泊まりしなければならなくなったなら、かつて木賃宿の光景を見て思ったように「俺もついにここまで来てしまったか」と慨嘆するに違いない。

ネットカフェも漫画喫茶も個室ビデオ店も、必要最低限の体を休めるだけの設備は整えているが、ほんらい寝泊まりするための施設ではないのだから、そこで何日も暮らすとなれば体には相当な負担になることは想像に難くない。それでも、さまざまな事情を抱え、自分の家の布団に身を横たえることができなくなってしまった人々が、仕方なくここを訪れ、つかの間の休息を得ているのだ。
彼らに共通しているのは、貧困。不安と絶望。
ネットが利用できたり漫画が読めたり、エロビデオが見れたりするかもしれないが、そんなものを目当てにこれらの施設を使う者はほとんどいないだろう。

終電に遅れたサラリーマンにしたところで、仕事で帰りが遅くなったのならば、ほんらいは会社がタクシー代を出すべきなのに出してはくれないものだから、よんどころなく個室ビデオ店を利用することになる。なぜ仕事が遅くなったかといえば、業績悪化でリストラが進み、仕事場から社員が減ったために仕事量が増え、毎日遅くまで仕事をしなければならないのだ。

昔ながらの木賃宿は今でもあるが、さすがにそこまでいくのには度胸がいる。しかし一晩泊まるにはなるべく安いところを選ぶしかないから、彼らは風俗店のドアを潜っていく。
石原慎太郎

こうした人々のどこが、ファッション感覚で寝泊まりしているといえるだろうか。
それを、事情も分かりもせず、貧しさに喘ぐ人々の気持ちを想像する能力もない東京都知事の石原慎太郎は、愚弄した。

石原は3日の会見でこう言った。
「山谷のドヤに行ってご覧なさいよ。200円、300円で泊まれる宿はいっぱいあるんだよ。そこへ行かずにだな、何か知らんけれどもファッションみたいな形でね、1500円っていうお金を払ってね、そこへ泊まって『おれは大変だ、大変だ』って言うのはね」

これに対しNPO「もやい」の稲葉剛代表理事は「200円~300円で泊まれる宿なんて聞いたことがない。個室ビデオ店に泊まる生活困窮者を『ファッションみたい』というのも失礼な話だ」と指摘している。

石原慎太郎という稀代のポピュリストは、次から次へと口から出任せでものを言う。そしてこの男の口から出てくる言葉は必ずといっていいほど人を小馬鹿にし、傷つける毒をふくんでいる。この男が生活困窮者の気持ちを思いやることなど、百年経ってもできないだろう。
木賃宿に泊まるようになったら終わりだなと思ったとき、私の心の中には、いつか自分もそういう境遇になることへの恐れがあった。木賃宿に泊まるということはどういうことを意味するのか。そういう生活をするということは、どんな思いを味わうことなのか。
私には想像することができたから、できることなら利用せずにすましたいものだと思ったのだ。

東京都の知事として盤石の基礎を築き、殿様のように周囲を見下して暮らしている石原のような男には想像もつくまい。
今、貧困が国民の間にどのように広がっており、一日一日を凌ぐために人々がどんな思いをしているのか。

私は石原慎太郎の吐き出す汚れた言葉を耳にするたび、耳に栓をしたくなる。それでも石原の言葉はどこかから耳目に入ってくるからついに気分が悪くなる。そして怒りが湧いてくる。
この男のねじ曲がった自尊心を叩きつぶし、世界でいちばん惨めな生活を味わわせてやることができるのなら、私は悪魔に魂を売ってもいいと、本気で思っている。

関連タグ : 石原慎太郎, 貧困, ファッション,

以前から自分にとって大きなテーマであるにもかかわらず、なかなかブログで正面から取り上げることができずにいるものがある。
それは「貧困」だ。
反貧困マーク
今、フリーターをはじめとする若者たちの貧困が大きな問題となっており、仕事を得るにも企業側に都合のいい使い捨て労働力としての非正規雇用が大きな不安の源になっている。
二十数年前、私は鎌田慧の『自動車絶望工場』を読み、そこで働く期間労働者たちの非人間的な管理下での生活に大きなショックを受けた覚えがある。しかし、その状況は20年以上たっても改善されるどころか、季節労働者よりもさらに待遇が悪く不安定な労働条件で働く派遣労働者が大量に利用されることで、さらに劣悪化しているといえるだろう。

自動車絶望工場』は、トヨタの製造ラインで働く労働者の中に、鎌田慧が自ら入り込んで体験したものをルポルタージュしたものだけに説得力があったのだが、その本を読んだときの私自身、ある出版社の編集部に編集プロダクションから出向した形の派遣社員であり、業種はちがっていたものの、待遇の悪さや立場の弱さではある意味『出版社絶望編集部』にいたといってもいいかもしれない。ただ、私が違っていたのは、待遇の差や正社員の身勝手に憤ることはあっても、与えられた仕事を言われた通りにする仕事ばかりではなく、むしろ自主的な主張を持たなければ編集者として戦力にならないと判断された点であり、編集者としての腕前は大したことはなかったけれど、それでも正社員の何人かには負けない自負を持っていられたことだろう。
その自負の半分は、単なる思いこみに過ぎなかったのだが、自負を持っていられるのといられないのとでは大きな違いがある。
私はその当時、『自動車絶望工場』に描かれる、地方から集められ、機械の一部のように扱われる出稼ぎ労働者たちを、半ば他人事として読んでいた。

私が「貧困」をテーマに考えながら、なかなかメインに取り上げられずにいたのには、昔は持っていた自信が、その後の経験を通して実はいかほどのものでもないことが分かってきたからであり、自分もまた不安定な潜在失業者のひとり、つまりプレカリアートの仲間であるということを認め、そのことを白状した上でなければこの問題に触れることはできないと思っていたからだ。

正直言って、中年を過ぎた男が自分の現状をプレカリアートであると認めるのは辛い。実り多きはずのミドル・エイジに、自分自身が貧困層一歩手前にいると認めるのはなんとも体裁が悪い。
けれどもこのことを認めないことには、現在の貧困問題にコミットしていくことは難しいのも事実なのだ。

今こうして書いている間も、「貧困」の問題を私なりにどのように扱っていったらいいものか、分からない部分がある。
しかし、これは私が「ウツ」になったこととも関係があるが、自分の生活が苦しくなったのはライターとしての能力が劣っているからではないかと自分を責め続けた何年かがあり、仕事ができなくなってしまった(その結果、仕事の依頼も減ってしまった)のは自分の責任だと思い、毎日、死にたいと思っていた時期を顧みて、それは必ずしも私だけの責任ではなかったのではないかと思うようになっている。原稿を書けないライターは使い物にならないが、そういう人間に残される選択肢が自殺しかないとすれば、それは社会もどこかおかしいのではないか。もちろん、社会に甘えるのではない。しかし、卵を産まなくなったニワトリは潰すしかないという社会のあり方は非人間的と言わざるを得ない。
私自身が強く感じていた今の世の中の生き難さ、真綿で首を締め付けられるような息苦しさは、実はもっと多くの人が味わっているのではないかと思うようになった。

自分を責め、毎日目覚めるときがいちばん辛く、死んでしまえばいいのにと思い続けた時期、私をこの世につなぎ止めてくれたのは、私を認めてくれていた数少ない編集者の一人がくれた仕事だった。その仕事で入った金で、暮らしが楽になったなどということはまったくなかったが、それでも一つの仕事が私の価値を認めてくれたような気持ちにはなれたのである。

今の貧困の問題を解決するにはどうすればいいのか。
それは社会制度的に見れば、累進課税への回帰があるだろうし、企業の優遇税制を改めることに帰着するだろう。
それを実現させるには今の自公政権では駄目で、なんとしても政権交代を実現させなければならない。
しかし、かといって次に来る政権は民主党に任せていいかとなると、私はきわめて懐疑的である。
この点で、何が何でも自民党を倒せ、自民党を倒しさえすれば社会はよくなるという乱暴な考え方に、私はなじめない。

もし政権交代が実現なって、社会制度が改善されたとしても、それだけではまだ十分ではない。
私を認め、仕事を与えてくれた編集者のような存在がなければ、この社会は住みやすくはならないのだ。
では、そういう存在とはどういうものなのか。

「猫の教室」平和のために小さな声を集めようの眠り猫さんも、最近この問題にコミットしようとしているが、私も彼に触発されるかたちで、これからは折に触れて「貧困」の問題を私の立場から考えていきたいと思う。

関連タグ : 貧困, プレカリアート, 自動車絶望工場, 自殺, ウツ,

睡眠薬は毎日飲んでいるのだが、このところ毎日4時間しか眠れない。
昨夜も1時半に床に入り、目が覚めたのは5時半だった。
寝室の外で寝ているワンコたちを起こしてやり、眠そうにしているのを引っ張り出して散歩してきた。

春が深まるにつれて、太陽が上る時間もどんどん早くなっている。
ついこの前までは6時といえばまだ暗かったのに、いまではすっかりお日様が顔を出して地上を明るく照らしている。
私は無宗教だが、このときばかりは太陽に向かって神様に挨拶する。

今日も生きていました。かわいい犬たちと散歩ができることを感謝します。

ついでに、もう一つ、頼み事をする。

生活は相変わらず辛いです。なんとか、助けてください。感謝します。

私はキリストもマホメットも信じないが、八百万の神ならば信じる。米粒ひとつにも神様が宿っており、食べるときには感謝を込めて大切にいただく。だから、毎朝ワンコの散歩に出て、まずお日様に感謝して、ついでにちょっぴり頼み事をするのが日課になっている。
神様はいるのか、いないのか。そんなことはわからないが、確かめる気もないし、もしも願いが叶ったら、そのときは改めて神様に感謝すればいいと思っている。

私はこのブログをFirefoxというブラウザを使って書いているが、ときどきIE6で見ることもある。
すると、ちゃんと整えたつもりのレイアウトがかなり乱れていて慌てることが多い。
これはテンプレートを変えたときもそうで、Fierfoxで見るものとIEで見るものとではかなり違いがあった。直せるものならできるだけ直そうと思うのだが、正直、それは疲れる。
たとえば昨日の都議会のクズ議員どもの名簿をアップしたときも、大文字で強調したつもりが、IEで見ると文字がゴチャゴチャに重なっているのがわかった。
どうにかならないものだろうか、こういうの。
近頃はアップルのsafariも登場して、こちらはかなり切れのいい表示をしてくれるのだけれども、もうひとつ使い勝手になじめない。
とりあえずは今まで通りFirefoxでいくことにして、いちおうお断りのつもりで右側にバナーをつけておくことにした。興味のある人はダウンロードして使ってみてください。

昨日はまったくひどい日で、私のパワーブックG4のOSが消えてしまい、一日苦労した。
OSXの10.3にしておいたはずなのに、インストーラーディスクがみつからず、仕方なく最初にいれた10.0.4をインストールした。しかし、6年前のOSXではネットすら満足に見ることができないので驚いた。
これでは実用にならないのだ。なんとかもういちど、10.3か10.4に戻したいと思うのだが、ディスクがない以上はお手上げである。ヤフーオークションを見ると、10.4(Tiger)がいまだに1万円以上で落札されているようだ。もういちどヤフオク会員になってオークションに参加するのも、なんだか気が重いし、まったく突然OSが逝ってしまったパソコンを抱えて途方に暮れてしまいます。
あ、もちろん、今はウィンドウズXPが入ったマシンで書いてますけどね。

そんな、しょうもないトラブルでひいこら言っているときに、昨日はまたしても悲惨な事件が起きた。
東京・文京区小石川の製本業を営む家で、父親が両親と妻を刺殺し、小学生と幼稚園の子供も重傷を負った。
小石川心中
どうやら原因は事業に行き詰まったことによる、無理心中のようである。
今現在わかっていることでいうと、容疑者となった父親は、取引先の移転や廃業に伴って売り上げが大きく減り、悩みを抱えていたという。くわえて、彼には介護を必要とする父親があり、母親も体調が悪いことからかなりのストレスを感じていたようだ。

仕事の行き詰まりと生活苦。親の介護。まったく先行きの見えない状態のなかで、忍耐は限界にまで達したのだろう。もうどうなってもいいという自暴自棄がそうさせたのか、みんなで死ぬしかないという底なしの絶望感がそうさせたのか。彼は包丁を手に、家族を次々刺した。

東京では先月も足立区で悲惨な心中事件が起きている。
この場合も、原因の多くは仕事の行き詰まりと生活苦があったようだ。
つまりは貧困がこれらの事件を起こしているのだ。昨夜遅くのニュースでは、都内の零細企業は、仕事が少なくなり、売り上げどころか生活費さえ残すのがままならない状態のところが多いという話だった。
日本はGDP(国内総生産)では世界で3位なのに、一人あたりのGNI(国民総所得)は19位と、先進国では最下位の部類に入っている。
これは何を意味しているのか。
コイズミ以下の新自由主義政策の結果が、こうした形で現れている。自公による国民不在の政治が続いていることが国民生活を追い込んでいる。

言葉にすればその通りかもしれない。
しかし、それまで仲良く暮らしてきた家族が殺し合う現実を、そんな社会科の授業で語るような言葉で済ましてしまっていいのだろうか。

もちろん、新自由主義は改正させるべきものではなく、はっきりと打破するべき「悪」である。
自公のいいかげんな政府は一刻も早く終わらせる必要がある。

しかし、いま生活に追われている「貧困」の問題に立ち向かうには、それ以上に踏み込んだ施策なり制度の制定が必要だ。
そのためには、まずわれわれが、この国の「貧困」の諸相をもう少し知る必要があるのではないか。トルストイは『アンナ・カレーニナ』の冒頭で、「幸福な家庭は皆同じように似ているが、不幸な家庭はそれぞれにその不幸の様を異にしている」という有名な文章を書いているが、われわれの社会を蝕んでいる「貧困」にも同じようなことがいえると思う。
何が家族を追い詰め、生活から希望を奪っているのか。
家族に殺意を抱かせるほどの絶望を生み出している要因はどこにあるのか。
それらの原因を丹念に探り、社会が救う手立てを考える必要があるのではないか。

石原慎太郎のように、口先だけで中小企業を救うために銀行を作るなどという、単純な思考ではとてもこの問題は解決できないように思う。
日本人は、なぜここまで貧困に喘ぐようになったのか。
労働者階級の今の疲弊ぶりは、戦前の日本を見るような思いがする。
私は、これからそのことに注意して社会を見ていきたいと思っている。

そんなことを考えていると、カミサンが封筒を持ってやってきた。
役場から送られてきたものだった。
封を開けてみると、健康保険税未納による督促状だった。

「お父さん、払うものはちゃんと払ってよね」

そういえば水道代も、払わなければならないのだった。
国から、自治体から、企業から、ありとあらゆる請求が毎月押し寄せてくる。
有無を言わせぬ取り立てから、われわれが逃げおおすことは不可能だ。

私もまた、貧困の海で、もう少しで溺れかけているところなのである。
朝の散歩で神様に感謝を捧げる程度では、とても追いつけそうもない。


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