●人は、自分が見たいと思うものしか見ようとしない――ユリウス・カエサル
●為政者たるものは憎まれることはあっても、軽蔑されることだけはあってはならない。(塩野七生)
●自分に当てはめられない基準を他人に当てはめるべきではない
――ノーム・チョムスキー
●さまざまな知識人、文化人、政党やメディアは一般の人々よりも右よりな立場を取る――ノーム・チョムスキー
●考えろ、考えろ、考えろ!――ジョン・マクレーン
その内容に別段新しいことは見あたらないのだが、自民党の連中が、まるで年に一度のお祭りでもやるみたいにテレビ・マスコミを巻き込んで大はしゃぎしているのを見ていると心底むかついてくるので、上杉と同じ主張になるが、私もあらためて書いておくことにする。
私が言いたいことは以下の一言に尽きる。
自民党は、総裁選をするまえにまず国民の前に謝るべきである。
昨年9月には安倍晋三が「お腹が痛い」といって首相の座を放り出した。
そのときにも、国民に対する謝罪の言葉はなかった。
そして今年、福田康夫はねじれ国会による国会運営が苦労の連続だったことを恨みがましく並べ立て、安倍と同じように首相の座を投げ出した。
やはり福田からも、国民に対する謝罪の言葉はなかった。
さらに、安倍内閣時と今回の福田内閣で奇しくも幹事長を務めていた麻生太郎は、その職責から連帯責任があるはずなのに、やはり詫びを入れることなく「自分には総裁選に立候補する資格がある」と言って即座に次期首相候補として手を挙げたのである。
麻生だけではない。2年も連続して首相が無責任な辞任をすると言う不祥事を生み出しながら、自民党はやはり国民に謝罪することなく、総裁選という祭りの準備に取りかかった。
上杉は、中曽根康弘の言葉を引用して次のように書いている。
〈次の自民党総裁にふさわしい人を考える時、最近の首相辞任の二つの例を、我々先輩の政治家から見ると、2世、3世は図太さがなく、根性が弱い。何となく根っこに不敵なものが欠けている感じがする〉
ここまでは上杉が書いたものの要約であり、この後、上杉は今の世襲政治家に比べて昔の政治家は命を投げ出す覚悟があったと、昔を懐かしむようなことを綴っていく。
残念ながら、私は今の世襲政治家に問題があるのは賛成するが、だからといって昔の政治家がよくできていたなどとは間違っても言いたくはない。
敗戦後、アメリカに占領されていたという事情はあるにしても、徹底したアメリカ従属の政治形態の基礎を作ったのは誰だったのか。
政権交代なき保守政治を続け、その結果として政官民の癒着体質を作ってきたのは誰だったのか。それやこれやを考えていけば、とてもではないが三角大福中(三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫、中曽根康弘)の時代はよかったなどとは言えないし、もちろん、それに遡る佐藤栄作や岸信介が優れていたなどとは、口が裂けても言いたくはない。
とはいえ、今の世襲政治家たちが政治家として著しく劣化していることは間違いなく、だからこそ2年も続けて首相辞任などというみっともない事態になったのだ。
そこで話は元に戻るが、国民を舐めきった辞任の仕方をし、さらに国会の空白を作って総裁選というお祭りに熱を上げている自民党は、これからも政治を続けていきたいと思うならば、お祭り騒ぎに酔う前に、一度襟を正して国民の前に勢揃いし、このたびは申し訳ありませんでしたと土下座でもして詫びるべきなのである。
マスコミは、詫びることなく小池が出る、石原も立つなどと騒ぐべきではないのだ。
お祭り騒ぎに紛れてこの政治的不祥事の責任を曖昧にし、さらに政権を維持しようなどという不届きなことを考えている「自民党」というゴロツキ集団を徹底的に糾弾するべきなのだ。
マスコミにはおそらく、そんなことはできないだろうが、総裁選などは所詮内輪の祭りなのだ。
2度続けて起こった不祥事に、国民は内心うんざりしている。
ほんらいならば3面記事にしかならないドタバタ騒ぎなどは軽くやり過ごし、真に求めるべき国民への謝罪がこの先行われるのかを注視したい。
もちろん自民党には謝罪などというアタマは働かないだろう。
だから、自民党はダメなのだ。
誰が総裁になろうとも、国民が選ぶのは政権交代であり、自民党と公明党以外の政党(もちろん、右翼などは論外だがね)に政権を執らせることこそ重要なのだ。
■追記
5日夕方にはさらに前防衛相の石破茂が立候補を表明した。また、この他に棚橋泰文元科学技術相と山本一太外務副大臣が立候補を目指す考えを明らかにしている。
ふざけるな、自民党!