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酒好き、映画好き、本好き、落語好き、バイク好き、そして鬱。 ちょっとばかり辛い日もあるけれど、フンニャロメ~と生きてます。
◎心にとめおく言葉
●人は、自分が見たいと思うものしか見ようとしない――ユリウス・カエサル
●為政者たるものは憎まれることはあっても、軽蔑されることだけはあってはならない。(塩野七生)
●自分に当てはめられない基準を他人に当てはめるべきではない
――ノーム・チョムスキー
●さまざまな知識人、文化人、政党やメディアは一般の人々よりも右よりな立場を取る――ノーム・チョムスキー
●考えろ、考えろ、考えろ!――ジョン・マクレーン

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今日が駄目なら明日にしましょ、明日が駄目なら明後日にしましょ、
明後日が駄目なら明明後日にしましょ、どこまでいっても明日がある。

たしか、こんな歌詞だったと思う。
私が子どもの頃、NHKの「ひょっこりひょうたん島」でドン・ガバチョが陽気に歌っていた。
後年、そろそろ将来のことを考えなければと思い始めたときに、モーニングショーだったかテレビ番組の中で、この歌がひとりの男性の自殺を思いとどまらせたという話を聞いた。その男性は小さな工場を営んでいたが、資金繰りに困り、思いあまって梁にネクタイを掛け、首をくくろうとした。そしてネクタイの輪に首を通したときに、どこからかテレビの歌声が聞こえてきた。
それがドン・ガバチョの歌だった。

今日が駄目なら明日にしましょ。
どこまでいっても明日がある。

この歌を聞いて、男性はもう一度やってみようという気持ちになった。自殺を止めて必死に働き、なんとか余裕が持てるようになった。あの時、あの歌を聞かなければ今日の自分はなかったと、感謝の手紙を作者に書いた。
子ども向けの人形劇の歌が、金に困り、明日に絶望した大人の命を救ったのだ。
ドラマには、それが大人向けであろうと子ども向けであろうと、人を力づけ勇気を与え、明日を生きる希望の灯を心にともす力がある。私はそう思った。私自身、橋本忍の「私は貝になりたい」を見て、あるいは黒沢明の「生きる」を見て、生きることの尊さを学んだし、これらのドラマから力をもらったことを実感していた。
できることならば、自分も人に力を与えられるような仕事をしたいと漠然と考えるようになった。

その夢がどうなったかは、ここでは置いておこう。

今年はまだ2月も半ばだというのに、もうずいぶん時が経ってしまったような感覚がある。
あまりに多くの、それも悲惨な事件が続いていることが、そう思わせる。鬱をもつゆえ、あまりに無残な事件事故には触れたくないと思うのだが、それでもなお、これだけ酷い事件が起きるのはなぜなのかと考えざるを得なくなってくる。
1月には幼い子ども二人を11階から落とし、自分も身を投げて死んだ母親がいた。八戸では引きこもりの長男が母親と妹弟を殺害し、自宅に放火する事件が起きた。そして2月になると足立区で父親がナタで妻と母親を殺し、息子の両手首を切り落として自殺した。
大きな事件だけでも立て続けに起きている。昨年暮れには福井で認知症が進んだ82歳の妻を道連れに、80歳の夫が心中した。たった一人で妻の世話をしていた夫は将来を悲観して、妻とともに30年以上使われていなかった火葬場の炉の中に入り、ロープで蓋を閉め薪と炭に火をつけて焼け死んだという。

なんという孤独。なんという絶望。
なんという救いのなさだろう。
マスコミを賑わすこれらの事件の他にも、年間3万人以上が自殺している日本では、毎日確実に孤独と絶望が死を選ばせている。
そこにはもう、「今日が駄目なら明日にしましょ。どこまでいっても明日がある」という歌など通用しない深刻さがある。もう少し頑張って生きてみようという希望が生まれる余地もない。

悲惨な事件を伝える一方で、マスコミはGDPが年率3.7%増であることを報じている。先行きには不安材料が多いとしながらも、景気は堅調に伸びているという。
富裕層が富を独占し、日本の景気を支えながら、社会の底辺では親が子を殺し、子が親を殺す。報道ステーションでは、足立区のニュースの後に羽田の空港ビルの株を外資ファンドが大量に買ったことを報じ、朝日新聞論説委員の加藤千洋が、「これで空港ビルが華やぐ。結構なことだ」と微笑んだ。
足立の事件で家族を手にかけた50代の父親は、「母親には車いすで生活できる家を、妻には好きな洋裁をする家を、子供たちには自分の部屋をプレゼントしたかった。全部無くしてしまいました」と遺書を残している。空港ビルの華やぎは、誰のために必要なのか。足立区の父親には無縁の話だったろう。

開店休業状態の仕事場にただずみ、絶望が積み重なっていく毎日。重く苦しい気持ちは、私自身が鬱をかかえた個人事業者で不安定な仕事の状態が続いている現在、決して他人事とは思えない。凄惨な殺害方法が話題になっているが、私だって家族を殺すとなれば一撃で殺せるものを選ぶだろう。彼の場合はそれがナタだったにすぎない。
誰のせいだと恨んでも、どうにもならない。何かにすがりたくてもすがるものがない。
世の中は、そうなったのは自分の責任であり、負け組の宿命なのだから仕方がないという。
しかし、人をここまで絶望させ、死に追いやる社会、98年以降毎年3万人以上の人が自殺する社会は、やはり異常という他ないのではないか。
今の社会を何とかしなければならない。悲惨な事件を少しでも減らす努力をしなければならない。そうしなければ、私自身が押し潰されてしまうかもしれない。
そんな危機感を持っている。

今のこの社会を変えるにはどうしたらいいのか。どうしなければならないのか。真剣に考えなければならないときにきていると思う。真面目に議論しなければならない時だと思う。

しかし、しかし。
マスコミも政治家も、あまりに不誠実、不真面目だ。この目を覆いたくなるような現状に頬被りして、まともに向き合おうとしていない。そのことに腹が立つ。
ネットでは、幸いなことに真面目な考えを持っていることがわかるブログに出会えた。だから私もブログを始めてみようと思った。何かを言っておかなくてはという思いがある。そして、わずかながらネットには新しい連帯による力が生まれる可能性があるような気がしている。

駄目な今日が過ぎても明日はくる。かならず明日はやってくる。
しかし、その明日も、絶望せずにすむとはいえない。
このやりきれなさを誰と分かち合えばいいのだろう。
過度な期待はしない。だがしばらくは、ネットに向かってみようと思う。
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関連タグ : 自殺と心中, 孤独と絶望, 明日,

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