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酒好き、映画好き、本好き、落語好き、バイク好き、そして鬱。 ちょっとばかり辛い日もあるけれど、フンニャロメ~と生きてます。
◎心にとめおく言葉
●人は、自分が見たいと思うものしか見ようとしない――ユリウス・カエサル
●為政者たるものは憎まれることはあっても、軽蔑されることだけはあってはならない。(塩野七生)
●自分に当てはめられない基準を他人に当てはめるべきではない
――ノーム・チョムスキー
●さまざまな知識人、文化人、政党やメディアは一般の人々よりも右よりな立場を取る――ノーム・チョムスキー
●考えろ、考えろ、考えろ!――ジョン・マクレーン

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フリーランスの仕事を選び、ずっとライターとして仕事をしてきた私が、今の社会に漂う生き難さを嘆き、憤りを感じたとしても、現実のところ、あまり説得力を持たない。
それは、カイシャという組織に縛られることを嫌い、人生とは自分で道を切り開いていくべきもの、そして人間にはその可能性があるはずと信じてこの道を選んだからである。
だから、今さら生活が苦しくなったとか、仕事が少なくなった、本が売れなくて収入が減ったと愚痴を垂れても、仕方がないのだ。

それは分かっている。

けれども、私のような選択をした者が感じる今の生き難さが、結局のところ「自己責任なのだから」という一言で片付けられてしまうのには抵抗がある。
自己責任論は、とくに新自由主義的な考えを持つ経営者などが持ち出したがる理屈だが、いわゆる「勝ち組・負け組」という狭い枠組みだけで人の生きる道を捉え、たまたま成功したから、上手く人生を歩むことができずにいる人間を見下して「それは努力が足りないからだ」「選択の仕方がまずかったからだ」と本人に責任があるとする。

しかし生きるということは、誰だって知っているように生やさしいことではないのだ。一日の生活を凌ぎ、一週間生き抜き、一ヵ月をなんとか持ちこたえ、半年生きながらえて、どうにか一年やり繰りして暮れと正月を過ごすことが出来そうだというときにようやくホッとする。しかし、それが過ぎれば、また同じことの繰り返しを延々と続けていかなければならない。生きるということに一息つくというのは、なかなか許されることではない。
それでも、結果として上手くいかないことが多いのだ。
生きて行くのがしんどくなって、もう死んでしまおうかと考えるときがしばしばやってくるのだ。
楽をして、安穏に暮らせればいいなとは思っていても、現実にはそんなことが許されるはずがない。
みなそう言う状況のなかで、なんとか生き続けている。

私が何を言いたいのかというと、人は一生懸命に、必死に生きて毎日を送り続けているという点において、誰もが努力をしているということだ。それに対して「自己責任論」を持ち出し、自分が選んだ道なのだから、上手くいかないといって嘆くのは甘えだとか、努力が足りないからだというのは間違っているということだ。

責任論で人を評価しようとする限り、上手くいかなかった人間は考えが甘い、努力が足りない、勝手に楽な生き方を選んだのが悪いということになる。
しかし、それでは人間には自分の人生に対して夢を持つことも希望を持って生きることも許されないことになる。

私がなぜフリーランスという道を選んだか。それは家庭環境がいわゆるサラリーマン的な生き方を認めないという特殊な事情があったのも関係するが、学生時代になって就職という段になると、周囲の学生たちはとにかく大きな企業、安定した収入が得られる仕事に就くことを第一に考え、誰かが有名企業に内定するとみんなして羨むという雰囲気に猛烈な反感を持ったからである。皆それぞれに小説を書いたり、脚本を書いたり、演劇をしたり、映画を作ったりしていた。それはあくまでも気楽な学生時代の遊びと割り切り、就職となればそんな趣味とは無縁の大企業に入ることがいちばん価値のあることだという常識に嫌悪感を持ったからである。

私は企業という組織に入ることを拒んだ。
結果として、生活は不安定になり、正直なところ、カイシャに就職するのが生き方としては正解だったのかと思ったこともある。
私は自分で自分の生き方を「自己責任論」で批判したのである。

おそらく今、非正規雇用で仕事を失い、明日をも知れぬ生活に大きな不安を抱えている人たちは、皆多かれ少なかれ、一度は自分のことを責めたのではないかと思う。
世間から「自己責任論」でしたり顔して責められる前に、自分自身がいちばん分かっていて自分を責めたのではないか。

しかしだからといって、人間が自分で選んだ道が間違っていた、努力が足りないから上手くいかないのだと切り捨てるのは、世間の方が傲慢だ。
人には等しく権利がある。いちばんの基本となるのは人間らしく生きる権利。そして人間らしく生きるためには、だれもが希望を持ち、自分の可能性にかける自由を持つ権利がなければならない。

自己責任論」はそれらの権利を否定している。
上手く生きられないのは自分のせいだとする考え方は、言ってみれば株屋の常識に過ぎないのではないか。値が上がると思って買った株が値下がりをして損をした。それは自己責任だ。なぜもっと株式を勉強して、相場というものを正確に読む努力をしなかったのか。損をしたのは自分が悪い。そういう理屈だ。
だが、株屋の理屈を人間の生き方に勝手にあてはめ、「お前が悪い」と責める権利など、誰にあるというのだろう。

今の日本社会を襲っている不況の嵐は、政治と経営者たちが誤った考えを持ったために起きている。そのあおりを受けて、多くの人たちが職を失い、単なるモノのように切り捨てられて路頭に迷おうとしている。
ネットの中にはこうした人々を指して「自己責任論」を振りかざし、派遣などという気楽な仕事を選んだ自分が悪いのだから、路頭に迷うのも仕方がないのだと偉そうに書いている輩がいる。
私はそういう奴らの横面を思い切りひっぱたいてやりたい。

今、困っている人々のなかに怠惰だったり、ずるいことをして金を得ようとした者はほとんどないはずだ。皆それぞれに一生懸命仕事をしてきたのに、突然、会社側の理由によって首を切られてしまったのだ。こうした人々に、どうして自己責任論を押しつけることができるだろうか。
よしんば、派遣労働者になった理由が、正社員になるよりも気楽だからとか、自分には他にやりたいものがあるからとりあえず、だったとしても、彼らが路頭に迷おうとしているのを責めるのは人間として許されるものではない。

自己責任論者、すなわち新自由主義者は言う。
「努力した人が正当に報われるのが正しい社会だ」と。
しかし、それをいうならば、
「たとえ努力をして上手くいかないことがあっても、見捨てられることがないのが正しい社会だ」
という条件をつけ加えなければ完全ではない。
新自由主義者たちは、自分さえ豊かになれば他の人間はどうなろうと構わないと考えている。
だから許し難いのだ。そして、その許し難い考え方を持った人間が、政治家にも実業家にも、悪いことにこれから社会に出ようとしている若者の中にもいるというのが現状だ。

私は、私たちは、こうした非人間的な考えを持つ人々を許してはならないと思う。年間に3万人以上の自殺者が出ていても平気でいられるような人間を批判しないでいることは大きな誤りだと思う。
人間の生きる権利を無視して会社の利益と株主への配当を優先する経営者を断固として糾弾していくべきだと思う。

私は自民党にはもはや政党としての役割を果たす力はないと思っている。だからといって民主党に政権が移れば、それだけで世の中が暮らしやすくなるというほど楽観もしていない。
だが、とにかく今の自公政権によってもたらされた最悪な社会状況を変えなければならないことだけは確かだ。日本社会が今よりも暮らしやすくなり、人々が自分の人生に希望と誇りを持って生きていけるような社会になるには、新自由主義をまず駆逐し、新しい社会制度による政治を打ち立てなければならない。
その社会制度とは何なのか。

とにもかくにも今はまず、人の生き方を否定し人間を踏みにじる「自己責任論」を排することから始めていきたい。

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