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酒好き、映画好き、本好き、落語好き、バイク好き、そして鬱。 ちょっとばかり辛い日もあるけれど、フンニャロメ~と生きてます。
◎心にとめおく言葉
●人は、自分が見たいと思うものしか見ようとしない――ユリウス・カエサル
●為政者たるものは憎まれることはあっても、軽蔑されることだけはあってはならない。(塩野七生)
●自分に当てはめられない基準を他人に当てはめるべきではない
――ノーム・チョムスキー
●さまざまな知識人、文化人、政党やメディアは一般の人々よりも右よりな立場を取る――ノーム・チョムスキー
●考えろ、考えろ、考えろ!――ジョン・マクレーン

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上映中止で話題になっている映画「靖国 YASUKUNI」の、右翼団体向けの試写会が18日、行われた。
全国から約180人の活動家が集まったという、この試写会。呼びかけ人の一人、木村三浩・一水会代表は「右翼が上映を中止させたかのような間違った言われ型をされているから」と説明した。
試写中、国会議員らが問題視した南京事件の写真を使ったシーンでも何の声も上がらなかったという。

右翼の人たち、冷静じゃないか。大人じゃないか。

試写後は活発な意見が交わされた。「文化庁の女性には納得できない。返還を求める訴訟を起こす」という意見もあれば、「われわれも助成を受けて親靖国映画を作って反論すればいい」「べつになんと言うこともない作品なのに、メディアが注目をあおったのでは」との意見が出た。
同血社の河原博史会長は「個人としては、日本民族に根ざした信仰心を侮辱するものを感じた」としながら、「意義ある会だった。右翼が反社会的というイメージは違う。誰もが映画を見せず抗議するわけでもない。大事なのは表現者同士のガチンコ勝負。そういう意味では映画館が屈してしまったのは問題だと思う」と話した。

以上は朝日新聞の記事によるものだが、これを読むと映画「靖国 YASUKUNI」を問題視し、大人げない反応を示したのはただただ自民党の稲田朋美や有村治子ら議員のセンセイ方だったということになる。有村にいたっては、刀匠の刈谷さんが映像の削除を望んでいるというウソまででっち上げたというのだから話にならない。姑息と言うか、やることがチンピラやくざに等しいと言えるだろう。

「靖国 YASUKUNI」という映画ができた。
その出来映えをめぐって議論が起きるのは当然のことであり、健全な反応だ。
しかし、稲田や有村がやったことは作品を封じ込めようとするものであり、断じて許されるものではない。これらに比べれば、「われわれも助成を受けて親靖国の映画を作るべきだ」と発言した右翼の人たちの方がずっと常識的だと思う。
地方都市に住んでいる私のような人間にはなかなかこの映画を見る機会がないのが残念だが、DVDにでもなれば必ず観たいと思う。
やはり、映画は観てから論じられるべきである。それゆえ、見る機会を奪うような権力の介入には、私は断固として反対する。

昨日はまた、長野県で聖火リレーに関する重要な動きがあった。
やはり善光寺はリレーのスタート地点になることを辞退した。
善光寺
「チベットでの仏教徒弾圧を憂慮する」という僧侶たちの発言は、至極理屈の通ったもので納得がいく。これに比べると中国に対していまだにはっきりとした態度を打ち出せずにいる政府のだらしなさがよけいに際立ってくる。
この問題に対する中国の態度は、非常に強硬で、世界からの批判を浴びても動じない。
一方的にダライ・ラマが反乱を起こしたとするだけだ。対話の余地もないという。
こういう相手に対して、「話し合いの機会を持ってください」と言ったところで通じるわけがないだろう。
来月は胡錦涛がくるというのに、日本は今回の弾圧を非難するのかしないのか。
今からでも遅くはない、やんわりと今回の訪日はお断りすべきではないのか。
オリンピックを開くのは勝手であり、またその成功を祈ることにわれわれもやぶさかではないが、人権弾圧は見過ごすことはできない。この件については時間をかけて話をする必要があると考えるので、胡錦涛主席には機会を改めて来日してもらうことにする。
頑迷な国を相手にケンカを売る必要はないが、もっと外交的な駆け引きがあってしかるべきだろう。

今回、聖火リレーでは善光寺が辞退しただけでなく、コカ・コーラをはじめとするスポンサーも宣伝カーを出さないことを決定した。警備が厳しくて宣伝車が走れない、宣伝の予算がないなどと理由はまちまちだが、根底にチベット問題があることは明らかだ。面白いのは、IBMから事業を引き継いだ中国のレノボまでが、そのなかに加わっていることだ。

26日の聖火リレーはどうなるのか。これから、まだ一波乱ありそうな予感がする。

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関連タグ : YASUKUNI, 右翼団体, 稲田朋美, 有村治子, 聖火リレー, 善光寺,

4月8日のエントリ「映画を観るには想像力とリテラシーが必要だ」に対して、観音崎さんとkazeさんからコメントをいただいた。

それは、稲田朋美議員は映画「靖国 YASUKUNI」について文化庁が助成金を出したことを糺しているだけであり、上映の是非については何も言っていないというものだった。
稲田朋美
もう一点は、「YASUKUNI」の中に稲田が映っていることに対して、肖像権の問題もあり得るという意見だ。

二つ目の意見に関しては、問題はないだろう。この映画はドキュメンタリー映画なのであり、そこに映っている人々すべてに肖像権の許可を求めていたら映画そのものが成り立たなくなる。また、稲田は公人であり、基本的に公人には肖像権は適用されないことになっている。
観音崎さんは「朝日新聞の広告料に6000万円出しているプロダクションが何故『文化庁』の750万が必要なのか?」と疑問を呈しているが、これについては答える必要もないだろう。映画というものは際限なく金がかかるものであり、制作者ならば誰でも1円でも多くの金を集めたいと願うものだ。文化庁が750万円出してくれる可能性があるというのなら、その話に飛びついたとして不思議はない。もちろん、文化庁の審査が適正だったのかどうか、それについては映画を観ていない私には判断できない。また、広告に6000万も使っているプロダクションが750万を必要とするかどうかについては、プロダクションに聞いてみるしかないだろう。人の懐勘定までは与り知るところではない。


さて、不明な私が答えに窮してしまったのは、最初の意見だ。

稲田朋美は助成金の是非を確かめるために映画の上映を要請した。
これだけでは事前検閲と言えないのではないか。検閲と騒ぐのは、過剰反応なのではないか。

はたして稲田のした行為にきな臭いものを感じ、事前検閲だと批判した者は、過剰反応しただけだったのだろうか。

答えはノー。

過剰反応どころではない。きわめてまっとうな解釈に基づいて批判をしていると、私は思う。

第一に、稲田は衆議院議員という特権を持つ人間である。そのような人間がひとつの芸術作品に対して、国の助成の可否を問うたのだ。もし稲田がわれわれと同じ一般市民だったら、まず自分たちのために試写をせよと要求することもできない。稲田は自分の特権を利用して強引に試写を要求し、映画を観た感想如何によっては助成を取り消すべきだと考えているのだ。
これはつまるところ、一政治家が映画の制作に口出しをすることに他ならないではないか。そして映画制作の部外者が口出しをして作品に妙な色づけをするのは、それだけですでに検閲にあたるのではないか。

第二に、稲田は衆議院議員であるだけでなく、「伝統と創造の会」を結成し、その会長に就任している人物だ。
稲田は「我々が問題にしたのは助成の妥当性であり、映画の上映の是非を問題にしたことは一度もない。いかなる内容の映画であれ、それを政治家が批判し、上映をやめさせるようなことが許されてはならない」とコメントしている。
しかし、「伝統と創造の会」という超保守=右翼的思想を持つ団体のトップが助成金の妥当性であろうといちゃもんをつけたとすれば、それは即ち右翼団体を刺激することは容易に想像がつくことであり、その結果として上映を自粛する映画館が続出したのである。稲田にしてみれば上映が困難な状況を作り出したことに成功したわけで、あわよくば制作会社から750万円も取り上げたいと思っているのだろう。
これを検閲と言わずして、何を検閲と言えばいいのだ。

稲田のような特権を持つ人間が口を開くことによって、それだけで世の中に萎縮を生む。そのことがいちばんの問題なのではないか。言論・表現の自由に対して許可を出すか否か。その発想が根底にあること自体が検閲なのだ。稲田朋美が発した言葉には、その発想が限りなく色濃くうかがえる。
だから批判する者が大勢いるのだ。そして私も、その批判を是とする者のひとりなのだ。

言論・表現の自由とは、言葉にすれば勇ましい響きを持つが、実は非常に繊細で扱いに気をつけなければ損なわれるのが容易なものなのだ。だからこそ、これに反し、これを侵そうとするものに対して、われわれは常に声を上げていかなければならないのだ。

稲田の白々しい、他意はなかった的な発言には惑わされるべきではない。
これだけのことを考えるのにずいぶん時間を要してしまった。多くのブロガーには常識だったろうに、即座に答えられなかった。それは私の頭が悪いからである。
その点は容赦を願うとして、ここにあらためて、素朴な疑問に答えたいと思う。


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いうまでもなく、すぐれた映画というものは、見る側に対して相応のリテラシーを要求するのである。
私が「ノーカントリー」をすぐれていると感じたのは、単に善と悪が闘うアクションと暴力がすさまじかったからではなく、善と悪という人間的な価値観を超えたところにある「死」の存在が描かれているところに衝撃を感じたからであり、理不尽で無差別に襲いかかる死というものが、きわめて現代的なテーマに通じているところに感心したからである。
血と暴力に彩られた死の前に、人は無力に佇むしかない。そこには絶望が感じられるが、もちろん、この映画はそれだけを答えにしているのではない。残虐で無慈悲な殺戮は、なにも現代だけの専売特許なわけではなく、昔も同じように行われていたという台詞がある。この台詞をとらえて考えれば、死も暴力も普遍的なテーマとして描かれているのが、この作品であり、観客はいくら時代が進んでも人間の本質は変わらないといったあきらめを感じるかもしれない。
あるいは、ラストシーンでトミー・リー・ジョーンズが妻に向かって長々と夢を見た話をするが、その内容は、雪の降る凍える山道を死んだ父親と馬に乗っていく夢だ。父親は牛の角に火を灯したものを持って先に行ってしまうが、自分は父親がきっとどこかで待っていてくれるだろうと感じる。
この話をラストに持ってくることにより、観客は、無慈悲な死と殺戮が描かれているが、遠い未来にはかすかな希望も見えているのだというメッセージを受け取ることもできる。

つまり、すぐれた映画というのはいくつもの答えがあるものなのだ。

さて、このごろ話題になっている「靖国 YASUKUNI」の問題だ。
遅ればせながら、私もひとこと書いておきたい。
YASUKUNI

私が思うには、いちばん問題なのは、映画に対する想像力もリテラシーも欠如している稲田朋美が議員の特権を乱用して試写を要求し、まったく的外れな感想を述べたことにあると思う。

稲田に想像力が欠けているのは、映画を見る以前に、国会議員が政府出資の助成金が出て映画が作られていることを問題視して試写を要求することがどういう影響を与えるかということに対してまったく想像力を働かせていないということだ。そのようなことをすれば検閲と受け止められることは容易に想像がつくことなのに、稲田にはそれがわからなかった。
そしてリテラシーに欠けているのは、さまざまな受け取り方が可能であることがすぐれた映画であることを理解せず、自分の物差しだけを当てはめて「靖国神社が国民を侵略戦争に駆り立てる装置だったという政治的メッセージを感じた」と感想を述べた点にある。それは稲田が感じたひとつの感想に過ぎないものであり、映画「YASUKUNI」のすべてを語りうるものでは決してないということを、稲田は理解していない。そういう見方をすることもできるかもしれないが、そうではなく、今まで靖国神社に対して特別な思い込みや知識を持っていなかった人が、改めて靖国神社について考えるきっかけを与えてくれた。その点で、この作品は高い評価を得たはずなのだ。
稲田程度のリテラシーでは、せいぜい「恋空」のようなケータイ小説を映画化したものでも見ていればいいだろう。

議員による検閲ではないのかという批判が起きるのは当然のことなのに、稲田は卑怯にもまともに答えようとせず、逃げ回っている。このような議員に税金が支払われていることの方が、私としては問題視したい気持ちだ。

また、自民党の水落敏栄参院議員、有村治子参院議員は、この作品が助成対象としてふさわしくないと、助成金の返還を求めている。
しかし、そもそもこの映画は文化庁の決して緩くはない審査をパスして助成金を得たものであり、それを今さら蒸し返すのは、たんなる難癖をつけるだけの幼稚な行為である。
靖国神社を映画の題材にすることは英霊や御霊に対する不遜であるという有村の言い分も、無理がある。それならば、これまで数え切れないほど作られてきた戦争を題材にした映画すべてが、戦争で犠牲になった人々に対して不遜であることになり、すべて上映禁止にしてDVDなどは販売禁止にしなければならないだろう。そんなことは不可能だし、ナンセンスだ。

靖国神社はとくべつな存在である、と議員たちはよくいうが、どこがどう特別なのか。その特別なところがいいのか悪いのか、ひとつひとつをはっきりさせる者がいない。われわれから見れば、彼らは自分の主義主張に都合よくこの神社を利用しているに過ぎないように思われる。

靖国神社は国が、先の戦争で亡くなった人々を祀る神社だが、そこには強制連行された朝鮮人の遺骨や、戦争犯罪人として処刑された人の遺骨もいっしょくたに祀られてしまっている。そのいい加減さが反発を呼び、国際問題に発展する。合祀問題をどう考えるか、どう処理すべきかを明らかにすることが政治的意味合いを持つことそのものなのであり、そのことを論じるのが目的ではないドキュメンタリー映画を撮ることに政治的な解釈をこじつけるのは、映画作家に対して失礼なことだと思う。

いずれにしても「YASUKUNI」がすぐれた映画かどうかは、議員が判断することではなく、一般の人々が見て判断すべきことである。そして判断するには、この映画が上映される機会を持つ必要がある。この点において、ようやく公開に踏み切る映画館が増えてきたことは喜ばしいことだと思う。
偏狭な右翼思想による妨害は、警察の手によって排除される必要がある。

われわれには、すぐれた映画を観る権利があるのだ。


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