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酒好き、映画好き、本好き、落語好き、バイク好き、そして鬱。 ちょっとばかり辛い日もあるけれど、フンニャロメ~と生きてます。
◎心にとめおく言葉
●人は、自分が見たいと思うものしか見ようとしない――ユリウス・カエサル
●為政者たるものは憎まれることはあっても、軽蔑されることだけはあってはならない。(塩野七生)
●自分に当てはめられない基準を他人に当てはめるべきではない
――ノーム・チョムスキー
●さまざまな知識人、文化人、政党やメディアは一般の人々よりも右よりな立場を取る――ノーム・チョムスキー
●考えろ、考えろ、考えろ!――ジョン・マクレーン

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ジュリアン・シュナーベル監督の「潜水服は蝶の夢を見る」を観た。
シュナーベルは前作「夜になるまえに」で私を魅了した監督であり、7年ぶりとなる今回の作品は今年最も楽しみな作品でもあった。

「夜になるまえに」は、原作がすぐれていたこともあるが、その魅力を損なわない台詞の美しさが心に残る映画だった。それは冒頭の、主人公が子供時代を振り返るモノローグから圧倒的だった。
映画とは、もちろん物語を伝える手段だが、ストーリーを伝えることに汲々としている映画には魅力がない。ストーリーを発酵・熟成させ、昇華させる作者の思いが表れていなければならない。それは映像の作り方であり、台詞の選び方であり、また音楽・効果音の使い方に現れてくる。

「ぼくは二歳だった。裸で、立っていた。前かがみになって、地面に舌を這わせた。ぼくが覚えている最初の味は土の味。同い年の従妹ドゥルセ・オフェリアといっしょに土を食べたものだった。」

これは原作の一節だが、映画はこの文章に妖しいほどの魅力を添えた映像で幕をあけた。この瞬間、「夜になるまえに」は、私にとって傑作の一本になったのだった。

潜水服は蝶の夢を見る」は、フランス人でファッション雑誌『ELLE』の編集長をしていたジャン=ドミニク・ボビーが、43歳で突然脳梗塞に倒れ、意識はあるものの左目しか動かせない状態になって書いた本を原作にしている。そう、彼は文字通り、左目だけで本を書いたのだ。
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画面は大半がジャンの左目を通した映像として映し出される。
昏睡状態から意識を回復し、ここはどこだと戸惑いながら見回す彼の視界に、次々と顔が近づいてくる。
「大丈夫。気がついた。もう安心ですよ」
彼らは医者と看護師たちだ。
「あなたは医学の進歩によって死なずにすんだのです。これから生きていけます。私が保証します」

戸惑いながらも自分がとんでもない境遇に陥ったことを知ったジャンは、勝手に満足の笑みを浮かべている医者や看護師たちを見てつぶやく。
「なにが安心だ。なにを保証するというのだ」
泣きわめくのでなく、冷めた目で皮肉を言うところがいい。
ここまできて思い出すのは、昔見た「ジョニーは戦場に行った」だ。
あの作品では戦闘で両手両脚、目・鼻・口を失った青年が必死に自分の生を訴える姿が印象的だった。彼の場合は意識があることさえ認められず、医者から見放されそうになる。しかし頭を枕に打ちつけ、モールス信号を発することで意思の疎通を取り戻すところが見所になっていた。

あのジョニーに比べれば、はるかに医療技術も看護体制も進歩した現代で体の自由を失ったジャンは幸せといえるだろうか。
いや、そんなことはない。どんなに時代が変わっても、技術がどれだけ進歩しても、人間にとって自由を奪われることは苦痛であることに違いはないのだ。
ジャンの場合は、その不自由さを旧式の潜水服を着て海に潜っているようだと考える。
体に合わないスーツを着て、頭には巨大な鉢のようなヘルメットをつけて、水の中を漂うように動くことしかできない潜水夫。

妻と3人の子どもをもつ彼は、華やかなファッション業界でこの世を謳歌していた。仕事は充実していたし、美味いものを食べ、愛人だって何人もいた。しかし、それらはみんな潜水服の外の世界に行ってしまった。
外の世界と自分をホースのように結びつけているのは、今や瞬きだけだ。
ウィなら瞬き1回、ノンなら2回。
しかし、そうやって最低限の意思疎通はできても、動かなくなった右目の瞼は勝手に縫いつけられてしまうし、好きなサッカーを見ていてもテレビを消されてしまう。鼻の頭にハエが止まってもままならず、思わずうなり声を上げると
「やった! すごい進歩ですよ」
と勘違いな褒められ方をする。まったく可笑しくなるほどの悲しさだ。

自由のすべてを失い、絶望するしかないはずのジャンだが、彼は考える。
「私にはまだ残っているものがある。それは記憶と想像力だ」
なんという強さ。人間というのは、ここまで強くなれるのか。
記憶と想像力さえあれば、羽化したばかりの蝶のように羽をのばし、やがて自由に羽ばたくことができる。そのイメージの美しさ。
彼は言語療法士の力を借りて、特殊なアルファベットを読み上げさせ、瞬きすることで本を書き始める。その数は20万回。
まったく、手も足も動く私だが、この強さには手も足も出ない。
手も足も出ないどころか、彼を通して見れば否応なく気づかされることがある。

潜水服を着ているのは彼だけではない。自分もまた、そうなのだと。
92歳になる彼の父親は脚が痛むために4階にある自室から出ることができない。彼は泣きながら電話で息子に訴える。
「お前に会いたいが、行くことができない。俺もお前と同じなんだよ」と。
自由のように見えながら、ほんとうは誰もが不自由を背負って生きている。金持ちの不自由、貧乏の不自由、その色合いは人さまざまだが、不自由な枠の中でなんとか踏みこたえて生きている。踏みこたえていけば、何か見えてくるものがあるかもしれない。ジャンにとっての記憶と想像力のようにかけがいのないものが。
見えない潜水服を着ている私は、しばし呆然としながらエンドロールを見つめていた。

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関連タグ : 映画, 潜水服は蝶の夢を見る, 閉じ込め症候群, ジュリアン・シュナーベル,

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