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酒好き、映画好き、本好き、落語好き、バイク好き、そして鬱。 ちょっとばかり辛い日もあるけれど、フンニャロメ~と生きてます。
◎心にとめおく言葉
●人は、自分が見たいと思うものしか見ようとしない――ユリウス・カエサル
●為政者たるものは憎まれることはあっても、軽蔑されることだけはあってはならない。(塩野七生)
●自分に当てはめられない基準を他人に当てはめるべきではない
――ノーム・チョムスキー
●さまざまな知識人、文化人、政党やメディアは一般の人々よりも右よりな立場を取る――ノーム・チョムスキー
●考えろ、考えろ、考えろ!――ジョン・マクレーン

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やすえ清治

派遣村・・・・・政治のせいにするのはいいよ、でもおまえら何をやろうとしてるのさ。

自分で死ぬ気でやってんのかよ。
政治は魔法じゃねぇんだよ!


世の中のせいにする前に死ぬ気でやってみろよ!


傷をなめあってんじゃんぁねえよ!
甘えるなよ!人のせいにするなよ!



1973年生まれ、山羊座 のB型
自民党衆議院議員かすや茂秘書、IT企業のサラリーマンを経て平成15年統一地方選挙で最年少で初当選。平成19年も引き続き最年少で二期目の当選。
建設委員会委員長、広報委員長などを歴任。

やすえ清治は、今や自民党若手のホープというところか。
だから率直な気持ちで表現すれば、派遣切りで路頭に迷った人々を「おまえら」呼ばわりし、世の中のせいにするな、傷をなめあってんじゃねえよと、麻生太郎のようなべらんめえ調で罵声とも取れる言葉を投げつける。
さぞ、気持ちがよかっただろう。
言いたいことを言って、すっきりしたことだろう。

派遣切りされた人の中には私のような中高年者もいた。
私のような中高年者がいきなり職を失い、仕事を新たに得ようと思っても、家族を養えるに足るだけの職を見つけるのは容易なことではない。
住居を失った場合には礼金、敷金などの他、保証人も用意しなければならない。
財布に100円か200円しか残っていない状態で、途方に暮れてしまったとき、途方に暮れても誰にも相談しようもないとき、人はどうするだろう。
誰かに相談したい、できることなら少しでもいいから助けてもらいたい。

そう思ったとして、誰に責める権利があるというのだ。

今、未曾有の不景気を迎えて、仕事の数は急激に減っている。
下手をすればこのまま路頭に迷わなければならない。
この寒さの中、どこから段ボールを見つけ出し、どこにそれを敷いて眠ればいいのかも分からない。もしかしたら、このまま凍死するかもしれない。
そんなとき、本来ならいちばんのたよりになるはずなのが社会のセーフティネットではないのか。
そのセーフティネットとは政治によって作り出させなければならないものではないのか。
「政治は魔法じゃねえんだよ」
その言葉の裏には「施しをするつもりはねえんだよ」という気持ちが潜んでいる。
「おとといきやがれ」という捨て台詞が見え隠れする。
セーフティネットのことを考え、市民生活のことを考え、その生活を守るのが政治家の仕事ではないのか。

やすえ清治

この男には、それがわかっているのだろうか。
この男には想像力があるのだろうか。
この男には、政治家の手を煩わせない人間しかまともな相手にできないのか。

自己責任論者は、自分が苦労したことを自分の勲章のように看板に貼りつけ、自分にできたのだから他人にできないはずはないと言い張る。できない人間は努力が足りないからだと言いたがる。

しかし待てよ。
ドンつまりまで落ち込んで、行き場がなくなった人間の中には、もう死にものぐるいになる元気もない者だっているはずだ。

やすえ清治
この男には人を思いやることはできないのか。
今年36歳。
まだ若造じゃないか。

お前なんぞに人を罵倒する資格は、ないんじゃないのか。
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関連タグ : 自民党, やすえ清治, 派遣村,

年末から正月にかけて、東京・日比谷公園に「年越し派遣村」が設営され、派遣切りされて行き場を失った人々が続々と集まったのは連日報道された。その数は当初予想された人数の3倍近くまで達し、あらためてこの問題の深刻さをうかがわせた。なかには所持金が10円しかないという人や、それまで住んでいた寮まで追い出されて行くあてがなく、このまま野垂れ死にするしかないと諦めかけていた人もいた。
そう言う人々にとって、善意で開かれた「年越し派遣村」はほっと安心できる場所であったに違いなく、1600人も集まったボランティアの人々に接することは、少なからず心の救いになったはずである。

ほんらいならば、契約途中での雇い止めなどはあってはならないものだし、契約が終わったのだから年末であろうと寮からも出て行けと迫るのは人の心を踏みにじる冷たい仕打ちであって、決して容認されるものではないはずだ。
けれども、去年は9月以来の異常な経済状態に襲われたおかげで、企業はそうした非道な行為を当然のこととして行った。
この状況は、まともな神経を持っている者からすれば誰が見ても異常であり、企業はおのれの利益を守るために人権を踏みにじる行為をしたと非難されてしかるべきである。

そして、こうした事態が生じたときには、国や自治体が動いて路上に閉め出された人々を救うべく手を差し伸べる手だてを講じるのが当たり前なのだ。しかし、国も自治体も路頭に迷った人々がいることを知りながら何も手を打とうとしなかった。
だから湯浅誠らが立ち上がり、日比谷公園に「年越し派遣村」を作ったのだ。そしてここに500名からの人々が救いを求めて集まったことがニュースとなり、全国に知れ渡ったおかげで厚労省がようやく重い腰を上げて講堂を開放するということになった。その行為のどこが、ポピュリズムだというのだ。

私は湯浅誠らが行ったことは快挙だったと思っているし、彼らの行動がなければ国は動かなかっただろうし、路頭に迷った人々からは凍死する者も出ただろうと思っている。

ところが、多くの「愛読者」を持つブロガーの池田信夫は、そのブログの中で「『派遣村』の偽善」と題するエントリを上げ、「年越し派遣村」のことをおちょくっている。池田に言わせると「年越し派遣村」なるイベントは与野党のポピュリズムに利用されており、民主党の鳩山幹事長が派遣村に対して「本当に働く気持ちのある人がいるのか疑わしい」といった坂本政務次官の解任を要求したのには唖然としたと書いている。完全失業者は250万人もいるというのに、なぜ日比谷公園に集まった500人だけを特別扱いするのか、というのである。
池田は、竹中平蔵の盟友である木村剛の文章も引用している。

日比谷公園のテントでわざわざ年越しをする必要があるのだろうか、というそもそものところから、やや不自然なものを感じます。政治活動を主目的に活動している方がいるような気がしてなりません。故郷があるのなら、帰省のための交通費を貸してあげた方が親切なのではないでしょうか。

池田の分析によれば、「年越し派遣村」運動の中核になっているのは労組や共産党の活動家で、労使紛争を派遣切りという看板に置き換えて巧妙な運動を仕掛けたのだということになるらしい。
以下、池田の文を引用する。

そもそも住宅を供給するのは、企業の義務ではない。会社をやめたら寮を出るのは当たり前だ。わざとらしく日比谷公園に集まって役所に住居を斡旋させるのは筋違いで、それに応じる厚労省も不見識だ。これが500人ではなく5万人だったら、彼らは同じことをするのか。「製造業への派遣労働を見直す」とか言い出した舛添厚労相は、彼の軽蔑しているみのもんたに成り下がったのではないか。こういう状況で、誰も派遣村を批判できない気分はよくわかる。私も、かつて取材する側として、こういう「絵になる」ネタはよく使わせてもらったが、こういう事後の正義が日本経済をますますだめにするのだ。

悪意の目を持って「派遣切り」の事態を見れば、このように映るのか。
池田は、住宅を供給するのは企業の義務ではないと書いているが、そもそも派遣会社と契約した時点で労働者たちは強制的に寮に入ることを義務づけられたのではなかったか。そのうえで、派遣会社は彼らから寮費や光熱費を給料から天引きして儲けを獲っていたのである。
つまり1999年以降改悪された労働者派遣法によって劣悪な労働条件を強いられるようになった労働者が、景気の悪化にとってこんどは一方的に首を切られ、寮を追い出されたのである。池田のように企業側・派遣会社側の視点で見れば寮から出るのは当たり前に思えるのだろうが、血の通った人間の目で見れば、そもそも労働者派遣法を改悪したことからして間違いだったのであり、この制度を悪用して労働者をモノのように扱うようになった企業に問題がないわけがない。

池田は役所に住居を斡旋させるのは筋違いだと言うが、今度の派遣切り問題は、企業が起こした人災に他ならず、被害者たちは被災者と呼ぶのがふさわしい。被災者が出たときに役所が救援に手を差し伸べるのは当たり前のことではないのか。
池田は500人ではなく5万人だったら湯浅誠らは同じことをしたかと疑問視しているが、もし派遣切り労働者が5万人も出ていたら、それこそ社会の大問題として多くの人が受け止め、もっと多くの人々が湯浅たちに協力することだろう。

つまり、湯浅誠たちがやったことは賞賛されこそすれ、妙なイチャモンをつけられるいわれはまったくないのである。

自称「経済学者」を語る池田には、今起きている事態が、財界と政治によって起こされた人災であると言うことがわかっていない。地震が起きて家を失った人を救済しようとする人々に対しても、池田のような数字物事を考えられない人間は、ポピュリズムだとか公金のバラマキだとか勝手な言葉を並べて批判するつもりなのだろうか。

派遣村の活動を批判せず、自治体までが出てきて救済に乗り出すという「温情」が、今後の日本経済をダメにするとしたら本末転倒というものだろう。
そもそも労働者派遣法を改悪し、非正規雇用の割合を世界のどこよりも多く利用するようになったこの国の経済のあり方の方が、日本経済全体にとって悪影響を及ぼしているのである。

池田は、その後のエントリでも湯浅誠の『反貧困』を取り上げ、「旧態依然たる格差社会論」にすぎないとこき下ろしているが、池田に根本的に欠けているのは、現代の格差社会がもたらした貧困をいかにしたら救えるかという人道主義的な思いである。血の通った人間の思いがなければ、『反貧困』を理解することもできないということを、池田は自ら白状しているようなものだ。
池田信夫のような人間には、ぜひとも派遣切りに遭って職と住居を一気に失った人々の声を直に聞いてもらいたいものだ。
そして、池田なりに彼らのために何ができるのかを考えてもらいたいものだ。

くだらない批判だけは、もうたくさんだ。

関連タグ : 池田信夫, 派遣村,

語るも忌々しいが、日本の司会者の中で忙しさナンバー1を誇るみのもんたは自分の番組で年越し派遣村に集まった人々のことに触れ、ハローワークから聞いたという話で「職の求人はけっこうたくさんある、と。だけど『アレがいい、コレがいい』となると、なかなか決まらない面もある」と言い、出演者から「この深刻な状況は、社会全体、国の責任で発生したこと。どんなにお金を使っても、全国民の権利である最低限度の生活を保障すべきだ」とたしなめられた。
しかし、なおも納得できないみのは、「どうなんでしょう? もちろん政府は努力すべきだけど、派遣を切られた、職がないといった方たちも努力しないといけないでしょうね。権利だけ主張して『住居を、食べ物を』と言うけれど、仕事があるなら(気に入らなくても)とりあえず仕事をしたらどうなのかと思うことがある」と反論した。(テレビウォッチより)

また、坂本哲志総務大臣政務次官は、総務省の仕事始め式で、やはり「年越し派遣村」について触れ、「ほんとうに真面目に働こうとしている人たちが集まっているのかという気もした」と述べ、派遣村の活動について「40年前の学生紛争の時に、『学内を開放しろ』『学長出てこい』(などと学生らが要求した)、そういう戦略のようなものが垣間見える気がした」と続けた。(時事通信より)

大晦日から元旦の朝にかけて放送されたテレビ朝日の「朝まで生テレビ」では、内需を掘り起こす必要が語られ、その一つの案として農業政策の見直しが語られた。そのなかで、減反政策で現在休耕田になっている田んぼを使えるようにしたら、農業で雇用創出できるという話になり、司会の田原総一朗は派遣切りされた人々は百姓仕事をやったらいい、と言った。

みなそれぞれ勝手な立場から勝手なことを言っているが、要するに彼らに共通する認識は、心のどこかに派遣切りされて日比谷公園に集まってきた人々は仕事をする努力、あるいは仕事を見つけようとする努力に欠けていて、生活に行き詰まると人からの施しを受けたがる、しょうもない人間だということだ。ネットでも心ない連中が、税金を使って路頭に迷った人々を救おうということに激しい抵抗感を示している書き込みをしている。

職を失い、同時に住む家さえ無くした人がどんな気持ちでこの年の瀬と正月を迎えたのか。彼らが抱える不安がどれほどのものなのか、彼らに対して厳しい言葉を投げつける人間には想像力が絶望的に欠けている。
仕事を失い、手持ちの金もゼロに等しく、行く当てのない人間ならば、どんな仕事でもやろうと思っていることだろう。しかし実際にはハローワークに行って求人情報を探してみても条件面で一致するものがそう多くあるとは限らず、また実際に面接をしてみるとあらかじめ書かれていた条件とは違うことを言われることがままあるのだ。
どんな仕事でもとりあえずやっていこうとは思っても、彼らは派遣切りという非人間的な扱いを受けて深い痛手を被っている。できることならば、この次につく仕事は年金受給年齢ちかくまで続けたいと思うだろう。安定して安心して働ける仕事に就きたいと思うだろう。
それがわがままだとか、権利ばかりを主張しているとしか思えないとすれば、みのもんたや坂本哲志はよほどの冷血漢といっていいのではないか。

それは、仕事が欲しければ百姓でもやればと言い放った田原総一朗にしても同じである。
百姓仕事は誰でも簡単にできる仕事ではない。体力も必要ならば専門知識も必要だ。よしんば国が職業訓練する期間を与えるとしても、田畑を耕し、生活に必要な収穫を得るようになるまでは相当な時間がかかるだろう。仕事が必要ならば百姓でもやればいいとは、いかにも田原総一朗らしく無慈悲で思いやりのない言葉である。

一連の言葉を見聞きして思うのは、これらのいわゆる「勝ち組」に属する人間たちは、どうして痛めつけられた側の人々ばかりに冷たくあたるのだろうと言うことだ。
下手をすれば餓死したり凍死しかねない状況に追いやられると言うことは、尋常では簡単にあり得る話ではない。それが、政府の発表だけでもこの春までに8万5000人もの人々が職を失い、あるいは住居を追われる見込みだというのだ。
いちばん責められるべきは、このような事態に国民を追い込んだ政府の無策ぶりであり、空前の内部留保もちながら冷酷に労働者の首を切った企業の側ではないか。

昨日、日比谷公園の「年越し派遣村」が解散した後、元派遣労働者たちは国会前をデモ行進した。
議事堂の前では国会議員たちが彼らを見守り、共産党の志位和夫らに対しては「なんとか国会で労働者派遣法を改正してほしい」と訴えていたが、公明党の議員たちに対しては何人かの元派遣労働者がつかみかかり、「こうなったのはお前らのせいだ!」と怒りをぶちまけていた。
彼らが怒るのは当然である。
彼らがこのように辛い思いをしているのは、自公政権の責任なのだから。彼らが被った被害は、明らかに人災なのだから。

自己責任論者」たちは何かにつけて、今もなお派遣になるような奴は努力が足りないと言い、彼らには本当は働く気がないという。
しかし、ほんとうに生きることに対して努力せず、働く意志を持たないならば、彼らはとっくに犯罪を犯しているだろう。
大阪ではタクシー運転手が襲われる事件が連続して起きており、東京ではホームレスを続けざまに襲っていた男が逮捕された。
働く気がない人間はこうして犯罪を犯すのだ。
しかし、日比谷に集まった人々は、自分が情けないと思い、このままでは野垂れ死にするか自殺するしかないと思い詰めていた人々なのだ。実際に、自殺しかけて死にきれず、たまたまそばに落ちていた新聞に派遣村の記事があって日比谷に来たという男性もいた。
働きたくても職を奪われた人々は、「自己責任論者」に責められる前に自分で自分を責めているのだ。そういう人々をどうして責めることができるだろうか。
彼らを税金で救ってやるのはもったいないと言い張る者があるが、そんなに税金がもったいないのなら、内部留保を抱えたまま首を切った企業に請求してやればいいではないか。
人をモノのように扱うことが、結局は高くつくのだということを思い知らせてやればいい。

みのもんたも坂本哲志も田原総一朗も、どれだけ収入があるかは知らないが、生活が安定しているのだけは確かだろう。自分は高見から見物しながら、仕事が欲しかったら好き嫌いをいうななど言う前に、少しは収入の一部を寄付でもしてやったらどうなのだ。社会貢献を何らせず、責任論を偉そうに説くこれらの男たちが、私には内部留保を貯め込みながら労働者の首を切る大企業のトップにだぶって見えてくるのである。


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