上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。
酒好き、映画好き、本好き、落語好き、バイク好き、そして鬱。 ちょっとばかり辛い日もあるけれど、フンニャロメ~と生きてます。
◎心にとめおく言葉
●人は、自分が見たいと思うものしか見ようとしない――ユリウス・カエサル
●為政者たるものは憎まれることはあっても、軽蔑されることだけはあってはならない。(塩野七生)
●自分に当てはめられない基準を他人に当てはめるべきではない
――ノーム・チョムスキー
●さまざまな知識人、文化人、政党やメディアは一般の人々よりも右よりな立場を取る――ノーム・チョムスキー
●考えろ、考えろ、考えろ!――ジョン・マクレーン

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
小泉毅による元厚生次官連続襲撃事件では、犯行の動機が34年前に殺処分された愛犬の仇討ちだったことが供述から明らかになっている。小泉は、図書館で10人の高級官僚の名前と住所を調べて5人に絞り込み、その妻ともども10人を襲う計画だったという。

しかし、この報道を目にして、犬を飼ったことのある人間、そして犬を喪って辛い思いをした経験のある人間ならば、誰もが違和感を抱くに違いない。
というのも、愛犬を喪ったときの痛みは多くの場合、他人よりも自分自身を責めることにともなって生まれるからだ。
小泉の場合は、まだ12歳の頃のことで父親をふくめた大人たちが勝手に犬を処分してしまったという理不尽さに怒りを募らせたという事情はある。しかし、だからといって34年間も恨みを忘れず、処分には直接関わっていない官僚を殺すことで気持ちを晴らそうとしたところに異常性がある。

たしかに、愛犬(愛猫)が死んだ時、それが獣医の不手際によるものだった場合は、その獣医に対する怒りが生じる。
見知らぬ自動車にはねられてペットを喪った場合にも、ひき逃げした自動車の運転者を憎む気持ちが湧いてくるだろう。
だからといって、普通の飼い主は怒りをため込み、仇を討とうとはあまり考えないものだ。愛する動物を亡くした悲しみがまずなによりも大きくて、それに耐えることが精一杯になる。たとえ藪医者の手にかかって殺されたに等しい場合でも、そんな獣医のところに連れて行ってしまった飼い主としての自分を責める。
ペットが自動車にはねられたのならば、外に出してやった自分を責める。自分さえしっかりとこの犬(猫)のことを見てやっていれば、みすみす死なせることはなかったのではないかと思ってしまうのだ。

私の場合がそうだった。
私は小学校4年生のときに、それまで3年飼っていた猫を自宅の前でひき逃げされた。キヨコという、水前寺清子から名前を取ったオス猫だったが、私にいちばんなついていて、夜寝る時にはかならず私の布団に入ってきて一緒に寝る仲だった。
そんなキヨコが遊びに出て行ったまま夜になっても帰ってこない。オス猫はメスを求めて夜歩き回るなどと親から聞かされていたものの、玄関先でなにやら異常な自動車の音がしたと思って出てみると、道路端にキヨコが横たわっていたのだった。腹をひかれたらしく、アスファルトには夜目にも夥しい血糊が広がっていた。

キヨコは庭先に穴を掘って葬ったが、彼がひかれた玄関先の道にはずいぶん長いこと血糊の跡が消えずに残っていたのを今でも覚えている。
あのとき、私はキヨコをひき殺した自動車の運転手をたしかに恨んだ。しかし、その憎しみよりも、毎日一緒の布団に寝ていたキヨコがいなくなってしまった悲しみの方が大きく、それに堪えるので精一杯だった。

9年前にパグ犬のココを亡くしたときも、後から思えばもっと腕のいい獣医に診せていれば助かったかもしれないと思ったが、パグ犬が暑さに弱いのにもかかわらず、夏のさなかに無理をさせて熱中症を起こさせてしまった自分がいちばん悪いと思った。医者は私を非常識だとかえって責めたが、そんな言葉も上の空だった。
当時、すでにうつ病の傾向があった私は、まだココが元気だった頃、辛さにたまらず「一緒に死のうか」などと話しかけたことがあった。

ココが先に逝ってしまった悲しみは大きく、私は数日呆然と過ごし、自動車で1時間ほどかかる寺まで行って、ココが眠っている墓に手を合わせ、すまないことをしたと詫びた。
それからしばらくたって、私の夢にココが現れた。そして自分が死んだのは、お前に命を大切にしろと言いたかったのだ、簡単に「死のう」などと考えてはいけないと伝えてきた。
私は夢の中で声を上げて泣き、目が覚めてまた泣いた。

その悲しみのなかで、おそらくは藪医者だったろう獣医に対する怒りは消えていった。もちろん、満足に治療もできなかったうえ、私を責めた獣医への怒りはあったが、愛犬に対する思いの前に、そんなものは些細なことだった。

愛犬を無責任に棄てる人間がいる。
「患者」として運び込まれた犬や猫に対して、ひどい治療をする獣医がいる。
少し前には手術をして死亡した犬の内臓から、あり得ないビニール袋が出てきたことで訴えられた獣医がいた。この獣医は他にもひどい治療をして多くの犬猫を殺したとして100件以上の訴訟を起こされているという。
飼い主たちは皆、怒っていると同時に悲しんでいるだろう。獣医を許せないと思っているだろうが、恨みに思って仇を取ってやろうとは思っていないのではないか。愛する動物を喪った悲しみも怒りも、外ではなく内に向いていくからだ。

それだけに、34年にもわたって恨みを忘れず、見当違いな仇討ちを実行してしまった小泉毅の異常性は際立っている。
小泉は、ほんとうに犬を愛していたのだろうか。
どうも私には、そうとは思えない。
小泉は、社会の中で上手くやっていけない鬱屈した気持ちを転嫁させただけなのではないか。
あるいは誰かにその鬱屈した気持ちを利用されたのではないか。

実際、専門家たちも小泉のとった行動には疑問を投げかけている。
朝日新聞の記事では、精神科医の帝京科学大学准教授・横山章光氏のコメントとして「ペットをきちんと飼っていれば前向きな感情が強まるはず。小泉容疑者が犬を可愛がっていたというのは本当の意味でなのか、と考えてしまう」と紹介している。横山さんはさらに「家族を巻き込む意志があったところが異質」と指摘し、「思いこみによる恨みだけではなく、その先にもう一つのねじれがあるのではないか。病理を感じる」とも語っている。

日本ペットロス協会の吉田千史代表も、同じような疑問を明らかにしている。「子供のころの復讐というのは、表面的な理由にしか見えない。こんな事件は許されるものではなく、ペットを失ったことのある人も心を痛めていると思う」

ペットロスとは自分を苛むものではあっても、決して他人を攻撃するような感情を生み出すものではない。
殺処分数

ただし、この国で無責任な飼い主により毎年50万匹もの犬・猫が殺処分になっている現実や、不要になった動物をモノ同然に処分しているペット業界の闇の部分には、私も強い憤りを感じている。
そのことだけははっきりさせておきたい。

スポンサーサイト

関連タグ : 小泉毅, 殺処分, ペットロス,

私はスーパーが好きではない。人が集まるところが苦手だ。
それでも、ときどきカミサンにつきあって買い物に行くことがある。
数日前もワインのつまみにチーズでも、と近くのスーパーに行った。
すると、チーズの隣に置いてあるバターの棚がやけにスカスカになっているのに気がついた。
棚には、
「ただ今、バターの入荷が少なくなっています。在庫は陳列してあるものだけになりますのでご容赦ください」
と貼り紙がしてあった。

ついにここまで来たか。

バターが不足しているという話は、昨年から聞いていた。
ある仕事で、パティシエとパン屋さんに話を聞く機会があったからだ。
バターが品薄になってきている。普段から取引が大きい店はいいが、町場の小さなお菓子屋さんやパン屋さんには行き渡らないことがある。商品を作るには欠かせない材料だから、業務用の品物を卸してもらえない店は仕方なくスーパーに走り、小売りの商品を買いあさっているというのだ。
今はなんとか商品を卸してもらっている店も、乳製品の価格が高騰し始め、苦労しているという。バターの在庫が切れて、マーガリンを使い始めているところもあるという。
「ウチはマーガリンなど使わない」と言っていた店が、今度はマーガリンの価格が高騰して手に入れられず、青くなっているという。

なぜ、こんな事態になったのか。
それは日本の農政が失敗したツケが回ってきたからである。

ことは2006年にさかのぼる。
当時、牛乳の消費が減って売れ残りが深刻な事態となっていた。
これを見た農水省は、牛乳が売れないのなら生産調整すべしとお達しを出した。
いかにも単純な解決法で、わかりやすいったらありゃしない。
しかし、農水省が出したお達しとは、単に牛から搾る乳の量を減らすというのでなく、乳牛そのものを殺処分することを意味する。
おかげで酪農農家にいる乳牛は食肉となり、目標通り数が減った。

これで目出度しと思いきや、去年の夏は猛暑だった。そのため残った乳牛がバテてしまい、お乳を出せなくなってしまった。その結果、牛乳が不足し始めた。
普段ならばこんなとき、オーストラリアが助けてくれる。
ところが、ご承知の通りオーストラリアは歴史的な干ばつで牛乳を輸出するどころではない状態。仕方なく、オランダなどヨーロッパの酪農国に頼み込んで牛乳を手配したのだそうだ。
もちろん高価格で。

けれども、そうやって入手した牛乳も、まずは飲料用に使われる。製造に手間のかかるバターは後回しで、飲料の次はヨーグルトなどの液状乳製品にまわされる。そして最後に回されるのがバター・チーズの固形乳製品となる。
しかし、せっかく作ったバターも、まずは購買力の高いスーパーなど量販小売店が優先的に仕入れていく。
メーカーにとっては安く買いたたかれる大口加工用のバターは、最後の最後にしかまわってこない。しかも量が限られているわけだから、スーパーに走るパン屋さんも出てくる。
スーパーの棚がスカスカになるわけだ。

そしてさらに悪いことには、乳牛を殺してしまったために牛乳をもとの生産量まで戻すのには、あと2年くらいかかるというのだ。
牛乳があまったら、牛を殺してしまえ。この単純すぎるバカな発想しかできなかった農水省のおかげで今、日本のバターはほんとうに不足してきている。不足しているから当然、価格も上がっている。可哀想な乳牛たち。そして可哀想な日本の国民。そのうち日本中のスーパーからバターが消えるかも?

しかもおかしいのは、飲料の牛乳は今のところ供給できているのだからバターにまわせばいいだろうに、農水省にはその融通を利かせることができない。あくまでも、飲料の次はヨーグルトを作るのであり、バターは最後に作られることになっているからだ。
つくづくおかしな国だと思うよ、この国は。
今年は小麦の価格が30%以上あがるし、このままだと乳製品全体の価格も上がるのは確実だ。大変な思いをするのはお菓子屋さんやパン屋さんだけではすまないだろう。

で、2006年当時、牛を殺させた農水省のトップは誰だったかというと、こいつらだ。
0802220074.jpg

自分で自分を殺処分してりゃ、世話ねえや。
0802220075.jpg>

関連タグ : 農政の失敗, バター不足, 農林大臣, 殺処分, 価格高騰,

子どもの頃からの動物好きで、なかでも犬とは人生の半分以上をともに暮らしてきた。
暮らしてきたとは言っても、ほんとうに自分で犬の世話をして、飼い主と言えるようになったのはそれほど前のことではない。犬に限らず動物を飼うということは、ある意味介護にも似たところがある。いくら愛着があっても、毎日暮らして行くには忍耐を要することも少なくない。
だから、子どもには動物は飼えないと思っているし、動物のすべてを受け入れる覚悟がない人間は動物を飼うべきではないと思っている。覚悟がない人間は、結局ものを言えない動物を虐待したり、棄てたりすることになる。被害を受けるのは常に弱い立場の動物だ。

犬が好きだから、ホームセンターに行くとついペットのコーナーに足を運んでしまうし、ペットショップの近くを通りかかると寄り道したくなる。
しかし、ショーウィンドウに並んでいる犬たちを見ていると、だんだん嫌悪感がわいてくる。そして性懲りもなくペットショップを訪れてしまったことを後悔する。

なぜかといえば、そこに並んでいるのは動物ではなく「商品」だからだ。
商品であるからには、売れるものしか並べない。
CMでチワワが可愛いと話題になると、ずらりとチワワが並ぶようになる。ミニチュア・ダックスフントが流行となると、大半のウィンドウに胴の長い犬たちが寝そべっていたりする。
しかし、あめ玉ではあるまいし、人気があるからといっていきなりある犬種だけを増やすなど、自然にはできるわけがない。できるわけがないのに、それでも大量の人気犬種がウィンドウに並ぶにはそれなりの裏がある。
その裏のことを思うと、嫌悪感がわいてくるのである。
ペットショップで犬を買うな、とは言えないけれども、私は買わない方がいいと思っている。
誰もペットショップで買わなくなれば、店が困るのがよくないからではなく、売れ残った犬たちがどうなるかを思うとまた暗然としてしまうから、完全に否定はできないのだ。

26日の朝日新聞夕刊に、国が新年度から施設に収容された犬猫にえさ代を補助することを決めたという記事があった。全国の自治体では2006年度に11万8000匹の犬と23万5000匹の猫が殺処分されたという。飼い主の都合で保健所に引き取られたり、棄てられたりした犬猫が大半だ。私が伝え聞いた話でも、一時流行したシベリアン・ハスキーが保健所にあふれたことがあるという。飼いきれなくなった大型犬を見捨てた飼い主が大量発生したのだ。

引き取られた犬猫は、数日で殺処分されてしまうが、新しい制度は少しでも殺さずに動物たちに生きる機会を与えるために作られた。具体的には収容されてから3日分のえさ代が出るに過ぎないのだが、それでもないよりはいい。もし、その間に飼い主が決まれば、予防ワクチンの費用まで負担するという。
この施策は民主党の松野頼久衆議院議員が提案してきたもので、政府も今後10年間で犬猫の殺処分数を半減させることを目標に掲げているという。

久しぶりに見る、政府の前向きな施策だ。
ならば今度は国民も応えていく必要があるだろう。
犬猫を飼おうと思ったら、ペットショップではなく動物保護センターなどに引き取られている犬猫をもらい受けることだ。民間で里親を探している団体もある。そうしたところから引き取るようにするのだ。
わが家には今年9歳になる犬2匹を筆頭に、6歳、4歳の犬がいる。彼らも老いて、いつか旅立つ日が来る。それを思うと辛くて仕方がないが、彼らが年老いた分、私も老いているのである。これから再び子犬を飼おうとは思わない。
もしもまた、犬を飼うことがあるのなら、そのときはきっと可愛そうな犬たちの里親になってやりたいと考えている。そうやって少しでも「処分される」犬たちを少なくすることに協力したいと思っている。

関連タグ : , 殺処分, 松野頼久, 民主党,

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。