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酒好き、映画好き、本好き、落語好き、バイク好き、そして鬱。 ちょっとばかり辛い日もあるけれど、フンニャロメ~と生きてます。
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●さまざまな知識人、文化人、政党やメディアは一般の人々よりも右よりな立場を取る――ノーム・チョムスキー
●考えろ、考えろ、考えろ!――ジョン・マクレーン

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「お父さんは、死刑がない方がいいと思うの?」

数日前、「ニュース23」を見ながら、娘が聞いてきた。
番組ではその日、死刑擁護論者というよりも推進者の鳩山邦夫法相と死刑廃止論者の亀井静香が対談をしていた。
鳩山は、法相に就任して以来、今日までに10人の死刑確定者に対して死刑執行を命じている。
死刑については、鳩山は昨年「法相が関わらず、自動的に死刑執行をするシステムがあってもいいのではないか」という発言をして物議を醸したことでも知られる。このときは言葉の選び方がよくなかったと弁明したが、鳩山が死刑そのものを必要なものと考えており、死刑執行は粛々と執行されるべきものと思っていることに変わりはない。
鳩山邦夫
この日の放送でも鳩山は、死刑執行が犯罪の抑止力になっているという持論を述べていた。人を何人も殺しておいて、犯人の命だけが助かるのはおかしい、日本の風土に合わないと言っていた。

これを聞いていて、私は思わず「そうかな」とつぶやいたところ、それを聞きとがめた娘が冒頭の問いを私に投げかけてきたというわけだ。

私は、少し考えて、「やっぱり死刑制度はない方がいいと思うよ」と答えた。

「どうして。それじゃあ殺された人の家族が可哀相じゃない」

たしかにその通りだ。
自分だって、家族を殺されたら、殺した犯人をただにしてはおかないと思うだろう。殺されたのが犬だって、相手を憎む気持ちは変わらないだろう。

けれども、理不尽なことに対する憎しみを解消する手段として「死刑」があってもいいのかとなると、どうしても躊躇する。
人を殺すことは、もう一人殺すことでチャラになるのか。そう考えると、私にはどうもチャラになるとは思えないのだ。

死刑は国の権力に基づいて行われる刑罰である。
しかし、国というものは、国民の安全と生活を守る義務はあるけれども、犯人とはいえ国民の一人の命を奪う権利はないのではないかと思うのだ。
もちろん、これに対しては国民の生活を守るために殺人を犯すような人間は死刑にすべきだという答えが返ってくるだろう。
けれども。
私は、国には「お前は悪いことをしたのだから、世間の人々と一緒にいては困るよ」と刑務所に隔離する権利はあっても、「お前は悪いことをしたのだから、生きていてはいけない」という権利はないように思えて仕方がないのだ。

死刑をせよ、と今なら鳩山邦夫がそれを命じる。
果たして鳩山邦夫という男にそれだけの権利があるのか。
鳩山は、死刑を執行せよとは言うが、実際に死刑を行うのは刑務所の刑務官である。彼は役人だから、上司の鳩山から命じられればそれに従うしかない。
そして個人的には何の関係もない「犯人」を、法の名の下に「殺人」するのだ。
むろん、刑務官に殺人をするという意識はないだろうが、それでも自分の手で一人の人間を死に至らしめることの重みは感じるに違いない。

タイトルを忘れてしまったが、死刑執行を描いたノンフィクションを読んだことがある。そこでは、死刑執行を行う刑務官の苦悩も描かれていたことを記憶している。

人が人を殺す。これは一般社会のなかではあってはならないことである。
それと同様に、刑務所の中でも、人が人を殺すことはあってはならないのではないか。たとえそれが法務大臣の命令だとしても。

「それじゃあ遺族の気持ちはどうなるの」

娘は不満げだ。

「何も悪いことをしてないのに家族を殺されて、ずっと悲しみと憎しみをこらえて生きて行かなければいけないの?」

私はまたも考えて、やはりそうだとうなずく。
激しい怒りと悲しみと、憎しみ。
それを生むから犯罪は忌むべきものなのだ。けれども、その激しい感情は犯人を死刑にすることでしか癒せないものなのか。あるいは昇華することはできないものなのか。私はそこで暴論を言う。

「ほんとうに遺族が気持ちを晴らせるようにするなら、もういちど仇討ちを復活させるしかないだろう」
「そんなこと、できるわけがないじゃない」
「できないよ。だから、何とか別の方法で気持ちを落ち着かせなければならないのじゃないか」

ここまで話すと、どうしても思いは山口県光市で起きた母子殺人事件におよぶ。22日にはいよいよ判決が言い渡されることになっているが、被害者遺族の本村洋氏が強く死刑を望んでいることは私も知っている。
それについて私が言うことはない。
あのむごい事件に遭って、犯人に対する怒りを燃やすことは当然のことだ。死刑を願うのも自然だろう。

けれども、第3者である私はやはり、死刑には反対だと唱える。
ただし、仮釈放なしの終身刑にはしてやりたいと思う。被告が犯した罪は、一生かけて償う必要がある。今の法制度には仮釈放なしの無期懲役刑はないが、裁判員制度がはじまるまでにはぜひとも、この量刑を法に盛り込むべきだと思う。

むごい殺人事件を起こしても死刑にならないとしたら、犯罪は増えることになるのだろうか。鳩山邦夫は増えるという。私の娘もそれに賛成する。
しかし私は、賛成しない。

裁判の判決が厳しくなるのはある程度、犯罪の抑止力になるとは思うが、死刑判決がそれに結びつくとは思えない。打ち首獄門が行われていた江戸時代でも、犯罪は起きていたのだ。
鳩山邦夫が10人の死刑を執行したこの期間に、目立って犯罪が減ったかと言えば、そんなことはない。犯罪は死刑があるかどうかで発生数が変化するのではなく、政治が悪いかどうかで変化すると考える方が妥当だろう。悪政が行われて社会に不安が満ち、秩序が乱れれば犯罪が発生するのは当たり前ではないか。そこに死刑がどれほど関係するというのだ。

それでも娘は、まだ納得せずに言う。
「無期懲役が最高刑になったら、被害者遺族が払う税金で犯人を養うことになる。私はそんなの許せないと思う。死刑にした方がお金がかからなくてすむでしょう」

人の命をコストで計るということには抵抗があるが、それも見逃せない理屈であることはたしかだ。
単純に考えると死刑の方がコストがかからないように思えるが、実は反対で、死刑の方が無期懲役よりもコストがかかるという報告がアメリカではなされている。そこには収監中の生活維持費や裁判費用などの要素が複雑にからんでくるのだが、実際には両者のコストを正確に比較することは難しいようだ。日本ではこのような試算が行われていないようだが、それはなぜなのか。

というわけで、コストの点から死刑を存続させるべきという意見にも、私は疑義を呈する。

娘は、ついに到底納得しない様子でぷいと立ち去ってしまった。

そうなのだ、犯罪とは当事者だけでなく、それについて思いを巡らせる人間にとっても、到底納得できるものではないのだ。

だから厄介なのだ。厄介だけれど、真剣に考えていかなければならない問題なのだ。
裁判員制度が始まろうとしている今、その重要性はますます高まっているといえるだろう。


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関連タグ : 裁判員制度, 死刑制度, 鳩山邦夫, 光市母子殺害事件,

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