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酒好き、映画好き、本好き、落語好き、バイク好き、そして鬱。 ちょっとばかり辛い日もあるけれど、フンニャロメ~と生きてます。
◎心にとめおく言葉
●人は、自分が見たいと思うものしか見ようとしない――ユリウス・カエサル
●為政者たるものは憎まれることはあっても、軽蔑されることだけはあってはならない。(塩野七生)
●自分に当てはめられない基準を他人に当てはめるべきではない
――ノーム・チョムスキー
●さまざまな知識人、文化人、政党やメディアは一般の人々よりも右よりな立場を取る――ノーム・チョムスキー
●考えろ、考えろ、考えろ!――ジョン・マクレーン

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山口県光市の母子殺害事件で、差し戻し控訴審の判決が出た。

やはり判決は「死刑」だった。

この判決を受けて、今日の新聞、テレビはこぞって判決基準が厳罰化したことを伝えている。また被害者遺族の本村氏の談話も出ている。
悲しみは消えないが、納得できる判決が出て癒やされる」(時事通信)

その言葉には9年という歳月の重みと、今もやりきれなさを抱えているであろう胸の内が感じられる。9年間、闘ってきた本村氏のことを考えると、軽々に言葉を発することは憚らねばならない思いがする。

しかし、私はどうもすっきりしない。
ほんとうに死刑でいいのか。
この死刑は、例の「世の中様」が望んで生まれたものではないのか。

「世の中様」とは、少し前なら倖田來未という歌手の不用意な発言に過剰反応をしてバッシングした人々のことであり、近くは人前をはばからずに泣いて見せた橋下徹に感動し、激励の言葉を寄せた人々のことである。

この事件にかかわらず、最近の凶悪事件に対する判決は、厳罰化の方向に確実に向かっている。
それは犯罪抑止のためともいえるが、一方で、裁判所が大衆の意向に沿うような形で判断を下している向きがないとは言えない。

ここで私が思い出すのは、2001年6月に起きた大阪の池田小児童殺傷事件だ。
犯人の宅間守は反社会的人格障害と診断され、自らも死刑を望んだが、それ以上に世間がこの事件を起こした犯人を憎み、死刑を望んだ。
そして裁判で大阪地裁から死刑の判決が出ると被告は控訴せず、死刑が確定。すると約1年3ヵ月後の2002年9月には死刑が執行されてしまった。
死刑確定から執行までの期間の短さは異例で、まるで法務大臣も世の中様と同じようにこの事件を憎み、この犯人を許せないように執行命令を出した印象が残っている。

今から7年前に起きたあの事件を覚えている人は今も多いと思うが、犯人の名前を覚えている人はどれだけいるだろうか。

池田小で起きた犯罪と、光市で起きた犯罪。どちらも酷いことで共通しているが、もうひとつ共通しているのは、世の中様から嫌われ、憎まれた事件であるということだ。

世の中様をバカにすることはできない。しかし、世の中様には気をつけなければいけないと私は思っている。

世の中様は、まるで忠臣蔵でも見るように世の中を見る。そして決まり切ったことのように吉良上野を悪者と考え、大石内蔵助らを義士として喝采する。
芝居ならばそれもいいが、ことは現実に起きている事件であり、そこには犯人とはいえども一つの命がかかっている。それを最初から死刑と決めつけてしまって、ほんとうに正義は保たれるのだろうか。私はそこに、どうも危うげなものを感じるのである。

もし、今日の控訴審判決で「死刑」という結果が出なかったら、世の中様はどう反応しただろう。橋下徹のように激高し、許せないという声で日本中が一つになってしまったのではないだろうか。
だが、待てよ待てよ。
多数決が民主主義の基本とはいえ、社会全体が一人の人間の死を求めてまとまるということは、どこか異常ではないのか。

たとえ宅間守のような犯罪を犯した者でも、法律は冷徹に施行されるべきである。
この場合の冷徹とは、死刑が確定した者に対して、法務大臣が大衆の意向に影響を受けて刑の執行を早めるようなことがあってはならないという意味の冷徹だ。宅間守のような犯罪者は、憎まれても仕方がないかもしれないが、その犯罪行為が憎まれるだけに記憶から簡単に消し去ってはならないのだ。犯罪は記憶に止められることによって抑止されると思う。宅間守は、まるでこの世から追い払われるように死刑を執行され、その結果、満足した世の中様はその名前も記憶から抹殺してしまう。

今回の光市母子殺害事件でも、犯人の名前は明らかにされていないが、この先最高裁でも死刑判決が出され、死刑が確定したら、世の中様はようやく満足し、この凶悪事件があったことを忘れてしまうだろう。

嫌なものは誰だって見たくはないし記憶に止めておくことも欲しない。
しかし、犯罪は記憶に止めて行かなくては亡くなった人の無念は虚しく消えてしまい、犯罪が社会に残した意味も消えてしまう。つまり、抑止する力もなくなってしまうのだ。そしてまた同じように酷くて憎むべき犯罪が発生すると、また社会全体がかき回したようにヒステリックに騒ぎはじめ、同じように憎しみに染まることになる。

それでは社会はいつまでたっても成長できないではないか。

私は、今日出された判決が妥当かどうか、あえて論評することは避けたい。ただ、この判決に、世の中様の意向が反映され、流された結果出たものだとしたら、そこに危ういものがあると感じる。
法律は、世の中の変化とともにその判断が変わっていくものなのかもしれない。
しかし、性器が写った写真を猥褻とするかどうかを判断するのならともかくとして、人を死刑にするかどうかを世の中の風潮に迎合するような形で判断を下すことには疑問を呈する。

私は、いわゆる人権派弁護士に与するものではない。
しかし今日の判決が出たとき、傍聴席から拍手がわき上がったという事実に、言いようのない嫌悪を感じるのである。

■追記
本村氏のコメントは、時事通信の配信記事から引用したが、実際には本村氏は「癒されることはない」と、まったく逆のことを言っている。時事通信は何を勘違いしたのかわからないが、これでは本村氏が怒っても仕方がない過ちだ。私も大いに迷惑している。
ちなみに、判決後に傍聴席から拍手がわき上がったというのは、産経の記事にあったことを付け加えておく。



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関連タグ : 光市母子殺害事件, 死刑判決, 厳罰化,

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