●人は、自分が見たいと思うものしか見ようとしない――ユリウス・カエサル
●為政者たるものは憎まれることはあっても、軽蔑されることだけはあってはならない。(塩野七生)
●自分に当てはめられない基準を他人に当てはめるべきではない
――ノーム・チョムスキー
●さまざまな知識人、文化人、政党やメディアは一般の人々よりも右よりな立場を取る――ノーム・チョムスキー
●考えろ、考えろ、考えろ!――ジョン・マクレーン
まだまだ夏を引きずっている。
それでも今年の夏は去年の猛暑を思えばまだ凌ぎやすかったような気もする。
去年の今ごろは、ブログなどやろうとも思っていなかった頃で、今ごろはひたすら暑さに毒づき、鬱々とした気分の中でとぐろを巻いていた。岐阜県多治見市で40.9度という最高温度の記録を塗り替える猛暑の日があり、東京でも8月の平均温度が29.5度だったという記録が残っている。
この暑さの中、私が産婆役をして取り上げた子犬のうち、里子に出した1匹が命を落としたのがいまだに忘れられない。
7月の終わりのある晩、里親さんから電話がかかってきた。
彼は「すみません、○○が。。。亡くなってしまいました」
そう言って電話の向こうで泣き崩れていた。
里子に出した後も何度か会わせてもらい、家にも訪ねてきてもらった可愛い子だった。
その子がこの世にいなくなってしまったことを思うと、残念でならなかった。
しかし、電話の向こうでひたすら私に謝っている里親さんを、私は責めることができなかった。
いちばん悲しんでいるのは、なんといっても彼だったから。
「あまり悲しまないで。○○ちゃんも、あなたに可愛がられてきたのだから、きっと幸せでしたよ」
そう言ってやるのが精一杯だった。
あれから一年以上が過ぎ、今年の夏は去年ほど凶暴ではなかったかと思うが、8月の終わりに義母が亡くなった。
87歳という年を思えば寿命かと思うが、やはり私にはどうしても夏と死とを結びつけようとする気持ちがある。
旧盆の迎え火をしたとき、覚束ない足取りで玄関口に出てきた義母は、階段にぺしゃんと腰を下ろし、素焼きの皿で燃える火に向かってじっと手を合わせていた。
「いったい何を拝んでいるんだろう」
「誰が帰ってくるのかわかってるのかね」
私たち夫婦は、その姿を見て笑った。義母は頭が頼りなくなってきており、13年前に亡くなった連れ合いのことが分からなくなっていた。仏壇に飾ってある写真を見て、不思議そうに「この人は誰?」と聞いてきた。
そんな義母が迎える霊は誰のものだったのだろう。
今となっては確かめる術もない。
9月になって、長い夏もあと少しだと思えるようになった。
暑さに弱い、わが家のワンコたちも一安心だ。
反対に、夏の間も元気いっぱいだったインコたちが、今度は寒さ対策を必要とする。
元気いっぱいに飛び回るピーチの陽気な口笛というか歌声が家中に響き、うるさいと思いながらも心が癒される。

動物というやつは、ほんとうに私にとってありがたい存在だ。
これからどれだけ彼らと一緒に過ごすことができるだろう。
夏を終えた私は誕生日を迎え、また一つ年を重ねることになる。
夏と死。夏を通り過ぎていくことはその分、死に近づいていくことでもある。
厳しい暑さは続いても、確実に日が暮れるのが早まり、夜が長くなっている。
まだ、夏とも秋とも言えないこの数日。
なんだか感傷的になって、私は動物たちの顔を眺めて過ごしている。
なんだかトルストイみたいな書き出しをしてしまったが、私も自分の死後について考えておかなければと思った。
死後といっても、霊の世界じゃないよ。
私はエハラじゃないんだから。
7年間同居していた義母が、22日夜、突然亡くなった。
その日の夕方まで元気だった。朝からデイサービスに出かけて昼食を食べ、入浴もして帰ってきて、自室に戻ってからはテレビをつけて「水戸黄門」を見ていた。
それが、3時間後の7時半、カミサンが夕食を知らせに部屋に入っていくと、ベッドの上で息絶えていた。
慌てて救急に連絡し、言われた通り心臓マッサージを続けながら隊員が到着するのを待った。
病院に運ばれていって蘇生術が続けられたが、すでに心肺停止の状態で、夜9時半に死亡が確認された。
あまりに突然の、あっけない死。
87歳という年を考えれば、いつきてもおかしくはないと思っていても、いざ本当にそのときがきてしまうと、少なからず動転してしまう。
義母は、自室でひとり息を引き取ったため、手続き上は変死扱いとなり、警察が来て検屍をした後、私たち夫婦は事情聴取を受けた。義母には財産がどれくらいあったのか。生命保険などには入っていたのか。土地・家屋の名義は誰のものになっているのか。
世の中には金目当てで親をも殺す手合いがいるものだから、私たちも一応、その線の疑いがないかを調べられたのだ。
義母には借金もなかったが、財産もまったくなかった。
生活は年金ですべて賄っており、そのわずかな収入は、日々の暮らしのためにほとんど消えてしまっていた。
ここ数年は体も頭も衰えてきたことから、娘であるカミサンが金の管理をしていたが、食費の他に介護保険や健康保険料を支払い、デイサービスの費用を支払い、ベッドなど介護用品のレンタル料を支払い、下の世話をするためのオムツや尿取りパットなど日用介護用品を購入すると、後にはほとんど金は残らなかった。
借金こそないのは幸いだったが、蓄えもまったくなかったので、葬儀は私たちがやらねばならなくなった。
義母が亡くなったその夜、葬儀社の人間がさっそく家に訪れて、夜通しかかって葬儀の見積もりを始めた。
私たちは互助会に入っていたために、30万円近くをすでに支払い終わっていた。おかげで、遺体の搬送や棺代、霊柩車代、さらには通夜・告別式の会場費に祭壇の費用などが免除された。もしこのサービスを受けずにいたら、祭壇だけでも60万からの金が必要になる。棺が8万4000円、霊柩車が7万3500円、病院の霊安室から自宅まで遺体を運ぶだけでも2万6000円の金がかかるということだった。
互助会に入っていたおかげでこれらはすべてタダ。
やれやれと思ったのもつかの間、葬儀社の男は次に、サービスにふくまれないもろもろの費用について説明を始めた。
施主が祭壇に供える生花は欠かせないでしょう。
これが1対で4万2000円。
個人は花がお好きだったそうですが、遺影のまわりを花で飾りましょう。これは30万から20万、10万とありますが、どれにしましょうか。
ご親戚やお友達からの生花は1基3万1500円からありますが、どうしますか。
お寺さんは私どもがご紹介します。ただし、住職へのお支払いは直接なさってください。
お車代として通夜・告別式にそれぞれ5000円ほど。お食事をご一緒しないという場合には食事代を包んでください。
戒名についてはお寺さんによっては「お気持ちで包んで下さい」というところがありますが、失礼があってはいけないのでお幾らをお包みすればいいのか聞くようにしてください。
葬儀社の男は手慣れた口調で次々と必要項目を挙げて、その金額を提示していった。
「で、戒名をつけてもらうには、だいたい相場はどれくらいなんですか」
私は恐れをなして聞いてみた。
「そうですね、お寺さんにもよるし、戒名にもよりますが、高いところでは70万から80万。でも、だいたいの相場は40万というところです」
「はあ、戒名だけで40万ですか」
男はそれからも必要なものを挙げていった。
通夜には何人くらい来るでしょう。それにあわせて食事を用意しなければなりません。だいたい、10人前のセットが5万、3万、2万とあって、それぞれ品数が違います。これだけでは足りないでしょうから、他におつまみのようなものもご用意した方がいいでしょう。お寿司の場合で5人前9750円からになっています。
火葬場は、公営施設なので料金は当日その場で払っていただきます。ご自宅の区域にある火葬場の場合、1万5000円ですが、少々遠くにあるため車で1時間ちかくかかります。この場合、参列者の方々もお疲れになるでしょうし、マイクロバスを借りる場合は長距離になるとその分、料金も割高になります。
区域は違いますが、葬祭場の近くにある火葬場をご利用になってはいかがでしょう。料金は6万円になりますが、車で20分ほどですからご参列の方にも負担になりません。もちろん、マイクロバスの費用も安くなりますから、総体で比較すれば1万円ほどしか違いません。
火葬場では、だいたい1時間から1時間半ほど待ち時間があります。その間にみなさんにはお菓子などを食べていただいた方がいいと思いますが、こちらはだいたい5人分で2100円となっています。
火葬が終わった後は、精進落しになりますが、お料理の方はどうしましょうか。「やすらぎ」が1人前6500円、「おもかげ」が5500円、「おもいで」が3600円、「しらぎく」が2500円となっていますが。
そんな説明を聞きながら、さて87歳の義母のためにいったい何人の人が通夜・告別式に来てくれるのか。私には見当もつかなかった。しかし、それをはっきりさせなければ、料理ひとつをとっても差し障りが出る。多すぎれば高い料理が無駄になるし、反対に足りなくなれば会葬者に失礼なことになってしまう。
これには本当に頭を悩ませた。
カミサンが自分の親戚などを勘定して、なんとか頭数を出したが、ほんとうにそれで大丈夫でしょうね、と念を押されると心許なかった。
そうやって諸々を計算すると、出てきた金額は通夜・葬儀費用だけで150万ほど。これに戒名料や住職への礼もふくめると、かるく200万を超えてしまいそうだった。
今、全国の平均的な葬儀費用はおよそ237万円といわれる。
今回の義母の場合は、ごく内々で式を執り行いたいという希望を出して総額200万になろうとしたのだ。故人の年齢や社会的立場、さらに家の考え方によって、この金額はいくらでもふくらんでいくだろう。
しかし、借金もなかったかわりに残した財産もない義母の場合。
私たち夫婦がいきなり200万の金を負担することは不可能だ。
それに、考えてみれば葬儀社の男が挙げていた諸費用のひとつひとつは普通の相場から考えてもあまりに高くないか。
たとえば遺影に飾る生花が、なんで30万とか20万もするのか。祭壇に飾る花だって、普通の花屋に頼めば数千円でアレンジしてくれるだろう。なぜ、葬儀用というだけで万単位になってしまうのか。
見積書をじっくり見直してみると、ひとつひとつのレートがとにかく高い。
儀式だから、特別なのか。
遺体につけるドライアイスが30キロで1万8700円というのは、どうなのか。
納棺式の費用が31万5000円というのはどうなのか。
遺体を乗せていた布団を焼却する「お焚上げ」が1万5750円というのはどうなのか。
坊主丸儲けとはいうけれど、戒名をつけるだけで40万からの金を支払う習慣というのは、守る必要があるのか。
もちろん、人が死んだ後にはそれなりの手続きが必要だし、死者を敬う気持ちを持つのも必要だろう。
しかし、そのために平均200万以上の金を待ったなしで払わなければならないというのは、理に適っているといえるのだろうか。
もし、亡くなった義母に確かめることができるなら、葬式はどの程度にするのか、花はどれくらい必要なのか、誰と誰を呼ぶ必要があるのか、そもそも葬式が必要なのかどうかを聞いてみたいと思った。
死者に鞭打つようなことを言うべきではないのは承知しているが、自分が死んだときはどうしてもらいたいのか、ほとんど金も残さず死んでいくのであれば、葬儀はどの程度で妥協するのか、義母にははっきりさせておく義務があったと思う。
生前、体だけは健康でと言い、血の滴るようなステーキを食べたいという元気があった義母は、自分が死ぬことなど考えることもできなかったのだろう。
しかし、本当は後に残る人間のことを少しでも思う気持ちがあるのだったら、自分の始末の仕方を伝えておくのが思いやりというものだ。年金が入るのを楽しみして、金が入ると買い物をするのが気晴らしになっていた。その気持ちは分かる。それくらいの楽しみがなければ、生きていたって何が楽しいものか。
それでも、自分が必ず死ぬ日がやってくるということは、頭のどこかに置いておくべきだったのだ。
いまさら責めたくはない。しかし私自身、義母との生活には疲れを感じていたこともある。カミサンの親ではあるけれど、生活様式もものの考え方もまったく違う人と一緒に暮らすことは、箸の上げ下げひとつを見ても気にし出せばストレスになる。認知症とはいわれなかったが、明らかに行動がおかしくなり、下の始末ができなくなってからというものは臭いにも耐えて暮らさなければならなかった。義母の入った後に風呂に入ると小便の臭いがする湯船に入らなければならなかった。さすがに風呂だけは勘弁してくれと、義母の入浴は最後にすることにし、体力が衰えてからはデイサービスで入浴を済ませるようにしてもらった。それでも近くによると排泄物の臭いが抜けない義母を、正直なところ、私は疎ましく思いはじめていた。
もう限界だ、勘弁してくれ。しばらくでもいいから施設に入れられないか。
そう思った矢先の、突然の死だった。
通夜と告別式には、思いの外大勢の人たちが集まってくれた。義母が可愛がっていた孫たちも、自分の子どもを連れて泊まりがけできてくれた。皆が、義母との別れを惜しんでいた。そのなかで、ひとりホッとした気持ちに包まれていた私は、とんでもない罰当たりだったかもしれない。
しかし、自分の人生の結着を明らかにしなかった義母を見て、私はあらためて教えてもらった。
俺が死んだときには葬式もいらないし、墓を建てる必要もない。そう娘たちには伝えておこう。
今は昔ながらの葬儀が執り行われる一方で、新しい葬儀のあり方を考える人々も多くなっている。葬送の自由を考える会やもやいの会などNPOも活動している。それらは多くが生前に手続きする必要があるようだが、私もなるべく早くそうしたものに入会しておこうと思う。
なにしろ、死は自分にとっても突然、驚きとともにやってくるだろうから。
これに対して、私も少々思うところがあるので書き留めておこうと思う。
たしかに、長年連れ添ってきた家族を手にかけようというとき、心にあるのは憎しみではないだろう。憎しみを持つとすれば、そのような事態にまで追い込まれてしまった自分に対してであろうし、絶望の淵から突き落とし、自分を見捨てた社会に対してであろう。
ただし、いかなる事情があるにせよ、これから人の命を奪おうと決意した者の心を占めるのは、純然たる殺意だと、私は思う。
まず第一に、人の命を奪おうというときに憐憫などがあっては刃先が鈍るだけだからだ。
もう生きてはいけない。この者たちの命を奪って自分も死のう(と思ったかどうかはこの事件ではわからないが)、そういう決意をするには引き返すことができないある一点を超えなければならない。そして、その一点を超えてしまえば、いかにして確実に殺せるかのみが問題になる。
1月には、幼い子供ふたりをマンションの11階から投げ落とし、自分も身を投げて死んだ母親がいた。我が子への憐憫が断ち切れずにいながら、母親は子供を投げ落とすことができただろうか。彼女は絶望の中で逃げ場を失い、圧倒的な孤独に押しつぶされそうになって死ぬことしか考えることができなくなった。生きて苦しい思いをするよりは、死んで何も感じなくなる方がいいと思ったに違いない。ならば、確実に命を奪うしかないではないか。
2月に起きた足立区の事件では、父親が息子の両手を切断しているが、それはなぜなのか。
私は、抵抗されればいちばん困るのが息子であり、家族を確実に殺すためにはまずその手を封じておく必要があったからではないかと思う。
子供を道連れにする心中は酷いものだが、子を道連れにするのを非難するのはその人に余裕があるからで、死に追いつめられた者にとっては一緒に死ぬことが最後に残された唯一の選択肢なのだと思うと、軽々に非難する気にはなれない。
第二に、家族のあり方が、少し前までと現在とではまったく異なっていること。以前は茶の間のテレビが象徴していたように、家族がそれを囲んで過ごす時間があった。たとえテレビに夢中になっていても、二言三言の会話が生まれる余地はあっただろうし、一緒に時間を過ごすことだけで共同体としての意識が持てた。
しかし今は違う。テレビは個々人の部屋で見るか、あるいはテレビなど見ずにパソコンに向かうようになってきている。食事さえ、今では子供がひとりで食べるのが珍しくなくなっている。家庭とは、もはや単なる人間の入れ物であり、その構成要素である個人の間には繋がりが希薄である。親子であっても憐憫の情は生まれにくくなっている。
第三に、たとえ憐憫の情を抱く家族であっても、死を決意するほどまで追いつめられてしまえば、それはかえって憎しみの対象にもなりうるという点。愛情と憎しみとは背中合わせのものであり、愛するが故に家族や恋人に対して憎しみがわくということはよくあることだ。人間の心理というものはアンビバレントであり、愛するが故に相手を守ってやれなくなったときには、それが憎しみに形を変えて発露する。今回の事件では、家族や親のために自分を犠牲にしてきた父親が、もはや家庭を維持することができなくなった。家族を守ってやれなくなった。そう観念したときに、「こいつらさえいなければ、俺の人生は違っていたかもしれないのに」と思った可能性は少なくない。
家族とは、同じ屋根の下に暮らしていても、いや、同じ屋根の下に暮らしているからこそ、ときには些細なことで殺意を持つことがあるものである。私自身を顧みても、カミサンから無神経な言葉を投げつけられると、殺意に似た感情を持つことがある。それでも私が家族を殺さずにすんでいるのは、今のところはまだギリギリまで追いつめられていないからで、状況が変われば私だって家族を道連れにするかもしれない。家族とは、それほど危うい関係でもあると思うのだ。
窮鼠猫を噛むというけれど、ネズミも追いつめられなければ歯を剥き出すことはないのだ。
それでも一度、歯を剥き出してしまえば必死で相手にかぶりついていくしかない。
悲しいことに、事件を起こした人々はみな、かぶりつくべき相手が正体のない格差社会であり、世の中に広がっている拝金主義だった。それゆえに仕方なく、血のつながった肉親に刃を向けたということではないだろうか。
人をいたわり、慈しむ心なら、普通の人間ならば誰もが持っているはずだ。
しかし、今の社会はそうしたほんらいの人間らしい心を持つことを許さない。そういう心を持つことは損であり、格好わるいことだと皆が薄々感じながら生きている。正論をいう人間は煙たがられ、金よりも義を重んじるといえばうさん臭く思われる。今どき「義」を重んじるなど、政治家の口から出るでまかせと相場が決まっている。しかし色眼鏡を外してみれば、「義」とは人間にとってもっとも大切な価値観なのではないか。
私は、今の世の中がここまで生きづらく、居心地の悪い空気が満ちていることに絶望的な気持ちを持っている。絶望してはいけないのだと思いながら、卑しい人間があまりに多いことに憤りを忘れて半ば自棄的になっている。こう書けばお前はそれほど高潔な人間かと問われるかもしれないが、もちろん私は高潔でもなんでもない。しかし高潔でない、ごくつまらない男をしてここまで絶望させる社会は、やはりどこかが間違っているのである。何かが病んでいるのである。
そして自棄的になっている私だって、この先、追いつめられさえすればやはり、家族に向かって刃を向けることがないとはいえない。
そのとき、確実に死を与えることができるのか。私にはまだ、その覚悟がないだけだ。
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