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酒好き、映画好き、本好き、落語好き、バイク好き、そして鬱。 ちょっとばかり辛い日もあるけれど、フンニャロメ~と生きてます。
◎心にとめおく言葉
●人は、自分が見たいと思うものしか見ようとしない――ユリウス・カエサル
●為政者たるものは憎まれることはあっても、軽蔑されることだけはあってはならない。(塩野七生)
●自分に当てはめられない基準を他人に当てはめるべきではない
――ノーム・チョムスキー
●さまざまな知識人、文化人、政党やメディアは一般の人々よりも右よりな立場を取る――ノーム・チョムスキー
●考えろ、考えろ、考えろ!――ジョン・マクレーン

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小川和弘
今年の6月、秋葉原で加藤智大が起こした無差別殺傷事件では、その根底に現在の格差社会がかかえる矛盾があることを多くの人が指摘した。
そして今日、加藤智大は精神鑑定の結果、責任能力があることが認められて正式に起訴されることが決まった。彼が起こした犯行の残忍性や無責任についてはいくら非難しても足りないほどだが、やはり秋葉原事件は自民党政権による新自由主義社会が引き起こした事件として歴史に刻まれることになるのではないだろうか。
事件を起こすかどうかという点については、本人の資質や本人を取り巻く環境、家族との関係などが大きく関わると思うが、もし日本の社会にこれほどひどい格差が存在せず、生きることに希望を失わせない社会だったならば、加藤智大があのような行動を取っただろうかと考えずにはいられない。

同じように、大阪で起きた個室ビデオ店放火事件もまた、根底に格差社会があることをそろそろ論じてもいい頃なのではないかと思う。

新聞・テレビはもっぱら個室ビデオ店という風俗産業の問題点を指摘する方向で事件を語ろうとしており、犯人の小川和弘については借金を抱え、家族・財産を失った人生の転落組であり、最近は奇矯な行動を見せることもあったという点が語られるばかりで、社会的な問題とのつながりを指摘する声は少ない。

しかし、小川和弘もまた日本というすべり台社会の中で足を踏み外してしまい、もはやはい上がることができない、あるいはそれを許されない状況のなかで人生に絶望し、ライターで火をつけてしまったと考えることができるのではないだろうか。
加藤智大は、派遣労働者という不安定で差別的な身分に甘んじていることに我慢できずに犯行を起こした。
小川和弘の場合は、分譲マンションに家族と暮らしていたが、働いていた大手企業をリストラで退職し、その後はギャンブルにのめり込んで財産を失い、最後には戸籍まで売って金を作り、文字通りその日暮らしをしながら犯行の日までしのいできた。個室ビデオ店に入ったときにはほとんど現金は持っていなかったという。
マスコミが伝える犯人像だけを追うと、単にだらしない人間が身を持ち崩した挙げ句、発作的に放火を起こしたかのように見えるが、小川和弘がもらした「生きるのが嫌になった」という言葉にはもっと深い闇が隠されているように思えてならない。

写真に写る小川和弘の表情はうつろで、重大な犯罪を犯した責任を感じているようには見えない。もしかすると、今後行われるであろう精神鑑定で犯行当時は心神喪失状態だったという結果が出るかもしれない。
しかし、彼がもし会社をリストラされていなければ、ギャンブルで身を持ち崩したとはいえ、生活保護を受けるまでになったときに誰かが救いの手をさしのべる制度があれば、「生きるのが嫌になった」と思い詰めるほどの絶望に追い込まれることはなかったのではないか。

小川和弘のような人間に対して、今の社会は「自業自得」という言葉を投げつける。どうしようもなくだらしない男だと吐き捨てるように言う。
たしかに小川という男は、そう言われても仕方のない人間だったのかもしれない。
けれども、なぜ彼がリストラされたのか、なぜギャンブルにのめり込むようになったのか、なぜ借金を重ね、自分の戸籍まで売ろうと思うにいたったのか。
46歳の男が現金をすべて失い、自宅も半ば追い出されるような形で街をさまようとき、はたしてその心にはどんな思いが浮かぶだろうか。
もう一度、なんとかやり直せないものだろうか。彼はそう考えたかもしれない。
しかし、いくらそう考えたとしても、今の社会は46歳の落ちこぼれ人間、新自由主義的にいえば「負け組」の中の「負け組」ともいえる男に対して「再チャレンジ」の機会を与えるほどの優しさは持ち合わせていない。金のない人間は、人間としての値打ちもないと考えられがちな社会の中で、小川和弘は絶望し、追い詰められ、もしかすると精神に異常を来すほどうちひしがれた状態で、あの個室ビデオ店に入ったのではないか。

小川和弘には社会に対する復讐といった、積極的な気持ちは働いていなかったかもしれない。しかし、自分がこんな惨めな状態になってしまったことに対するやり場のない思いは十分に抱いていたはずだ。

私は、加藤智大が抱いていた怒りを人々がある程度理解したように、小川和弘が抱いていた絶望に対しても、もう少し理解してやる必要があるのではないかと思う。
虚ろな眼差しの小川和弘の写真を見て、吐き捨てるような思いを持つことは、私には今のところできないのである。

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関連タグ : 個室ビデオ店, 放火事件, 小川和弘, 加藤智大, 格差社会,

去年の流行語大賞など、もはや忘れてしまった人が多いのではないか。
性犯罪者が知事になったことで認められたらしい「どげんかせんといかん」も、女性週刊誌かワイドショーレベルの話題に過ぎない「ハニカミ王子」も、現実の日本社会の実情とは大きく乖離したものだったために、極端に印象が薄い。
言い換えれば、どうでもいい言葉が流行語として表彰されたわけだ。
「消えた年金」で舛添がいけしゃあしゃあと出席したことからも、この賞が大衆の目をそらすために誂えた、御用流行語であることは間違いない。

真の流行語がなんであったかといえば、すでに他ブログでは「KY(空気が読めない)」だ、などという説が上がっていたが、私は文句なく「格差社会」と「ワーキング・プア」が挙げられるべきだと思う。「格差社会」は去年に始まったことではないが、NHKの番組により働く貧困層が注目を浴びたとき、誰もがあらためて「格差社会」のことを考えたに違いない。

時代を現わしながら、これらの言葉が脚光を浴びるというよりは人々の心の底に沈殿してしまっているのは、とりもなおさず今の世の中が新自由主義の勝利の下にあるためで、心ある人々は今後さらに声を大にして格差社会やワーキング・プアのことを叫び続けていかなければなるまい。流行語大賞などは、もうどうでもいいのだ。

新自由主義がはびこる陰で、日陰の花のように存在している言葉が「ディーセント・ワーク」だ。
これは1999年にILOのファン・ソマヴィア事務局長が提唱した理念・活動目標で、日本語にすると「権利が保護され、十分な収入を生み、適切な社会的保護が供与される生産的な仕事」という意味を持つ。
昨日の朝日新聞夕刊には、この言葉がなかなか浸透しないことを伝えるコラムが掲載されていた。99年に提唱されながら、いまだに社会の市民権を得られずにいるのは、ひとつには「ディーセント(decent)」という言葉に適当な訳語が見つからないために浸透しにくいことが挙げられている。ディーセントとは「ちゃんとした、きちんとした」という意味で、「やさしく働ける仕事」という訳語を当てている者もいるようだが、こんな言語センスでは浸透するわけがない。
ワーキング・プアが問題になっている社会に於いては、ディーセント・ワークの訳語はもっと切実な響きを持っている必要があるだろう。

要するに、人は誰もが労働に見合っただけの権利と保障と収入が得られるべき仕事をしなければいけないということであり、基本的人権と結びつけた言葉をつくればいいのではないか。
実際にそれがどんなものが適当なのかはおくとして、問題は、この言葉が1999年から今に至るまでまったく日の目を見なかったことは、単に訳語がダサイからというだけではないような気がすることである。
この間、政府は派遣労働法を改悪するなど、新自由主義にもとづいて労働条件を悪く、厳しくすることに懸命だった。そのためには「ディーセント・ワーク」などという言葉や概念が社会に根付くことはじゃま以外の何者でもなかっただろう。

とすれば、昨年の流行語大賞がほとんどどうでもいいような言葉に与えられた骨抜きの賞になったように、ディーセント・ワークはワーキング・プアなどとともに意図的に排除されたものなのではないかと邪推してみたくなる。

朝日のコラムでは、この言葉を定着させるために、ドラマやCMで意図的に連呼するようにしてはどうかなどと、半ば冗談めかして締めくくっていたが、ワーキング・プアという言葉がすんなりと受け入れられた土壌があれば、ディーセント・ワークもそれほど無理なく定着するように思う。
要は、この言葉が今の社会にとって切実で重要な言葉であることを十分に告知していくことであり、社会にとってはむしろ有害なドラマやCMなどに頼ることなく、しっかり骨のあるドキュメンタリーを一本作って放送すればいいだけの話なのではないか。

関連タグ : ディーセント・ワーク, 格差社会, 新自由主義,

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