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酒好き、映画好き、本好き、落語好き、バイク好き、そして鬱。 ちょっとばかり辛い日もあるけれど、フンニャロメ~と生きてます。
◎心にとめおく言葉
●人は、自分が見たいと思うものしか見ようとしない――ユリウス・カエサル
●為政者たるものは憎まれることはあっても、軽蔑されることだけはあってはならない。(塩野七生)
●自分に当てはめられない基準を他人に当てはめるべきではない
――ノーム・チョムスキー
●さまざまな知識人、文化人、政党やメディアは一般の人々よりも右よりな立場を取る――ノーム・チョムスキー
●考えろ、考えろ、考えろ!――ジョン・マクレーン

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いうまでもなく、すぐれた映画というものは、見る側に対して相応のリテラシーを要求するのである。
私が「ノーカントリー」をすぐれていると感じたのは、単に善と悪が闘うアクションと暴力がすさまじかったからではなく、善と悪という人間的な価値観を超えたところにある「死」の存在が描かれているところに衝撃を感じたからであり、理不尽で無差別に襲いかかる死というものが、きわめて現代的なテーマに通じているところに感心したからである。
血と暴力に彩られた死の前に、人は無力に佇むしかない。そこには絶望が感じられるが、もちろん、この映画はそれだけを答えにしているのではない。残虐で無慈悲な殺戮は、なにも現代だけの専売特許なわけではなく、昔も同じように行われていたという台詞がある。この台詞をとらえて考えれば、死も暴力も普遍的なテーマとして描かれているのが、この作品であり、観客はいくら時代が進んでも人間の本質は変わらないといったあきらめを感じるかもしれない。
あるいは、ラストシーンでトミー・リー・ジョーンズが妻に向かって長々と夢を見た話をするが、その内容は、雪の降る凍える山道を死んだ父親と馬に乗っていく夢だ。父親は牛の角に火を灯したものを持って先に行ってしまうが、自分は父親がきっとどこかで待っていてくれるだろうと感じる。
この話をラストに持ってくることにより、観客は、無慈悲な死と殺戮が描かれているが、遠い未来にはかすかな希望も見えているのだというメッセージを受け取ることもできる。

つまり、すぐれた映画というのはいくつもの答えがあるものなのだ。

さて、このごろ話題になっている「靖国 YASUKUNI」の問題だ。
遅ればせながら、私もひとこと書いておきたい。
YASUKUNI

私が思うには、いちばん問題なのは、映画に対する想像力もリテラシーも欠如している稲田朋美が議員の特権を乱用して試写を要求し、まったく的外れな感想を述べたことにあると思う。

稲田に想像力が欠けているのは、映画を見る以前に、国会議員が政府出資の助成金が出て映画が作られていることを問題視して試写を要求することがどういう影響を与えるかということに対してまったく想像力を働かせていないということだ。そのようなことをすれば検閲と受け止められることは容易に想像がつくことなのに、稲田にはそれがわからなかった。
そしてリテラシーに欠けているのは、さまざまな受け取り方が可能であることがすぐれた映画であることを理解せず、自分の物差しだけを当てはめて「靖国神社が国民を侵略戦争に駆り立てる装置だったという政治的メッセージを感じた」と感想を述べた点にある。それは稲田が感じたひとつの感想に過ぎないものであり、映画「YASUKUNI」のすべてを語りうるものでは決してないということを、稲田は理解していない。そういう見方をすることもできるかもしれないが、そうではなく、今まで靖国神社に対して特別な思い込みや知識を持っていなかった人が、改めて靖国神社について考えるきっかけを与えてくれた。その点で、この作品は高い評価を得たはずなのだ。
稲田程度のリテラシーでは、せいぜい「恋空」のようなケータイ小説を映画化したものでも見ていればいいだろう。

議員による検閲ではないのかという批判が起きるのは当然のことなのに、稲田は卑怯にもまともに答えようとせず、逃げ回っている。このような議員に税金が支払われていることの方が、私としては問題視したい気持ちだ。

また、自民党の水落敏栄参院議員、有村治子参院議員は、この作品が助成対象としてふさわしくないと、助成金の返還を求めている。
しかし、そもそもこの映画は文化庁の決して緩くはない審査をパスして助成金を得たものであり、それを今さら蒸し返すのは、たんなる難癖をつけるだけの幼稚な行為である。
靖国神社を映画の題材にすることは英霊や御霊に対する不遜であるという有村の言い分も、無理がある。それならば、これまで数え切れないほど作られてきた戦争を題材にした映画すべてが、戦争で犠牲になった人々に対して不遜であることになり、すべて上映禁止にしてDVDなどは販売禁止にしなければならないだろう。そんなことは不可能だし、ナンセンスだ。

靖国神社はとくべつな存在である、と議員たちはよくいうが、どこがどう特別なのか。その特別なところがいいのか悪いのか、ひとつひとつをはっきりさせる者がいない。われわれから見れば、彼らは自分の主義主張に都合よくこの神社を利用しているに過ぎないように思われる。

靖国神社は国が、先の戦争で亡くなった人々を祀る神社だが、そこには強制連行された朝鮮人の遺骨や、戦争犯罪人として処刑された人の遺骨もいっしょくたに祀られてしまっている。そのいい加減さが反発を呼び、国際問題に発展する。合祀問題をどう考えるか、どう処理すべきかを明らかにすることが政治的意味合いを持つことそのものなのであり、そのことを論じるのが目的ではないドキュメンタリー映画を撮ることに政治的な解釈をこじつけるのは、映画作家に対して失礼なことだと思う。

いずれにしても「YASUKUNI」がすぐれた映画かどうかは、議員が判断することではなく、一般の人々が見て判断すべきことである。そして判断するには、この映画が上映される機会を持つ必要がある。この点において、ようやく公開に踏み切る映画館が増えてきたことは喜ばしいことだと思う。
偏狭な右翼思想による妨害は、警察の手によって排除される必要がある。

われわれには、すぐれた映画を観る権利があるのだ。


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関連タグ : 映画, YASUKUNI, 稲田朋美,

ジュリアン・シュナーベル監督の「潜水服は蝶の夢を見る」を観た。
シュナーベルは前作「夜になるまえに」で私を魅了した監督であり、7年ぶりとなる今回の作品は今年最も楽しみな作品でもあった。

「夜になるまえに」は、原作がすぐれていたこともあるが、その魅力を損なわない台詞の美しさが心に残る映画だった。それは冒頭の、主人公が子供時代を振り返るモノローグから圧倒的だった。
映画とは、もちろん物語を伝える手段だが、ストーリーを伝えることに汲々としている映画には魅力がない。ストーリーを発酵・熟成させ、昇華させる作者の思いが表れていなければならない。それは映像の作り方であり、台詞の選び方であり、また音楽・効果音の使い方に現れてくる。

「ぼくは二歳だった。裸で、立っていた。前かがみになって、地面に舌を這わせた。ぼくが覚えている最初の味は土の味。同い年の従妹ドゥルセ・オフェリアといっしょに土を食べたものだった。」

これは原作の一節だが、映画はこの文章に妖しいほどの魅力を添えた映像で幕をあけた。この瞬間、「夜になるまえに」は、私にとって傑作の一本になったのだった。

潜水服は蝶の夢を見る」は、フランス人でファッション雑誌『ELLE』の編集長をしていたジャン=ドミニク・ボビーが、43歳で突然脳梗塞に倒れ、意識はあるものの左目しか動かせない状態になって書いた本を原作にしている。そう、彼は文字通り、左目だけで本を書いたのだ。
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画面は大半がジャンの左目を通した映像として映し出される。
昏睡状態から意識を回復し、ここはどこだと戸惑いながら見回す彼の視界に、次々と顔が近づいてくる。
「大丈夫。気がついた。もう安心ですよ」
彼らは医者と看護師たちだ。
「あなたは医学の進歩によって死なずにすんだのです。これから生きていけます。私が保証します」

戸惑いながらも自分がとんでもない境遇に陥ったことを知ったジャンは、勝手に満足の笑みを浮かべている医者や看護師たちを見てつぶやく。
「なにが安心だ。なにを保証するというのだ」
泣きわめくのでなく、冷めた目で皮肉を言うところがいい。
ここまできて思い出すのは、昔見た「ジョニーは戦場に行った」だ。
あの作品では戦闘で両手両脚、目・鼻・口を失った青年が必死に自分の生を訴える姿が印象的だった。彼の場合は意識があることさえ認められず、医者から見放されそうになる。しかし頭を枕に打ちつけ、モールス信号を発することで意思の疎通を取り戻すところが見所になっていた。

あのジョニーに比べれば、はるかに医療技術も看護体制も進歩した現代で体の自由を失ったジャンは幸せといえるだろうか。
いや、そんなことはない。どんなに時代が変わっても、技術がどれだけ進歩しても、人間にとって自由を奪われることは苦痛であることに違いはないのだ。
ジャンの場合は、その不自由さを旧式の潜水服を着て海に潜っているようだと考える。
体に合わないスーツを着て、頭には巨大な鉢のようなヘルメットをつけて、水の中を漂うように動くことしかできない潜水夫。

妻と3人の子どもをもつ彼は、華やかなファッション業界でこの世を謳歌していた。仕事は充実していたし、美味いものを食べ、愛人だって何人もいた。しかし、それらはみんな潜水服の外の世界に行ってしまった。
外の世界と自分をホースのように結びつけているのは、今や瞬きだけだ。
ウィなら瞬き1回、ノンなら2回。
しかし、そうやって最低限の意思疎通はできても、動かなくなった右目の瞼は勝手に縫いつけられてしまうし、好きなサッカーを見ていてもテレビを消されてしまう。鼻の頭にハエが止まってもままならず、思わずうなり声を上げると
「やった! すごい進歩ですよ」
と勘違いな褒められ方をする。まったく可笑しくなるほどの悲しさだ。

自由のすべてを失い、絶望するしかないはずのジャンだが、彼は考える。
「私にはまだ残っているものがある。それは記憶と想像力だ」
なんという強さ。人間というのは、ここまで強くなれるのか。
記憶と想像力さえあれば、羽化したばかりの蝶のように羽をのばし、やがて自由に羽ばたくことができる。そのイメージの美しさ。
彼は言語療法士の力を借りて、特殊なアルファベットを読み上げさせ、瞬きすることで本を書き始める。その数は20万回。
まったく、手も足も動く私だが、この強さには手も足も出ない。
手も足も出ないどころか、彼を通して見れば否応なく気づかされることがある。

潜水服を着ているのは彼だけではない。自分もまた、そうなのだと。
92歳になる彼の父親は脚が痛むために4階にある自室から出ることができない。彼は泣きながら電話で息子に訴える。
「お前に会いたいが、行くことができない。俺もお前と同じなんだよ」と。
自由のように見えながら、ほんとうは誰もが不自由を背負って生きている。金持ちの不自由、貧乏の不自由、その色合いは人さまざまだが、不自由な枠の中でなんとか踏みこたえて生きている。踏みこたえていけば、何か見えてくるものがあるかもしれない。ジャンにとっての記憶と想像力のようにかけがいのないものが。
見えない潜水服を着ている私は、しばし呆然としながらエンドロールを見つめていた。

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関連タグ : 映画, 潜水服は蝶の夢を見る, 閉じ込め症候群, ジュリアン・シュナーベル,

泣ける映画が、必ずしもいい映画の物差しにはならないと思っている。
しかし、やはりすぐれた作品に出合うと涙は自然に流れてくる。いくらこらえても、目の前がうるうるボヤけ、一粒、二粒と涙の滴が流れてしまう。
君のためなら千回でも」は、ほろ苦く、切ない涙を禁じ得ない、私が近年観た作品の中でもっとも愛すべき映画だった。

最後に凧揚げをしたのは、いつだっただろう。
画面を見ながら、そんなことを考えていた。
空高く舞い上がり、風に乗った凧はみるみる小さくなっていく。
凧と地上にいる私をつなぐのは一本の糸だけだ。その糸をしっかり握り、風に流されないように支えるのはけっこう大変なことだったのを思い出す。
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大空を無数の凧が飛んでいる。鮮やかに彩られた三角形の凧は、アメリカ凧に近い形をしている。その凧を飛ばしているのはアフガニスタンの子どもたちだ。
ソビエトに侵略される前の平和なアフガニスタンでは、冬のお祭りとして凧揚げの日があったことが描かれる。日本で言えば「喧嘩凧」で、飛ばした凧を巧みに操り、空中戦を演じるのが見所だ。
まるで生き物のように飛び回る凧は相手を見つけると接近し、挑発し、くるくる回転して互いの糸を切ろうとする。糸を切られた凧はむなしく地上に落ちていく。地上では落下した凧を追いかけて、子どもたちが一斉に走り始める。落ちてくる凧は拾った者がもらっていいことになっているのだ。
この映画の原題「The Kite Runner」は、凧を追いかける子どもたちのことであり、日本題の「君のためなら千回でも」は、凧を拾ってきてくれと頼んだ少年に、親友の少年が笑顔を浮かべて答える台詞として出てくる。日本ならば「喜んで!」とか「いいとも!」というところだろう。

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この映画の前半に登場する人物は、気は優しいが弱さを持った少年アミールと、その少年に献身的なまでに仕える年下の少年ハッサン。そしてリベラルな考えを持ち、人々から尊敬を集めているアミールの父親と、アミールの家に忠実に仕えるハッサンの父。
アミールの父は息子に教える。
「もっとも悪い犯罪は盗むことだ」と。
「人を殺すのは命を盗むことであり、人を欺くことは真実を盗むことなのだ」と。
アミールは、アミールのために凧を拾いに行った先でハッサンが暴行を受け、性的虐待を受けるのを目撃するが。助けることができない。のみならず、かえってハッサンを遠ざけ、いじめるようになる。ザクロの実を投げつけ、悔しかったら自分にも投げてみろという。しかしハッサンは黙って実を取り上げると、自分の顔で潰し、だまって去っていく。その決然とした少年の誇り高い表情がいい。
アミールは、挙げ句に盗みの罪を着せて召使いとして仕えてきたハッサン親子を追い出そうとする。
ハッサンは、アミールの嘘を知りながら罪を認め、ハッサンの父はもうお仕えすることはできないと出て行こうとする。
アミールの父は二人に留まるように命令するが、ハッサンの父はいう。
「失礼ながら、あなたはもう私の主人ではない。私に命令することはできない」
父もまた、誇り高い男だったのだ。

ソ連がアフガニスタンに共産主義政権を樹立しようと侵攻してくるまで、この国は親米的だったことが描かれる。パーティではアメリカの流行曲が演奏され、街では「荒野の七人」が上映されている。
アミールの誕生日には大勢の町の名士たちが訪れるが、そのなかにアフガニスタンの英雄マスードがさりげなく登場するのも、おもしろい。

ここでアフガニスタンについてのおさらいだ。
アフガニスタンといえば、私の記憶は79年にソ連軍の侵攻を受け、共産主義政権を樹立したことに始まる。アメリカをはじめとする西側諸国はこの事件に反発し、80年のモスクワ・オリンピックをボイコットした。
また、10年にわたる内戦が続きソ連軍が撤退した後にはイスラム原理主義のタリバンによって支配された。彼らの反人道的・反文化的な支配体制は世界中から非難されたが、タリバンはバーミヤンの巨大石仏を爆破するという示威行動に出てさらに非難を深めた。
アメリカはアフガニスタンと近しい関係にあったが、タリバンが国際テロ組織アルカイダをかくまい、そのアルカイダが9.11事件を起こしたことから関係が悪化。国の英雄マスードは、この事件の二日前に暗殺されている。アメリカはタリバン政権打倒とアルカイダ討伐のために出兵した。
そして2002年、ハーミド・カルザイが暫定大統領となり、2004年に選挙が行われてカルザイが当選し、正式な政権が発足した。
しかし現在はふたたびタリバンが勢力を盛り返し、国内は今も混乱している。

映画の後半は、こうしたアフガニスタンの歴史のなかで生き別れになってしまったアミールとハッサンの関係がどうなるのかを描く。
ハッサンを見捨て、騙した罪を心に残したまま20年が過ぎ、今は亡命してアメリカで暮らしているアミールのもとに、パキスタンに住む父の友人から電話がかかってくる。
「お前はアフガニスタンでやり残したことがある。今ならやり直すことができる。帰ってこい」
良心の呵責を今も感じているアミールは、どうやってあの誇り高く、無償の愛情を捧げてくれた友人との関係を修復できるのか。

後半では、タリバンに支配された故郷の無残な様子が描かれる。
樹木はすべてソ連軍に切り倒され、今ではタリバンが街中に睨みを利かせている。娯楽的なものを一切禁止したタリバンは、唯一認めたサッカーの試合で、ハーフタイムにイスラムの教えに反した男女の公開処刑を行う。そのむごたらしさ。

映画を観ている私たちは思う。共産主義思想も、原理主義的宗教も人から自由を奪い、不幸をもたらすだけだと。
ならば、人はどうすれば幸福になれるのか。
それはおそらく、思想も宗教も超えた、人間の善性原理に基づく社会を築くしかないだろう。しかし、そのためにはこの現実をどうやって変えていけばいいのか。
アフガニスタンに、ふたたび凧揚げをする日は戻ってくるのだろうか。大空を舞う凧は、自由の象徴だ。そして凧と人とを繋ぐ一本の糸は、自由と人間を繋ぐ絆でもある。細いけれども、腕に力を込め、脚を踏ん張らないと支えるのが難しい絆だ。
君のためなら千回でも」と笑って凧を追いかける。あのハッサン少年の姿が、まぶたに焼きついて離れない。

この映画は、アフガニスタンでは上映を禁止され、映画に出演したハッサン役の少年は危害が及ぶ恐れがあるとして保護されたという。
重い現実は、映画が完成した後も続いているのだ。

関連タグ : 映画, 君のためなら千回でも, アフガニスタン, タリバン,

私は麻雀というゲームができない。したがってルールその他をほとんど知らない。
知っているのは、相手の手の内を読みながら自分の役を作り、早く上がれば勝ち、ということくらいだ。西洋にはポーカーがあって、やはり腹の探り合いをしながら勝負をつける。しかし東洋と西洋のゲームで、どれくらい腹の探り合いの仕方に違いがあるのか。そこまではわからない。

ラスト、コーション
アン・リー監督の「ラスト、コーション(LUST, CAUTION)」を観た。
もしかすると、この作品は麻雀ができる人間の方がわかりやすいのかもしれない。
それほどに、男と女が相手の心を探り合い、ギリギリの駆け引きをする様を描いているのだ。目の動き、手の仕草、言葉の選び方、ひとつひとつが駆け引きの材料になっていて目が離せない。目が離せないのに、男の心も女の心も、本当のところは最後までわからない。物語の中で、女たちが麻雀の卓を囲むシーンが何度も出てくるが、そこでのやりとりが何らかのヒントを提供しているのではないかと思っても、私にはわからない。
しかし、わからない者もわからないなりに緊張感を持って最後まで観てしまうのだから、アン・リーの手腕はやはり優れているというべきだろう。

舞台は日本軍の占領下にある1942年の上海。ヒロインのワン(タン・ウェイ)は抗日運動をする地下組織が送り込んだスパイとして、治安警察の長イー(トニー・レオン)に接近している。イーは日本の傀儡政権の手先であり、抗日分子を検挙・拷問し、処刑することで高い地位を得た、もっとも憎むべき相手なのだ。組織は、ワンからの情報を元にイーを殺害する機会を狙っている。

そもそもワンがイーに近づくようになったのは、4年前、彼女が香港の大学で演劇部に所属するクァン(ワン・リーホン)と知り合ったのがきっかけだった。クァンは典型的なエリート学生運動家で、演劇で国民に愛国心を訴えるだけでは物足りず、イーの知り合いに近づいたことから仲間を誘ってイー暗殺を企てる。ワンは貿易商のマイ夫人としてイー宅に潜入し、奥方たちの麻雀仲間になってイーの動向を探る。しかし警戒心の強いイーは容易にワンをそばに近づけない。
学生の分際で、政府高官の殺害を目論むなど無理に決まっている。そう思わせながらも、ワンは巧みに女性としての魅力を使い、思わせぶりな仕草と言葉でイーの心に入っていこうとする。このあたり、タン・ウェイがもつ初々しさとオトナの女としての色気が入り混じった魅力は素晴らしい。トニー・レオンの感情をまったく現さない演技も不気味でありながら魅力的だ。映画はこうして序盤から目に見えない心理戦を展開させていく。

やがてイーもワンの魅力に惹かれるそぶりを見せ始め、二人で会うようになる。そして次にイーから連絡があれば、それはワンを愛人にすることになるというところまで作戦はすすむ。ところがワンにはセックスの経験がない。そして仲間の男子学生にも女を知っている者は、娼婦を買ったことがあるという冴えない男一人しかいない。ワンは、本当はクァンに惹かれており、クァンのためにマイ夫人に扮していた。しかし作戦を成就させるにはイーに処女であることを見抜かれてはならない。ワンは学生相手にセックスの「練習」を引き受けることにする。もうここまでくると、後には引き下がれない。クァンに未練な視線を送ることもせず、好きでもない男に抱かれるワンの表情が、かえって悲壮な決意を現している。
しかし、イーから来たのはは突然、香港から上海に転勤することになったという連絡。
イーは、ワンのことを見破っていたのか?

と、前半のあらましだけでもかなりな心理戦が繰り広げられる。
物語はそれから3年後、戦争のために大学を辞め香港から上海に移っていたワンが、クァンに再会し、イー殺害の計画がまだ続行中であることを知らされるところからクライマックスに向けて突き進んでいく。抗日組織からスパイとしての特訓を受けたワンは、マイ夫人としてイーに接近。今度はまんまと愛人になることに成功するのだが、彼女を待ち受けていたのは愛情表現とはほど遠い激しいセックス。イーはありとあらゆる手を使ってワンの体も心も支配下に置こうとしているかのようだ。このあたりの描写は、日本ではかなりカットされているらしいが、それでも十分に激しい。
それは戦時下の中国で、日本の手先に成り下がって出世したイーという男の屈折した心情と他人のウソを見破るプロとしてのプライドが、どこまでワンを信じられるのかを試しているかのようだ。さらにワンからすれば、一度は籠絡に失敗した憎むべき相手にとうとう体は許したものの、暗殺という目的は決して悟られてなるものかという決意がある。わずかでも、ウソがばれれば待っているのは自分やクァンの死だ。イーは冷酷に皆を殺すだろうことはわかっている。ワンにしても、セックスで負けるわけにはいかないのだ。
そんな二人が体をぶつけるようにしてセックスしていく。私にはエロチックなどというよりも、まさしく男と女の闘いに見えた。

どこまでが謀でどこまでが真なのか、ふたりの心の中は見えないままに物語は終わりが近づいてくる。男と女、さあ勝つのはどちらか。
映画はなんとも心にしみるラストシーンで画面が暗くなる。これぞ、まさに大人の映画。恋愛をファンタジーとしてしか描けない日本映画は爪の垢でも煎じて飲むがいい。
イーは絶対的な権力者としてワンに対しては強者であるが、ワンは愛をクァンに捧げながらも体を張った意地がある。最後に勝つのはやはり女の意地なのか。そんなことを思わせながら、この映画は長く心に残っていきそうだ。

関連タグ : 映画, ラスト、コーション, トニー・レオン, タン・ウェイ,

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