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酒好き、映画好き、本好き、落語好き、バイク好き、そして鬱。 ちょっとばかり辛い日もあるけれど、フンニャロメ~と生きてます。
◎心にとめおく言葉
●人は、自分が見たいと思うものしか見ようとしない――ユリウス・カエサル
●為政者たるものは憎まれることはあっても、軽蔑されることだけはあってはならない。(塩野七生)
●自分に当てはめられない基準を他人に当てはめるべきではない
――ノーム・チョムスキー
●さまざまな知識人、文化人、政党やメディアは一般の人々よりも右よりな立場を取る――ノーム・チョムスキー
●考えろ、考えろ、考えろ!――ジョン・マクレーン

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昨日のエントリに対して、七鉄斎さんから「これから無理心中しようというとき、家族に対して抱くのは殺意ではなく、遺される家族への憐憫に近いものなのではないか」という指摘をいただいた。

これに対して、私も少々思うところがあるので書き留めておこうと思う。

たしかに、長年連れ添ってきた家族を手にかけようというとき、心にあるのは憎しみではないだろう。憎しみを持つとすれば、そのような事態にまで追い込まれてしまった自分に対してであろうし、絶望の淵から突き落とし、自分を見捨てた社会に対してであろう。

ただし、いかなる事情があるにせよ、これから人の命を奪おうと決意した者の心を占めるのは、純然たる殺意だと、私は思う。
まず第一に、人の命を奪おうというときに憐憫などがあっては刃先が鈍るだけだからだ。
もう生きてはいけない。この者たちの命を奪って自分ものう(と思ったかどうかはこの事件ではわからないが)、そういう決意をするには引き返すことができないある一点を超えなければならない。そして、その一点を超えてしまえば、いかにして確実に殺せるかのみが問題になる。
1月には、幼い子供ふたりをマンションの11階から投げ落とし、自分も身を投げてんだ母親がいた。我が子への憐憫が断ち切れずにいながら、母親は子供を投げ落とすことができただろうか。彼女は絶望の中で逃げ場を失い、圧倒的な孤独に押しつぶされそうになってぬことしか考えることができなくなった。生きて苦しい思いをするよりは、んで何も感じなくなる方がいいと思ったに違いない。ならば、確実に命を奪うしかないではないか。
2月に起きた足立区の事件では、父親が息子の両手を切断しているが、それはなぜなのか。
私は、抵抗されればいちばん困るのが息子であり、家族を確実に殺すためにはまずその手を封じておく必要があったからではないかと思う。

子供を道連れにする心中は酷いものだが、子を道連れにするのを非難するのはその人に余裕があるからで、に追いつめられた者にとっては一緒にぬことが最後に残された唯一の選択肢なのだと思うと、軽々に非難する気にはなれない。

第二に、家族のあり方が、少し前までと現在とではまったく異なっていること。以前は茶の間のテレビが象徴していたように、家族がそれを囲んで過ごす時間があった。たとえテレビに夢中になっていても、二言三言の会話が生まれる余地はあっただろうし、一緒に時間を過ごすことだけで共同体としての意識が持てた。
しかし今は違う。テレビは個々人の部屋で見るか、あるいはテレビなど見ずにパソコンに向かうようになってきている。食事さえ、今では子供がひとりで食べるのが珍しくなくなっている。家庭とは、もはや単なる人間の入れ物であり、その構成要素である個人の間には繋がりが希薄である。親子であっても憐憫の情は生まれにくくなっている。

第三に、たとえ憐憫の情を抱く家族であっても、死を決意するほどまで追いつめられてしまえば、それはかえって憎しみの対象にもなりうるという点。愛情と憎しみとは背中合わせのものであり、愛するが故に家族や恋人に対して憎しみがわくということはよくあることだ。人間の心理というものはアンビバレントであり、愛するが故に相手を守ってやれなくなったときには、それが憎しみに形を変えて発露する。今回の事件では、家族や親のために自分を犠牲にしてきた父親が、もはや家庭を維持することができなくなった。家族を守ってやれなくなった。そう観念したときに、「こいつらさえいなければ、俺の人生は違っていたかもしれないのに」と思った可能性は少なくない。
家族とは、同じ屋根の下に暮らしていても、いや、同じ屋根の下に暮らしているからこそ、ときには些細なことで殺意を持つことがあるものである。私自身を顧みても、カミサンから無神経な言葉を投げつけられると、殺意に似た感情を持つことがある。それでも私が家族を殺さずにすんでいるのは、今のところはまだギリギリまで追いつめられていないからで、状況が変われば私だって家族を道連れにするかもしれない。家族とは、それほど危うい関係でもあると思うのだ。

窮鼠猫を噛むというけれど、ネズミも追いつめられなければ歯を剥き出すことはないのだ。
それでも一度、歯を剥き出してしまえば必死で相手にかぶりついていくしかない。
悲しいことに、事件を起こした人々はみな、かぶりつくべき相手が正体のない格差社会であり、世の中に広がっている拝金主義だった。それゆえに仕方なく、血のつながった肉親に刃を向けたということではないだろうか。

人をいたわり、慈しむ心なら、普通の人間ならば誰もが持っているはずだ。
しかし、今の社会はそうしたほんらいの人間らしい心を持つことを許さない。そういう心を持つことは損であり、格好わるいことだと皆が薄々感じながら生きている。正論をいう人間は煙たがられ、金よりも義を重んじるといえばうさん臭く思われる。今どき「義」を重んじるなど、政治家の口から出るでまかせと相場が決まっている。しかし色眼鏡を外してみれば、「義」とは人間にとってもっとも大切な価値観なのではないか。

私は、今の世の中がここまで生きづらく、居心地の悪い空気が満ちていることに絶望的な気持ちを持っている。絶望してはいけないのだと思いながら、卑しい人間があまりに多いことに憤りを忘れて半ば自棄的になっている。こう書けばお前はそれほど高潔な人間かと問われるかもしれないが、もちろん私は高潔でもなんでもない。しかし高潔でない、ごくつまらない男をしてここまで絶望させる社会は、やはりどこかが間違っているのである。何かが病んでいるのである。
そして自棄的になっている私だって、この先、追いつめられさえすればやはり、家族に向かって刃を向けることがないとはいえない。
そのとき、確実に死を与えることができるのか。私にはまだ、その覚悟がないだけだ。


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