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酒好き、映画好き、本好き、落語好き、バイク好き、そして鬱。 ちょっとばかり辛い日もあるけれど、フンニャロメ~と生きてます。
◎心にとめおく言葉
●人は、自分が見たいと思うものしか見ようとしない――ユリウス・カエサル
●為政者たるものは憎まれることはあっても、軽蔑されることだけはあってはならない。(塩野七生)
●自分に当てはめられない基準を他人に当てはめるべきではない
――ノーム・チョムスキー
●さまざまな知識人、文化人、政党やメディアは一般の人々よりも右よりな立場を取る――ノーム・チョムスキー
●考えろ、考えろ、考えろ!――ジョン・マクレーン

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映画「靖国 YASUKUNI」が東京で公開され、満員の盛況だったようだ。
どちらかといえば地味な部類に属するドキュメンタリー映画が、これほど注目を集めた背景には、やはり稲田朋美ら自民党の右派議員による「事前検閲」問題が注目されたからだ。この映画の出来映えがどんなものなのか、地方に住む私には見ることができないのがなんとも残念だが、今回の映画は、結局のところ、稲田らが考えている「愛国心」の概念に中国人監督の手になるドキュメンタリー作品がいたく刺激を与えたことが、ことの発端だったように思われる。

ここで問題となる愛国心だが、稲田自身は愛国心を教育問題と絡めて「国を救うには真のエリート1万人が必要であり、その真のエリートとは、いざというときに祖国のために命を捧げる覚悟のある者のことである」という考えを持っている。だから日本は、これら真のエリートを育てるための教育をしていく必要がある、というわけだ。
私からすれば、なんとも鼻持ちならない選民思想であり、半世紀以上も前に日本全国で教育され、その過ちが戦争に結びついた類の愛国心が、今も稲田の心を占めているものだということがわかる。
彼女にしてみれば、靖国神社は祖国のために命を散らした英霊が祀られている神聖な場所であり、反日感情の持ち主かもしれない中国人監督などが、カメラを携えて足を踏み入れること自体がけしからんというのが、本音なのではないか。

この映画の問題にかぎらず、愛国心というものがクローズアップされる場面が近頃やたらと目につくようになっており、それが私の心をむずむずとさせ、居心地悪く感じさせることになる。

たとえば中国政府が行っている聖火リレーだ。
聖火そのものは平和の祭典のシンボルであり、世界融和のメッセージを伝えながら各地をリレーしていくというのが建前になっている。
しかし、今回の聖火リレーでは、自由独立を主張するチベット自治区の人々とオリンピック成功を願う中国人たちとが「愛国心」をむき出しにして対立し、各地で衝突した。
その様子を見るにつけ、また映画「靖国 YASUKUNI」の問題を思い出すにつけ、「愛国心」とは何だろうと考えてしまう。

日本の国家は「君が代」ということになっているが、日本人の中には、今もこの歌に対するアレルギーを持っていて、素直に歌えない人がいる。戦争の時に天皇を賛美する歌として歌われ、「君が代」とともに命を落とした人を思うと、歌う気になれないのだ。
私たちが小学生の頃に習った「君が代」は、やはり天皇である「君」の世が、幾久しく続くようにと願ったうただという、歌の意味を教えられた記憶がある。

ところが、私の娘の世代になると、「君が代」とは母親が子どもの成長を願った歌だと教えられたのだという。さざれ石という小さな石が次第に大きくなって成長し、やがて苔がむすほどまで長生きをすることを願うのだと。

私たちが習った「君が代」は、どちらかというと戦前から伝わってきた、国家賛美の歌としての「君が代」であり、「天皇陛下万歳」という言葉とともに玉砕した日本兵の姿を連想させずにおかない。
だから、私は「君が代」を歌うことに消極的である。
サッカー日本代表が国際試合をするときには必ず試合前に「君が代」が歌われ、試合中にはサポーターたちが「君が代」を歌って応援する。
あるいは、オリンピックで日本選手が金メダルを取ると、その授賞式で「君が代」が吹奏されて観客は、テレビの前に陣取っている人々もふくめて感動することになっている。
サポーターが声援を送り、オリンピックの観客が涙をながすときの「君が代」は、いったいどちらの意味の「君が代」なのだろうか。

今も「君が代」という歌に対して消極的な気持ちを持っている私などは、とてもお母さんが子どもの成長を願って歌っている歌だとは思えないから、好きなサッカーでもサポーターと一緒に熱狂することはないし、オリンピック授賞式で感涙にむせぶこともまずない。
私はどうしても「君が代」に対しては素直になれないのだ。
子どもに対してそれまでとは異なる意味合いの歌として教える教育=国のダブルスタンダードが嫌らしいと思うからなおさらだ。

稲田朋美のような人間は、「君が代」が大好きだろうし、祖国のためを思って犠牲になることも厭わないエリートたちには「君が代」斉唱を教え込むのが当然と考えていることだろう。この場合の「君が代」はもちろん、お母さんが子どもを思って歌うものとは違った意味の「君が代」だ。
しかし、祖国のために命を捧げる覚悟のあるエリートを養うだなんて、それだけで鳥肌が立ちそうだ。
どうして「愛国心」は「命を捧げる」ことに結びつきやすいのだろう。
どうして「愛国心」は、それをむき出しにすることで争いを生むのだろう。

「愛国心」とは、つくづく厄介なものだと思う。
私とて、自分の国を思う気持ちはある。だが、その気持ちはこの国を暮らしにくくしている悪政を行う者に対する怒りとして発露されるものだ。
お国のために命を捧げますなどとは、今の日本では、ゆめゆめ思うことはない。


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