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酒好き、映画好き、本好き、落語好き、バイク好き、そして鬱。 ちょっとばかり辛い日もあるけれど、フンニャロメ~と生きてます。
◎心にとめおく言葉
●人は、自分が見たいと思うものしか見ようとしない――ユリウス・カエサル
●為政者たるものは憎まれることはあっても、軽蔑されることだけはあってはならない。(塩野七生)
●自分に当てはめられない基準を他人に当てはめるべきではない
――ノーム・チョムスキー
●さまざまな知識人、文化人、政党やメディアは一般の人々よりも右よりな立場を取る――ノーム・チョムスキー
●考えろ、考えろ、考えろ!――ジョン・マクレーン

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仕事の内容に関わることだから、くわしく書くわけにはいかない。
けれども、私は「その人」に会ってからの数日、考え込んでいる。

その人は、夢を追いかけ、諦めることなく振り返ることもなく前に進み続け、成功をつかんだ。
いや、まだ本物の成功とはいえないかもしれない。
成功というものは、うかうかしていると知らぬ間に指の間からすいっと抜け出してしまうものだから。
けれども今、確実にその人の手には、成功の裾が絡みついている。

私は、苦労したであろうその人が、どんな思いをして今日まで来たのかを聞こうと思った。

「大変だったでしょうね」

何気なく言った、その一言で、その人の目が変わった。
私を見据えて、その人は言った。

「どうして、就職もせず、夢を追ってきた人間を見て、安易に?大変だったでしょう?とか?貧乏したでしょう?とか言うのだろう。それは他人の人生に土足で踏み込むようなことであり、非常に失礼なことだと思う。自分を見てきたわけでもないのに、夢を追いかけることを苦労とか貧乏に結びつける。そういう考え方をどうしてするのか」

私は二の句が継げなかった。

突然、叱られたからではない。
人の苦労を思いやることが、人の人生に土足で踏み込むことになるのだろうかと思ったとたん、フラッシュバックが起こり、言葉を失ったのだ。
なぜなら私もまた、若い頃に夢を追いかけ、今でいう「就活」(この言い方は、嫌いだ)にいそしむ周囲の学生たちを尻目に、人とは違う道を選んできたからだ。

就職試験を受けるのも、経験のひとつには違いなく、今でなければ会社を受けることもないだろうからと、いくつかの企業の試験を受けてはみた。
もちろん、私のような冷やかしでやってきた学生を受け入れるところなどなかった。
それでも、重役面接まで行き、なんとも冷めた雰囲気にやれやれと思ったこともある。思いながら、ひょっとしてこのまま就職してしまったらどうしようなどと考えた瞬間もあったことは白状しておく。

しかし結果として私は就職をしなかった。いや、できなかったと書くべきか。
それでもべつに後悔はなかった。
私はまだ若かったし、若さには可能性があると思っていた。可能性があるならば試してみるのが人生ではないかと思っていた。
だから夢を持ちながら、学生時代の終わりが見えてくると簡単にそれを小さく折りたたみ、どこかに仕舞い込んでしまう連中を、私は冷ややかに見ていた。

だが冷ややかに見ることでは、向こうも同じだった。
就職もせず、わけのわからないことをやって、お前はそれでいいのか。真面目に人生のことを考えているのか。
ある大企業に就職が決まった男は、私の顔を見てすでに重役のように重々しい声で言った。

「何かあったら、俺の所にこいよ。相談に乗るから」

私は、こいつのところだけには何があっても行くものかと思った。

「その人」に会って、思いがけず怒らせてしまったとき、私はあの当時のことを思い出さずにいられなかった。
偉そうな顔をして「俺の所に相談に来い」と言った、それは同級生だったが、そいつの顔を一瞬思い浮かべた。

たしかにアイツは、あのとき土足で私の人生に踏み込んできたのだ。
私がどういうふうに生きて行こうかと、私なりに不安も抱えていたときに、アイツは高みから私を見下ろし、何の保証ができるわけでもないのに口先だけで「お前の力になってやる」と言ったのだ。
私は、その男をいまだに許していない。

大きな組織に所属し、安定した収入を得て、社会的な信用も得て、順調に暮らしていく。
それはそれで大変なことだと、今ならわかる。
しかし、その頃の私は、安定という言葉そのものに拒絶反応を持っていた。
人から色紙を出されて、一言書いてくださいと言われたときに「安心第一」と書くような人間にはなりたくないと思っていた。

夢を追いかける。
なんと心をくすぐる言葉だろう。しかしこの言葉は、耳を澄ませば虚ろな響きを持っている。
しかし私はその空虚でたよりない言葉を頼りに、歩み始めてしまったのだ。
その道のりは、長く険しくなることを覚悟はしていたが、何とかなると思い込んでいた。

そうして今でいうならフリーターに近い生活をしながら学校に行き、自分なりに頑張った。
だが、なんとかなると思い込んではいたが、夢はいつまでたっても夢であり、成功の切れ端をつかむことさえ容易ではないことが、次第に重くのしかかってきた。
夢を追いかけた人間には、その代償として途切れることのない不安と社会的に透明になっていく現実を受け入れなければならない。たとえ小さくとも成功を手に入れるまでは。

人間の可能性とは何だろう。
私は今も、かろうじて仕事をして生きているが、もし若者がいてかつての私のような考えを持っていることがわかったら、何と言うだろう。
可能性を信じて頑張れ、とは恐ろしくてとてもいえない。
私には彼の人生を請け負う自信はないし、請け負うつもりもないからだ。
夢を持つことは大切か。
そう問われればイエスと答える。
しかし、ならば夢の実現のために一生を捧げるべきかと問われれば、私には即座に答える言葉がない。

人には寄って立つ所を持つことが必要である。それがなければ、社会は存在さえ認めようとしない。
ならば夢も可能性も捨てて、安心第一の人生を歩むことこそ大切なのか。
ノー。私は小さく答える。しかし、その後に言葉をつなぐ。
人には寄って立つ所が大切である。しかし夢を失うべきではない。夢を持ち続けることは、それだけでも大変なことであり、それを実現できる可能性を持つ人間ならば、寄って立つ所を獲得しながら、そのうえでなお夢を実現するだろうと。

寄って立つ所を持たない私には、そう答えるしかない。
私は持たざるものの苦労を知っている。
けれども、こうしてなんとか生きている。少なくとも、嫌だと思う仕事はせずにすんできた。嫌な上司のおかげで胃潰瘍にならずにすんできた。
鬱にはなったが、それでもこうして生きている。

大変だったでしょうね。

そう聞かれたとき、私は果たして怒るだろうか。
わけ知り顔で、ボーナスにも退職金にも縁がない人生は辛かろうといわれれば、私は稼ぎの多寡で人を計るなと言ってやる。

カネだけが人生じゃねえよ。

そう思いながら笑顔のひとつも浮かべ、「はい、大変でしたよ」と答え、「でも、楽しくもありましたよ」と続けてやろうか。

「その人」は、なぜ自分の人生に土足で踏み込まれたように感じたのだろうか。
今、大きな成功をつかもうとしているのに、なぜ怒ったのだろう。
私の顔が、金を物差しにする人間の顔に映ったのだろうか。
私には、そこのところがよくわからず、いまだに考え込んでいる。


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