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酒好き、映画好き、本好き、落語好き、バイク好き、そして鬱。 ちょっとばかり辛い日もあるけれど、フンニャロメ~と生きてます。
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●自分に当てはめられない基準を他人に当てはめるべきではない
――ノーム・チョムスキー
●さまざまな知識人、文化人、政党やメディアは一般の人々よりも右よりな立場を取る――ノーム・チョムスキー
●考えろ、考えろ、考えろ!――ジョン・マクレーン

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朝日新聞が夕刊のコラム「素粒子」で、鳩山邦夫法相が宮崎勤をふくむ死刑囚13人の刑を執行したことに触れ「死に神」と表現したことに対し、思わぬ波紋が広がっている。

死に神呼ばわりされた鳩山邦夫が激怒したことは、話の流れから当然ともいえる。
私とすれば、あまりに言葉が軽く、死刑をベルトコンベヤーに乗せるようにして執行できないかなどという法相にあるまじき無責任な発言をしていた鳩山邦夫に対しては、たとえに用いられた死に神の方が失礼だと怒ってしかるべきだと思っている。
ことに、秋葉原の通り魔殺人の直後に宮崎勤を処刑したのには、みせしめという政治的な意図も見て取れる。

それでも朝日は、激怒した鳩山に対し、「中傷する意図はなかった」と謝罪した。

鳩山が納得したかはともかく、これで一件落着と思っていたら、そうではなかった。
今度は「全国犯罪被害者の会(あすの会)」が怒り出したのだ。
あすの会の言い分はこうである。
「確定死刑囚の1日も早い死刑執行を待ち望んできた犯罪被害者遺族は、法相と同様に死に神ということになり、死刑を望むことすら悪いことだというメッセージを国民に与えかねない」として「素粒子の表現は、犯罪被害者や遺族をも侮辱する内容」としている。そして、死刑執行の数がどうして問題になるのか」など4項目の質問を送った。

朝日はこれに対して「いただいた『抗議および質問』を真摯に受け止め、速やかにお答えする」とコメントを出した。

すると、こんどは「地下鉄サリン事件被害者の会」が抗議文を朝日に送りつけた。
「被害者遺族にどんな気持ちを起こさせるか考えなかったのか」とのあすの会の質問に対して朝日側が「気持ちに思いが至らなかった」と回答したことに触れ、「犯罪被害者へのさまざまな二次被害防止の取り組みがなされている中、(朝日新聞社は)旧態依然と言わざるを得ない」と批判している。そして鳩山邦夫については、「現行法に従って粛々と(処刑を)実行した。なんら非難、中傷を受けるようなことではない」と擁護した。

さて、あすの会による抗議にはmahounofuefukiさんが「世界の片隅でニュースを読む」のエントリで朝日は「あすの会」に謝罪する必要はないという意見を述べている。
朝日の「素粒子」に対して、鳩山が抗議するのにはもっともな理由がある。
しかし、それに追随して「あすの会」までが抗議するとはどういうことか。「素粒子」が書いた文章には「あすの会」や犯罪被害者を侮辱したり、彼らの活動を否定するような文言はまったくない以上、「あすの会」の抗議は単なる言いがかりにしか思えない、というのである。

私も、ニュースで「あすの会」が朝日新聞に抗議したと知り、その内容が、自分たちもまた死に神ということになるという点については違和感を抱いていた。
だって、「素粒子」の記事は、逆さにして読んだところで「あすの会」までも「死に神である」と言っているとは読めないからだ。どこをどう解釈すれば、自分たちまで侮辱を受けたと思えるのだろう。この人たちの国語力というか、読解力には根本的に問題があるのではないかと思えたのである。

たしかに犯罪被害者に対しては、文句を言いづらい気持ちはある。しかし新聞社として、この場合ははっきりと「素粒子」の文章が「あすの会」のことに触れた部分はまったくないと反論すべきだった。覚えのないことに対する言いがかりを受けつける必要などなかったのだ。

依然として、この国には重い罪を犯した者には極刑をもって償わせるべきであるという考え方が根強くあるが、死刑は国家による殺人であるとして極刑には懐疑的な考えを持つ者もいる。「あすの会」は殺人を犯した者に対しては死をもって報いよという考えで統一されているのかもしれないが、それでは鳩山の言う「ベルトコンベヤー」装置の一部になるということであり、この装置を少しでも認めないところがある者は許せないとして過剰反応をするあたりは、一種のファッショといえるのではないか。
「あすの会」の抗議に同調する形で抗議文を送った「地下鉄サリン事件被害者の会」もまた、同様である。

理不尽な犯罪によって大切な家族を失った悲しみは、たしかに当事者でなければ分かるものではないだろう。
しかし、だからといって自分たちの意向に反するものは何者も許せないという態度は、いかにも狭量であり、自由な言論を封じ込める危険性すらはらんでいる。

それは北朝鮮による拉致被害者家族にもいえることだ。
家族が突然北朝鮮に連れ去られてしまったという国家的犯罪に遭って、非常な悲しみと苦しみを受けていることは分かる。しかし、安倍晋三のような極右政治家に扇動されていつまでも北朝鮮に対する強硬路線を主張することは、国民にとっては反対しにくいことではあるけれども、国家の利益やアジアの平和全体を考えると、彼らの主張が決して日本の将来にとって善い影響を与えるとは思えない。
アメリカの歴史でもっとも凡庸な大統領の一人に数えられるブッシュは、いったん決めた北朝鮮のテロ支援国家指定解除を昨日になって「拉致問題を忘れることはできない」と言い出して、平和と対話に向けて動き出した北朝鮮との関係に再び水を差す動きを見せてしまった。アメリカにとっては拉致問題など優先順位が低い問題のはずなのに、ブッシュはここにきて冷徹な政治家になりきることができず、八方美人になる方を選んでしまった。
今や拉致被害家族は、日本にとってもアジアにとっても「困った存在」であることは確かで、アジアの平和を欠かすことができないアメリカとしては、拉致被害家族に対して、これからは日本と北朝鮮の二カ国間で話し合いを続けるようにと言えばよかったのだ。

いわれのないことに対して言いがかりをつける犯罪被害者遺族たち。
アメリカだのみで拉致問題の解決を願う拉致被害者の家族たち。
これらに対して敢然として否ということができないマスメディアのだらしなさ。
日本的タブーの存在が言論や報道の自由を損ない、そのあり方を歪めている事実に私は憂慮し、大きな危機感を持つものである。
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関連タグ : 素粒子, 鳩山邦夫, あすの会, 地下鉄サリン事件被害者の会, 北朝鮮拉致被害家族,

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