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酒好き、映画好き、本好き、落語好き、バイク好き、そして鬱。 ちょっとばかり辛い日もあるけれど、フンニャロメ~と生きてます。
◎心にとめおく言葉
●人は、自分が見たいと思うものしか見ようとしない――ユリウス・カエサル
●為政者たるものは憎まれることはあっても、軽蔑されることだけはあってはならない。(塩野七生)
●自分に当てはめられない基準を他人に当てはめるべきではない
――ノーム・チョムスキー
●さまざまな知識人、文化人、政党やメディアは一般の人々よりも右よりな立場を取る――ノーム・チョムスキー
●考えろ、考えろ、考えろ!――ジョン・マクレーン

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泣ける映画が、必ずしもいい映画の物差しにはならないと思っている。
しかし、やはりすぐれた作品に出合うと涙は自然に流れてくる。いくらこらえても、目の前がうるうるボヤけ、一粒、二粒と涙の滴が流れてしまう。
君のためなら千回でも」は、ほろ苦く、切ない涙を禁じ得ない、私が近年観た作品の中でもっとも愛すべき映画だった。

最後に凧揚げをしたのは、いつだっただろう。
画面を見ながら、そんなことを考えていた。
空高く舞い上がり、風に乗った凧はみるみる小さくなっていく。
凧と地上にいる私をつなぐのは一本の糸だけだ。その糸をしっかり握り、風に流されないように支えるのはけっこう大変なことだったのを思い出す。
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大空を無数の凧が飛んでいる。鮮やかに彩られた三角形の凧は、アメリカ凧に近い形をしている。その凧を飛ばしているのはアフガニスタンの子どもたちだ。
ソビエトに侵略される前の平和なアフガニスタンでは、冬のお祭りとして凧揚げの日があったことが描かれる。日本で言えば「喧嘩凧」で、飛ばした凧を巧みに操り、空中戦を演じるのが見所だ。
まるで生き物のように飛び回る凧は相手を見つけると接近し、挑発し、くるくる回転して互いの糸を切ろうとする。糸を切られた凧はむなしく地上に落ちていく。地上では落下した凧を追いかけて、子どもたちが一斉に走り始める。落ちてくる凧は拾った者がもらっていいことになっているのだ。
この映画の原題「The Kite Runner」は、凧を追いかける子どもたちのことであり、日本題の「君のためなら千回でも」は、凧を拾ってきてくれと頼んだ少年に、親友の少年が笑顔を浮かべて答える台詞として出てくる。日本ならば「喜んで!」とか「いいとも!」というところだろう。

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この映画の前半に登場する人物は、気は優しいが弱さを持った少年アミールと、その少年に献身的なまでに仕える年下の少年ハッサン。そしてリベラルな考えを持ち、人々から尊敬を集めているアミールの父親と、アミールの家に忠実に仕えるハッサンの父。
アミールの父は息子に教える。
「もっとも悪い犯罪は盗むことだ」と。
「人を殺すのは命を盗むことであり、人を欺くことは真実を盗むことなのだ」と。
アミールは、アミールのために凧を拾いに行った先でハッサンが暴行を受け、性的虐待を受けるのを目撃するが。助けることができない。のみならず、かえってハッサンを遠ざけ、いじめるようになる。ザクロの実を投げつけ、悔しかったら自分にも投げてみろという。しかしハッサンは黙って実を取り上げると、自分の顔で潰し、だまって去っていく。その決然とした少年の誇り高い表情がいい。
アミールは、挙げ句に盗みの罪を着せて召使いとして仕えてきたハッサン親子を追い出そうとする。
ハッサンは、アミールの嘘を知りながら罪を認め、ハッサンの父はもうお仕えすることはできないと出て行こうとする。
アミールの父は二人に留まるように命令するが、ハッサンの父はいう。
「失礼ながら、あなたはもう私の主人ではない。私に命令することはできない」
父もまた、誇り高い男だったのだ。

ソ連がアフガニスタンに共産主義政権を樹立しようと侵攻してくるまで、この国は親米的だったことが描かれる。パーティではアメリカの流行曲が演奏され、街では「荒野の七人」が上映されている。
アミールの誕生日には大勢の町の名士たちが訪れるが、そのなかにアフガニスタンの英雄マスードがさりげなく登場するのも、おもしろい。

ここでアフガニスタンについてのおさらいだ。
アフガニスタンといえば、私の記憶は79年にソ連軍の侵攻を受け、共産主義政権を樹立したことに始まる。アメリカをはじめとする西側諸国はこの事件に反発し、80年のモスクワ・オリンピックをボイコットした。
また、10年にわたる内戦が続きソ連軍が撤退した後にはイスラム原理主義のタリバンによって支配された。彼らの反人道的・反文化的な支配体制は世界中から非難されたが、タリバンはバーミヤンの巨大石仏を爆破するという示威行動に出てさらに非難を深めた。
アメリカはアフガニスタンと近しい関係にあったが、タリバンが国際テロ組織アルカイダをかくまい、そのアルカイダが9.11事件を起こしたことから関係が悪化。国の英雄マスードは、この事件の二日前に暗殺されている。アメリカはタリバン政権打倒とアルカイダ討伐のために出兵した。
そして2002年、ハーミド・カルザイが暫定大統領となり、2004年に選挙が行われてカルザイが当選し、正式な政権が発足した。
しかし現在はふたたびタリバンが勢力を盛り返し、国内は今も混乱している。

映画の後半は、こうしたアフガニスタンの歴史のなかで生き別れになってしまったアミールとハッサンの関係がどうなるのかを描く。
ハッサンを見捨て、騙した罪を心に残したまま20年が過ぎ、今は亡命してアメリカで暮らしているアミールのもとに、パキスタンに住む父の友人から電話がかかってくる。
「お前はアフガニスタンでやり残したことがある。今ならやり直すことができる。帰ってこい」
良心の呵責を今も感じているアミールは、どうやってあの誇り高く、無償の愛情を捧げてくれた友人との関係を修復できるのか。

後半では、タリバンに支配された故郷の無残な様子が描かれる。
樹木はすべてソ連軍に切り倒され、今ではタリバンが街中に睨みを利かせている。娯楽的なものを一切禁止したタリバンは、唯一認めたサッカーの試合で、ハーフタイムにイスラムの教えに反した男女の公開処刑を行う。そのむごたらしさ。

映画を観ている私たちは思う。共産主義思想も、原理主義的宗教も人から自由を奪い、不幸をもたらすだけだと。
ならば、人はどうすれば幸福になれるのか。
それはおそらく、思想も宗教も超えた、人間の善性原理に基づく社会を築くしかないだろう。しかし、そのためにはこの現実をどうやって変えていけばいいのか。
アフガニスタンに、ふたたび凧揚げをする日は戻ってくるのだろうか。大空を舞う凧は、自由の象徴だ。そして凧と人とを繋ぐ一本の糸は、自由と人間を繋ぐ絆でもある。細いけれども、腕に力を込め、脚を踏ん張らないと支えるのが難しい絆だ。
君のためなら千回でも」と笑って凧を追いかける。あのハッサン少年の姿が、まぶたに焼きついて離れない。

この映画は、アフガニスタンでは上映を禁止され、映画に出演したハッサン役の少年は危害が及ぶ恐れがあるとして保護されたという。
重い現実は、映画が完成した後も続いているのだ。
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関連タグ : 映画, 君のためなら千回でも, アフガニスタン, タリバン,

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