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酒好き、映画好き、本好き、落語好き、バイク好き、そして鬱。 ちょっとばかり辛い日もあるけれど、フンニャロメ~と生きてます。
◎心にとめおく言葉
●人は、自分が見たいと思うものしか見ようとしない――ユリウス・カエサル
●為政者たるものは憎まれることはあっても、軽蔑されることだけはあってはならない。(塩野七生)
●自分に当てはめられない基準を他人に当てはめるべきではない
――ノーム・チョムスキー
●さまざまな知識人、文化人、政党やメディアは一般の人々よりも右よりな立場を取る――ノーム・チョムスキー
●考えろ、考えろ、考えろ!――ジョン・マクレーン

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ウチには4匹の犬がいる。
2匹は今年9歳になるパグのオスとメスで、夫婦犬。7年前に5匹の子犬を生んで私が取り上げ、そのうちの一匹を家に残している。
もう1匹は5年前、私がパキシルという薬を処方されたときに躁状態になり、家族の言うことも聞かずに劣悪な環境にあったペットショップから買い取ったフレンチブルドッグのオスである。
家に来てすぐ、寄生虫のために死にかけたり、ひどいアレルギー体質で病院の世話になったりと、育てるためには金も手間も相当かかった。家人には今でもときどき「なんでこの犬を飼おうと思ったの?」と問われるが、そのときは犬を見て、飼うことしか考えられなかったのだから仕方がない。
もちろん、今ではかわいい家族の一員としての座を獲得している。

人が見れば愛犬家と思うことだろう。しかし、犬4匹を飼うというのはもちろん楽しいけれども大変なことも多いものだ。だから私は、うかつに他人に犬を飼うことを勧めようとは思わない。前にも書いたが、動物を飼うにはそれなりの覚悟が必要だからだ。癒しを求めるだけでは決して動物は飼えないし、飼ってはいけないと思っている。このことについては、また改めて書くつもりだ。

梅太とこもも

今回書こうと思うのは、年老いてきた2匹の犬たちのことだ。
犬も7歳を超えると老犬の部類に入れられる。
それに合わせたかのように、メス犬が膀胱を悪くした。メス犬には多いらしいが、石ができやすくなったり細菌に感染しやすくなって、そのたびに病院から抗生物質をもらわなければならなくなった。石の方は、尿がアルカリ性になるとできやすいらしく、酸性に保つための処方食を食べ続けなければいけないことになった。
この処方食が結構高い。そして、膀胱が細菌感染すると膀胱炎を起こして頻尿になるので、オムツもしなければならない。
精神的にも経済的にも結構な負担である。

つれあいのオスは、子犬の頃からしつけのしやすい犬で、ほとんど粗相をしたことがなかった。わが家ではいちばんの優等生である。
ところが、この犬が最近どうも呆けてきた。一日中ストーブの前で寝ているが、急に起き出すと誰もいない方を見て吠え始める。散歩をしていても突然吠えだして驚かされる。周囲には何もないのに。
そして、このごろ、頻繁に糞を粗相するようになった。我慢がきかなくなったようで、朝起きると散歩に出掛ける前に家の中でしてしまう。
「お前も呆けてきてしまったのか?」
私は犬を抱き、頭をなでながら聞いてみる。犬は黙って目を閉じている。

家の中で飼育されるようになり、栄養状態も良くなったおかげで、犬の寿命も最近は伸びていると聞く。パグの場合は平均12歳と本に書いてあったが、知り合いの家では15歳まで生きたパグがいた。もう両目が見えなくなっていたが、最後までカクシャクとしており、眠るように息を引き取ったという。

さて、ここで私も考えなければいけないのは、犬たちの老後のことだ。
わが家の犬たちも最後まで元気に過ごし、苦しみもなく眠るように逝ってくれれば、淋しいけれど飼い主としての責任は果たしたと思えるだろう。
しかし、慢性的な病気を抱えたり、あるいは本格的な痴呆がはじまってしまったら、どうしたらいいのだろう。犬たちの面倒を見るのはもっぱら私の役目だから、何とかしなければならない。
しかし、介護は大変な問題だ。

家には90に近い老人がいる。カミサンの母親なのだが、昨年の半ば頃から急に呆けてきた。
まず排泄がうまくできなくなり、トイレや家の中を汚すようになった。オムツを使うようになったが、しばしば洋服を汚したり布団に漏らす。一時は家中にその臭いが広がり、義母がそばを通ると思わず顔をしかめずにいられなかった。汚れたものがあっても自分では始末をしないので、悪臭に耐えられず、私は悲鳴を上げた。カミサンはパートに出ており、十分な世話ができずに困っていた。
悪臭と痴呆が始まった老人の存在は、正直なところ、私にとって大きなストレスだ。

その後、義母は介護認定で要支援2となり、施設のデイサービスを受けるようになった。
秋にはカミサンもパートを辞めて、母親の介護に専念できるようになった。
義母は、一度、肺炎で入院し、さらに痴呆が進んだ。同じ部屋にいる老婆たちを見回して、「あれはみんなお父さんが囲っている女だ」と娘に話したという。昼夜の別がわからなくなり、テレビは好きだがスイッチの入れ方がわからなくなった。
退院後の介護認定で、今度は要介護3になった。デイサービスは変わらず受けているが、要介護になった分支出が増えた。年金で賄っているが、オムツ代などを差し引くと後にはほとんど残らないとカミさんは言っている。ポータブルトイレを購入し、部屋で用を足すようになったが、その始末はカミサンがする。文句を言わずにやっているが、その負担はかなり重い。そして相変わらず、家の中には老人の糞尿の臭いがかすかに漂っている。

犬の介護とヒトの介護。
それが自分の愛犬であり、自分の親であれば、その面倒を見るのは当たり前であり、人間の美徳とされるのかもしれない。
けれども、介護の問題はどこまでも重くのしかかる。
この先、私はこれまで愛してきた犬たちの最期を看取ってやれるのか不安だ。
衰えていく一方の母親を、カミサンはどこまで看てやれるのか、また看てやらねばならないのか、それもまた不安の種だ。
ことに人間の場合、今の制度では個人に対する負担が大きすぎる。親の世話をするのは当たり前だという建前だけでは持ちこたえられるものではない。経済的に、精神的に、介護問題は家族を縛り、追い詰めていく。
全国で、介護の果ての親殺しや心中が後を絶たない。しかし世間を騒がす悲惨な事件は、決して他人事ではない。介護とは、それ自体、すでに悲惨なのだ。

人間ならば、殺せば事件になり罪を負うことになる。
しかし犬の場合、「処分」されてしまう数はどのくらいになるのだろう。それを想像すると、ぞっとする。自分がその手の解決にはしらずにいられるかを思うと不安になる。
「お前のことが、大好きだよ」
そう思っていられるうちに、安らかに逝ってもらいたいと、わが年老いた犬の顔を見て思うことが、このごろ多くなった。
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今日、6日の朝日新聞オピニオン欄に「われわれはどこへ」というタイトルの対談が載っていた。
「時代を見つめる2人の論客」、加藤周一上野千鶴子の対談だ。

はじめに感情論を述べておけば、日本の知性みたいな顔つきをした加藤周一が、私は嘘くさい気がして好きではないし、上野千鶴子を筆頭とする、いわゆるフェミニストという人々も好きではない。
なぜ好きではないかというと、加藤のような評論家も、上野のようなフェミニストも、偉そうなことを言っている割に、実は現実などろくに見ていないように思えるからだ。少なくとも一般平民との視点とはずれている。

で、今日の対談でもそのずれぶりが勘に障ったのでここに書いておく。

まず最初に、今年はアメリカで大統領選挙があり、日本でも総選挙があるかもしれない転換期になりそうだということから、ふたりは時代認識を問われる。
これに対して加藤周一は冷戦後から説き起こし、世界秩序がアメリカを中心に回り始めてしまったとし、それは裁判所と警察が一体化したようなものだという。しかし、経済についてはアメリカを中心としたグローバリズムについては疑問を呈している。中国やインドの経済力の台頭が、アメリカの思い通りにはならないようにしているというのだ。

本当にそうか?

サブプライム問題を見ても、世界の経済がアメリカの自分勝手な経済政策とアメリカのハゲタカどもによってひっかきまわされていることは、経済学者でなくても分かっていることではないか。日本が今のようなクソ社会になったのも、アメリカの新自由主義を真似したからだろう。
アメリカべったりで生きてきた日本から見れば、グローバリゼーションといえばアメリカ流を意味し、その留まるところを知らない自己中心的で拝金主義的な考え方はみなアメリカから譲り受けたものといえるだろう。
この時点ですでに加藤の認識は現実とずれている。
加藤は、今の日本をどう見るかという問いに対しても、「福田内閣は(社民的思想を取り入れているフランスのサルコジ政権になぞらえれば)日本式サルコジ内閣だ」と言っている。自分で冗談半分だがとエクスキューズしているものの、そのボケ具合は筋金入りといっていいのではないか。

一方の上野千鶴子は現代のルーツがポスト冷戦時代に入った90年代にあると見ている。これは正しい。ことに日本の場合、バブル崩壊以降の悪政が国民生活を惨めなまでに苦しめていることは明らかだ。上野はさらに、日本はグローバル化のなかで新自由主義を受け入れたとし、その結果女性の非正規雇用者が90年代以降激増したと述べている。しかも、新自由主義による改革を支持しているのが、他ならぬ非正規雇用者たちだと言っている。

しかし、その上野も、今後の日本について、健康保険さえ出来ない国がたくさんあるなかで、二つ目の国民皆保険となる介護保険は快挙だと言っている。
だが、父親が施設の世話になり、自宅には痴呆が進み始めている妻の母親がいる私から見ると、自立支援を基本にして作られた介護保険は欠陥だらけの制度だと思う。
介護保険がスタートする以前、妻の父親がやはり痴呆(言っておくけど、私は認知症という言葉には強い違和感を持っている)になってしまい、徘徊するなど面倒を見ていた家人が非常に苦労するのを見ていた経験があるが、介護する立場から見ると、経済的にも医療補助システム的にも以前の方が助かると感じたことが多かった。

上野は、「介護保険は草の根の福祉の担い手によって支えられてきた。希望は、彼らにある」と言っているが、現実には介護の現場で重労働・低賃金に喘いでいるのはまさしく福祉の担い手となっている「彼ら」なのだ。上野はそのことを知らずに『おひとりさまの老後』などという著作を書いているのだろうか。
将来介護の仕事につきたいと自分の子どもが言ったとしても、現実を見るかぎり、私にはその選択を勧める気には到底なれない。上野は「(介護の仕事に)携わっているのはほとんどが女性と若者。この人たちがプライドを持って働ける条件整備がぜひとも必要だ」と言っているが、それならばなぜ、介護保険を快挙などと持ち上げるのか。
「介護保険は女性や若者に雇用を作り出せる」と言っているが、現実は皮肉なことに、国民皆保険というシステムがあるが故に、おのずとパイは限られているのだ。現制度のままでは、雇用が増えればその分収入が減る。どこに希望があるというのだ。
高学歴・高収入の上野千鶴子くらいになると、そんな問題は大したものではないということか。

加藤は、上野の言葉を受けて「希望なしとはいえない。希望があるともいえない。『ある』と言いたいが、『証拠は』といわれるとつらい」と、訳の分からないことを言っている。ほとんど妄言だ。
これが現代の論客の台詞か。情けないと思う。

こんな2人の対談を、朝日新聞は一面を使ってよくも載せたものだ。
まったく勘に障るったらありゃしない。

関連タグ : 新自由主義, 介護, 朝日新聞, 上野千鶴子, 加藤周一,

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