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酒好き、映画好き、本好き、落語好き、バイク好き、そして鬱。 ちょっとばかり辛い日もあるけれど、フンニャロメ~と生きてます。
◎心にとめおく言葉
●人は、自分が見たいと思うものしか見ようとしない――ユリウス・カエサル
●為政者たるものは憎まれることはあっても、軽蔑されることだけはあってはならない。(塩野七生)
●自分に当てはめられない基準を他人に当てはめるべきではない
――ノーム・チョムスキー
●さまざまな知識人、文化人、政党やメディアは一般の人々よりも右よりな立場を取る――ノーム・チョムスキー
●考えろ、考えろ、考えろ!――ジョン・マクレーン

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昨日のエントリで、倖田來未のことを書いたが、それとほぼ同じ時間帯に放送されていたテレビ番組で勝谷誠彦が例によって金切り声を上げて倖田來未擁護論を吠えていたらしい。
たんなる偶然だとはいえ、この自称コラムニスト、日本の常識を代表するがごとき言質を弄する右翼タレントと同日、同時間帯に同じようなことを公にしたというシンクロニシティが、どうも気に入らない。あんな無責任で、平気でガセネタを流布するような奴と同じことをいってたかと思うと、自分が恥ずかしくなる。

勝谷誠彦は「闘うコラムニスト」などと称して、いつも喧嘩腰でものを言い、攻撃するのが得意だが、その軸足はぶれまくりで信用に値しない。闘うなどといいながら、文藝春秋の記者時代はいざ知らず、それ以降は真に闘う姿を見せたことがない。その場限りの攻撃で終わる。つまり、あの男の攻撃的な態度は見せ物に過ぎない。あの男の口をつく言葉は「茶の間の正義」程度のものなのだ。倖田來未の件でも、さっそくネットで「沢尻エリカのときは、俺が最初にシメてやると言っていたくせに、倖田の場合は叩く奴がおかしくて、沢尻の場合は世間と同じように自分も叩いてもいいのか」と、揚げ足を取られている有様だ。しかし勝谷がほんとうに沢尻エリカをシメたかどうかさえ、私は寡聞にして聞いたことがない。
勝谷の主張するところの右往左往ぶりはWikipediaに詳しいので、興味がある人はそちらをどうぞ。(もっとも、その記述をすべて鵜呑みにすることもまた、できないのだが)

とにかく、無責任なタレントの言いたい放題を面白半分に聞いているうちはいいけれど、この男が語る扇情的な言葉を真実だなどと思いこむと大恥を掻くことになる。勝谷という男はその程度の男だと、私は思っている。まあ、テレビラジオに出ずっぱりのようだから、稼ぎは私などの数百倍あるのかもしれないけれど。私から見れば、それだけ大資本に魂を売っている輩としか思えない。

つまらない男を攻撃したところで仕方がないのだが、勝谷のような勘に障る男についてはつい一言いっておきたくなる。えらそうに「闘うコラムニスト」などといっておきながら、いったい何と対峙してどのように闘っているのかさえ明らかでない男。こういう男のことを「ポピュリスト」と呼ぶのではなかろうか。
そしてわれわれがいちばん警戒しなければならないのが、こうした一見良識を説いているかに見せかけるポピュリストのやり口なのである。
今回ははからずも勝谷と同じ趣旨の発言をしてしまったが、この男がこれからどんな発言をしていくのかについては、気が向く限り注意していこうと思っている。
なにせ私はワイドショウの類には興味がないもので。
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関連タグ : 勝谷誠彦, ポピュリスト, テレビ, ラジオ,

ネットの産経ニュースで「みのもんた 何が変わってしまった?」という記事が出ていた。
要するに、テレビをつけると毎日のようにみのもんたが登場している。彼の話術にかかると、つまらない問題も重大問題のように思えてくる。時事問題でも絶妙の合いの手を入れて、見ている側をうなずかせてしまう。
まるで魔術のような語り口だというのだ。

そして、記者(ライター?)は思い出す。
そういえば、みのといえば昔、プロ野球ニュースの「好プレー、珍プレー」で大いに楽しませてくれた。彼の話術で、単なる落球や転倒が一編のコントに生まれ変わる。その巧みさには舌を巻いた。

ところが、最近のみのは不二家問題で暴言を吐いたり、コメントを拒んだ相手に対して「映っちゃってるよ、もう」と笑ってコメントして訴えられたりするようになった。何かが変わってしまったようだ、と疑問を投げかけている。

しかし、傲慢で無神経なみのもんたは昔から変わってはいないのだ。
だいたいにしてから私はあの「好プレー、珍プレー」なる番組が大嫌いだった。見ていて不愉快だった。
作家の山口瞳も生前、苦々しく思っていたらしく、「人が一生懸命にやっているプレーを笑いものにするのはどうか」と書いていた。
私は小膝を打って同意したものである。

そうなのだ。
みのもんたの本質は、人が一生懸命にやっていることをネタにして高いところから(いわゆる上から目線? ケッ!)茶々を入れ、笑いものにする。それを売り物にしてきたところにあるのだ。そして、自分がそうやって人を傷つける可能性が高いことをしていながら自覚するところがなく、むしろその手法を拡大させて今日まできてしまったのだ。反省することなく、金儲けの手段にしてきたのだ。
なにひとつ変わってなどいない。変わったとすれば、面の皮がますます厚くなり、神経が太くなって他人のことを思いやることが絶望的なまでにできなくなっていることだ。

しかし、そのみのもんたをテレビ局も大衆も受け入れている。受け入れて面白がっている。
みのが吐き出す暴言を、世論であるかのように思い込んでいる。
変わったとすれば世の中の大衆と呼ばれる人々の感覚が鈍り、いっそう扇動されやすくなっている点だろう。言葉の中身を吟味する前に、雰囲気だけで判断してしまう。その傾向が強くなってきたことだろう。みのをはじめとするポピュリストたちにとって、これほど生きやすい世の中はないだろう。橋下徹は、この世の中の流れを利用したに過ぎない。

テレビを見て、みのもんたがおかしいと言う前に、鏡を見て自分はおかしいのではないかと、産経の記者は書くべきなのである。

関連タグ : みのもんた, ポピュリスト,

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