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酒好き、映画好き、本好き、落語好き、バイク好き、そして鬱。 ちょっとばかり辛い日もあるけれど、フンニャロメ~と生きてます。
◎心にとめおく言葉
●人は、自分が見たいと思うものしか見ようとしない――ユリウス・カエサル
●為政者たるものは憎まれることはあっても、軽蔑されることだけはあってはならない。(塩野七生)
●自分に当てはめられない基準を他人に当てはめるべきではない
――ノーム・チョムスキー
●さまざまな知識人、文化人、政党やメディアは一般の人々よりも右よりな立場を取る――ノーム・チョムスキー
●考えろ、考えろ、考えろ!――ジョン・マクレーン

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以前から自分にとって大きなテーマであるにもかかわらず、なかなかブログで正面から取り上げることができずにいるものがある。
それは「貧困」だ。
反貧困マーク
今、フリーターをはじめとする若者たちの貧困が大きな問題となっており、仕事を得るにも企業側に都合のいい使い捨て労働力としての非正規雇用が大きな不安の源になっている。
二十数年前、私は鎌田慧の『自動車絶望工場』を読み、そこで働く期間労働者たちの非人間的な管理下での生活に大きなショックを受けた覚えがある。しかし、その状況は20年以上たっても改善されるどころか、季節労働者よりもさらに待遇が悪く不安定な労働条件で働く派遣労働者が大量に利用されることで、さらに劣悪化しているといえるだろう。

自動車絶望工場』は、トヨタの製造ラインで働く労働者の中に、鎌田慧が自ら入り込んで体験したものをルポルタージュしたものだけに説得力があったのだが、その本を読んだときの私自身、ある出版社の編集部に編集プロダクションから出向した形の派遣社員であり、業種はちがっていたものの、待遇の悪さや立場の弱さではある意味『出版社絶望編集部』にいたといってもいいかもしれない。ただ、私が違っていたのは、待遇の差や正社員の身勝手に憤ることはあっても、与えられた仕事を言われた通りにする仕事ばかりではなく、むしろ自主的な主張を持たなければ編集者として戦力にならないと判断された点であり、編集者としての腕前は大したことはなかったけれど、それでも正社員の何人かには負けない自負を持っていられたことだろう。
その自負の半分は、単なる思いこみに過ぎなかったのだが、自負を持っていられるのといられないのとでは大きな違いがある。
私はその当時、『自動車絶望工場』に描かれる、地方から集められ、機械の一部のように扱われる出稼ぎ労働者たちを、半ば他人事として読んでいた。

私が「貧困」をテーマに考えながら、なかなかメインに取り上げられずにいたのには、昔は持っていた自信が、その後の経験を通して実はいかほどのものでもないことが分かってきたからであり、自分もまた不安定な潜在失業者のひとり、つまりプレカリアートの仲間であるということを認め、そのことを白状した上でなければこの問題に触れることはできないと思っていたからだ。

正直言って、中年を過ぎた男が自分の現状をプレカリアートであると認めるのは辛い。実り多きはずのミドル・エイジに、自分自身が貧困層一歩手前にいると認めるのはなんとも体裁が悪い。
けれどもこのことを認めないことには、現在の貧困問題にコミットしていくことは難しいのも事実なのだ。

今こうして書いている間も、「貧困」の問題を私なりにどのように扱っていったらいいものか、分からない部分がある。
しかし、これは私が「ウツ」になったこととも関係があるが、自分の生活が苦しくなったのはライターとしての能力が劣っているからではないかと自分を責め続けた何年かがあり、仕事ができなくなってしまった(その結果、仕事の依頼も減ってしまった)のは自分の責任だと思い、毎日、死にたいと思っていた時期を顧みて、それは必ずしも私だけの責任ではなかったのではないかと思うようになっている。原稿を書けないライターは使い物にならないが、そういう人間に残される選択肢が自殺しかないとすれば、それは社会もどこかおかしいのではないか。もちろん、社会に甘えるのではない。しかし、卵を産まなくなったニワトリは潰すしかないという社会のあり方は非人間的と言わざるを得ない。
私自身が強く感じていた今の世の中の生き難さ、真綿で首を締め付けられるような息苦しさは、実はもっと多くの人が味わっているのではないかと思うようになった。

自分を責め、毎日目覚めるときがいちばん辛く、死んでしまえばいいのにと思い続けた時期、私をこの世につなぎ止めてくれたのは、私を認めてくれていた数少ない編集者の一人がくれた仕事だった。その仕事で入った金で、暮らしが楽になったなどということはまったくなかったが、それでも一つの仕事が私の価値を認めてくれたような気持ちにはなれたのである。

今の貧困の問題を解決するにはどうすればいいのか。
それは社会制度的に見れば、累進課税への回帰があるだろうし、企業の優遇税制を改めることに帰着するだろう。
それを実現させるには今の自公政権では駄目で、なんとしても政権交代を実現させなければならない。
しかし、かといって次に来る政権は民主党に任せていいかとなると、私はきわめて懐疑的である。
この点で、何が何でも自民党を倒せ、自民党を倒しさえすれば社会はよくなるという乱暴な考え方に、私はなじめない。

もし政権交代が実現なって、社会制度が改善されたとしても、それだけではまだ十分ではない。
私を認め、仕事を与えてくれた編集者のような存在がなければ、この社会は住みやすくはならないのだ。
では、そういう存在とはどういうものなのか。

「猫の教室」平和のために小さな声を集めようの眠り猫さんも、最近この問題にコミットしようとしているが、私も彼に触発されるかたちで、これからは折に触れて「貧困」の問題を私の立場から考えていきたいと思う。

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関連タグ : 貧困, プレカリアート, 自動車絶望工場, 自殺, ウツ,

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