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酒好き、映画好き、本好き、落語好き、バイク好き、そして鬱。 ちょっとばかり辛い日もあるけれど、フンニャロメ~と生きてます。
◎心にとめおく言葉
●人は、自分が見たいと思うものしか見ようとしない――ユリウス・カエサル
●為政者たるものは憎まれることはあっても、軽蔑されることだけはあってはならない。(塩野七生)
●自分に当てはめられない基準を他人に当てはめるべきではない
――ノーム・チョムスキー
●さまざまな知識人、文化人、政党やメディアは一般の人々よりも右よりな立場を取る――ノーム・チョムスキー
●考えろ、考えろ、考えろ!――ジョン・マクレーン

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せっかく一年間ブログを書いてきたのだから、最後に総括の意味をふくめて今年の10大事件でも私なりに取り上げ、まとめておきたいと思っていた。

けれども、ここ数日、例の鬱のせいなのか、体調の好不調の波が激しく、調子が悪いときは集中して文章を書くのも辛いので書くことが出来なかった。集中力も低下するので、納得できない文章のままブログを更新することもあったことを白状しておきたい。って、必ずしも調子がよければいい文章を書いていたと言いたいわけではないのだが。

実は今日もなんとなく調子が思わしくなく、大晦日にブログを更新せずにおくのは残念な気もしたのだが、休む方を優先しようと思っていた。
しかし、つらつらと他ブログを読んでいるうちにちょっとばかり私の中で変化が起きた。
調子がよくなったというわけではない。

テサロニケ大先生による「世に倦む日々」は、しばしば拝見するブログである。
鋭い政治・社会批評は無知な私にとって勉強になることも多く、ときには胸打たれる思いをすることもある。
昨日アップされた「2008年の10大ニュース」というエントリも、途中までは感心しながら読んでいた。
このエントリで第一位として取り上げているのは秋葉原の殺傷事件でも株価の暴落でもなく、4月1日に起きた八戸の小4児童殺害事件である。全国小中学校作文コンクールで文部科学大臣奨励賞を受賞するほどの文才に長けた感受性豊かな男の子が実の母親に首を絞められて殺された事件だ。

もう遠い事件のように思われるが、この事件を筆頭にして大先生が泥沼のようだったこの1年からずるずると引き上げて見せたのは、2月11日に起きた足立区の一家無理心中事件、1月29日に起きた藤沢の母子無理心中事件、そして1月28日に起きた仙台の一家無理心中事件と続く。
この中には私自身も取り上げた事件があるし、いずれも今年の世相、昨今の日本社会が生み出した歪みを端的に表したものとして鮮やかに記憶がよみがえる。

ただ、ここまできて私にはどうしてもひっかかり、看過できない文章が現れた。
それは鬱病に関するテサロニケ氏の見解である。以下に引用する。
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足立区の父親と仙台の父親は年齢が同じ世代で、やはり、何事かを考えさせられる。この世代は基本的に精神が弱い。ネットを見ていて、この世代の男と思しきあたりで、「鬱病のようです」とか、「鬱がまた再発しました」という話をBLOGで書く者を頻繁に見るようになった。メンタルヘルスに不具合を負った50 男を屡々見かける。この世代は、日本が高度成長のときに少年時代を送り、何不自由なくぬくぬくと育ったため、社会環境が激変して生き難い時代になると、途端に適応障害を起こして精神を蹲らせる特徴がある。この上の世代、団塊の世代は、戦後のモノの無い時代に育ち、ひもじい少年時代を送っていて、人口の多い同世代の間でガツガツと競争して他人を蹴落とし、自分だけ強引に生き伸びる術を知っている。大学紛争で暴力を振るいまくって平然としているのもこの世代だ。その下の世代、現在50歳前後の世代というのは、ひ弱で、時代と周囲に甘やかされて生きてきた。
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テサロニケ氏がいう「この世代」とは、足立区の無理心中事件を起こした父親(52歳)と仙台の無理心中事件を起こした父親(53歳)が属する世代で、幸か不幸か私はそれよりも少し年下だとはいえほぼ同世代で、しかも鬱病を患っている。つまり、テサロニケ氏が上記の文章で語っている世代論と鬱病に関する記述はそっくりそのまま私自身にもあてはまることになる。
たしかに私自身、ブログを始めた当初から自分が「鬱」であることを白状していたし、しばしば「鬱のために体調が悪い」と書いてきた。
大先生から見れば、甘やかされて育ってきたわれわれの世代はひ弱で、社会状況が少し厳しくなると適応できずに精神を病むということで、まことにダラシナイ、頼りなく見るに堪えない存在に映るらしい。

しかし、この見方はあまりに病を患う者に対しての思いやりに欠けているのではないか。
日頃から社会的弱者を擁護し、現代の貧困を憂えて見せる大先生が、鬱病に対してだけ「甘やかされて育ってきたから」だと世代論に置き換えて原因を断定するのはあまりに乱暴というものではないのか。この言い方はまるで、「フリーターになるのは甘えているからだ」と言った、どこかの経営者と変わらないではないか。

誰が好きこのんで鬱病になどなりたいものか。
それは他のどんな病気とも同じである。
誰だってガンになどなりたくはないし、脳梗塞など起こしたくはないし、狭心症で胸をかきむしったりしたくはない。
しかし、そうなるのは甘えて育てられたからだと言う者がいたら、そいつはとんでもない思い違いをしている馬鹿者だと思われるだろう。思われるだけではすまず、徹底的に非難されるだろう。テサロニケ大先生は、鬱病者に対して、徹底的に非難されても仕方がない誤謬を犯しているのではないか。
「鬱病は心の風邪のようなもの」などという、一部の無責任な専門家の言葉を真に受けて安易に考えているのではないか。
病の辛さ、苦しさは、病にかかった者にしか分からないとはいうが、他人の言葉を鵜呑みにして鞭打つような言葉を吐くのは、人間としてあまりに思いやりがなく、想像力が欠けているのではないか。
「鬱病」が心の風邪のようなものだとしたら、4年も5年も風邪をひいた状態を考えてみるがいい。いつ治るかも分からず、延々と一人でうち沈み、起き上がる気力さえ振り絞らなければならず、そんな自分が許せずに死ぬことを考える状態が続くことを想像してみるがいい。

テサロニケ氏のブログは評判が高く、毎日数万のアクセスがあると聞く。
その論評の質は高く、今や大新聞の社説も寄せつけないほどだと自負しているほどだ。
しかし、どんなに世評が高く多くの人が感心をするとしても、「世に倦む日々」は時に人を傷つけることに容赦がない点において、私はまったくこのブログを評価しない。
近々、かのブログは購読料を取って記事を配信するようだが、人を傷つける傲慢な記事が配信されたとして、いったい日本全国の何パーセントの人間が満足するだろうか。

私は決して認めない。

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関連タグ : テサロニケ, 鬱病,

自民党総裁選への動きがあわただしい。
それに呼応するようにブログでもさまざまな憶測がとびかっているが、かのテサロニケ大先生の今日のエントリは、先日の「アダルトな政治学」以来の苦笑を誘われた。

大先生独自の分析にもとづき、その前段では中川秀直が総裁への野望に燃えていることに言及しているのはいい。そういうことも大いにあるだろう。
しかし、それに続いて総裁選の大本命である麻生太郎に並んで中川秀直が立ち上がり、2人がテレビで討論するとなると、その図は絵柄として最悪で、自民党支持率が下がってしまうだけでなくテレビ局のプロデューサーまでが意欲を喪失、シラけてしまうとまで言うのはいかがなものか。
大先生によれば、ベストな総裁選の映像は麻生太郎とマダム回転寿司こと小池百合子野田聖子が顔を並べるもので、これこそが視聴率を稼ぐのだという。
マダム回転寿司

そりゃ、たしかにゲロッパ中川なんかにテレビ画面に出てきてほしくはないさ。
だけど、冷徹な政治学徒としての目をもつ大先生がそんなことを言っていていいのだろうか。
野田聖子

エントリの後半は、政局を論じると言うよりも単なるミーハーになりさがったかのように野田聖子を持ち上げる。
ここで大先生のエントリから引用してもいいのだが、それさえも気恥ずかしくなるほどの持ち上げようは、いったいどうしたのかと思ってしまう。
殿ご乱心は自民党の中だけにしてほしいものだが。

たしかに野田聖子には新自由主義の臭いがなく官僚臭も感じさせない「美点」があるとしよう。
だからといって、それだけで野田聖子が一国の総理の器にふさわしいかどうかとはまったく関係がない。いくら野田聖子が「働く女性」のピュアなイメージを持っているからと言って、総理総裁を目指すべきだと言ってしまっていいものか。

殿、ご乱心?

野田聖子が郵政大臣をしていた10年前よりもきれいになっていることをほめちぎり、年を経るごとに美しさを増していくには努力が必要なことであり、それを実現している女を女は尊敬するとまで言うのはまあ、我慢しよう。
しかし、麻生太郎と小池百合子と野田聖子が3人で総裁選を戦う「絵」ができると、確実に自民党の支持率は上がるとまで言うのは、どういうつもりなのだろう。
これではまったく自民党総裁選のタイコモチではないか。

自民党が麻生太郎を軸にして、小池百合子や野田聖子の顔をちらつかせるのは織り込み済みの戦略である。
たしかに華のある絵ができれば国民の関心は低くなろうはずがない。
しかし日頃リベラル・左派に手厳しく己が手本と自負するブログがまんまとその手に乗ってしまってどうする。
いくら目を惹く花が並んでいても、その土台は腐っているのである。
花に目を取られて花瓶の汚れとヒビに気がつかずにどうするのだ。

麻生太郎がいくら人気が高いとマスコミがはやしたてようと、小池百合子や野田聖子がいくら目新しいと騒ぎ立てようと、自公政権にノーを突きつける側から見れば問答無用だ。
小池もダメなら野田が出てきてもダメ。
ダメなものはダメなのだ。
自民党ではダメなのだ。
そこを押さえた上でものを言わなくては、肝心の政権交代の実現が遠のくというものだ。
そして、それだけは何としても避けなければならないのだ。

自民党が誰を繰り出してこようと、われわれははっきりと拒絶する。
そうでなければ目標実現などかなうはずがないではないか。

関連タグ : 自民党, 総裁選, 野田聖子, 小池百合子, テサロニケ,

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