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酒好き、映画好き、本好き、落語好き、バイク好き、そして鬱。 ちょっとばかり辛い日もあるけれど、フンニャロメ~と生きてます。
◎心にとめおく言葉
●人は、自分が見たいと思うものしか見ようとしない――ユリウス・カエサル
●為政者たるものは憎まれることはあっても、軽蔑されることだけはあってはならない。(塩野七生)
●自分に当てはめられない基準を他人に当てはめるべきではない
――ノーム・チョムスキー
●さまざまな知識人、文化人、政党やメディアは一般の人々よりも右よりな立場を取る――ノーム・チョムスキー
●考えろ、考えろ、考えろ!――ジョン・マクレーン

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私とて仕事をしなければならない事情がある。

しかし、この男のことを考えると頭の中は逆上し、せっかく仕事に向かった意識は脱力し、怒りと侮蔑と嘲りと嘆きと義憤と痛憤が体の芯を貫いて平常心を保つことができなくなる。
私は異常な人間となる。

それほどに、石原慎太郎という男に対して怒りを感じる。

昨日の都議会で、石原は案の定、野党議員から新銀行東京のことで厳しい追及を受けた。
とくに民主党の山下太郎がトップダウンで銀行設立を決めた知事の責任が大きいと追及すると、石原は「私はシーザーでもアレキサンダー大王でもない」と声を荒らげ反論した。そのうえで「トップダウンという言葉の使い方を、政治家として知らないのではないか」と言い返した。
石原シーザー
笑止である。
石原ごときに言われたのでは、カエサルもアレキサンダーも片腹痛しと思うことだろう。
お前ごときに比べられる覚えはないと言い返すだろう。

新銀行東京は、開設当初からうまく運営できるはずがないと言われていた銀行だ。
資金繰りに悩む中小企業を救うとは名ばかりで、この銀行が提供する融資はいずれも短期、高金利で、中小業者に役立つものとなるどころか、困難に追い打ちをかけるケースもあった。
最近では、金利が一律14%の「わらしべローン」などというトンデモ商品まで出していた。
他の信用金庫や信用組合の利率が4%であるのと比べれば、その無茶苦茶ぶりは明らかだろう。
これでは借りたくても利子を払っていけない企業が大半で、事実、ほとんど誰もこのような融資は受けようとしなかった。
のみならず、この銀行は都庁職員からも見放され、誰も預金しようとさえしていないのが実情だ。

そのうえ石原は、共産党の吉田信夫が新銀行の開業時にすでに大手銀行が中小企業融資を始めていた状況を踏まえ、「知事は慎重な姿勢が欠けていた」と批判したのに対して、
「私にも『責任』がありますよ。墜落寸前の銀行を上昇させることだ。さんざん話してきたじゃないですか」と開き直った。
さらに吉田の「あなたが会社の社長だったら、1000億円の大穴をつくれば即辞任だ」という追及に対して石原は、
「最初から私が社長だったらもっと大きな銀行にしていますよ」と、居直ってみせた。

ほんとうにこの男の傲慢さと馬鹿さ加減には言葉を失う。
どこかに、このバカにつける薬はないものかと心が痛くなる。
朝日の報道によれば、ここまで開き直っておきながら、石原は都合の悪い質問には自分で立ち上がることもせず産業労働局長の佐藤広に答えさせた。
仁司泰正・元代表執行役の任命責任について問われ、「銀行設立準備担当部署が候補者を決め、最終的に知事の了承を受けた」と答弁させた。
「都議会は議会ごとに新銀行問題を取り上げてきたが、知事は馬耳東風だった」との指摘にも、明確に答えようとしなかった。
まいったな
すでに何度もこのブログで取り上げているように、この期におよんで石原はこの無用の銀行に対してさらに400億円もの金を注ぎ込もうとしている。

多くが財政難に苦しむ地方自治体から見れば、そもそも無担保・無保証で金を貸す銀行を作るという発想自体が信じがたいものであり、経営の穴埋めに400億も支出するなど、これまた考えられないことである。
地方税収入が5兆円を上回る超富裕自治体ならば可能なのかもしれないが、それでも400億といえば都が新年度から始める低所得者支援策の4年分に相当するというではないか。
なぜ、東京都にはこんな無駄遣いが許されるのか。
これは地方全体の声でもある。

東京マラソン、オリンピック誘致、築地市場移転、東京外環道建設。
石原がやってきたこと、やろうとしていることはどれも税金をばらまくことばかりだ。
そのうえ、400億も出す金があるのなら、低所得者支援を4倍手厚くしてやればいいではないか。
地方との格差是正のために基金のひとつも設けてやればいいではないか。
ほんとうにこの男の金銭感覚には目眩さえ感じてしまう。
この場に昏倒して、血反吐を吐きそうな思いになる。

カエサルは、帝国が拡大するにつれ現実に合わなくなってきた共和制という統治体制を改めた。
それは帝政という権力が集中する体制ではあったが、ローマ帝国は以後およそ200年にわたるパクス・ロマーナを築いた。
しかし独裁者の石原は、これから何を築こうとしているのか。
これから何を築けるというのか。

おのれをカエサルと比較するなど、100万年はやいというものだ。


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関連タグ : 石原慎太郎, 新銀行東京, 低所得者支援, カエサル,

私が自分の能力を呪いながら原稿を書いている間に、遠い世界ではとんでもないことが起こり続けていた。そのことについては「カナダde日本語」の美爾依さんはじめ、多くのブログで書かれているので、もはや私などは書く資格などないのかもしれない。
戦争の悲惨
しかし、罪もない子どもをふくむ民間人が無差別に殺されている事態を傍観していることが許されようか。
ユリウス・カエサルは「人は、自分が見たいものしか見ようとしない」という言葉を残している。そして山本夏彦は同じことを「人は見えないものは、ないものだと思い込む」と言っている。
それは今のわれわれにも見事に当てはまる。

先月27日以降、パレスチナ自治区にあるガザ地区を、イスラエル軍が攻撃している。
激しい空爆のために、多くの住民が犠牲になった。なかには生後6ヶ月の赤ん坊もいた。
イスラエルはイスラム原理主義のハマスを攻撃しているという大義名分で爆弾を落とし続けているが、その実やっていることは大量虐殺であり、アラブ人を対象にしたホロコーストに他ならない。
ホロコーストといえば、いうまでもなくナチスドイツがユダヤ人の絶滅を目的におこなわれた一連の計画的な大量虐殺を指すのが普通だが、今回、中東で行われているのは、かつて被害者だったユダヤ人がアラブ人の絶滅を目指して行っている大量虐殺行為である。

パレスチナでは毎日のように悲惨な状況が生まれ、その模様はyoutubeでも見ることができる。

しかし、日本では、この虐殺事件そのものの報道がきわめて少ない。
イスラエルによる攻撃が始まった当初は、それでも新聞は写真入りの記事を載せていた。けれども日本の新聞社が選ぶ写真は、破壊された建物や難民になった人々の表情をとらえるものが多く、血を流し、無残な遺体が散乱している「侵略戦争」の現場を伝える写真は皆無である。
これではいかに記事で悲惨な事態が発生していると書いても、訴える力は弱い。
破壊された建物

侵略と無差別の虐殺は、建物が破壊されるだけでなく、そこに住む人々が血を流し、命を奪われ、生活の手段もなく逃げ惑う、この世の地獄なのだ。もっとも残酷な現実なのだ。
どうしてその様子を知らせないのだろう。
残酷な場面を流せば、社会に悪い影響を与えるという理屈は、実際に銃弾から逃げ惑っている人々に、どのように聞こえることだろう。

ユダヤ人たちは2000年以上も昔から、この地で争いを続けてきた民族である。
wikipediaでは彼らを次のように説明している。
「古代エジプトによって奴隷として連れ去られ、200年後にモーゼの導きで脱出、パレスチナの地に古代イスラエル王国を造った。しかし紀元前586年に新バビロニアにより滅亡し、いらい2500年近く確固たる民族(宗教)国家を持たず、ローマ帝国に反乱を鎮圧されて以降はほとんどの国民がヨーロッパを中心に世界各国へ散らばった。以降ユダヤ教徒としての各地への定着が進む。」

このような歴史を持つユダヤ人たちは、歴史的に被害者意識を強く持っており、その反面では唯一絶対の神に選ばれた民族であるという選民思想をもっている。
世界各国にコミュニティを作りながら、彼らは自分たちの伝統にこだわり、周囲となじもうとしなかった。ローマ帝国がユダヤに弾圧を加えたのも、もとはといえば彼らがローマのしきたりを守らず、それでいて商売や金融で富を蓄えていたという、周りから見れば「おもしろくない存在」だったことが大きい。唯一絶対の神しか認めない彼らは多神教であるローマを邪教徒とみなし、リーダーが現れるたびローマに対して反乱を起こした。だからローマも業を煮やしてパレスチナを焼き払い、彼らを追放したのだ。「屋根の上のバイオリン弾き」で、主人公たちユダヤ人一家はロシアによって土地を奪われる。そこでも描かれていたのは被害者としてのユダヤ人だった。伝統と宗教を大切に生きる。そのことを非難することは誰にも許されず、ユダヤであるというだけで排除されてきた歴史は確かに悲しい。
けれども、その歴史を裏を返せば、彼らは悲しい歴史を持つゆえに、他者を敵と考えやすい人々ということはできないだろうか。

ユダヤ人が持っている被害者意識と選民思想。
これが後にヒトラーをして民族絶滅を決意させたのではなかったか。

そして今、イスラエルパレスチナに住むアラブ人たちに対して行っている暴挙もまた、根底には彼らの被害者意識と選民思想があるように思われる。
ユダヤ人たちはイスラエルを建国したが、ほんとうの故郷はパレスチナだという思いがある。
けれども、長い歴史の間に、その地にはアラブ人たちが住み着いていた。彼らは多くがイスラム教徒であり、ユダヤ人にとっては憎むべき邪教徒でもある。
祖国を奪い、邪教を信じる民を滅ぼす。
これがイスラエルの考えなのだろう。

そして今や各国に散って隠然たる力を持つようになったユダヤ人たちは、アメリカ政府をも操作してイスラエルの味方をさせている。アラブ人たちに力を貸しているイランを敵視し、遠からず攻撃も辞さない構えを見せている。

世界ではこういう情勢が日々刻々と移っているというのに、日本では何も伝えようとしない。
昨日のNHKのニュースでは日銀総裁人事と春闘、それにスペースシャトルに乗り込む土井隆雄の表情を伝えていた。そこにはパレスチナのパの字も、アラブ人のアの字も出てこなかった。
今朝の朝日新聞にも、パレスチナ情勢は皆無だった。

人は、自分が見たいものしか見ようとしない。
ならば、日本人は何を見ようとしているのだろう。
世界のどこかで流されている血から目を背け、役人の人事と道路を造るカネのことばかり心配している。マスコミは世界から国民の目を逸らさせ、些末なニュースばかり垂れ流し、世の中はそんなもので成り立っているように思わせようとしている。

昨日はNHKで「日本の、これから」という番組で、日本人の学力低下の問題を討議していた。
しかし社会全体を見渡してみると、子どもの学力低下の問題は重要に違いないけれども、今の大人たちの知的能力、現在を読み解くためのリテラシーが限りなく無残なまでに低下し劣化してきている。
そのことの方が問題に思えてならない。

何度も繰り返すが、人は自分が見たいものしか見ようとしない。
しかし、その態度を改めない限りはものごとの本質は永遠に見えてこないのである。
カエサルは、人が見ようとしないものを見て、社会を変え、歴史を作った。
われわれはカエサルには及ばないとしても、せめて、ほんとうは見たくないものにも目を向けて、それを正しく理解する努力をすべきではないのか。
日本人はともすると個人の能力を知識で測ろうとするが、私は違うと思っている。
知識とはあくまでも土台に過ぎないものであって、人間にとって、一人前の人間として生きて行くには知力が必要なのだと思う。
知力がなければ、見たくないものを見ることはできないのだ。知力がなければものごとを総合的に判断することも難しい。いや、それ以前にあらゆる情報を受け入れ、咀嚼し、消化して自分の栄養にすることができない。

日本のニュースはなぜ、パレスチナに目を向けさせないのか。
それはイスラエルを応援するアメリカの意図が働いているからではないのか。
しかし、今やわれわれは意志さえあれば情報を知ることができる。
情報を知って、冷静に判断すれば、イスラエルがやっていることがいかにひどいことかを判断できる。
そのうえで。
なにかをしなければならない。
それは一人一人が、自分の言葉でブログを使って非難の声を上げることでもいいのではないか。
いや、他にももっとできることがあるかもしれない。

自分の目を持ってこの世界と、自分が住む社会を見ていかなければならない。
そして声を上げなければならない。

……糊口をしのぐための原稿をショボショボ書きながら、私は今、そう思っている。


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関連タグ : パレスチナ, ガザ侵攻, イスラエル, ホロコースト, ユダヤ人, リテラシー, カエサル,

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