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酒好き、映画好き、本好き、落語好き、バイク好き、そして鬱。 ちょっとばかり辛い日もあるけれど、フンニャロメ~と生きてます。
◎心にとめおく言葉
●人は、自分が見たいと思うものしか見ようとしない――ユリウス・カエサル
●為政者たるものは憎まれることはあっても、軽蔑されることだけはあってはならない。(塩野七生)
●自分に当てはめられない基準を他人に当てはめるべきではない
――ノーム・チョムスキー
●さまざまな知識人、文化人、政党やメディアは一般の人々よりも右よりな立場を取る――ノーム・チョムスキー
●考えろ、考えろ、考えろ!――ジョン・マクレーン

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語るも忌々しいが、日本の司会者の中で忙しさナンバー1を誇るみのもんたは自分の番組で年越し派遣村に集まった人々のことに触れ、ハローワークから聞いたという話で「職の求人はけっこうたくさんある、と。だけど『アレがいい、コレがいい』となると、なかなか決まらない面もある」と言い、出演者から「この深刻な状況は、社会全体、国の責任で発生したこと。どんなにお金を使っても、全国民の権利である最低限度の生活を保障すべきだ」とたしなめられた。
しかし、なおも納得できないみのは、「どうなんでしょう? もちろん政府は努力すべきだけど、派遣を切られた、職がないといった方たちも努力しないといけないでしょうね。権利だけ主張して『住居を、食べ物を』と言うけれど、仕事があるなら(気に入らなくても)とりあえず仕事をしたらどうなのかと思うことがある」と反論した。(テレビウォッチより)

また、坂本哲志総務大臣政務次官は、総務省の仕事始め式で、やはり「年越し派遣村」について触れ、「ほんとうに真面目に働こうとしている人たちが集まっているのかという気もした」と述べ、派遣村の活動について「40年前の学生紛争の時に、『学内を開放しろ』『学長出てこい』(などと学生らが要求した)、そういう戦略のようなものが垣間見える気がした」と続けた。(時事通信より)

大晦日から元旦の朝にかけて放送されたテレビ朝日の「朝まで生テレビ」では、内需を掘り起こす必要が語られ、その一つの案として農業政策の見直しが語られた。そのなかで、減反政策で現在休耕田になっている田んぼを使えるようにしたら、農業で雇用創出できるという話になり、司会の田原総一朗は派遣切りされた人々は百姓仕事をやったらいい、と言った。

みなそれぞれ勝手な立場から勝手なことを言っているが、要するに彼らに共通する認識は、心のどこかに派遣切りされて日比谷公園に集まってきた人々は仕事をする努力、あるいは仕事を見つけようとする努力に欠けていて、生活に行き詰まると人からの施しを受けたがる、しょうもない人間だということだ。ネットでも心ない連中が、税金を使って路頭に迷った人々を救おうということに激しい抵抗感を示している書き込みをしている。

職を失い、同時に住む家さえ無くした人がどんな気持ちでこの年の瀬と正月を迎えたのか。彼らが抱える不安がどれほどのものなのか、彼らに対して厳しい言葉を投げつける人間には想像力が絶望的に欠けている。
仕事を失い、手持ちの金もゼロに等しく、行く当てのない人間ならば、どんな仕事でもやろうと思っていることだろう。しかし実際にはハローワークに行って求人情報を探してみても条件面で一致するものがそう多くあるとは限らず、また実際に面接をしてみるとあらかじめ書かれていた条件とは違うことを言われることがままあるのだ。
どんな仕事でもとりあえずやっていこうとは思っても、彼らは派遣切りという非人間的な扱いを受けて深い痛手を被っている。できることならば、この次につく仕事は年金受給年齢ちかくまで続けたいと思うだろう。安定して安心して働ける仕事に就きたいと思うだろう。
それがわがままだとか、権利ばかりを主張しているとしか思えないとすれば、みのもんたや坂本哲志はよほどの冷血漢といっていいのではないか。

それは、仕事が欲しければ百姓でもやればと言い放った田原総一朗にしても同じである。
百姓仕事は誰でも簡単にできる仕事ではない。体力も必要ならば専門知識も必要だ。よしんば国が職業訓練する期間を与えるとしても、田畑を耕し、生活に必要な収穫を得るようになるまでは相当な時間がかかるだろう。仕事が必要ならば百姓でもやればいいとは、いかにも田原総一朗らしく無慈悲で思いやりのない言葉である。

一連の言葉を見聞きして思うのは、これらのいわゆる「勝ち組」に属する人間たちは、どうして痛めつけられた側の人々ばかりに冷たくあたるのだろうと言うことだ。
下手をすれば餓死したり凍死しかねない状況に追いやられると言うことは、尋常では簡単にあり得る話ではない。それが、政府の発表だけでもこの春までに8万5000人もの人々が職を失い、あるいは住居を追われる見込みだというのだ。
いちばん責められるべきは、このような事態に国民を追い込んだ政府の無策ぶりであり、空前の内部留保もちながら冷酷に労働者の首を切った企業の側ではないか。

昨日、日比谷公園の「年越し派遣村」が解散した後、元派遣労働者たちは国会前をデモ行進した。
議事堂の前では国会議員たちが彼らを見守り、共産党の志位和夫らに対しては「なんとか国会で労働者派遣法を改正してほしい」と訴えていたが、公明党の議員たちに対しては何人かの元派遣労働者がつかみかかり、「こうなったのはお前らのせいだ!」と怒りをぶちまけていた。
彼らが怒るのは当然である。
彼らがこのように辛い思いをしているのは、自公政権の責任なのだから。彼らが被った被害は、明らかに人災なのだから。

自己責任論者」たちは何かにつけて、今もなお派遣になるような奴は努力が足りないと言い、彼らには本当は働く気がないという。
しかし、ほんとうに生きることに対して努力せず、働く意志を持たないならば、彼らはとっくに犯罪を犯しているだろう。
大阪ではタクシー運転手が襲われる事件が連続して起きており、東京ではホームレスを続けざまに襲っていた男が逮捕された。
働く気がない人間はこうして犯罪を犯すのだ。
しかし、日比谷に集まった人々は、自分が情けないと思い、このままでは野垂れ死にするか自殺するしかないと思い詰めていた人々なのだ。実際に、自殺しかけて死にきれず、たまたまそばに落ちていた新聞に派遣村の記事があって日比谷に来たという男性もいた。
働きたくても職を奪われた人々は、「自己責任論者」に責められる前に自分で自分を責めているのだ。そういう人々をどうして責めることができるだろうか。
彼らを税金で救ってやるのはもったいないと言い張る者があるが、そんなに税金がもったいないのなら、内部留保を抱えたまま首を切った企業に請求してやればいいではないか。
人をモノのように扱うことが、結局は高くつくのだということを思い知らせてやればいい。

みのもんたも坂本哲志も田原総一朗も、どれだけ収入があるかは知らないが、生活が安定しているのだけは確かだろう。自分は高見から見物しながら、仕事が欲しかったら好き嫌いをいうななど言う前に、少しは収入の一部を寄付でもしてやったらどうなのだ。社会貢献を何らせず、責任論を偉そうに説くこれらの男たちが、私には内部留保を貯め込みながら労働者の首を切る大企業のトップにだぶって見えてくるのである。


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関連タグ : 派遣村, 自己責任, みのもんた,

ネットの産経ニュースで「みのもんた 何が変わってしまった?」という記事が出ていた。
要するに、テレビをつけると毎日のようにみのもんたが登場している。彼の話術にかかると、つまらない問題も重大問題のように思えてくる。時事問題でも絶妙の合いの手を入れて、見ている側をうなずかせてしまう。
まるで魔術のような語り口だというのだ。

そして、記者(ライター?)は思い出す。
そういえば、みのといえば昔、プロ野球ニュースの「好プレー、珍プレー」で大いに楽しませてくれた。彼の話術で、単なる落球や転倒が一編のコントに生まれ変わる。その巧みさには舌を巻いた。

ところが、最近のみのは不二家問題で暴言を吐いたり、コメントを拒んだ相手に対して「映っちゃってるよ、もう」と笑ってコメントして訴えられたりするようになった。何かが変わってしまったようだ、と疑問を投げかけている。

しかし、傲慢で無神経なみのもんたは昔から変わってはいないのだ。
だいたいにしてから私はあの「好プレー、珍プレー」なる番組が大嫌いだった。見ていて不愉快だった。
作家の山口瞳も生前、苦々しく思っていたらしく、「人が一生懸命にやっているプレーを笑いものにするのはどうか」と書いていた。
私は小膝を打って同意したものである。

そうなのだ。
みのもんたの本質は、人が一生懸命にやっていることをネタにして高いところから(いわゆる上から目線? ケッ!)茶々を入れ、笑いものにする。それを売り物にしてきたところにあるのだ。そして、自分がそうやって人を傷つける可能性が高いことをしていながら自覚するところがなく、むしろその手法を拡大させて今日まできてしまったのだ。反省することなく、金儲けの手段にしてきたのだ。
なにひとつ変わってなどいない。変わったとすれば、面の皮がますます厚くなり、神経が太くなって他人のことを思いやることが絶望的なまでにできなくなっていることだ。

しかし、そのみのもんたをテレビ局も大衆も受け入れている。受け入れて面白がっている。
みのが吐き出す暴言を、世論であるかのように思い込んでいる。
変わったとすれば世の中の大衆と呼ばれる人々の感覚が鈍り、いっそう扇動されやすくなっている点だろう。言葉の中身を吟味する前に、雰囲気だけで判断してしまう。その傾向が強くなってきたことだろう。みのをはじめとするポピュリストたちにとって、これほど生きやすい世の中はないだろう。橋下徹は、この世の中の流れを利用したに過ぎない。

テレビを見て、みのもんたがおかしいと言う前に、鏡を見て自分はおかしいのではないかと、産経の記者は書くべきなのである。

関連タグ : みのもんた, ポピュリスト,

正月三賀日も、例年のごとくあっという間に過ぎていった。
やはり正月らしい気分はどんどん希薄になっていき、テレビだけが、このときばかりと着物姿になった芸人たちや女子アナであふれかえって虚しいバカ騒ぎを演じている。
とは言っても、私はほとんどテレビは見なかった。見ないけれども、テレビが毎年芸もなくやっていることに変わりはないから、虚しいバカ騒ぎというのである。

そのなかで、題材に惹かれてスイッチを入れた番組がある。
3日18時半から、およそ4時間半にわたって放送した「新春歴史ミステリー古代ローマ1000年史」という番組だ。
塩野七生の『ローマ人の物語』を下敷きに制作したものだという。
ただし、司会進行がみのもんたであることと、TBSが放送するということだけで、半ば以上は諦めた気持ちにはなっていた。

言うまでもなく、みのもんたとTBSといえば、問題発言の多い劣悪番組「朝ズバッ!」の組み合わせ。これにローマ1000年の歴史を語らせようという発想からして気持ちが萎える。
塩野七生も国から勲章までもらった著作だというのに、よりによってこんな者どもに制作を許すことはなかっただろうに。

思った通り、番組は開始早々、アリタリア航空やローマ観光局、それにブルガリだかのブランドメーカーの宣伝臭ぷんぷんのタイアップコーナーが続き、合間にみのもんたが顔を出してコメントするという構成だった。
その、みのの台詞が笑わせる。
「ローマ帝国の歴史を見ると、現代日本の状況と非常によく似ていることがわかる。ローマの歴史を学ぶことによって、今の日本が抱える問題解決のヒントになるのではないか」

言葉だけを見ればその通りだろうさ。
だけど、この台詞がみのの本心で語られているはずがない。新自由主義の庇護の下、大金持ちになったこの男が、本気で日本が抱える問題など考えているわけがないじゃないか。
案の定、みのは、さして必要もないのにイタリアまで飛び、ワインとパスタを食らって「最高だね!」などとほざくのだ。

つくづく、人間というのはいくら懐が豊かでも心が卑しいと、そのいやらしさが顔に出るものだなと、みのを見て思った。あれはどう見ても、高利貸しの因業爺か、人の足元を見て値踏みする不動産屋のオヤジの顔つきだ。

これにバラエティでは人気があるらしい安住という安っぽいアナウンサーがついて、まさしくバラエティとして番組は進められていく。
ローマといえば何を連想するかと、いつとったのか定かでないアンケート結果を出してきて、その1位はやっぱり「ローマの休日」ときたもんだ。なんだろうね、このあたりでもう嫌気がさしてきた。画面では映画に登場するローマの遺跡と、その現在の様子が映し出されている。
有名な「真実の口」が、古代のマンホールの蓋だったらしいなどと解説が入る。

現代の日本の問題を解くヒントを探すどころか、合コンでも役立たないような雑学ばかり。
みのと、番組スタッフの志の低さが透けて見える。

『ローマ人の物語』が語る、重要なテーマは「よき統治とは何か」であったはずだ。
なぜ、ローマ帝国は1000年もの間、栄えることができたのか。その間には政治的な混乱や金融危機のような問題も起きている。富める者と貧しい者との格差が広がった時期もある。こうした問題を、時の統治者たちはいかにして切り抜けたのか。そこに焦点を当てていかなければテーマの本質が見えてこない。

イギリスBBCが作ったドラマを拝借したドラマ部分は、それなりに迫力があった。
しかし『ローマ人の物語』でもうひとつ重要なポイントは、この著作が非キリスト教者の視点から描かれたものであるということだ。キリスト教的な感性を持つ欧米人には見えなかったものが、塩野七生の歴史観にはある。それならば、TBSはBBSのビデオを拝借するといった手抜きをすることなく、自前でドラマを再現すべきだっただろう。

こんな志の低い番組に4時間もつきあうのはご免だ。ハンニバルとスキピオが闘った「ザマの会戦」までで私はスイッチを切った。
せめてNHKが作っていたら、もう少しつきあえたかもしれないのに。
ますます民放が垂れ流す番組が嫌いになった。

2011年には地デジに切り替わるというが、くだらない番組を見るために、誰がテレビを買い換えるかよ。
今の日本では、政治だけでなくテレビ局の再編も必要なのではないか。再編してもあまり期待できないことも両者に共通しているのだが。

関連タグ : みのもんた, ローマ帝国, テレビ,

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