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酒好き、映画好き、本好き、落語好き、バイク好き、そして鬱。 ちょっとばかり辛い日もあるけれど、フンニャロメ~と生きてます。
◎心にとめおく言葉
●人は、自分が見たいと思うものしか見ようとしない――ユリウス・カエサル
●為政者たるものは憎まれることはあっても、軽蔑されることだけはあってはならない。(塩野七生)
●自分に当てはめられない基準を他人に当てはめるべきではない
――ノーム・チョムスキー
●さまざまな知識人、文化人、政党やメディアは一般の人々よりも右よりな立場を取る――ノーム・チョムスキー
●考えろ、考えろ、考えろ!――ジョン・マクレーン

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日本時間の23日午前中からアメリカで行われた映画の祭典アカデミー賞授賞式では、短編アニメ部門と外国語映画賞の2部門で日本映画が受賞するという快挙を成し遂げた。

よかったよかった。
映画を愛する者の一人として、私もうれしいよ。
昨日のニュースはNHKをはじめ民放各社ともトップニュースはこのダブル受賞だったし、世界的不況と政治の行き詰まりを見せる中で、昨年の日本人ノーベル賞受賞に続いて久しぶりに明るい話題を提供してくれるものとして伝えられていた。

それはいい。ごもっともなことだ。

しかし、偉そうなことは言いたくないが、最近の日本映画の傾向を見ているとなんだか一言言いたくなってくる。
ひとつはケータイ小説を映画化した「恋空」などに見られるような、いかにも甘い恋愛やファンタジーへの憧れが強いということであり、もうひとつは、非常に「癒し」を意識したものが多いということである。
ファンタジーへの憧れも、「癒し」を求める気持ちも、現実の社会がどうにも生きづらく、どこへ行っても息苦しい思いから逃れるのが難しい状況にあることを思えば、せめて映画を観ている間だけでも安らぎや心の癒しを求めたいという理屈で考えれば筋が通っているように思う。
しかし、一時癒されたとしても、それはとどのつまり現実から逃避しているに過ぎないのであり、映画が単なる現実逃避のための道具でしかないとすれば、あまりに悲しく寂しいことだと私は思う。

おくりびと」は納棺師という職業に目をつけたところが新しかったし、人間の死というものをこの職業を通して見つめるという姿勢も評価されるべきものだと思う。
だが、結局のところ、この映画を観た人々が感じるのは「癒された」という思いにとどまるのではないか。上質な映画を観た満足感を感じることだろうが、この映画から果たして今ある日本人の死のあり方や死生観の変化についてどれだけ考える材料を得ることができるのか。

正直に言って、私は今回のアカデミー賞外国語映画部門ではイスラエルのアニメーション・ドキュメンタリー「戦場でワルツを」が受賞すると思っていた。
もちろん、この映画を観たわけではない。しかしある程度の情報なら知っている。
この作品は監督自身が主人公になっていて、今から二十数年前、イスラエルがレバノン侵攻したときに兵士として参加した自分の記憶を再生していく過程を描いた作品だ。
レバノン侵攻では、昨年暮れから今年はじめにかけてイスラエルがパレスチナの人々に対して行ったと同じような虐殺が繰り広げられた。その舞台に「殺す側」の一人として送り込まれた青年の見たものは何だったのか。それは政治的な信条も人間的な理性もない、ただの殺戮行為だったことが明らかになっていく。
この映画を観ていれば、誰だって今のイスラエルのことを考えずにいられなくなるだろう。アニメの画面の向こうに、血みどろになった人々や、息絶えて親に抱きかかえられている幼い子どものリアルな映像が見えてくるに違いない。
そして、映画を見終わった後にはなんともしれない不安で嫌な気分に満たされるはずだ。

私は、映画は娯楽であり人々に夢や安らぎを与えるものであっていいと思う。
けれども、一方では、映画の可能性をそこで終わらせてしまうことには反対である。
映画はときに人を不安に陥れ、不快な気持ちにさえするものであっていいと思う。その不安や不快な気持ちの中から何かを考え、現実を見る目が少しでも変わってくるのならば、その映画にはすぐれた価値があると思うからだ。
おくりびと」はいい映画だっただろう。アカデミー賞を日本作品としては初めてとったのもめでたいことだと思う。
しかし、あえて言わせてもらうなら、「おくりびと」のような映画は「今」作られなかったとしてもよかった作品だったと思うし、それに比べれば「戦場でワルツを」のような作品は今こそ作られるべき作品で、しかも殺す側のイスラエルの一般人の感覚から見た戦争がどう言ったものだったのかを知るうえで非常に重要な作品だったのではないかと思う。

もちろん、アカデミー賞というものが真にすぐれた価値を持つ作品に対して贈られるものというよりは、プロモーションの優劣や製作会社の力関係で決められる、きわめて政治的な賞であることを考えれば、しかも親イスラエルのアメリカで選ばれる賞であると考えるならば、反イスラエル的な戦争否定を訴える可能性がある作品に賞を与えるとは考えにくい。
おくりびと」は悪くはないが、はっきり言って毒にも薬にも、それほどならない作品として無難に選ばれたのではないか。

今回のアカデミー賞では「スラムドック$ミリオネアー」が作品賞など主要8部門を受賞したことが話題になったが、この映画はイギリス人監督によって撮られたものとはいっても、インド社会の貧困という一国の裏事情を描いている。これに対してインド本国では困惑というよりも怒りの声さえ上がっているという。
もし「おくりびと」が現代日本のリアルな社会での「死」というものを描いたものだったら、どうなっていただろうか。
昨年、義母を亡くした私は考えずにいられない。

日本では、人が死ぬと葬式に平均で200万以上の金がかかる。
むろん、簡素な葬式にすることはできるが、人が死ねばどうしても金は必要になるものなのだ。私は葬儀会社から渡された明細を見て驚いたものである。そこには納棺費用として30万以上の金額が書き込まれていた。納棺という仕事は一般には受け入れられない特別な仕事なのだから、費用もおのずと高くなるのだろう。

しかし、貧困が広がり、年収が200万以下の世帯が多くなれば、家族の誰かが死んだだけで年収を超える金を用意しなければならず、葬式をすれば一家の生活はガタガタになってしまうという現実がある。まったく生活にゆとりのない家庭では、遺体を火葬に付すだけでも大変な痛手になるだろうが、事情は逃れることを許さない。
そんなことを考えると「おくりびと」が描く世界とは全く異なる状況が今の日本には横たわっていると思わざるを得ない。
人の死とは、崇高で美しくもあるかもしれないが、それ以前に家族にとっては現実的で身も蓋もない問題でもあるのだ。

「おくりびと」を見て感動の涙を流すのはいい。
いい映画だったと感心するのもいいだろう。

けれども私は、どうしてもこの映画がアカデミー賞によって世界に認められ、日本映画の実力の証になったと手放しで褒める気にはなかなかなれず、したがってこの映画から「癒し」を得ることもできないのである。

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関連タグ : アカデミー賞, おくりびと, 葬式,

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